世に二つある

「この世で一つだけのもの」というものは当然価値が髙い。しかし「この世に二つだけ」となれば実に不思議で、ふたつの繋がりを探りたくなる。
鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地)の平和記念館を訪れた時、ドイツ・フッペル製の白いピアノが展示してあるのを見つけた。
その解説パネルによれば、終戦間際に鳥栖の小学校でピアノを弾いた二人の特攻隊員の願いを永遠に残そうと、特攻隊員の仲間たちが、知覧の地に「同じ型」のピアノを残すことにしたという。
つまり、日本で「たった二つだけのピアノ」。
この時、本家のピアノつまり二人の特攻隊員が実際にひいたピアノが、JR鳥栖駅前の施設に展示されていることを知った。
このフッペル製ピアノは、映画「月光の夏」で世に知られることとなり、毎年3月鳥栖において「フッペルコンサート」が開かれている。
そして我が福岡にも、日本で「二つだけのもの」の一方があることに気が付いた。
その1つが、東京の泉岳寺にある「赤穂四十七士のの墓」を完全に模したもの。
しかしそれを一人の趣味人の所業と片づけてはならない。根本には、赤穂浪士の気概と通じ合う福岡人の心情があったことが推測される。
実は、江戸で起きた赤穂事件を、「忠臣蔵」として脚色し普及させたのは福岡人であったのだ。
「赤穂浪士の討ち入り」は、幕府からみたらテロ。テロを起こした47人は、藩に迷惑が掛からぬように脱藩してコトに及んだ。
テロ行為がついには”義挙”となり、日本国民が最も愛する物語になるのに、大きな役割を果たしたのは、ひとりの福岡県人である。
1702年(元禄15年)12月14日は、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の遺恨をはらし見事本懐を遂げた日である。
実はこの討ち入りは江戸市民がひそかに今か今かと期待していたものであった。
当時つまり江戸元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の御法度を破ることにもなる赤穂浪士の討ち入りは、霧がはれたような爽快感を人々に与えたのである。
つまり江戸市民の密かなる支持のもとに打ち入りがおこなわれたのであり、討ち入りに際して隣家にわざわざことわりをいれるというのも、そうした時代背景があったためである。
赤穂の忠臣たちの行為は事件後、「義挙」とされ多くの芝居や劇となった。
特に人形浄瑠璃の竹本義太夫の「仮名手本忠臣蔵」の通称として、「忠臣蔵」が赤穂浪士の討ち入りを指すものとして定着した。
そして時代がくだり第二次世界大戦中、主君(天皇)に対する「忠義」が重要視された時代において「義士祭」という形で赤穂四十七士の「義挙」は全国に宣伝されたのである。
戦争中の「国民精神の作興」が叫ばれた時代にあって「忠」の象徴である赤穂浪士の精神は、時代の要請にそったものであったのである。
渋谷駅前の「忠犬ハチ公」の話が広まったのも、こうした時代の要求の延長線上にあるといって良い。
「忠臣蔵」を国民的ブームにしたのは福岡市出身の史論家で九州日報の編集局長兼社長であった福本日南なのである。
幕末に佐幕か勤王かで揺れた福岡藩は、五卿を預かる微妙な立場から幕府の意向を過度に忖度したのか、1865年に勤王派の弾圧をはじめる。
世に言う「乙丑(いっちゅう)の獄」で、加藤司書はじめ野村望東尼など140数名もの維新で活躍が期待される有為な人材がことごとく断罪・流刑された。
実は、前述の福本日南は、この時処刑された平野国臣とも親交のある勤王家であった。
藩校修猷館に学び、後に長崎で漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、問題が起きて原敬・陸羯南らと共に退校処分となる。
1889年、陸羯南らと新聞「日本」を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。
1905年、玄洋社系の「九州日報」(西日本新聞の前身)の主筆兼社長として招かれた。
1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選し、同年「元禄快挙録」の連載を九州日報紙上で開始した。
