「国外脱走」幇助

テレビ・ドラマでは、身代金と人質の交換や人質同士の交換などをよく見る。一方が謀って相手をだましたりして撃ちあうなど緊迫した場面がある。
戦争に突入した二国間でも、在留外国人どうしの交換が起きる。
人々の安全が脅かされたり、特定の人物の出入国を許可しないなどのトラブルが起きないように、永世中立国・スイスなどの第三国を介して、捕虜を含む外地の滞在者が安全に帰れるようにとりはからっている。
日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
戦争が始まると、国同志の国交が断絶するので交通も断絶する。その場合、よその国にいる人は自分の故郷に帰れないので、「交換船」という方法が案出された。
そして1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタ-トし、そこには色々な人間ドラマがおこった。
ある者は交換船に乗らずアメリカに残り、あるものは交換船で日本に帰ってきている。そこには人生をかけた選択が行われた。
というのは交換船に乗らないということは、「敵性外国人」として収容所に入れられる可能性もあったし、日本に帰れば日本で敗戦をむかえることになる。
実はアメリカに住む多くの日本人は口には出さずとも日本が戦争に負けると思っていたのだ。
そこで日本が敗戦するなら、何としても日本に帰らなければならないと思った人々もいた。
ただ、アメリカに残留した者の中には、アメリカの収容所に入れられた者もいれば免れたものもいた。
911で崩落した世界貿易センターの設計者ミノル・ヤマサキは日米戦争勃発の際、日系人収容所に入ることなくアメリカで活躍し続け一流建築事務所を渡り歩いたのに対し、現代アートで知られたイサム・ノグチは自ら日系人収容所にはいることを選んでいる。
第一次日米交換船で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオン・リーダーになる人もいれば、竹久千恵子などモダンガールとよばれた女優、さらには後にジャニーズ事務所を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、6つの階層にわかれ最上階のAには野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)など、都留夫妻はD、鶴見兄妹は最下層のFだったという。
ちなみに、ジャニー喜多川は、ロサンゼルス高野山真言宗米国別院の僧侶の次男で、1931年ロサンゼルス・リトルトーキョーに生まれている。

ベトナム戦争が終わって46年。ジャングルの戦闘も、焼かれる農民の家の映像も遠くなった。
当時、「泥と炎のインドシナ」(毎日新聞)、「戦場と民衆」(朝日新聞)などを読んで、人びとはベトナム戦争の実情を知った。
また、茶の間に戦争の映像がストレートに流れ込み、残虐な写真や映像がテレビで放送され、その酷さを知り始めた。
その一方、日本政府はアメリカに全面的に協力し、自衛隊こそ派遣しなかったものの、基地使用、物資、薬品など、便宜供与を行ない、日本経済はベトナム特需で潤う。
日本がベトナム戦争に加担していることへの批判が高まり、反戦運動が広がっていった。
1960年代に捕虜交換船で帰国した鶴見俊輔は、ベストセラー「何でもみてやろう」の作家・小田実などとともに、ベトナム戦争反対運動の先頭に立ち市民組織「べ平連」を組織した。
これは、日本における「市民運動」の先駆けといえるものであった。
ベ平連の母体の一つとなったのは60年安保の時に発足した「声なき声の会」がモデルになって、「何月何日に集まってどこどこでデモをしましょう」と呼びかけた。
また、活動のなかから派生していろいろなスタイルが生まれたが、「フォークゲリラ」もその一つである。
広場で、「反戦ソング」を歌うなどの「フォークゲリラ」はもともと関西でスタートするが、新宿西口は特に有名だった。
「ベ平連」は、運動の自発性を尊重する「この指とまれ」の3原則など、ユニークな運動論とその実践で注目されてきた。
3原則とは、「言い出した人間がする」「人のやることにとやかく文句を言わない」「好きなことは何でもやれ」の3つである。
「組織ではなく運動」であると称し、成員を確定する規約等を持たず、ベトナム戦争反対をテーマとしていれば自由に「ベ平連」を名乗ることができた。
