コーリング

我が職場の上階にのぼると、博多の街並みや博多湾の眺望がひろがる。
ただ、その視界を遮るように石堂川の向こうに見えるのが「東野産婦人科」の大看板である。
さて、遠藤周作の「海と毒薬」には終戦直後の博多の街の情景を描かれている。
「医学部の西には海が見える。屋上にでるたびに彼は時には苦しいほど碧く光り、時には陰鬱にくろずんだ海を眺める。すると勝呂は戦争のことも、あの大部屋のことも、毎日の空腹感も少しは忘れられる気がする」。
「海と毒薬」は、戦時中に九大医学部で起きた「米軍捕虜生体解剖事件」に"材"を得たものである。
この小説の主人公の勝呂は、この事件で第三助手として参加している。
実は、東野産婦人科の東野利夫前院長は、当時九大医学部の"学生"として、人体実験の現場に居合わせ水を運んだり医療器具の消毒をするなどを行っている。
院長は、自分も事件に関わった者としてTV露出などを通じて当時の状況を証言されている。
東野院長にとってそれは「なすべきこと」なのだろう。
ちなみに、「東野産婦人科」は、この看板の在るビルではなく、福岡市中央区草香江の地にある。
さて、九大医学部出身の医師のひとりが中村哲で、この医師にも「なすべき」ことがあった。
中村医師はアフガニスタンにおける医療活動ばかりか、農村の復興活動を行っている。
火野葦平の自伝的小説「花と龍」のモデルとなった玉井金五郎であるが、火野葦平は本名は玉井勝則といって、玉井金五郎の長男である。
そして葦平の妹の子供が「ペシャワール会」の医師・中村哲である。
つまり母方の祖父が、石炭の沖仲士の組合「玉井組」を立ちあげた玉井金五郎という関係である。
火野葦平の代表作「花と龍」は高倉健・藤純子主演の渡世人(博徒)風娯楽映画として描かれおり、一族はヤクザ者として誤解されたようであるが、祖父は石炭積出港で男たちから師父として慕われ、現代において、孫の中村哲は中央アジアで農民や遊牧民の男たちから「ドクター・サーブ」(=お医者さま)として頼られている。
「ペシャワール会」は1984年から中村哲医師現地代表のもとパキスタン、アフガニスタンで長く難民支援の医療活動をし、PMS(ペシャワール会メディカルサービス)病院を核に数か所の診療所と無医村への出張診療を続けてきた。
2000年頃から中央アジアは大干ばつに見舞われ、アフガニスタンでも多くの人々が餓死し、瀕死状態で苦しむのを前に「病気を治す前に、まずは生きよ」と、ペシャワール会では水事業に取り組んだ。
多くの井戸を掘り(現在1600か所)、飲料用の水を確保したほか、カレーズ(伝統的な地下水)の修復も図った。
アフガニスタンの農村復興の活動のなかで日本の「水車」が生かされている。
中村医師の地元・福岡県の朝倉の水車群は堀川用水と呼ばれる潅漑用の水路に沿って設置されている。
1990年に堀川用水とともに国史跡に指定された山田堰や水車の技術はアフガニスタンで広大な砂漠を農地につくりかえる「緑の大地計画」のモデルにもなっている。
2001年10月に米軍がアフガニスタンを爆撃した際、「ペシャワール会」では全国に呼びかけ「いのちの基金」を設立し、空爆下に緊急食糧配給を行っている。この活動が大きな反響を呼び、多くの基金が集まった。
そして、この基金をもとに始まったのが「緑の大地計画」で、アフガニスタン東部における灌漑用・用水路建設を含む総合農村復興事業では、東部を流れるクナール川から水を引き、クナール州からナンガルハール州一帯に農業を復活させようというものであった。
ところで「職業」を意味する英語には「Occupation」、「Vocation」、「Calling」などがある。
「Occupation」は、日常的に時間を割く仕事で、「Vocation」は本人の適性に基ずく天職、「Calling」も天職だが、こちらの方は「神の呼びかけ」という含意がある。
人は仕事をそれほど意識的に選んでいるのではなく、多くは「めぐりあわせ」や「なりゆき」によって選んでいるのではなかろうか。
ところが、その「なりゆき」にこそ、神宿りたもうで、「呼びかけ」られているということかもしれない。
玉井組には、体をハルという点で一貫した血が流れているようではあるが、中村医師がなぜそのような危険な地域で活動するのかが疑問なのだが、中村医師にも満足な答えはだせないであろう。
それは、中村医師にとって「コーリング」なのかもしれない。

