聖書の人物から(ラハブ)

我が幼き日に「ジェリコ」というドイツに侵入する連合軍の特殊技能者の部隊を描いたTVドラマがあったが、そのスリリングさは今でも忘れがたい。
この「ジェリコ」が聖書に登場する難攻不落の要塞の地「エリコ」であることを知ったのは、かなり後になってのことであった。
さて、出エジプトを実現したモーセがなくなり、その後継者ヨシュアによってめざすカナーンの地に入ろうとしたときに、ヨシュアはその状況をさぐろうと二人の斥候(せっこう/スパイ)を送ってエリコの町の様子を探らせた。
二人の斥候はエリコの町に忍び込み、様子を探っているとき、彼らはラハブという遊女の家に入り、ラハブは彼らを匿った。
ここで「遊女」とは微妙な表現だが、聖書で「遊女」というのは、神殿娼婦をさす。
神殿娼婦は病気を治癒する者として崇められ、魔術師、預言者、占い師でもあったが、聖書の観点からすると、偶像崇拝と関わる好ましくない存在である。
さて、イスラエルの斥候が来たことがエリコの王に知られ、探索が始まる。
ラハブは二人を家の屋上の"亜麻の束"の中に隠して、「二人の人が確かに来たが、夕方になって出て行った」と応じる。
探索隊が帰った後、彼女は二人を城壁の窓から綱でつり降ろして脱出させた。
スリルに満ちたドラマチックな場面だが、エリコの住人であるラハブは何故彼らをかくまったのか。
聖書はラハブの思いを次のように伝えている。
「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いた時、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたち神、主こそ上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。
これはカナーン人でありながら、イスラエルを導いた神を畏れた信仰表明といってよい。
ラハブは神を畏れるばかりではなく、神のわざにより頼む信仰をもっていた。
ラハブはイスラエルの斥候二人に次のように願った。
「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示すと、今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。
つまりラハブは、このエリコは早晩イスラエルの民によって攻め滅ぼされる、その時に、自分と自分の一族を救ってほしいと願ったのである。
このラハブの願いに対して二人の斥候はひとつの約束をする。
それは、イスラエルがエリコに攻め込む時、ラハブの家に一族を皆集め、その窓に彼らが与える”真っ赤なヒモ”を結びつけて目印とするなら、その家の中にいる者は皆助けると約束したのである。
そして二人の斥候はエリコの町を去った。
ラハブは二人が去るとすぐに、彼らから与えられた”真っ赤なヒモ”を窓に結び付けた。
そしてヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」とラハブの願いに応えるように命じた。
そして斥候二人は、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させたのである。
イスラエルの軍勢は主の言葉に従って、「契約の箱」を担ぎ、角笛を吹き鳴らしながらその回りを1周した。
そのことを6日間続け、7日目には町の回りを7周し、そして一斉に鬨の声を上げると、難攻不落といわれたエリコの城壁は崩れ、イスラエルは一機にエリコに攻め込み、その町を滅ぼし、カナーンの地への第一歩をしるした。
ところで、エリコの陥落の際に、ラハブの家の目印となった赤いヒモは、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に、災いが過ぎ越すように、戸口に塗られた「小羊の血」を思い起こさせる。
遊女ラハブとその一族は、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住むこととなった。
そのヨシュアの決断でイスラエルの中に棲むことを許された遊女ラハブの子孫から、イスラエルの歴史もしくは世界史的に見ても、誰もが想像ができないような展開を生むこととなる。

今のパレスチナ人であるラハブがイスラエルの勇士を匿った話から、我が地元・福岡で「尊王の志士」に隠れ家を提供した一人の女性が思いうかんだ。
江戸時代末期、諸藩は幕府方(公武合体派)につくか朝廷方(尊王攘夷派)につくかで揺れていた。
いち時、朝廷内部では尊王攘夷で藩論を固めた長州藩と結びついた公家が優勢をしめたが、1863年8月の公武合体派のクーデターで尊攘派公家7人が追放となり7人は一旦は長州に逃れた。