登録制度のようなものもなく、東京と各地域や大学などのベ平連とをつなぐ唯一のものは、東京のベ平連が月に􃧛回出していた「ベ平連ニュース」を送っているということであった。
そして、運動の最盛期には300以上の各地域や学校等で「○○ベ平連」が誕生したとされる。
要するに、「ベ平連」は、特定の組織のなかでやるのではなく、自主的ゲリラ的に参加する運動スタイルであった。
この「ベ平連」が全国的に知られるきっかけとなったのは、ベトナム・トンキン湾での作戦に出港すべく、横須賀で補給していた米軍空母イントレピッド号からの4人の脱走兵を匿い、「国外脱出」を援助したことである。
そして小田、鶴見らはベトナム戦争反対運動の中で「ジャテック」という運動を起こしている。
戦争を忌避して脱走をはかった米兵を第三国に逃亡させて助けるという運動で、北欧などへ20人近くを送りだしたという。
この「ジャテック」の発端は、彼らを匿っていた学生から「脱走兵」がいるけれども、なんとかしてもらえないか」という電話がベ平連事務所にかかってきてたことに始まる。
この段階では、アメリカの脱走兵を援助すると日本人はどんな罪に問われるのかということについて正確な認識はできていなかった。
このすぐあとに弁護士に聞いて、日米地位協定によって、米兵は日本の出入国管理の適用外にあるので、出入国に関して米兵が何をしようと日本の法律に触れることはない、したがって日本人がそれを援助しても一切おかまいなしという、植民地的法律のおかげで、日本人は米兵の「密出国」に関与しても日本の法律に何ら触れないという状態であることが分かった。
そして米兵の米軍からの脱走は元々日本の法体制の枠の外だから、それが日本で行われたとしても日本の刑罰の対象ではない。
だが問題は「脱走」とか「脱走兵」という言葉がもつ社会的な印象の方が重大で、刑罰よりも社会的な制裁の方が懸念されるものである。
戦争体験がある日本社会で、「脱走を助ける」ということはどういう社会的なインパクトを与えるのか、どういう反応があるのかということについて、相当な覚悟が必要であった。
実際に、この運動でべ平連は終わると予想した人もいたくらいだ。
また、脱走兵を匿っていた家庭が沢山あるが、匿ったことが一つのきっかけとなって、その後家庭がうまくいかなくなるケースがあった。
推測るに、おしなべて、男の人がいいかっこして脱走兵を引き受けたものの、夫は「よろしくたのむよ」の一言だけで何もしてくれない。
家族からは、「正義を押しつけられると、すごく辛い」「正義を振りかざさない運動をつくってほしい」という苦情も出ていた。
さて、2015年8月30、毎日放送の『映像15・わが家にやってきた脱走兵〜ベトナム反戦運動・47年目の真実』は、その脱走兵との再会を描いた。
1967年10月に空母イントレピッドから脱出した4人の水兵が大きく報道されたあと、ベ平連への脱走米兵からの連絡が多くなった。
A氏は、知り合いに頼まれてアメリカ人脱走兵を京都の実家に匿った。
それは1968年3月のことで、キャルという名の兵士19歳で、A氏は25歳だった。
キャルは、68年2月に横須賀の基地から脱走したあと、2ヵ月余り関西で過ごし、A氏の実家に泊ったのは3月2日から3日間だった。
その3日間、芝居のまねごとをしたり、酒を飲んでふざけたり、戦争について討論したり、繁華街のスナックに遊びに行ったりした。
その後、キャルは根室から漁船に乗って日本を脱出し、ソ連経由で中立国スエーデンのストックホルムへ逃れた。それを知ってA氏は「やった!脱出成功だ」と心から喜んだ。
その後、彼の行方は知れなかったが、ずっと気になっていた。米軍資料を調べると、日本では横須賀の基地から脱走し2ヵ月余り、関西地方で10数カ所泊ったこと、脱走した68年の8月にはスエーデンからアメリカに帰ったことなどことがわかった。
その行方はわからなかったが、ドキュメンタリーを作りたいという毎日放送の協力も得て、2015年4月、住所が判明。
昔の想い出を詳しく書いて送ったところ、1ヵ月後に、キャルから便せん4枚にぎっしり書き込まれた返事が届いた。
キャルによると、彼はスエーデンに渡った直後、2歳下の女性と仲良くなったが、父親に命令されて帰国し、結局はアメリカで軍の刑務所に入った。
しかしそのスエーデン女性の奔走で、刑務所を出てスエーデンで結婚することになった。翌69年には娘も生まれた。
ところが、キャルは軍隊で覚えた麻薬から逃れられず、スエーデンで犯罪を犯し、刑務所生活を送る。
その後、キャルは離婚して、またアメリカに戻り、バーテンや道路工夫など不安定な仕事を繰り返し、再婚と離婚、ホームレスも経験したという。