福岡県八女市出身の五木寛之の「戒厳令の夜」は福岡市の繁華街・中洲のバーで一人の老人が「一枚」の絵画と出会ったところから始まる。
老人は、この絵がスペインの大画家パブロ・ロペスのものであることを見抜く。
ナチスは占領下のパリで主人公が謎をおっていくうちにヒットラーがその収集していた絵画を、当時ドイツと同盟していた日本の筑豊炭鉱に隠したということが判明したのである。
ナチスは各地で美術品を略奪し、行方の知れなくなったコレクションが数多くあるという。
実はヒットラーは若き日に「絵描き」を目指していたことを思い出した。
個人的には、この小説が「事実」に基づいたか、事実ではないにせよ何らかの「噂」みたいなものがあって、このようなストーリーが設定されたのかと思い、筑豊の炭鉱にまつわる「美術品」について調べてみたことがある。
そしてわかったことは、ヒトラ-が各地に名画を隠したのは事実ではあるが、五木のこの小説はあくまでもフィクションであるということであった。
結局、「パブロ・ロペス」の絵画には出会うことはなかったが、市民図書館の特設コーナーで炭鉱の生活を丹念に描いた「明治大正炭鉱絵巻」に出合うことができた。
その絵集こそが山本作兵衛の炭鉱で生きた人々を生々しく伝えた「実録絵巻」であり、正真正銘の「ノンフィクション」であった。
そして何より、炭鉱の失われた風景や人間の姿を描きつづけたこの作者に興味を抱き、以来炭鉱の町を訪れたいと思うようになった。
そして田川にある炭鉱資料館で、この絵集の作者・山本作兵衛について知ることになった。
作者・山本作兵衛は1892年、福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)に6人兄弟の次男として生まれたが、父・福太郎は遠賀川の船頭であった。
遠賀川で石炭輸送に従事した父は、筑豊興業の開通により船頭に見切りをつけ炭鉱に移って採炭夫となった。
作兵衛は、父の仕事の手伝いと子守りに追われ学校にもほとんど通えず、唯一の「楽しみ」は絵を描くことであった。
小学校卒業後、14歳から採炭夫として「後山」の仕事をした。後山(あとやま)とは、先山(さきやま)である採炭夫を助けて、掘り出した石炭を運搬する仕事である。
山本作兵衛の絵には、上半身も露な女性が「後山」となっている姿がいくつも描かれている。
健康な山本にとっても坑内労働は過酷であり、別の仕事につこうと福岡に出てペンキ屋に弟子入りしたこともあった。
そして二十歳の頃鍛冶工となり絵筆からは遠ざかったが、紙の余白などに絶えず「文字以外のもの」を描いていたという。
1916年に結婚し、鍛冶工の仕事では家族を養うこことが出来ず、坑夫に戻った。
そして一家8人の口を糊するために死に物狂いで働いた。
しかし1945年、長男の「戦死」が山本の転機となった。皮肉なことに、長男を死においやった炭鉱労働は戦争を下支えするものでもあった。
長男の死に対する哀しみは長く尾をひき、そのことが絵筆を取らせた。
それが約65年後に「世界記憶遺産」になるとは、本人も想像dだにしなかったであろう。
炭鉱は日本の殖産興業の原動力であったため「産業遺産」を描いたものとして評価されたが、山本はむしろ炭鉱で働く人々の「共同体」を描こうとしたのであろう。
1955年ごろより筑豊の山はつぎつぎに廃坑となり、山本も炭鉱を解雇され60歳をこえて警備の仕事などについた。
山本がはじめて画用紙と名のつくものを買ったのが、なんと68歳の時であったという。
かくして昭和40年の初頭までに一千枚を超える絵が描かれた。
山本の絵が伝える坑夫の姿は筋骨隆々とはほど遠く、むしろやせ細った貧弱とさえいえる男達の姿なのだ。
炭鉱のなかでは落盤事故、水、爆発など小さな事故が頻発したし、山本が炭鉱にはいって200人近い人々が亡くなる大事故がおきたこともあった。
事故があっても操業を続ける意志が経営者側にあれば、人命救助は必ずしも先行されず、坑内火災がおきれば、その坑道を締め切るか、あるいは水を導き入れて消す他はない。
坑内に取り残された犠牲者の搬出は、「絶望」の言葉によってアトマワシにされる。というわけで、炭鉱で生きる人々は常に死に直面していた。
さらに斜陽を迎えた時代の炭鉱では事故は、閉山の格好の口実にさえなっていた。
坑内で拍手をするな、頬かむりをするな、ご飯に味噌をつけるなどの「迷信」がいくつもあった。
それゆえに「死ぬ時は一緒」という意識が絶えず坑内にあり、「相互扶助」の意識はきわめて高かった。
