アジアの純真

♪名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ♪の歌い出しの「椰子の実」は、島崎藤村が、1898年に柳田國男の話をもとに作詞したもの。
この椰子の実がどこから流れ着いたのか定かではないが、アラビア半島の東端に位置する処には、「椰子」で知られる国々がある。
特に、日本のタンカーの通過するホルムズ海峡に近いオマーンやイエメンは、日本にとって地政学的に重要度が高いにもかかわらず、その実態が日本にはほとんど知られていない。
しかし、その重要度を早くから認識して架け橋になった人々がいる。
大正期の地理学者であり思想家であった志賀重昂(しがしげたか)もその一人である。
1924(大正13)年2月28日にオマーンを訪問した志賀は、オマーン国王に拝謁をした。
志賀がイスラム国への旅を思い立ったのは日本の人口増、石油の確保、世界の東西対立への日本の立ち位置を探るためであった。
そして、国王から「よくもここまでこられた。アラビアも日本も同じアジアではないか。何故日本人はアラビアにこないのか。アラビアに来て商売をし、工業を興し、親交を促進し、アラビアが改善・復興できればお互いのためになるのではないか」との言葉をいただき、志賀は「陛下の言われたことは私がまさに申上げようとしていたことです」と応じ、そして「いつの日か日本においでください」と語った。
」 この縁でオマーン国王は、退位後の1935年に本当に来日し、日本人女性と運命の出会いをする。
さて、中東の「親日国」といえばトルコである。
それが証明されたのは、イラン・イラク戦争の最中の1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶な声明を世界に向けて発信しとた。
日本からは企業の社員やその家族が、イランに住んでいた。
日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の「救援機」を出して救出していたのだが、日本政府は素早い決定ができなないでいた。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機のトルコ航空の飛行機が到着した。
トルコ航空機は、日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。
それはタイムリミットまで、1時間15分であったという。
トルコの「親日」につき、かつて日露戦争でアジアの小国・日本がトルコの最大の敵・ロシアを撃ち破り、トルコの人々を勇気づけたという話が伝わっている。
それがため、トルコには「東郷通り」などが出来たが、「親日」のもう1つの理由は2014年映画化された「エルトゥールル号事件」である。
トルコ船籍の船エルトゥールル号は、1890年6月に横浜港に到着し、同9月にトルコに向かって出港したが、台風による荒天で和歌山県串本町沖の紀伊大島で座礁、沈没した。
この海難事故により、オスマン提督以下乗組員587名が死亡するという大惨事となった。
それでも、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者がが断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせた。
灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。
この時、台風により出漁できず食料の蓄えもワズカだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど「献身的」に生存者たちの救護に努めた。
その結果、69名の乗組員が救出され、後に日本海軍の巡洋艦により丁重にトルコに送還された。
この時、日本国内でも犠牲者に対する「義援金」の募集が広く行われた。
その「義捐金集め」の中心的存在が、当時24歳の山田寅次郎であった。山田は、新聞社などに働きかけ、その協力のもと、演説会を催し、1年後には、なんと5千円の義援金(現在のお金で3千万円)を集めてしまった。
1866年、沼田藩(群馬県沼田市)出身の山田は、青木周蔵外相の勧めで1892年1月30日、義捐金を届けるために、1892年1月30日、目的地コンスタンチノープルに着いて、デュルハミト2世に拝謁する。
皇帝から、「トルコは日本との修好および通商を希望している。それには、言葉の理解が必要となる。しばらく滞在して、陸海軍の士官に日本語を教えてほしい」との言葉があり、もともと世界で生きる道を探していた山田だけに、何の迷いもなくトルコに留まる決意をしたのである。
山田寅次郎は、実は茶道の家元を継いだのだが、そちらにはほとんど興味を示さず、帰国後に大阪で会社を立ち上げて、日本とトルコの交流に尽力した。

アラビア半島のイエメンといえば、モカ・コーヒーの原産地である。
