ポリ袋のユニホーム

近年、世界で深刻な問題となっているのが、プラスチックの脅威である。
環境保全に向けて、スターバックスはプラスチック製のストローの使用をやめた。
また、タピオカジュースを太いストローで飲むというプチ贅沢も、禁止の方向にある。
今から約50年前の映画「卒業」(1967年)には、プラスチック産業がいかに有望を物語るシーンがある。
主人公のベン(ダツティン・ホフマン)は大学を卒業したばかりで、その先の進路は不透明。
ベンの卒業式祝いが行われている夜に、来賓客のひとりが彼にアドバイスする。
「ベン プラスチックだ」「どういう意味?」「プラスチックは有望だ」。
ものづくりの素材は多種多様だが、プラスチック素材はカタチを変え、様々な形態であり、ありとあらゆる製品に使用されている。
圧倒的な汎用性ゆえに、身の回りでプラスチックが使われていないものはないといって過言ではない。
このプラスチックが歴史上初めて人工的に合成されたのは、1856年にイギリス人のアレキサンダー・パークスによって発明された”セルロイド”である。
セルロイドは、ニトロセルロースと樟脳をベースに作られ、世界最初の人工樹脂であり、最初の熱可塑性樹脂でもある。
そのセルロイドが今日、ほとんどその姿を目にすることがなくなったのは、それよりも生産性が高く価値付与されたその他のプラスチック素材にとって代わられたからだ。
それにセルロイドは供給が不安定なことや、”可燃性”が髙いという欠点がある。
かつての卓球王国・日本はセルロイド時代と重なるが、世界卓球協会はピンポン玉をセルロイド製から他のプラスチック製のものに変えることを決定した。
このプラスチクス製には継ぎ目もなく割れにくい。
そしてスピードや回転量が抑えられてラリーが長く続き、試合が面白くなることが期待できる。
その一方で、眼鏡フレームはセルロイド製のものが今でも続いている。
セルロイド製の眼鏡フレームは、金属芯を一切使用することがない伝統的な職人の技で作られており、高級感あふれる眼鏡フレームとして重宝されている。
さて、日本では大正初期から昭和40年代にかけて、セルロイド素材の生活雑貨や玩具などが生産されていた。
実は、大正から昭和初期にかけて海外に輸出され、1937年には、日本のセルロイド玩具の生産数は世界1位となったほどで”セルロイド王国”といってもよかった。
特に東京葛飾区では、セルロイド玩具の生産が盛んで、四つ木、立石などに多くの工場が存在していた。
実は、昔懐かしの「バービー人形」は、初期生産において「メイド・イン・ジャパン(カツシカ)」であったのだ。
つまり、バービー人形は、あの”寅さん”と同じく葛飾生まれだったのだ。
アメリカのマテル社の共同創業者一人であるポーランド系ユダヤ人のルース・ハンドラーが家族で、ヨーロッパを旅行中スイスを訪れた際目に留まったセクシードール、「リリ」を娘のバーバラへのお土産に買ったことがバービー人形の”起こり”である。
ルース・ハンドラーは「リリ」に注目し構想を固めると、社員を人件費が安くって町工場がたくさんある東京に派遣し、製造に向けて(株)国際貿易と交渉を行った。
国際貿易との契約は成立したが、マテル社の広範に渡る厳しい要求から、国際貿易は複数の製造メーカーとの協力を決め製作を始めた。
この国際貿易という会社は、1918年創業で 東京都葛飾区四つ木にあり、現在もダイキャスト、プラスチック製モデルカー・モデルエアプレーンの輸入販売・製造を行っている。
しかし1950・60年代の日本の人件費が安かった時代が終わり、日本においてはリカちゃんに押され、販売不振から撤退を余儀なくされてしまった。
1970年代以降は東南アジアのインドネシア、1980年末期から中国での生産へとシフトしている。
1959年のマテル社が販売デビュー以来、今に至るまで表情から体型まで少しずつ進化を遂げ、累計10億セット以上を売り上げてきた。
このバービー人形が与える社会的影響を軽くみてはならない。
というのも、絶えず「子どもにどんな影響を与えるか」が議論されてきたからだ。
例えば、長い足、細いウエスト、大きな胸を強調する姿は、フェミニストや母親たちから批判を浴び、バービーで遊んだ女児は、スリムな容姿への憧れが肥大化して、自らの体型を卑下するようになる。
極端な場合バービー人間は「醜形恐怖症」の原因という研究結果も出たこともあるという。
バービー人形は、根強い人気を保ってきたが、基本的に「ありえない体型」であることに変わりはない。
もっとも最近注目の「遺伝子(ゲノム)編集」で、バービー人形のような子供にデザインしてくださいといえば不可能ではないのかもしれない。