1864年京都での勢力回復をめざす長州藩と朝廷を守る公武合体派の薩摩藩・会津藩との間で京都御所周辺で戦闘がおこった。
長州藩はこの戦いに敗れ、その後幕府方15万の大軍によって長州藩が包囲されることになった。
この時、長州藩に謝罪恭順を求めて内戦の回避をめざす周旋活動が、他藩にさきがけて福岡藩において単独でなされたのである。
そして幕府方の解兵の条件として五卿(七卿のうち1人脱出1人病死)の長州藩からの移転が命じられたのである。
つまり、五卿を九州の五藩が一人ずつ預かることになり、一旦五卿は福岡の大宰府に移されたのである。
福岡の大宰府天満宮境内には三条実美ら五卿が滞在した「延寿王院」があり、近くの二日市温泉周辺には五卿滞在を記念して、五卿それぞれの歌碑がたっている。
しかし幕府にとって、五卿を預かる福岡藩・勤皇派の動きは気になるところであった。
そこで福岡藩は幕府への気兼ねから1865年6月、勤皇派の一掃を決意した。
特に福岡藩中老で勤皇派のシンボル的存在・加藤司書は自宅謹慎後、12月に切腹の命令が出されている。
またその自宅(平尾山荘)が勤皇派のいわばアジトと化していた野村望東尼(のむらもうとうに)に対しては自宅謹慎が決定した。
ところで、福岡市の西の糸島半島が突き出た玄界灘に浮かぶ姫島は、黒田藩の獄門島で、「玉姫伝説」からその名前がついたという。
「獄門」という言葉の響きとは裏腹に、とてものどかな風情の島である。
野村望東尼はこの平尾山荘で平野国臣ら勤皇派との交流をもつが、その手紙の内容には多くの和歌が詠まれており、「勤皇の歌人」とよばれている。
そして野村望東尼はその年の11月、玄界灘に浮かぶ糸島半島沖の姫島の座敷牢に幽閉されたのである。
この座敷牢の近隣の人々が監視人の目をかいくぐって望東尼に食事を届けたりした。その代わりに望東尼は詠んだ歌を短冊に書いて島の人々に渡した。
そのため、姫島にはそうした短冊をいまだに持っている家や、尼が使ったあんかを家宝のように保管している家もある。
福岡藩の勤皇の志士・籐四郎は、姫島流刑中の野村望東尼の救出を決意し、病床にあった高杉晋作と相談したところ、高杉は即座に同意し6人の救出隊を編成した。
かつて高杉晋作は、長州藩の保守派優勢のため失意にあった頃、野村望東尼の平尾山荘に匿まわれた時期があった。
つまり、このラハブ救出ならぬ「望東尼救出作戦」は、高杉晋作の恩返しの意味も含んだものであった。
救出隊は1866年9月姫島に潜入し無事、尼を救出した。
そして望東尼救出の船は下関に着き、尼は倒幕派のスポンサーであった白石一郎宅に落ち着いた。
しかしこの頃、高杉晋作の病の床にあり病状は思わぬ早さで進行していた。晋作危篤の知らせに望東尼にも馳せ参じたが、高杉は死をむかえんとしていた。
その時高杉は有名な辞世の句「おもしろき こともなき世をおもしろく」と詠み、それに応えて望東尼は「すみなすものは こころなりけり」と詠み、高杉の最後を看取ったのである。
この時の望東尼の思いはいかなるものであったろう。
野村望東尼は1828年 福岡地行(じぎょう)の足軽の家に生まれた。母の死、長男の病苦による自殺、次男の病死、夫の死と相次ぐ不幸の後に、「望東禅尼」と号した。
そうした彼女の人生を見る時、望東尼は晋作に「もうひとりの息子」を得、それを見送った感慨があったのかもしれない。

日本の戦国時代、大勢力につくか、弱小ながら我が主君に忠誠を尽くすか、その狭間で揺れるのは大名とその妻たちの”常(つね)”だったようである。
その中で、特に異彩を放つのが細川ガラシャで、旧約聖書のラハブと幾分似ている。
その”異彩”は、自らの信仰を貫いた点、その子孫が一国のリーダーとなった点である。
細川ガラシアは、明智光秀の娘で、15歳の時、同じ年の細川忠興に嫁いだ。
主君、織田信長の媒酌で、この時二人の未来に暗い影は微塵も見られなかった。
才長け、情けあり、信仰心強い婦人であったと伝わり、二人はたいへんに仲の良い夫婦であったという。
父親の明智光秀は、築城や砲術、軍学の第一人者でまた教養人で、一時は信長配下ナンバーワンで、丹波ばかりでなく丹後平定にも力を貸している。
一般には「逆臣」とか「三日天下」とも批判されるが、地元・福知山ではたいへんな名君と人気は今も高く、その遺徳を顕彰する「光秀祭」が盛大に行われている。
しかしながら、光秀が織田信長を本能寺で滅ぼした後、大勢としては光秀は天下を維持し続けられそうにもないと判断されていたようで、丹波・丹後を協力して平定してきた第一の親友であるはずの細川氏さえ味方になってはくれなかった。
戦国の世では、弱者に味方になるものはおらず、ガラシャは、もし光秀が天下を維持できれば天下人の娘であるものの、負ければ「逆臣の娘」であるため、その立場が微妙になってくる。