そして日露戦争後の近代日本における「忠臣蔵」観の代表的見解を示し、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立するものとなったのである。
そこには、幕末に処刑された福岡勤王派の無念が、赤穂浪士とも重なるように思えるからだ。
福本は1916年、「中央義士会」を設立し、初代幹事長に就任する。
1921年、千葉県の大多喜中学校で講演中に脳溢血で倒れ死去している。
さて、福岡寺塚の興宗禅寺では毎年12月14日には福岡義士会主催の「義士際」が賑やかに開催されている。
この通称「穴観音」という寺には、泉岳寺の本物を「そのまま模した」四十七士の墓が造られている。
福岡の篤志家・木原善太郎氏が1935年、青少年の健全育成と日本精神作興のために私財を投じて建立したものである。
これを機に義士会が結成され、討ち入りの日に祭典を執行することになった。
そして四十七士の忠臣たちの精神は、武士道の精華として語り継がれ、日本人の心に「忠臣蔵」として300年を超えて、親しまれ脈々と受け継がれている。

伊勢志摩の名所「二見ケ浦の夫婦岩」とまったく同じ風景を、福岡の糸島半島に見ることができる。
「朝日の伊勢二見が浦」、「夕日の糸島二見が浦」という対比の言葉さえある。
この「二つの風景」には、何か関連があるのか。本家が伊勢で糸島が模したものと思いがちだが、真相は"逆"なのかもしれない。
実は邪馬台国に卑弥呼がいたように、福岡県糸島半島の地にも「女王」の墓がある。
魏志倭人伝に曰く「倭国は三十国に分かれ、争うこと七十年、八十年」だが、卑弥呼をたてたところようやくオサマったという。
。 さて、その伊都国の中心が2世紀の「三雲、井原遺跡」で、その規模は60ヘクタールと大きく、一般の国の支配者の住居でさえ竪穴式の時代に、ここは高床式住居が多いのが目立つ。
そしてなんといっても圧巻は「平原古墳」である。
1965年に最初に発掘され、首飾りやなどが続々と出土し、古代中国(後漢)の女性の墓からしか出土しない装身具などが発見され、伊都国の王は「女性」であることが定説となった。
平原王墓はわずか径14メートルほどの方形周溝墓だが、王墓の側には40枚もの鏡があり、一番大きな鏡は直径46.5センチ、重さが8キロあり、それが5枚も出土した。
その中央部には光の反射の絵柄と、8つの花びらと8つの葉っぱが描かれている、いわゆる「内行花文八葉鏡」である。
平安時代の書物に、伊勢神宮にある三種の神器「八咫鏡」(やたかがみ)について「8つの花弁と8つの葉っぱ」と書かれているが、それと一致しているのである。
この伊都国の女王が、当時の日本で最高クラスの巫女であったことには間違いない。
ただ、平原遺跡の発掘で最もショッキングなことは、日本最大の「内行花紋八葉鏡」がすべて叩き割られて埋められていることである。
役割を終えた鏡を叩き割るという行為は、亡くなった女王の霊力を封じるという意味なのかもしれないが、発掘に携わった國學院大學元教授・柳田康雄はその割れ方に「憎しみ」を感じるという。
さらに柳田教授によれば、「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)が大和(纏向)で突然出現する」という。
纏向(まきむく)は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる「箸墓(はしはか)」古墳のあるところである。
柳田教授によれば3世紀に栄えた近畿・纒向遺跡と、2世紀に栄えた伊都国遺跡は似通っている部分が多く、年代から考えると、卑弥呼の母親もしくは姉妹である可能性もあるといっている。
興味深いのは、平原古墳の日本最大の銅鏡(内行花文八葉鏡)が、伊勢神宮にある「三種の神器」のひとつの銅鏡が同じ型であることである。
伊勢神宮の歴史を遡ると、崇神天皇の存在が浮かび上がる。
「日本書紀」によると、前述の第10代崇神天皇(すじんてんのう)は、天照大神の勢いを畏れて八咫鏡(やたの)を宮中の外に祀ることにした。
この時、新たに剣と鏡の「形代」(かたしろ/複製品)が作られ、その形代が天皇の護身の御璽として宮中に祀られ、「皇位」のしるしになった。
