聖書の人物から(サムソン)

聖書には「聖人」なるものは一人も登場しない。逆に、神の栄光が現れるために、”どうしようもない人が”用いられる。
その代表が、「士師記」にでてくるサムソンである。サムソンは、ハリウッド映画(「サムソンとデリラ」)にもなるほどだから、人並み優れた面もある。
しかし個人的な印象をいえば「恥おおき人生」というほかはない。
「出エジプト記」にあるモーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこで、その時々、必要に応じ、神によって立てられた小リーダーが「士師」と呼ばれる人々で、サムソンも士師の一人である。
このサムソンが生きた士師の時代は、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配され、その偶像におかされて、主なる神への純粋な信仰が失われ、神の国の一国民としての共同体意識が薄れ、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う」(士師記21:25)牧者を失った時代であった。
サムソンは生まれる前から御使いからのみ告げによって予告されたナジル人(神への献身者)として生まれて、彼の使命は「イスラエルをペリシテから救い始める」こと(13:5)であった。
イスラエルの人々は、ペリシテから武器を奪われ、鉄を精製して武器を造ることも禁じられて、サムソンはある時、武器として手にしたロバの顎の骨で、ペリシテ人とひとりで戦い、1人で千人を倒したという。
そんなサムソンの怪力ぶりに苦しめられたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わし弱点を探らせる。
ペリシテの女デリラの誘惑に負け、その力の秘密をついに明かしてしまう。
そして、その怪力の秘密は長髪にあり、それを剃り落されたなら、怪力は失われ、並みの人とおなじになると打ち明けた。
その結果、デリラの膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の捕虜となり、目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる惨めな状態に落ちてしまう。
その後、ペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを祭る祭りを開催し、会場となる大会堂に国中のペリシテ指導者を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
そこで、サムソンは、盲人となった彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、主に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかると、その会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、自らも命を失うが、その時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよものより多かったという。
旧約聖書によれば、サムソンは「ナジル人」と書いてあるが、「ナジル人」とは、聖書に登場する、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。
彼は神により、生まれる前からイスラエルの士師となる使命が与えられており、その頭に決して剃刀を当ててはならないと命じられていた。
サムソンの「怪力」の秘密は髪そのものの価値というより、その誓いを守りとおすことにより神との関係を保つということを意味していると思われる。
したがって牢獄のなかで髪が伸びることの意味とは、捕らわれのの身に落ち込んでいる間に、神との関係が修復していったことを意味する。
ペリシテ人は、サムソンの髪が伸びるのに気が付かなかったのだが、「ペリシテ」とは今日の「パレスチナ」を意味し、イスラエルとパレスチナはいまだにその争いを続けている。
このサムソンの起伏に富んだ人生につき、最近ハタと思いついたことがある。
サムソンの生涯が、ほぼイスラエルの過去と未来をそのまま体現、つまり「凝縮」されたものだということだ。
そのことを、次の四点について考えてみたい。
①サムソンがペリシテの女性デリラの誘惑にはまるとはどういうことか。
②サムソンが「足かせ」をかけられるとはどういうことか。
③サムソンが「目をくり抜かれる」とはどういうことか。
④サムソンが死を間際にして多くのペリシテ人を殺すとはどううことか。
以上のサムソンを「イスラエル」に入れ替えてみて、気づくことはサムソンは、実はイスラエル(ユダヤ人)の歴史そのものなのだ。