コーヒーノキの原産地はエチオピアであるが、これを世界に広めたのはアラビア半島の商人達で、モカはコーヒー発祥の地とされている。
ちなみに、アラビア海のソコトラ島は、薬用植物アロエの原産地である。
「旧約聖書」のなかではシバ(シェバ)の女王(紀元前10世紀頃)が登場し、現代のレイモン・ルフェーブルやポールモーリア楽団が「シバの女王」をイメージした曲を演奏している。
さて、シバの女王は、ソロモンが優れた賢者と聞き真実を確かめる為遠方からソロモン王のいるエルサレムへ訪れた。
シバの女王はソロモン王の知恵とその地の繁栄に驚き大量の「黄金、宝石、乳香、白檀」などを献上したと旧約聖書に記されている。
この「シバ王国」とは歴史上の王国でエチオピアかイエメンにあった王国ではないかと議論されている。
ただ、シバの女王がソロモン王に献上した物の中に「大量の乳香」があったことから、イエメンは乳香の原産国オマーンの近くに位置し、「大量の乳香」を献上することから、イエメン説が有力である。
ギリシアのディオドロス(紀元前1世紀)は、『世界史』で、こうした香料に恵まれているこの土地を「幸福なアラビア」と表現した。
旧約聖書には随所に、主(神)の祭壇に香を焚くことを絶やしてはならないことや他のさまざまな香料と混ぜた香物の作り方などが詳しく記されており、乳香が祈りの象徴でもあり、それこそが神と彼らとを結びつけていたことがうかがえる。
乳香(フランキンセンス)とは、「乳香樹」の樹液が固化してできるもので、アラビア半島南部やアフリカ北東部に産し、数千年前からエジプトや地中海沿岸、あるいは東方のアジア方面にまで運ばれ、希少で高価な香料・薬剤として人々に好まれ続けてきた。
とくにオマーンの乳香は、その品質の高さで知られ、遺跡群と文化的伝統と景観が評価され、「世界文化遺産」にも登録されている。
ちなみに、アラビアンナイト「船乗りシンドバッドの冒険」で船出したのがオマーンのソハール港である。
さて日本には仏教の伝来とともに「香の文化」が伝えられ、「日本書紀」の中で、595年お香の原料となる沈水という「香木」が初めて日本に漂着したことが伝えられている。
淡路島に初めて漂着した「沈水」というものは、「沈香」のことで、沈水香木と書かれるように、比重が大変重いため水の中に沈んでしまうため、この名がついたと言われている。
沈香は、現在でも「お香」の原料としても大変貴重な香木であり、特に品位の高い香りがする。
そもそもこのような香木は日本では生育せず、当時の人々が、薪といっしょにくべたことで、大変かぐわしい香りがすることに驚いたことであろう。
島の人々により朝廷に献上されたこの木片は、当時推古天皇の摂政・聖徳太子によって鑑定された。
聖徳太子は既に大陸から伝わってきた仏教の普及に努めていただけに、この木片の性質にも精通していたと推測される。
高校の古典の時間に、日本では、平安時代には、お香がさかんに焚かれたことを習った。
何しろ暑い中でも十二単なるものを着て生活するのだから、ニオイはハンパではない。
ニオイけしが必要なのは、コトの必然であろう。
実は「香料」の起源はずっと古く、紀元前5000年前古代エジプトやメソポタミアで「香料」が使われはじめたが、クレオパトラはキフィという自分用の「香油」を浴びるように使っていたという。
新約聖書のはじめ、この世の救い主が生まれるという兆候に3人の博士が、ベツレヘムの馬小屋に駆けつけた。
そのときに携えたささげものは3つで、ひとつは「黄金」で、これはこの世の王をあらわす。
もうひとつは「乳香(にゅうこう)」で、救い主(油注がれたもの)をあらわし、「没薬(もつやく)」は、医師をあらわす。
香料が医薬品として扱われた時代には、調香師は薬剤師のような存在であった。
世界的視野で「香りの文化」をみると、西方世界では焚香料の乳香・没薬がイスラーム文化のもとで開発された「香水」が浸透していったのに対し、東方世界では沈香や白檀など焚きくゆらす香が伝わり発展した。
すなわち「香」は、宗教や民族の枠を超えてヨーロッパから東アジアにまで至る人々に伝わったのである。
その東西世界の「香」の文化の接点かつ原点のひとつがオマーンの地であったといえよう。
ところで、香水という意味の「Perfume」はラテン語の「煙を通して」という言葉から始まり、神への勳香として供えられたものだ。
香をたくというのはニオイ消しではなく、礼拝にさいして祈りを「天」に上らせ届けるということである。
だいぶ本来の目的から離れてしまっている。
さて、第2次世界大戦後になると、イギリス保護領でイエメンの港湾都市アデンが乳香の世界への積み出し港となった。
アデンには、和辻哲郎など日本の文化人が多く訪れ、遠藤周作のデビュー作は「アデンまで」である。
日本とイエメンの最初の接触は、前述のエルトゥールル号の69人の生存者を帰還させる任務で、比叡と金剛2隻の巡洋艦がアデンに入港している。
ところで、イエメンの成年男子は現在も、「ジャンビーア」とよばれるJ字型をした半月刀を腰にさす風習が残る。