そして第11代垂仁天皇のときに、伊勢国の五十鈴川(いすずがわ)のほとりに斎宮が建てられ、そこに八咫鏡が奉安されることになった。
これが神宮(伊勢神宮)の始まりである。
ところで、日本の初代天皇は神武天皇で、九州の「宮崎」から八咫烏に導かれて大和に移り「橿原宮」で即位したことになっている。
この「神武東征説」は、神武という「神話」上の天皇であるため、その信憑性が薄められるようにも思えるが、倭の勢力が南九州から大和奈良に移動したということは、何らかの「史実」を映しこんだものではなかろうか。
実在の可能性が見込める天皇というのが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)で、3世紀から4世紀初めにかけて実在した「大王」(おおきみ)とみられている。
さらには、日本史研究の立場からは崇神天皇と神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。
なにしろ神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」の称は、崇神天皇の称とまったく一致しているからだ。
初代天皇・崇神と皇子の垂仁一族は、ちょうど神武天皇の東征の話と重なるかのように「大倭」を率いて大和へ東征し、これにより奈良に「大和政権」が誕生したのではなかろうか。
実は箸墓古墳のある纏向遺跡で大変興味深いことがある。
発掘された土器が、四国、山城、近江、吉備など九州北部から関東地方に及ぶ地域からの物が混在していて、住民が列島各地から「移住者」であることである。
問題は、倭の中心勢力が九州から大和に移動したとしても、邪馬台国とどう関わるか。
そこで問題になるのは邪馬台国の位置である。
素人の感覚をもって纏向遺跡に立ってみて「魏志倭人伝」の記述を思い浮かべるのは困難で、はるかに佐賀の吉野ヶ里の方がよほど記述と一致している。
それに、邪馬台国の以北に伊都国の「一大卒」があると明記してあることをもっと重視すべきである。
中国の「魏志倭人伝」に載るほどの邪馬台国の卑弥呼の存在について日本書紀に掲載されていないのは、そこに触れたくない事情、例えば「王権簒奪」があったとは考えられないだろうか。
崇神天皇が即位したのは3世紀といわれ、邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなったのが248年で時期的に一致している。
そういえば、平原遺跡の4枚の銅鏡はいずれも”割れ”て発掘されたが、その同じ型の銅鏡が伊勢神宮に存し「三種の神器」のとして存在するのは一体何を意味するのか。
崇神天皇が大和にあって即位したのは、「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」で、その都は「纏向(まきむく)」のすぐ近くなのである。
ともあれ、大和政権成立の謎を解く鍵の一つは、邪馬台国の女王・卑弥呼と日本の実在の初代天皇・崇神天皇の関係にありそうだが、伊勢神宮の祭神であるアマテラスは女神であることも合わせると、崇神天皇を男性とばかり限定してはならない。

福岡太宰府の国宝「観世音寺の鐘」とまったく同じ鐘が、京都妙心寺に存在している。
この鐘こそ「日本で二つだけ」の存在といってよい。
飛行機で福岡空港に降りる時、雲の合い間から広大な敷地を占めるコンテナ群を見渡すことができる。
これが福岡市東区の「流通センター」だが、このあたり一帯はアル戦いの戦場だった。
それは足利尊氏と菊池氏・阿蘇氏との合戦となった「多々良浜の戦い」。
1336年、2月尊氏は京都で新田義貞・楠木正成らに敗れて九州へ逃れたが、九州にてかなりの武士を味方につけ3月2日「多々良浜の戦い」で大勝した。
その少し前に、宗像大社で「戦勝祈願」をした足利尊氏にとって、多々良は捲土重来の起点となった「記念の地」といってもいい。
ところで、「多々良」という地名は、福岡市民にとって「多々良川」という川の存在ゆえによく馴染んだ地名だが、案外とその地名の由来は知られていない。
実は、「多々良」は、その地名から想像できるように、この地は「タタラ(多田羅)製鉄」が行われた場所であった。