山本が書き溜めた絵は、1977年に「明治大正炭鉱絵巻」として自費出版され、山本が85歳の時に「西日本文化賞」が与えられた。
山本作兵衛が、10年あまりの「奇跡的な燃焼」をもって描かれたその絵はいまだ新鮮さを失わない。
山本の絵はいわば世界の「掘り出し物」。そして山本作兵衛の存在自体が、あたかもこの世から掘り出されたような存在に思える。

日本が誇る新幹線の技術的ルーツは、太平洋戦争末期の特攻機「桜花」(おうか)にまで溯る。
かつて、阿川弘之(阿川佐和子の父)が「雲の墓標」(1956年)に描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿であった。
桜花は、機首部に大型の甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に「体当たり」させるものだった。
母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速し、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に「体当たり」するよう設計されていた。
しかし航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならない欠点があったため、新型機ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。
この特攻機こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともよべる「人間爆弾」であった。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BONB、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていたという。
「人間爆弾」の構想に対して、飛行部設計課の三木忠直技術少佐は「技術者としてこんなものは承服できない、恥だ」と強硬に反対したという。
しかし時は「平時」ではなく、それを作らせることを強いるだけの「切迫感」が漂っていた。
結局、「試作命令」が空技廠に下って、三木忠直技術少佐が設計を担当することになった。
風洞実験結果やら、空力計算書やら、基礎設計書など「基礎資料」を基にわずか一週間で基礎図面を書き上げ、さらにその一週間後には「1号機」を完成させた。
つまり、人命の保護さえ考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれることを示している。
「特攻機」であるという性質上、着陸進入を考慮した翼型ではなく、ただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
終戦後、三木は多くの兵士達を死なせてしまったことに対して、自責の念から逃れることができず、キリスト教の洗礼をうける。
三木は、戦争が終わった時まだ働き盛りの30代であったが、戦争責任問題でなかなか就職はできなかった。
それでも、これからは日本人の役に立つような「技術開発」に携わりたいという強い思いをもって仕事を探した。
そして、ようやくて国鉄の外郭団体である「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
三木は、その当時の気持ちを次のように語っている。
戦争はこりごりで、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたという。
当時の国鉄には、内部に正式の技術開発部門があり、国鉄鉄道技術研究所という機関は、当時の国鉄では「外様」のような存在でしかなかったのだ。
つまり研究所とは名ばかりで、不況で食えない技術者達を吸収する組織だったようである。
当時の国鉄は、発展する「航空旅客産業」の発展に対しても危機感を募らせていた。
確かに東京ー大阪間の列車7時間と、飛行機1時間30分では、勝負は目に見えているように思われた。
ところが、三木は逆にソコに「活路」を見出そうとしした。
三木らは「東京―大阪3時間への可能性」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月、遂に国鉄総裁の前で、その実現可能性を力説した。