ペリシテ人デリラの誘惑とは、イスラエルが何度もその陥穽にはまり込んだ、バアルやタゴン神崇拝などの異教の神々の誘惑とみることができる。
「足かせをかされる」とは、古代のバビロン捕囚から中世のヨーロッパのゲットー、近代のヒットラーによるホロコーストまでの歴史がそれを表している。
また、「目がくりぬかれる」とはエルサレムを異教徒の支配下にあったり、国際管理下にあること。
また、サムソンの髪が伸びてその力を回復しペリシテ人を数多く殺すとは、1948年イスラエル建国後の4度の中東戦争でイスラエルがアブラハムに委ねられた土地を回復しようとしていることを思わせる。
しかし、最後の場面でペリシテ人もろとも建物の下敷きとなって死ぬが、この場面はこれから起きることを「暗示」(預言)しているようにもみえる。

失敗だらけの恥多き人生であろうと、何かの運命に導かれるように、コトが成ったという人がいる。
鈴木國弘は、その時中学3年生。横浜港にいくと眼前に夢の国ブラジルへ誘ってくれる巨大船が停泊していた。
クルーが忙しそうに動き回っているので、船内を自由に歩き回る見知らぬ少年を咎めたりしない。
鈴木は階下の倉庫の様なスペースに忍び込んだ。
ビザとは何?パスポートとはどんな食べ物?と何もしらない無謀さだった。
この頃鈴木を突き動かしていたのは、ペレーを中心に世界を席巻したボールのマジシャン集団ブラジルのサッカー見たさだけだった。
突然、倉庫のドアが開き懐中電灯の強烈な灯りに照らし出される少年の姿。
鈴木が千葉の自宅に戻った時はすでに辺りは真っ暗。自宅内は友達や警察官、近所の人々でごった返していた。
日頃から特に厳しかった親父からは体罰を覚悟したが「高校だけは出とけ」の言葉だけだったことに意表を突かれ、さらに涙が出た。
ただし、多感な中学生時代に体験した強烈な出来事は大きな挫折ではあったものの、後の45年間をずっとブラジル・サッカーが生業となっていくことを決定づける出来事だったかもしれない。
そんな鈴木がブラジル・サッカーとの出会ったのは中学1年の時。部活で毎日ボールを追いかけていたある日、大阪のヤンマーディーゼルに日本初の外人助っ人としてネルソン吉村がやってきた。
鈴木は、日系ブラジル人選手のプレーを目の当たりにした時、まるで「地獄で仏を見た」様な歓喜を味わった。
というのも、当時の日本サッカーはドイツ流一辺倒で厳しいボディコンタクトの応酬であった。
身体の小さかった鈴木にはまるで格闘技のように思え、どうしても馴染めなかった。
ところが生粋の日本人のネルソンのプレーはまさに別次元で、ボールをまるで身体の一部の如く自由自在に柔らかく扱う。
当時のサッカーで見たこともない光景に、中学生の鈴木はブラジルサッカーに一気にハマった。
中学3年生といえば、高校受験勉強に励むが、鈴木は頭が全てブラジルに占領されてしまっていた。
だが英語は必死で勉強したという。なぜならブラジルの母国語ポルトガル語は複雑すぎて独学では無理なので、英語でなんとか乗り切れるだろうと考えたからであった。
しかしながら屈辱の「中学生密航失敗」で、ブラジルへの夢が一旦消え去った。
高校進学後は、どうにかしようと当時としては画期的なミニサッカー・サークルなるものを立ち上げた。
そんなある日、ブラジルからもうひとりトンデモない選手が来日した。
セルジオ越後という選手で、学校を休んで観に行ったところ、眠っていたブラジルへの夢が一瞬で呼び覚まされた。ちなみにセルジオ越後は、現在、TVのサッカー解説で有名である。
鈴木は高校卒業後、テキストも少ないポトガル語の学習を様々な機会をつかっておこなった。
日中はブラジル大使館でアルバイトをし、夜中は四谷のブラジリアンバーでバーテンダーをやり、その時、ラモス(瑠偉)とも知り合った。
語学はあくまでも生活のためのツールだと思っており、語学を極めようという意識はあまりなかった。
ただサッカーをやって不便にならない程度に学んでいった。
そして高卒後1年たった19歳の時、苦い思い出のある横浜から憧れのブラジルに渡った。
現地で通訳コーディネーターとしてブラジルサッカーと深く関わった。
日本に帰国後、1991年から「鹿島アントラーズ」の通訳としてジーコと二人三脚で歩んだ。
というよりも、鈴木は鹿島アントラーズ設立の功労者といってもよい存在なのだ。
ジーコはこれまでトップでやっていた選手で、鈴木はアマチュアでやっていたレベルにすぎない。
ジーコは鈴木を介して話すが、サッカーの知識と語彙力で伝えようとしても、ある程度ジーコのサッカーの哲学を学んでいないと成立しない。
そこでジーコが、通訳としての最低限のサッカーの知識と、自分の考え方、行動様式みたいなものを1ヶ月くらい毎日教育した。
そういうものを学んで初めて彼の言葉を伝えることができるレベルに達した。
しかしプロとしては勝ってナンボなので、日本人選手がノリノリな状態でプレーしないといけない。