多々良の地から20キロほど南の太宰府の観世音寺の梵鐘は「日本最古」の鐘といわれるが、この多々良の地で698年に製造されたものである。
大宰府天満宮に近い「榎社(えのきしゃ)」にいた菅原道真公の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのは、この鐘のことである。
ところで、この鐘とまったく同じ型、同じ年に多々良の地で作られた、いわば「兄弟鐘」が京都妙心寺に存在している。
しかし、福岡の観世音寺にある鐘と同じ鐘がどうして京都妙心寺にあるのか。
妙心寺の梵鐘には「戊戌年四月十三日 壬寅収"糟屋"評造春米連広国鋳鐘」と刻まれている。
つまり、妙心寺の鐘は、飛鳥時代後期の698年、「糟屋(政庁)」の「評造(役人)」である「春米連広国(つきしねのむらじひろくに)」という人物によって鋳造されたとある。
このように記念銘のある鐘としては日本最古のもので、国宝に指定されている。
この古鐘の通称が「黄鐘調」といわれているが、これは何を意味するか。
その答えは吉田兼好が書いた「徒然草」の第二百二十段「なにごとも辺土は」に記されている。
現代語訳すると、「鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった」という驚くべき内容。
黄鐘調とは雅楽に用いられる六調子の中のひとつで、オーケストラの最初の音合わせに用いられる音階、つまり、基本となる音のことなのだが、その意味合いを鐘の音に置き換えて、鐘の最も理想的な音(西洋音階の「ラ」)を“黄鐘調”としているわけである。
この「ラ」の高さの音は、遠くまでよく響く。「ラ」の音が一番響くので、オーケストラの音合せにも「ラ」の高さが用いられているのだろう。
そして驚くべきことは、オーケストラの音合わせに用いられる基本の音の周波数は129ヘルツだが、この古鐘の音の周波数も同じ129ヘルツなのである。まさに、この古鐘は「黄鐘調の鐘」と呼ばれるに相応しい、理想の音を鳴り響かせる鐘なのであった。
前述の「徒然草」によれば、もともとは聖徳太子が大坂に建立した「四天王寺」の聖霊会において、「楽律」の調整に用いられ、その後、教徒の「法金剛院」(現:右京区花園)に移されたと言い伝えられている。
実は、この法金剛院こそは、妙心寺の西南の境内四方を占めた大寺なのである。
つまり、福岡の多々良で作られた鐘こそが「黄鐘調の鐘」で、様々な鐘と音合わせのために、各地を移動して京都の妙心寺に落ち着いたと推測される。

つまり、妙心寺や観世音寺の鐘の音の音階は偶然でなく、「意図的」にその高さになるように作られている。
亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである」。 記紀に記述のある歴代天皇のうち、第十代崇神天皇は、初代神武天皇とその後の八代の天皇(在位中の事績が記されていないことから「欠史八代」と呼ばれている)と異なり、初めて登場する実在の天皇(大王)であったと言われている。それは、記紀において初めて在位中の事績が詳しく記述される大王であること、拠点とした三輪地方に、その存在を裏付けるいくつかの考古学的な証拠が見られること、などによる。和風諡号を「みまきいりひこいにえのみこと」という。また「はつくにしらすすめらみこと」という。とくに「はつくにしらす...」は初代天皇という意味で、不思議なことに神武天皇と同じ諡号である。このことからも 崇神天皇が神武天皇とともにと特別の存在であることを示している。おそらく3~4世紀ころではないかといわれる。 3世紀と言えば魏志倭人伝に記述のある邪馬台国、その女王卑弥呼と、その後継者であるトヨの時代である。 以前にも述べたように、記紀の記述と魏志倭人伝の記述には接点が無いので、卑弥呼と崇神天皇との関係も不明だ。  みまきいりひこいにえのみこと(崇神天皇)は三輪山の西麓に拠点を置いた三輪王朝の始祖である。いくめいりびこいさちのみこと(垂仁天皇)など、イリの名を持つ大王がでたためイリ王朝とも言われており、これがヤマト王権の始まりではないかと言われている。  崇神天皇の都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)とされており、山辺の道に沿っている。