テレビ・ドラマでは、身代金と人質の交換や人質同士の交換などをよく見る。一方が謀って相手をだましたりして撃ちあうなど緊迫した場面がある。
戦争に突入した二国間でも、在留外国人どうしの交換が起きる。
人々の安全が脅かされたり、特定の人物の出入国を許可しないなどのトラブルが起きないように、永世中立国・スイスなどの第三国を介して、捕虜を含む外地の滞在者が安全に帰れるようにとりはからっている。
日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
戦争が始まると、国同志の国交が断絶するので交通も断絶する。その場合、よその国にいる人は自分の故郷に帰れないので、「交換船」という方法が案出された。
そして1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタ-トし、そこには色々な人間ドラマがおこった。
ある者は交換船に乗らずアメリカに残り、あるものは交換船で日本に帰ってきている。そこには人生をかけた選択が行われた。
というのは交換船に乗らないということは、「敵性外国人」として収容所に入れられる可能性もあったし、日本に帰れば日本で敗戦をむかえることになる。
実はアメリカに住む多くの日本人は口には出さずとも日本が戦争に負けると思っていたのだ。
そこで日本が敗戦するなら、何としても日本に帰らなければならないと思った人々もいた。
ただ、アメリカに残留した者の中には、アメリカの収容所に入れられた者もいれば免れたものもいた。
911で崩落した世界貿易センターの設計者ミノル・ヤマサキは日米戦争勃発の際、日系人収容所に入ることなくアメリカで活躍し続け一流建築事務所を渡り歩いたのに対し、現代アートで知られたイサム・ノグチは自ら日系人収容所にはいることを選んでいる。
第一次日米交換船で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオン・リーダーになる人もいれば、竹久千恵子などモダンガールとよばれた女優、さらには後にジャニーズ事務所を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、6つの階層にわかれ最上階のAには野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)など、都留夫妻はD、鶴見兄妹は最下層のFだったという。
ちなみに、ジャニー喜多川は、ロサンゼルス高野山真言宗米国別院の僧侶の次男で、1931年ロサンゼルス・リトルトーキョーに生まれている。
ベトナム戦争が終わって46年。ジャングルの戦闘も、焼かれる農民の家の映像も遠くなった。
当時、「泥と炎のインドシナ」(毎日新聞)、「戦場と民衆」(朝日新聞)などを読んで、人びとはベトナム戦争の実情を知った。
また、茶の間に戦争の映像がストレートに流れ込み、残虐な写真や映像がテレビで放送され、その酷さを知り始めた。
その一方、日本政府はアメリカに全面的に協力し、自衛隊こそ派遣しなかったものの、基地使用、物資、薬品など、便宜供与を行ない、日本経済はベトナム特需で潤う。
日本がベトナム戦争に加担していることへの批判が高まり、反戦運動が広がっていった。
1960年代に捕虜交換船で帰国した鶴見俊輔は、ベストセラー「何でもみてやろう」の作家・小田実などとともに、ベトナム戦争反対運動の先頭に立ち市民組織「べ平連」を組織した。
これは、日本における「市民運動」の先駆けといえるものであった。
ベ平連の母体の一つとなったのは60年安保の時に発足した「声なき声の会」がモデルになって、「何月何日に集まってどこどこでデモをしましょう」と呼びかけた。
また、活動のなかから派生していろいろなスタイルが生まれたが、「フォークゲリラ」もその一つである。
広場で、「反戦ソング」を歌うなどの「フォークゲリラ」はもともと関西でスタートするが、新宿西口は特に有名だった。
「ベ平連」は、運動の自発性を尊重する「この指とまれ」の3原則など、ユニークな運動論とその実践で注目されてきた。
3原則とは、「言い出した人間がする」「人のやることにとやかく文句を言わない」「好きなことは何でもやれ」の3つである。
「組織ではなく運動」であると称し、成員を確定する規約等を持たず、ベトナム戦争反対をテーマとしていれば自由に「ベ平連」を名乗ることができた。
登録制度のようなものもなく、東京と各地域や大学などのベ平連とをつなぐ唯一のものは、東京のベ平連が月に回出していた「ベ平連ニュース」を送っているということであった。
そして、運動の最盛期には300以上の各地域や学校等で「○○ベ平連」が誕生したとされる。
要するに、「ベ平連」は、特定の組織のなかでやるのではなく、自主的ゲリラ的に参加する運動スタイルであった。
この「ベ平連」が全国的に知られるきっかけとなったのは、ベトナム・トンキン湾での作戦に出港すべく、横須賀で補給していた米軍空母イントレピッド号からの4人の脱走兵を匿い、「国外脱出」を援助したことである。
そして小田、鶴見らはベトナム戦争反対運動の中で「ジャテック」という運動を起こしている。