つまり「リアル・バービー」の出現である。
さて、世の批判に応えるかのように、数年前よりバービーのスタイルに変化の兆しが表れた。
足首を動かして、初めてハイヒールだけでなくペタンコ靴も履けるようになった。
そしてバービー製作会社のマテルは「痩せすぎ批判」に対応して、ついに新しく「長身」「小柄」「ふくよか」のバービーを登場させることを発表した。
マテルの社長は「バービーは女の子の周りの世界を反映している」と説明し、公式サイトに掲載したビデオで、「自分の体形なんて気にしなくていい、と女の子たちに伝えたい」と語っている。
そして、バービー人形は4種類の体形に加えて、肌の色は7種類、目の色は22種類、ヘアスタイルは24種類から選べるようになり、全部で33種類と一気に多様化した。
この辺が「白人至上主義」からリベラリズムへの政治の転換が背景にあるのではなかろうか。
さてバービー人形の多様化に加え、もうひとつの「大変革」が、インターネットとの通信により、「会話」ができるバービー人形、商品名「ハロー・バービー」が登場したことである。
人間が語った言葉を記憶する、つまり学習能力をもつが、顔は優しくかわいらしいのに、いつも罵詈雑言を吐くような「不肖の人形」に育つかもしれないと心配するが、下品な言葉や不適切な言葉」はブロックするという。

その昔、スーパーマーケットやコンビニが普及する前は、人々は竹を編んだ買い物かごを持って、商店を回るスタイルであった。
ではいつごろから現在のようなビニール袋を利用するようになったのだろうか。
実は、コンビニやスーパーで我々に渡されるレジ袋は、ビニール袋ではなく”ポリエステル袋”と呼ぶのが正しい。
そして、このポリエステル袋の製作のきっかけが意外で面白い。それは、女性のストッキングを守るために出来たものだった。
バービー人形を髣髴とさせるイギリスのモデル「ツイッギー」がミニスカートで来日した1960年代、日本でミニスカートブームが起きた。
実は、レジ袋の原型は多摩川の”ナシ園”で生まれた。多摩川の周辺は「多摩川梨」のブランドで知られるナシの産地。
ナシ狩りといえど女性はミニスカートにストッキングだったが、竹かごでストッキングが"伝線"したという女性からのクレームが多発した。
ちなみに"伝線"とは、ほころびが縦の織り目にそって広がることをいう。
竹かごは当時値段が高いストッキングの敵。そこで竹かごに代わるものを製造する必要が生じた。
広島県大竹市の袋メーカーの「中川製袋化工」が、ストッキングを傷付ける心配のないツルツル素材の「ポリエチレン」の袋に目をつけた。
そして、その袋は伝線する心配がないとたちまちに評判になった。
そして、梨を入れやすく、持ち運びが便利なカタチを追求したところ、現在のレジ袋の形にたどりついたのである。
はじめ、スーパーのレジでは持ち手のない紙袋が使われていたが、ナシ袋は強くて、水ぬれOK、かさばらないといいことずくめ。
ナシ袋を「レジ袋」として販売することになったのである。
ただ近年、レジ袋を代表とする"プラごみ"が大きな問題として浮上してきたのは、これほどまでの有用性と汎用性という特質とは裏腹に、自然に還ることができないということ。
つまり、どんなに細かく砕かれていっても、肉眼では見えなくなったとしても、環境中に残り続けるのである。
焼却という手もあるが、プラスチックスの焼却は、適切な技術と条件が整っていなければ極めて危険である。
見境なく過剰に生産・消費され、不十分な廃棄物管理によって捨てられているプラスチックは、もはや21世紀最大の環境問題といってよい。

”ポリ袋”の汎用性は、裏と表であり、時に奇跡の物語を引き起こす。
アフガニスタンの南東部に位置するジャゴリ地区は、紛争地帯。 この村に住むムルタザは5歳のサッカー大好き少年。しかし、持っているのは空気の抜けたボロボロのボール1つだけ。
村には電気も通っておらず、車のバッテリーに取り付けたソーラーパネルを利用して蓄電し、かろうじて短時間テレビが見られた。
恵まれない環境の中で、サッカーの試合を見るのがムルタザの一番の楽しみだった。
そしてムルサダは、アルゼンチン代表でスペインの名門FCバルセロナに所属する、大スター、リオネル・メッシが大好きだった。
ムルタザはアルゼンチン代表の、”ストライプのユニフォーム”に憧れていた。しかし、経済的な理由で、ユニフォームを買ってやることなど不可能だった。
さらに、国の情勢は緊迫しており、 首都カブールのサッカー場は、一時期 処刑場になったほどで、 自由にサッカーを楽しむことなど、夢のまた夢。
そんなある日、兄はメッシに憧れる弟のために、"ストライプのポリ袋"をベストの形にしてアルゼンチン代表のユニフォームを作ってあげた。