アメリカには良心的兵役拒否の制度があるが、脱走兵に対する視線は厳しい。
「臆病もの」「裏切り者」「反米主義者」扱いする人たちは多く、就職も難しい。
彼もベトナムで深く傷ついたひとりだった。
それでも、スエーデンにいる娘、エレーヌ(46歳)に語るところでは、エレーヌの母は、キャルと別れたあと、学びながらひとり娘を育て、精神医になったが、数年前に病気で亡くなったという。
エレーヌにキャルの脱走のことをどう思うかと尋ねたところ、「いいことをしたと思います。父のことを誇りに思っています。戦争は恐ろしいものです。父は平和を求めたのだと思います」と語った。
ただ、日本で脱走兵を預かったおそらく千人を超える人々が、誰ひとり密告せず、その後も沈黙している。それこそが見えざる市民の連帯ということだろう。

ベルリンの壁は、東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁で、1961年から東ドイツ側によって建設された。
この壁は、東西冷戦の象徴で1989年に崩壊するが、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったのは、名もなき一人の日本人である。
佐藤勲(いさお)は、1910年生まれで秋田県大曲(おおまがり)市出身である。
大曲といえば日本一の花火大会で知られるが、佐藤はもともとは映画監督志望だが、花火師の道を歩きはじめる。
ところが昭和30年代には、テレビなどの普及により花火が飽きられ始めていた。
そこで大曲市は大曲の花火大会の主催権を大曲商工会に任せることにし、その時の商工会実行副委員長兼企画員として活動していたのが佐藤勲であった。
この花火師の佐藤勲がはるかドイツのベルリンの壁崩壊へのきっかけをつくるなど、誰が想像できるだろうか。
そこには、ちょっとした行き違いがあったようだ。
1978年、大曲市長の最上源之助が、西ドイツのボン市を農業視察の目的で訪れた。
その際に最上源之助市長はボン市長に対し、「大曲は日本一の花火大会で有名です。ライン川の古城を背景に打ち上げたら楽しいでしょう」と述べた。
最上市長はこの時、社交辞令的な意味合いで発言したそうだが、ボン市長は「それはいいアイディアだ」と真に受けて日本の花火を打ち上げようという事になって、翌日の現地新聞で「大曲から花火を呼ぶことになった」という風に報じられた。
そして冗談ごとではなくなって、実際にドイツでの日本花火打ち上げが実施されることとなり、この時に指揮をとったのが佐藤勲である。
1979年に、ボン市での花火打ち上げを成功させると、今度は西ベルリンから「市政750年の記念打ち上げ」を依頼される。
佐藤勲は再び、西ベルリンで花火の打ち上げを成功させる。
佐藤はその時の記者会見で、「ベルリンの地上には壁がありますが空には壁はありません」。「日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」と、人々の心に響く言葉を残している。
そして、この佐藤勲の言葉が翌日の新聞の1面を飾ったことから、東西ドイツの合併のための動きが活発になったのである。
その動きの一つが「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、西ドイツと東ドイツの市民が一緒にピクニックをしようというものであった。
そして1989年月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた「汎ヨーロッパ・ピクニック」は、ベルリンの壁崩壊へと直接に繋がっていく。
もともとハンガリーは、東社会主義圏の中では、最も開放的な国で、夏に避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再会し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループによって、東ドイツから西ドイツへの「脱走計画」が隠密裏に進められていたのである。
その「脱走計画」とは、ハプスブルク家で一つになっていたハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に大量に西ドイツ(西側)へ逃がし亡命させてしまう策略である。