戦争を忌避して脱走をはかった米兵を第三国に逃亡させて助けるという運動で、北欧などへ20人近くを送りだしたという。
この「ジャテック」の発端は、彼らを匿っていた学生から「脱走兵」がいるけれども、なんとかしてもらえないか」という電話がベ平連事務所にかかってきてたことに始まる。
この段階では、アメリカの脱走兵を援助すると日本人はどんな罪に問われるのかということについて正確な認識はできていなかった。
このすぐあとに弁護士に聞いて、日米地位協定によって、米兵は日本の出入国管理の適用外にあるので、出入国に関して米兵が何をしようと日本の法律に触れることはない、したがって日本人がそれを援助しても一切おかまいなしという、植民地的法律のおかげで、日本人は米兵の「密出国」に関与しても日本の法律に何ら触れないという状態であることが分かった。
そして米兵の米軍からの脱走は元々日本の法体制の枠の外だから、それが日本で行われたとしても日本の刑罰の対象ではない。
だが問題は「脱走」とか「脱走兵」という言葉がもつ社会的な印象の方が重大で、刑罰よりも社会的な制裁の方が懸念されるものである。
戦争体験がある日本社会で、「脱走を助ける」ということはどういう社会的なインパクトを与えるのか、どういう反応があるのかということについて、相当な覚悟が必要であった。
実際に、この運動でべ平連は終わると予想した人もいたくらいだ。
また、脱走兵を匿っていた家庭が沢山あるが、匿ったことが一つのきっかけとなって、その後家庭がうまくいかなくなるケースがあった。
推測るに、おしなべて、男の人がいいかっこして脱走兵を引き受けたものの、夫は「よろしくたのむよ」の一言だけで何もしてくれない。
家族からは、「正義を押しつけられると、すごく辛い」「正義を振りかざさない運動をつくってほしい」という苦情も出ていた。
さて、2015年8月30、毎日放送の『映像15・わが家にやってきた脱走兵〜ベトナム反戦運動・47年目の真実』は、その脱走兵との再会を描いた。
1967年10月に空母イントレピッドから脱出した4人の水兵が大きく報道されたあと、ベ平連への脱走米兵からの連絡が多くなった。
A氏は、知り合いに頼まれてアメリカ人脱走兵を京都の実家に匿った。
それは1968年3月のことで、キャルという名の兵士19歳で、A氏は25歳だった。
キャルは、68年2月に横須賀の基地から脱走したあと、2ヵ月余り関西で過ごし、A氏の実家に泊ったのは3月2日から3日間だった。
その3日間、芝居のまねごとをしたり、酒を飲んでふざけたり、戦争について討論したり、繁華街のスナックに遊びに行ったりした。
その後、キャルは根室から漁船に乗って日本を脱出し、ソ連経由で中立国スエーデンのストックホルムへ逃れた。それを知ってA氏は「やった!脱出成功だ」と心から喜んだ。
その後、彼の行方は知れなかったが、ずっと気になっていた。米軍資料を調べると、日本では横須賀の基地から脱走し2ヵ月余り、関西地方で10数カ所泊ったこと、脱走した68年の8月にはスエーデンからアメリカに帰ったことなどことがわかった。
その行方はわからなかったが、ドキュメンタリーを作りたいという毎日放送の協力も得て、2015年4月、住所が判明。
昔の想い出を詳しく書いて送ったところ、1ヵ月後に、キャルから便せん4枚にぎっしり書き込まれた返事が届いた。
キャルによると、彼はスエーデンに渡った直後、2歳下の女性と仲良くなったが、父親に命令されて帰国し、結局はアメリカで軍の刑務所に入った。
しかしそのスエーデン女性の奔走で、刑務所を出てスエーデンで結婚することになった。翌69年には娘も生まれた。
ところが、キャルは軍隊で覚えた麻薬から逃れられず、スエーデンで犯罪を犯し、刑務所生活を送る。
その後、キャルは離婚して、またアメリカに戻り、バーテンや道路工夫など不安定な仕事を繰り返し、再婚と離婚、ホームレスも経験したという。
アメリカには良心的兵役拒否の制度があるが、脱走兵に対する視線は厳しい。
「臆病もの」「裏切り者」「反米主義者」扱いする人たちは多く、就職も難しい。
彼もベトナムで深く傷ついたひとりだった。
それでも、スエーデンにいる娘、エレーヌ(46歳)に語るところでは、エレーヌの母は、キャルと別れたあと、学びながらひとり娘を育て、精神医になったが、数年前に病気で亡くなったという。
エレーヌにキャルの脱走のことをどう思うかと尋ねたところ、「いいことをしたと思います。父のことを誇りに思っています。戦争は恐ろしいものです。父は平和を求めたのだと思います」と語った。
ただ、日本で脱走兵を預かったおそらく千人を超える人々が、誰ひとり密告せず、その後も沈黙している。それこそが見えざる市民の連帯ということだろう。
ベルリンの壁は、東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁で、1961年から東ドイツ側によって建設された。
この壁は、東西冷戦の象徴で1989年に崩壊するが、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったのは、名もなき一人の日本人である。