そして、喜ぶ弟の姿を、離れて暮らす親戚に見てもらおうと、SNSに親族だけが見られるかたちで限定公開した。
ところが、”後ろ姿”のその写真だけが、どこからか流出。 ネット上で1人歩きを始めてしまったのである。
ポリ袋のユニフォームをまとった少年の写真は、「世界一のメッシファン」と名付けられ、世界中に拡散された。
あの少年はどこの誰なのか?様々な情報が錯綜し、 イギリス公共放送BBCまでもが記事にした。
一方、アフガニスタンに住む2人の兄弟は、自分たちの写真が拡散され、世界で話題になっていることなど知るよしもない。
ゆえに彼らが名乗り出る事もなく、その正体が明らかになる事もなかった。
ところが、2016年1月26日。オーストラリアに移住した、ムルタザの叔父がそのことに気が付いた。
彼は「世界一のメッシファン」は自分の甥であるとSNSに投稿した。
すると、すぐさまBBCから問いわせがあり、BCが少年について報じると、世界中のマスコミがこぞって取り上げるようになった。
そして「メッシと会いたい」というムルタザに、アルゼンチン代表のユニフォームが届けられた。 送り主は、なんとメッシ本人からだった。
実は、中東でメッシに憧れる小さなファンのニュースは、いつしかメッシ本人も知るところとなっていた。
苦しい環境の中、サッカーを愛し、自分に憧れてくれる少年がいる。
せめてその小さな願いを叶えてあげたいと メッシは、アフガニスタンサッカー協会とユニセフに協力を要請、ユニフォームを贈ったのだった。
ユニフォームには直筆のサインがあった。 また手紙には「僕も君に会いたい。これを着て練習に励んでほしい。いつか必ず君に会いに行くよ」という、メッセージが書かれていた。
実は、メッシは自身もアルゼンチンの貧しい家庭に生まれた。 サッカー選手を目指していたが、十歳の時、成長が阻害されるホルモン分泌障害のため低身長であった。
それでも、その才能を認めたFCバルセロナが、治療費を負担し、一家でスペインへ移住、トップ選手へと成長したのである。
実は、今なお途上にある「メッシ伝説」は一枚のペーパー・ナプキンに書かれた「契約書」からはじまっている。
メッシが13歳くらいの頃、バルセロナの入団テストを受けたが、入団担当者はそのあまりの天才ぶりにすぐにもメッシ選手と契約すると言った。
しかし、契約書が無いので、ともかく近くにあったペーパー・ナプキンで「代用」したというものである。
そこには、「いかなる障害があろうとも、メッシと契約する」と書かれていた。
この障害は、ホルモン分泌障害をさしたものだった。
この「ペーパー・ナプキン」の法的な形式を満たしているとは思えないが、この才能を絶対に逃したくないという思いの一心がこの「ペーパー・ナプキン」に凝縮されている。
一方、ムルタザの家族が突然世界から注目されたことは、一家をさらなる困難に突き落すことになる。
治安が悪化する中、人々の心はすさみ、メッシのユニフォームや現金を要求する脅迫が殺到、このままではムルタザの誘拐すら起こりかねない。
命の危険を感じた一家は、慣れ親しんだアフガニスタンの小さな村から姿を消した。
一家が故郷を去ってから8カ月後、カタールの首都・ドーハでは驚きの景色が現れた。
メッシの所属するFCバルセロナは、この地でサウジアラビアのサッカーチームと、親善試合を行うことになった。
世界トップクスの強豪クラブがシーズン中、わざわざ中東まできて試合を行うのは極めて珍しいことだった。
試合開始直前、両チームの入場で、先頭はメッシだったが、よく見ると彼だけが通常1名であるはずのエスコートキッズを2名伴っている。
メッシの右手を握っていた少年こそは、あのムルタザだった。
試合前のセレモニーでムルタザはメッシのそばにくっついて離れない。試合後行われた、懇親会。 ここでもムルタザはメッシと離れようとせず、思い出深いひとときを過ごした。
さかのぼっていうと、ムルタザの窮状を知ったメッシは、すぐにでも少年に会って励ましたいと、行動を開始する。
メッシは所属クラブを通してサッカー協会やユニセフと連携し、行方不明の一家が、パキスタンのとある村に避難していることを突き止める。
そして、親善試合の実現に向け日程を調整、当時、比較的治安がよく、パキスタンからも近いカタールでの開催にこぎつけたのだ。
こうしてメッシは「いつか必ず会いに行く」というムルタザとの約束をついに果たしたのである。
そもそもの発端は、兄が弟のために作った"ポリ袋"のユニホーム。
現在、ムルタザはメッシからもらったもうひとつのユニフォームを着て練習に励んでいる。
”アフガニスタン代表”を夢見て。