状況がどちらに転ぶか。早まってうっかり自刃でもさせれば一大事。一歩判断を誤れば、ガラシアの実家・細川家の存亡にかかわる難しい判断を細川父子は迫られることとなる。
細川藤孝は、剃髪して「幽斎」と名乗り隠居し、息子の忠興は豊臣方についた。
本能寺の変の直後、夫忠興によって、ガラシャは2歳の子を残したまま、ごくわずかの警護の者を伴って、明智領の丹波の屋敷に送り返される。
明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後・味土野(みどの)に屋敷を作ってガラシアを幽閉した。
しかし、この地こそガラシャの生涯を変え、特に精神的に、宗教的に飛躍的に向上させた。
この頃までは、信長も秀吉も切支丹を保護しており、武将の中にも高山右近や内藤如安のように切支丹大名がいた。
ガラシアが味土野隠棲に従った侍女の中に「清原いと」という熱心な切支丹信徒(マリアの洗礼名をもつ)もいた。
細川家の親戚筋にあたり、清原家は高位の公家で、いとはガラシャとは一つ年下で、実の姉妹といってもいいほどよく似た佳人であったという。
そして、彼女と過ごした2年間こそは、ガラシャをガラシャたらしめたともいえる。
ルイス・フロイスは故国への報告書にガラシアについて、次のように書き残している。
「夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された」。
秀吉は大坂城の建設にとりかかり、細川忠興はその脇の玉造に新邸を作って、秀吉の許しの下、夫・細川忠興は、別れて暮らす妻ガラシャを呼び寄せ、ガラシアは玉造に移った。
ところが、秀吉は突如「切支丹禁令」を出し、教会には近づけなくなったものの、ガラシャは清原いとに洗礼をうけた。
秀吉なきあとの豊臣政権の実権はほぼ家康が握り、1600年、家康は会津にいた上杉景勝を討つという。
家康一群が会津に出陣、すぐに石田三成が家康討伐の兵を挙げる。
いわば、「関ヶ原の戦い」の前哨戦になっていく。
ガラシアの夫・忠興は徳川家康につき従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに言い残していた。
実際、西軍の石田三成は玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。
その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、その遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」とある。

新約聖書の「マタイによる福音書」の冒頭は、アブラハムからダビデ王さらにイエスキリストの系図に、ラハブの名がある。
「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」とある。
「○○によって」と言われているのは皆女性である。
ラハブの信仰、つまりイスラエルの神を畏れ、イスラエルの斥候に自分一族の祝福を願った信仰が、ラハブの思いをはるかに超えて応えられたことがわかる。
ラハブの夫となったサルモンがどのような人物か不明だが、「ルツ記」によればラハブによってボアズはすでにベツレヘムの有力者となっているので、父サルモンがイスラエルの上流階級に属していること、そしてラハブの過去を問わずに嫁にしたことが推測できる。
そしてボアズは、父サルモンが異邦人カナーンの遊女ラハブと結婚したのと同様に、異邦人(モアブ)の貧しい娘ルツと結婚している。
新約聖書「ヘブル人への手紙」は、いわゆる信仰者列伝というべき個所があるが、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと並んで、遊女ラハブの名が挙げられている。
「ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」(11章31)。
神が認めたラハブの信仰とは、自分たちが陥っている滅亡の危機を”逃れようのないもの”として認識し、攻め込んでくるイスラエルの神を真の神として畏れ、それに依り頼むことを選択した点にある。
こうしてカナーン人である遊女ラハブはダビデ王の4代前の先祖となったばかりか、ダビデの系図から救世主・イエス・キリストが誕生するのである。
なお細川ガラシャと忠興との間には3男2女があっが、跡を継いだ忠利は三男で、加藤清正のあとをつぎ、熊本藩54万石細川家初代藩主となった。
元首相の細川護煕(ほそかわもりひろ)氏は忠興・ガラシャ から数えて17代目当主にあたる。