また、陵墓は、天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。 ここ山辺の道のある山麓にはこ卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳もある。  また、纒向遺跡では水路跡や都市跡ではないかと思われる区画が広範に見つかっている。さらにJR巻向駅近くで卑弥呼の宮殿(神殿)ではないかと言われる神殿跡が見つかり、いよいよ邪馬台国近畿説論者を勢いつかせたことも記憶に新しい。 魏志倭人伝によると、倭国は2~3世紀、鬼道を用いる女王卑弥呼が支配する邪馬台国を盟主とする30カ国ほどの連合国家(クニのあつまり)であった。呪術により女王(巫女)が天の意志を伝え、男王がそれに基づいて政治を執り行う、という祭政一致の政治体制(ヒメ・ヒコ制)をとっていた。 邪馬台国は果たして崇神天皇「みまきいりひこいにえのみこと」が築いた三輪王朝(初期ヤマト王権)との繋がりはあるのだろうか?邪馬台国はどこにあったか、という位置論争がハイライトを浴びているが、北部九州ににあったにせよ、近畿にあったにせよ、そもそも後のヤマト王権に繋がりのある国だったのか疑問がわいてくる。  前述のように、記紀が意図的に邪馬台国にも卑弥呼にも言及していないということは、邪馬台国が、崇神大王に始まる倭国ヤマト王権、その後8世紀に始まる天皇制日本とは繋がらない国、王権であったことを示唆しているのかもしれない。すなわち別の国であった。しかし、仮にそうだとしても中国の三国志(魏志)にその名を記され、世界に認知されていた倭国、邪馬台国、その王たる卑弥呼やトヨが、後のヤマト王権とは異なる系譜の王権であったとしても、さらには何らかの形で邪馬台国からヤマト王権への王権交代、王権簒奪があったとしても、そのプロセス、歴史を記述しなかったのはなぜなのだろう。依然として疑問が残る。  そう考えてゆくと、そもそも邪馬台国はこの大和盆地の三輪にあったのか?卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳も、纒向遺跡で見つかった大型の神殿跡も、邪馬台国近畿説側から観た物証解釈で、邪馬台国や卑弥呼に特定できる証拠はどこにも見つかっていない(魏王からもらった「親魏倭王」の印か、封泥が出れば決定的だが)。年代的にむしろ崇神天皇「みまきいりひこ」の三輪王朝の遺構であってもおかしくないのではないか。現地を巡ってみると、ここはやはり初期ヤマト王権発祥の地(すなわち三輪王朝の地)で、弥生文化の習俗を色濃く残していたであろう邪馬台国の匂いがしない気がする。やはり邪馬台国はこの三輪山麓や纒向ではなく、北部九州筑紫にあったのではないかと考え始める。卑弥呼やトヨの死後の倭国混乱のなかで、邪馬台国と倭国連合が崩壊し、その一部が筑紫から瀬戸内海を東に移動し、近畿大和に定住し武力を持って王朝を開いたのではないか。そのとき大和盆地や河内平野(潟)には先住民がいた。「にぎはやひ」を祖先とする物部氏系の先住部族だ(彼らもまた筑紫から東遷したとの伝承を有している)。それと戦い,融和して開いた王朝、それが三輪王朝ではないのか。(神武東征伝説のもとになる出来ごと)。 卑弥呼が住んでいた場所の候補地として、纒向遺跡が注目を集めている。2009年、遺跡の中心部で300を超える柱穴が見つかり、当時最大の建物跡が発見された。卑弥呼がどこで生まれたのかと疑問が生まれた。日本列島の様々な地域の土器がで発見されるなど、巻向遺跡は列島の中心地であると考えられる。 卑弥呼の出身地はいったいどこなのか。現在、候補地として九州の北の端に存在した国が挙げられて 福岡・糸島平野に存在した伊都国遺跡は、卑弥呼の出身地の候補地だ。3 墓は単に死者を埋葬するだけの場所ではない。寺澤薫さんは「亡くなった王の霊を新しい王が引き継ぐ儀式をしていた」と語る。墓からは多くの鏡が発見され、これらを儀式で使用していたと考えられる。 2014年1月、纒向遺跡で更なる建物跡が発見された。伊都国の王墓から出土した太陽を表すという鏡のデザインは、伊勢神宮にも納められているという。