NHKの番組では、この時におきたある「感動的な場面」が放映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東独市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまい」と思った瞬間、警備兵は赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
このワン・アクションが、はからずも東ドイツを脱出しようとする市民へのメッセージとなった。
実は、ハンガリーの国境警備兵は、隠密裏に東独市民の逃亡を見逃すように命令をうけていたのだ。
この「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、一度に国境を渡った東ドイツ市民は、およそ千人といわれている。
しかし、その後続々とハンガリーに集まってきた堰をきったような約6万人の東ドイツ市民の流れを、東ドイツ政府は、もはやどうすることもできなかった。
実は、その陰には、ハンガリーのネートメ首相の決断があった。
ネーメト首相は密かに西ドイツのコール首相を訪問し、ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国さえるつもりであることを語った。
つまり、第三国ハンガリーが彼らの国外脱出を幇助したのである。コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方、ネートメ首相は、東ドイツ市民の「強制送還」を要請してきた東ドイツ政府に対して、同じことを通達した。
これによって、東ドイツ国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、「壁の開放」を容認する他はなかった。
2009年11月9日「ベルリンの壁」崩壊20年記念式典では、盛大な花火が夜空を飾った。

「氷川丸」は1930(昭和5)年4月25日、横浜船渠(現・三菱重工業(株))で竣工しました。北米航路シアトル線に配船され、11年3ヵ月の間、太平洋を横断する貨客船として活躍しました。太平洋戦争で航路休止になるまで航海数73航海、乗客数述べ1万人、氷川丸の生涯の中で最も華やかな時代でした。 船が海外へ渡る唯一の交通手段だった当時、氷川丸にも多くの著名人が乗船しました。 映画「街の灯」の完成後、日本を観光で訪れていたチャーリー・チャップリンは、1932(昭和7)年に横浜から帰国の途に就きました。1937(昭和12)年には、昭和天皇の名代として英国王ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮・同妃が、帰国の際カナダのビクトリア港から乗船しました。また、第12回オリンピック日本招致に成功(戦争の激化により返上)した講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、1938(昭和13)年に欧米からの帰路、バンクーバーから乗船、その直後病に倒れ氷川丸で亡くなりました。 1937(昭和12)年に日中戦争、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発します。以来、戦局の拡大とともに遠洋航路は次々と休航に追い込まれ、シアトル航路は45年の歴史に幕を閉じました。 氷川丸は1941(昭和16)年7月20日が最終航海となり、同年10月引き揚げ船として逓信省に徴用されます。往航は日本在留の外国人、復航では海外在留の日本人を乗せ、横浜〜シアトル間を往復しました。 横浜に帰着したばかりの氷川丸は海軍に徴用されて1941(昭和16)年11月に特設病院船に改装されます。国際条約に則り、船体と煙突は白色塗装、船体側面には緑色の1本の帯が施され、両舷の中央と煙突に赤十字マークが塗装されました。客室や船倉など大部分は改装され、病院設備や病室が設けられました。 氷川丸は第4艦隊に所属し、終戦までの3年半にトラック、ラバウル、バリクパパン、ジャカルタ、サイパン、マニラなどへ赴き、計24回の航海で3万人にのぼる戦傷病兵を収容し内地へ輸送しました。 任務中は3度にわたり触雷に遭遇しますが、ほかの船と比べて厚い鋼板で頑丈に造られていたことから、大破沈没を免れることができました。 1945(昭和20)年7月修理のため舞鶴のドックに入り、8月15日正午、ラジオから流れる昭和天皇の終戦の詔書を聞きました。 舞鶴で終戦を迎えた氷川丸は、第二復員省(旧海軍省)に用船され、1945(昭和20)年より翌年まで、病院船のまま復員輸送にあたりました。