ジーコに怒られたということでビビって動けなくなってはいけないと、ジーコが厳しい言葉を浴びせているのに、雰囲気を読んで褒め上げているように見せることさえできるようになった。
一通訳としてはよろしくないが、ジーコが日本の文化を知った来日3年目くらいからは、「日本人はこういう風にのせないとダメ」ということをジーコ自身がわかってきたので、直訳ができるようになった。
鈴木圀弘は、2006年W杯においてジーコ率いる「日本代表監督通訳」としてベンチ入りを果たすことになる。

山形県鶴岡市にある加茂水族館は、1930年に誕生した古い施設であった。
かつて閉館の危機にさらされ“オンボロ水族館”といわれるほど、客もこなかった。
太平洋戦争中には接収されるなどの中断を経て、1956に復活する。
高度経済成長期には安定した集客があったが、バブル崩壊とともに人気が落ち込み、営業そのものが立ち行かなくなった。
当時増えてきた第三セクター方式や、自治体など様々な経営方式を経て模索を続けてきたが、日本全体の景気の冷え込みとともに閉館の危機を迎えていた。
村上龍男が、加茂水族館を任されたのは弱冠27歳の時。そして経営が厳しくなった時期には個人として1億円にものぼる負債を背負ってしまった。
ラッコをいれたら客が呼べるというので、ラッコを入れたが客足は伸びない。
ラッコは新鮮な貝類やイカしか食べないので費用ばかりがかさんで、親会社に借金までして水族館を支えようとしたのだ。
家屋敷すら抵当に入る事態になり、ストレスで体中に発疹ができて、これまで試験用に生き物を殺生してきた報いかと思ったこともあったらしい。
入館者数が「過去最低」を記録した1997年。全てが行き詰まる中で、まるで“最後の悪あがき”のように当時の流行り物のサンゴをテーマにした企画展を行ったが、ハズレ。
ただ、その水槽の中に小さな生き物がまぎれこんでいて、これが館長の運命を変えることになるとは、この時気づかなかった。
それは“サカサクラゲ”の赤ちゃんで、その泳ぐ姿がかわいくいとおしく、これがスキマつき人生の始まりである。
クラゲの水槽を用意して展示したところ、お客さんが喜ぶ様子をみて、何か「日本一のもの」を作ろうとクラゲの種類を増やしていった。
加茂水族館は2000年、12種類を揃えクラゲの展示数日本一となり、クラゲ専用の展示室も作った。
このころ館長はようやく、人まねばかりしても、客は伸びないことを悟る。
ただクラゲは繊細な生き物、しかも多種類同時に安定して飼育・繁殖させるには知識も技術も足りず、その分野に適切なアドバイザーの存在もなかった。
そこで、村上館長以下、飼育スタッフ総出で様々な方法を考え模索する日々が続いていた。
あるスタッフが何かの折に、クラゲを食べた話をしたところ、館長はクラゲを様々な料理にして食べて親しんでもらう企画をする。
女性スタッフが考えたジャム・クラゲなどでとてもおいしいとはいえなかったものの、「クラゲの水族館」としてその名が知られていくことになる。
そのうつちに山形自動車道の整備が進み、アクセスが良くなったこともあり、来館者が増え、経営も安定していった。
それによって研究も進み、採算がとれるレベルまでに入場者が増えたが、年間27万人台を上限にしてそれ以上伸びることはなかった。
ここで館長は、再び行き詰る。そんな時、館長は海中で光るクラゲに注目するが、なぜか水族館で育てても光らない。
そんな折、驚くべきニュースが飛び込んでくる。
2008年、光を発するオワンクラゲを使って研究していた下村修がノーベル化学賞を受賞したのである。
館長は下村氏のアドバイスを得るべく、手紙を書いたところエサの中にセレンテラジンを入れて食べさせたら「光る」ことを教えられる。
それを実際に行うとクラゲが水槽の中で幻想的に点滅するようになる。クラゲ流れ星のように。
そしてオワンクラゲを飼育する加茂水族館は、学術的な方面でも世界的に知られるようになった。
中途半端なものでは人の心をうたないと学習してきた館長は、クラゲに全面的に特化したクラゲ水族館へと変貌させ、直径5mの大規模な水槽「クラゲドリームシアター」を虹色のライトで照らし、幻想的な雰囲気を醸し出した。
その後、クラゲの展示種類数が世界一となり、2012年にはその記録がギネス認定されるなど大ブレイクし、年間入場者数73万にも増えていった。
2015年に76歳で退任するが、それ以降も名誉館長・シニアアドバイザーに就任して、加茂水産高校の講師としても活躍している。
館長がクラゲに教えられたことは、人まねばかりしていてもダメなこと。人の心を打つ為には、中途半端はダメで大胆にうって出ること、ブレイクの種は身近にあること、などである。
この人を、最後まで諦めなかった人とか「スキマねらい」とかいうのは正しくない。本人はほぼ諦めて負け続けそうな気持ちでいた。
ところが万策つきたと思った時に下村修のノーベル化学賞授賞など、何かに導かれるように次の展開が生まれ、倒産危機の水族館がいつのまにか、世界に知られるほどの存在になっていったのである。