しかし、こうした伝統重視の保守的風土が、武器の放置をよびこんで銃器流通の中継基地となり、国際 テロ組織「アルカイダ」のとみられており、事実、指導者ビンラディン一族の先祖の地でもある。
そして、「最悪の人道危機」と呼ばれる、イエメン内戦が続いている。
サウジアラビアやアメリカを後ろ盾にするハディ政権と、同じイスラム教シーア派のイランの支援を受け徹底抗戦する反政府勢力。
まさに、大国同士の「代理戦争」の場と化し、かつての香り立つ「幸福のアラビア」とは全く様相を異にしている。

今から約80年前、ひとりの初老の外国人が神戸港に降り立った。その男の名はタイムール。
彼は、日本文化に触れる一方、ある日のこと、ダンスホールを訪れた。
そんなタイムールの目に、仕事帰りに職場の仲間とダンスホールに遊びに来ていた、ひとりの女性に目に留まった。
神戸税関で働く大山清子、当時19歳で すらりとした長身。兵庫県の山間の村で、厳格な大工職人の長女として生まれた。
細面でいかにも日本的な美しさを持った清子に、タイムールは大いに惹かれていった。
タイムールは毎晩のようにダンスホールを訪れ、 言葉の壁はあってもその優しさは清子に伝わっていた。
そんなある日、タイムールは清子に交際を申し込んだが、タイムールと清子の年齢差は、なんと47歳。
清子は、さすがに躊躇したものの、タイムールは猛アプローチを続け、その熱意と真剣さに、いつしか清子の方も心惹かれていく。
そして、出会って3ヶ月、2人は結婚を誓いあう。
しかし、清子の両親は、当然のように2人の結婚を認めようとはしなかった。
当時、国際結婚は珍しかったし、 聞きなれぬ中東のオマーン。しかも、「一夫多妻」の国で、タイムールには、すでに3人の夫人が母国にいるという。
しかしタイムールも諦めず、その真剣な姿に、清子の父親は「結婚するなら日本に住むこと」という「結婚の条件」を出した。
ところがこの時、タイムールには清子にさえ打ち明けていなかったある「秘密」があった。
その「秘密」のせいで、清子の両親の出した条件に即答することが出来なかった。そして「もう少し待ってくれ」といい残し、日本を去って行った。
それから半年が過ぎたある日、 彼は忽然と清子の家族の前に姿を現した。
タイムールは清子と結婚するためにオマーンを離れ、日本で一緒に暮らすことを決意したのだという。
その覚悟の姿に、両親は結婚を認めざるをえず、出会ってからおよそ1年後、2人はついに結婚した。
お金には不自由しなかったタイムールは、神戸市内に洋館を構え、清子と優雅な生活をスタートさせた。
戦前の日本では考えられない、舶来の電化製品。 給仕やメイドも3人いた。
だが、タイムールはなぜ、これほどまでに裕福な生活を送ることができるのか。 しかも彼は日本に移り住んでから、仕事をしている様子もない。
清子が聞いても、自分はオマーンの資産家であり、蓄えが十分にあると言うだけ。 何不自由ない暮らしをさせてくれる夫に不満はなかったため、清子や両親はそれ以上詮索しなかったという。
1年後、2人の間に愛娘「節子」が誕生する。この日、ある一団の人々がタイムールと清子の家を訪れた。
そこに立っていたのは、アラブの民族衣装に身を包んだ男たちだった。
なんと男性はオマーン国王・サイード王だという。しかもタイムールは彼の父親。つまり、タイムールは「第12代オマーン国王」、 その人だったのである。
国王の座はすでに5年前、息子に譲っていたものの、王室にいたタイムールだけに「結婚の条件」に即答できる立場にはなかった。
タイムールが国を離れ、日本に住むということは、必然的に王室を離脱することを意味する。
あの時、オマーンに一時帰国したタイムールは、宮殿に親族をはじめとする多くの関係者を集め、 運命的な出会いを果たした清子のことから、 互いに愛し合い、結婚を誓ったこと、その結婚を両親に反対されたことまで、包み隠さず語った。
そして、オマーンにいた3人の夫人にも理解を得て、 少しの資産とその身一つで、清子との結婚のために日本へと戻ってきたのだった。
そして、父の「娘の誕生」を聞きつけたサイード国王がお祝いにかけつけたのだった。
タイムールは自分の身分を明かさなかった理由を「権威とか身分で飾った自分ではなく、裸の自分を愛してくれる人と結ばれたかった」と語った。
しかし、二人の幸せは長くは続かなかった。清子は結婚からわずか3年後腎臓を患い、23歳という若さでこの世を去った。
タイムールは、清子の死後、娘の節子が将来、王族の相続権を得られるよう、彼女を連れオマーンへと帰国した。
節子は新たに「ブサイナ」と名付けられ、王族の身分を与えられた。タイムールは、その後、第二次世界大戦の影響などもあり、日本に戻ることなく、1965年に亡くなった。
兵庫県加古郡稲美町にある墓石には、「清子アルサイド 享年23」と刻まれている。2015年、ブサイナ節子さんが母親の墓参りに訪れた。
「椰子の実」の奇遇のように出会った二人は、日本とオマーンの「架け橋」となった。