とくに補給路を断たれて病気と飢餓状態にあった地域からの帰還が優先され、南洋諸島に取り残された復員兵の輸送に従事し、7航海で2万人近くの復員兵を輸送しました。 引き揚げ船の役目を終えた氷川丸は、商船へ戻るために1ヶ月かけて病院船の設備を取り外し、船体と煙突は一転、真っ黒に塗り替えられました。 日本はまだGHQから外国航路が許可されていなかったため、船舶運営会の管理の下1947(昭和22)年3月から、大阪・横浜〜北海道(室蘭・函館)間を結ぶ定期航路に就航しました。北海道の豊富な食糧と石炭を本土へ運搬するほかに、復旧が遅れていた鉄道機関の代替手段としても活躍しました。 1949(昭和24)年9月、ビルマ(現ミャンマー)やタイからの米輸送の任務を受け、外航に復帰しました。 この頃から戦後の統制が徐々に解除され、日本海運は復興への道をたどり始め運航も自主的にできるようになりました。 1950(昭和25)年、日本郵船はシアトル定期航路の再開許可をGHQに申請、翌年に月1回の定期配船が許可されました。氷川丸は1951(昭和26)年3月より大改装を行って戦前の貨客船の姿を取り戻し、ニューヨーク航路、欧州航路に配船され、1941(昭和16)年に休止して以来12年ぶりに貨客船としてシアトル航路に復帰しました。 1953(昭和28)年7月にシアトル航路に再就航した氷川丸は年間7航海を運航し、フルブライト留学生をはじめ、多くの若者が海を渡りました。フルブライト交流計画は諸外国の人々との相互理解を目的としてアメリカで設立された奨学金制度で、第1回フルブライト留学生にはノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏、第3回に元国連事務次長の明石康氏、最終航海にはノーベル化学賞を受賞した下村脩氏がいます。 1959(昭和34)年7月26日には、宝塚歌劇団の一行が、3,000人を超えるファンに見送られ、戦後初の北米公演に向けて横浜を発ちました。 氷川丸は船齢30年という老朽化に加えて飛行機の普及や、積荷の激減から1960(昭和35)年8月27日に横浜港を出港する航海を最後に引退することとなりました。 横浜港外に係船されていた氷川丸に、神奈川県と横浜市から横浜のシンボルとして山下公園に係留の上、海事・海洋思想普及のための海の教室と宿泊施設を兼ねた観光船にしたいという要望があり、観光船として新たな人生を送ることになりました。 1961(昭和36)年6月2日、海の教室ユースホステルとして開業、その後観光船として、水族館やレストラン、ビアガーデンなどの事業を展開、修学旅行生を主とした宿泊業務は1973(昭和48)年まで続きました。

交換船に乗る直前に敵性外国人として特高に踏み込まれて乗船を拒否された人もいる。アメリカ人のレ-ン夫妻は北海道大学で英語を教えていたが、教え子の学生から千島や樺太の情報を得、アメリカ大使館へその情報を流したという名目で軍事機密法違反でこの交換船に乗ることはできなかった。その後裁判をうけ、ゾルゲ事件以来という重い判決をうけている。
またアメリカ側もその報復として横浜正金銀行のサンフランシスコ支店長松井一平の帰国を拒否したという。
韓国は男子に対しては国民皆兵制度があり、必ず徴兵に応じて軍務に就かないといけないのですが、 徴兵を拒否している人たちもいます。良心的兵役拒否という制度はないため、徴兵に応じないことは刑罰の対象、刑事訴追の対象となります。裁判にかけられ、有罪が確定すると、服役しなければならないそうです。
そうなると、一定以上の刑を受けた者は徴兵しないという規定があり、そのことによって徴兵を拒否するということです。
韓国では履歴書に兵役を終えたかどうかを必ず書くため、また有罪が確定したということは前科になるため、兵役拒否した人々は非常に厳しい人生を送らなければならないのです。
それを覚悟して兵役拒否をする人々の団体から呼ばれ、お話をさせていただく機会を得ました。私は韓国においてそのような厳しさのなかで兵役拒否運動が行なわれているということを初めて知りました。