そして国鉄総裁は三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなったのである。
結局、新幹線開発には、三木らが生み出した「航空機」開発の技術が余すところ無く注入されることになった。
まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。
この開発に当たって、三木の脳裏には自分が作った急降下爆撃機「銀河」の「流線型ボディ」が常にあったという。
また、世界最高水準の250キロを超える超高速走行には、車体の「揺れ」を防ぐ技術開発が必要であった。そのために、ゼロ戦の機体の揺れの制御技術を確立した技術者がまねかれた。
列車は一定の速度を超えれば、台車の「蛇行」(揺れの共振動)によって「制御不能」となって起きるというのが持論で、画期的な油圧式バネを考案し、「蛇行」運道を吸収する車輪の台車を完成した。
また、安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて「自動で停止する」ような仕組みが必要とされた。
これが「自動列車制御装置」(ATC)であるが、旧日本軍で「信号技術」を研究していた技術者が招かれて、この実験に取り組んでそれを完成した。
ところが三木はこのプロジェクトの完成によって、自分の持っている技術のすべては出し尽くしたと国鉄へ辞表の提出し、周囲を唖然とさせた。
1964年東京オリンピックで世界中の人々から賞賛を浴びたこの技術は、今も「事故による死亡ゼロ」を誇っている。
かつて「桜花」を設計した三木忠直にとって、「新幹線開発」は祈りにも似た仕事であったにちがいない。

福岡県・筑豊炭田の労働実態を描いた画家、山本作兵衛(1892~1984年)の記録画などが国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録されることになった。日本初の「快挙」である。
世界記憶遺産とは、人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる楽譜、書物などの記録物(動産)をユネスコの委員会がそれぞれの申請に基ずいて審査・決定し、1997年から2年ごとに「登録」事業を行っているという。
今回登録されるのは、山本作兵衛が自らの炭坑労働体験に基づき描いた記録画の原画や日記など計697点である。
世界記憶遺産への登録には大概が、政府レベルで「国宝クラス」を申請するパターンが多く、今回のように地方自治体による申請は珍しく、福岡県田川市はシテヤッタリの感がある。
実際、政府(文科省)が申請したり、これらら申請予定のものには「鳥獣戯画」「源氏物語絵巻」「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」など、いずれも「国宝クラス」をユネスコに提出することにしていたのだ。
「地方自治体」による「非国宝」クラスの申請が「日本初」の登録というのも痛快な話ではある。
なぜなら国を通してたら、とてもウテアッテもらえなかったでろうから。
また山本作兵衛の絵の中には、「炭鉱労働」という当時の「国策」への「一刺」または「一矢」をも秘めたものだったからだ。
その「世界記憶」が炭鉱労働者という「名もなき人々」の実録絵巻であったという点のもイケている。
その意味で、このたびの登録は今日の「国策事故」で世界の注視を浴びていることと、全く無関係とは思えない。
「福岡県の記憶」として蘇るのは、1950年代後半の大牟田・三池炭鉱の争議や、炭鉱閉山で斜陽化しつつあった地域から出場した三池工業高校が1965年夏の甲子園で優勝し「ヒトハナ」咲かせた記憶である。
その時の監督が現在の読売巨人軍監督の原辰則の父親・原貢であった。
原貢は鳥栖工業出身で無名高校を「日本一」に導き、三池工業高校フィーバーを巻き起こした。ちなみに阪神の現監督の真弓監督も優勝パレードをマジカで見て「熱い」気持ちを抱いたという。
個人的には、山本作兵衛の「絵」と出会ったのは、ヒョンなことからであった。
ところで、江戸時代末に生まれた博徒の群れの親分格は、炭鉱の労働者や港湾労働者を取り仕切ったりもしたが、そうした親分格の家系が、福岡の飯塚の炭鉱労働を取り仕切った「麻生家」であり、若松の港湾労働を取り仕切った「玉井組」である。