佐藤勲(いさお)は、1910年生まれで秋田県大曲(おおまがり)市出身である。
大曲といえば日本一の花火大会で知られるが、佐藤はもともとは映画監督志望だが、花火師の道を歩きはじめる。
ところが昭和30年代には、テレビなどの普及により花火が飽きられ始めていた。
そこで大曲市は大曲の花火大会の主催権を大曲商工会に任せることにし、その時の商工会実行副委員長兼企画員として活動していたのが佐藤勲であった。
この花火師の佐藤勲がはるかドイツのベルリンの壁崩壊へのきっかけをつくるなど、誰が想像できるだろうか。
そこには、ちょっとした行き違いがあったようだ。
1978年、大曲市長の最上源之助が、西ドイツのボン市を農業視察の目的で訪れた。
その際に最上源之助市長はボン市長に対し、「大曲は日本一の花火大会で有名です。ライン川の古城を背景に打ち上げたら楽しいでしょう」と述べた。
最上市長はこの時、社交辞令的な意味合いで発言したそうだが、ボン市長は「それはいいアイディアだ」と真に受けて日本の花火を打ち上げようという事になって、翌日の現地新聞で「大曲から花火を呼ぶことになった」という風に報じられた。
そして冗談ごとではなくなって、実際にドイツでの日本花火打ち上げが実施されることとなり、この時に指揮をとったのが佐藤勲である。
1979年に、ボン市での花火打ち上げを成功させると、今度は西ベルリンから「市政750年の記念打ち上げ」を依頼される。
佐藤勲は再び、西ベルリンで花火の打ち上げを成功させる。
佐藤はその時の記者会見で、「ベルリンの地上には壁がありますが空には壁はありません」。「日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」と、人々の心に響く言葉を残している。
そして、この佐藤勲の言葉が翌日の新聞の1面を飾ったことから、東西ドイツの合併のための動きが活発になったのである。
その動きの一つが「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、西ドイツと東ドイツの市民が一緒にピクニックをしようというものであった。
そして1989年月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた「汎ヨーロッパ・ピクニック」は、ベルリンの壁崩壊へと直接に繋がっていく。
もともとハンガリーは、東社会主義圏の中では、最も開放的な国で、夏に避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再会し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループによって、東ドイツから西ドイツへの「脱走計画」が隠密裏に進められていたのである。
その「脱走計画」とは、ハプスブルク家で一つになっていたハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に大量に西ドイツ(西側)へ逃がし亡命させてしまう策略である。
NHKの番組では、この時におきたある「感動的な場面」が放映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東独市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまい」と思った瞬間、警備兵は赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
このワン・アクションが、はからずも東ドイツを脱出しようとする市民へのメッセージとなった。
実は、ハンガリーの国境警備兵は、隠密裏に東独市民の逃亡を見逃すように命令をうけていたのだ。
この「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、一度に国境を渡った東ドイツ市民は、およそ千人といわれている。
しかし、その後続々とハンガリーに集まってきた堰をきったような約6万人の東ドイツ市民の流れを、東ドイツ政府は、もはやどうすることもできなかった。
実は、その陰には、ハンガリーのネートメ首相の決断があった。
ネーメト首相は密かに西ドイツのコール首相を訪問し、ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国さえるつもりであることを語った。
つまり、第三国ハンガリーが彼らの国外脱出を幇助したのである。コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方、ネートメ首相は、東ドイツ市民の「強制送還」を要請してきた東ドイツ政府に対して、同じことを通達した。
これによって、東ドイツ国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、「壁の開放」を容認する他はなかった。
2009年11月9日「ベルリンの壁」崩壊20年記念式典では、盛大な花火が夜空を飾った。