1932 (昭和7) 6月 チャップリン乗船(横浜〜シアトル) 1937 (昭和12) 10月 秩父宮・同妃乗船(ビクトリア〜横浜) 1938 (昭和13) 4月 嘉納治五郎乗船(バンクーバー〜横浜) 1939 (昭和14) 6月 宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)乗船(シアトル〜横浜) 1941 (昭和16) 8月 シアトル航路休止。10月 引き揚げ船に徴用 11月 海軍に徴用されて特設病院船に改装 12月 病院船の任務でルオットへ向かう 1945 (昭和20) 9月 復員輸送開始 1946 (昭和21) 8月 船舶運営会所属となり、一般邦人の引き揚げ輸送の任務につく 1947 (昭和22) 3月 大阪・横浜〜北海道(室蘭・函館)間を結ぶ定期航路に就航 1949 (昭和24) 9月 不定期の外航へ復帰(米輸送) 12月 ロイド船級再取得 1950 (昭和25) 4月 船舶運営会から日本郵船の管理に戻る 9月 戦後初めて北太平洋に配船 1951 (昭和26) 3月 2ヵ月半かけて大改装、貨客船に復帰 8月 ニューヨーク定期航路に配船 1952 (昭和27) 8月 欧州定期航路に配船 1953 (昭和28) 6月 アメリカンスタイルに改装 7月 シアトル定期航路貨客船として再就航、フルブライト留学生(第1回)乗船 1959 (昭和34) 7月 宝塚歌劇団乗船(横浜〜バンクーバー) 1960 (昭和35) 8月 最終航海 10月 横浜に回航、係船当番を残して全員下船 1961 (昭和36) 氷川丸観光(株)に譲渡され、改装の後、山下公園特設桟橋に係留。 7月 秩父宮妃来船 1962 (昭和37) 皇太子・美智子妃、高松宮・同妃来船 1967 (昭和42) 9月 氷川丸マリンタワー(株)の所有となる(氷川丸観光(株)と横浜展望塔(株)合併) 1973 (昭和48) 宿泊業務を停止 1980 (昭和55) 4月 氷川丸建造50周年記念懇話会開催 1996 (平成8) 7月 「横浜港新年を迎える船の汽笛」(氷川丸を含) 環境庁(現環境省)日本の音風景100景に指定 1997 (平成9) 観覧客累計2,000万人達成 2003 (平成15) 11月 横浜市指定有形文化財に指定 2007 (平成19) 日本郵船が買い取り、8月 改装工事を開始 11月 経済産業省近代化産業遺産に指定 2008 (平成20) 4月 日本郵船氷川丸としてリニューアルオープン 2015 (平成27) 11月 リニューアルオープン以来、入館者累計200万人達成 2016 (平成28) 8月 国指定重要文化財に指定 2018 (平成30) 5月 ふね遺産認定実行委員会ふね遺産に認定 2019 (令和1) 6月 リニューアルオープン以来、入館者累計300万人達成 日本の歴史上最も有名な船旅は、岩倉遣外使節団である。明治新政府の中心人物の約半数が1年半もの間海外視察にでかけるという、世界の歴史の中で稀に見るようなことが行われている。
この船の中で同じ長州の木戸孝允と伊藤博文が離反して、伊藤が薩摩の大久保に接近したという話がある。
帰国後、政府の中枢で、大久保に伊藤が重視され、大久保暗殺後に伊藤が実質上、大久保の後継者になったことを考えれば、船上の私事も軽視することはできない。
私が、学生時代に遠藤周作の講演を聴いたとき、遠藤氏がフランスに戦後第一回留学生として渡った時に、海が見える部屋ですよといわれて乗り込むと、窓から見えたのは海面だけだったという話を思い出した。
遠藤氏は、リョンの下宿先のフランス人に「日本の家は木と紙でできているのですか、雨の日はどうするのですか」と質問され、語学力の不足で返答にこまり、「雨の日は貼り替えます」と答えたそうである。
例えば交換船に乗る直前に敵性外国人として特高に踏み込まれて乗船を拒否された人もいる。アメリカ人のレ-ン夫妻は北海道大学で英語を教えていたが、教え子の学生から千島や樺太の情報を得、アメリカ大使館へその情報を流したという名目で軍事機密法違反でこの交換船に乗ることはできなかった。その後裁判をうけ、ゾルゲ事件以来という重い判決をうけている。
またアメリカ側もその報復として横浜正金銀行のサンフランシスコ支店長松井一平の帰国を拒否したという。

テレビ・ドラマでは、人質を同時に解放して相手側に返す人質交換があるが、一方が謀って相手をだまし「バーカメ!」「オノレ ハカッタナ-!」などとやりあって交換も決裂してしまうシ-ンがよくある。 ところで日本側から出発した日米交換船には、カナダの外交官ハ-バ-ト・ノ-マンが乗船している。アメリカでマッカ-シ-旋風が吹き荒れた時に、都留重人の証言によりアカと審判されまもなくエジプトで自殺している。都留とノ-マンがこの時「交換船」でそれぞれコ-カンで本国に帰国しているのである。