国境破り

フランス革命の勃発を告げるバスチーユ襲撃事件以降、国民の王室に対する不満はますます高まっていた。
それは王室内部においても同様で、ルイ16世は今まで住んでいたヴェルサイユ宮殿を追われ、ティイルリー宮に引っ込む羽目になった。
すでに一部の貴族たちは革命を恐れ国外逃亡しており、このままでは自分たちの命も危ういという思いを抱く。とはいえ、一国の王が国をすてて逃げるとなると大批判を浴びるのは必定である。
王は、このまま国に残るか、それとも逃げるべきか、思い悩む。
ところで、ルイ16世はマリー・アントワネット一人を妃にしていて、側室が一人もいなかった。
アントワネットを愛していたのに、アントワネットにはフェルゼンという愛人がいた。
そのフェルゼンが、国王に逃亡を勧め、亡命計画を仕立てた。
そして国王一家は、ファルゼンの亡命計画をもとに、国外逃亡を決意。逃亡先は、アントワネットの故郷オーストリアである。
国境まで無事にたどりつけば、アントワネットの兄レオポルド二世が守ってくれると、そんな思いもあったのかもしれない。
逃亡の予定日が1671年6月20日の夜。ルイ16世とアントワネットは馬車に乗り込み、ティイルリー宮を脱出した。
以前から、国王が国外逃亡を企てているのではないかという噂があったので、宮殿のまわりは警備の兵がつめていたが、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入り口だけは警備兵がいなかった。
国王一家はこの出入り口を使って宮殿を抜け出し、馬車に乗って国境の町メッツに向かった。
馬車に乗るのは王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。八頭立ての馬車だったけれど、アントワネットの強い要望で、質素な馬車から豪華な馬車に乗り換えた。
そんな豪華な馬車に乗れば、人目につくし、ましてや逃げるとなると不都合である。
ワインや衣装などにたくさんの荷物を詰め込んだ。重たくなった馬車は当然スピードが落ちる。
無事にパリから出たのはよいのだが、そのために予定の時間よりどんどん遅れていく。
途中で古くからの知り合いの屋敷によったりしながらメッツに向かっている。
沿道のところどころには軍資金輸送の警備という名目で、亡命を助けるための兵士が警戒にあたっていた。
ところが、途中から予定の時間よりかなり遅れたため、警備の兵が引き揚げてしまったり、連絡がうまくつかなくなってくる。
そして、ある村にやってきたときに、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声をかけた。それを、目撃した村人がいた。
王が、こんな所にいるなんておかしい。国外へ逃げようとしているのではないかというので、知らせを聞いた革命派の軍人が王を追う。
王の馬車がヴェレンヌという町に来た。この町で味方が替え馬をつれて待っている段取りになっていた。
ところが王の到着が遅くて、もう夜になっている。味方の部隊が見つからない。
一行は町に入って、間抜けにも住民をたたき起こして馬の場所をたずねた。
おかしな連中が町に入ってきたということで、町じゅうが起きだして王の一行を取り囲んだ。
追ってきた革命派の軍人も追いついてきた。
はじめは、王は自分の身分を隠していたが、ついに国王だと認めることになり、翌日国王一家はパリに連れ戻された。
王に対する国民の信頼はこの「ヴァレンヌ逃亡事件」でいっぺんに吹き飛んでしまった。国を捨てて逃げようというのだから、王に値しない。
もし、ルイ16世が逃げなければ、王制は廃止されても少なくとも惨殺は免れたかもしれない。
実は議会でも「国王を殺すべきではない」という意見のほうがまだ強かったからだ。すくなくとも「ヴァレンヌ逃亡事件」までは。

日本にも、馬橇(ソリ)でソ連国境に近づいて国境を破った男女がいる。ただ、その逃避行はヴァレンヌ逃亡ほどに悠長なものではなかった。
1904年日露戦争が勃発、勝利した日本は1905年から45年まで、サハリン(樺太)の北緯50度以南の南樺太を日本の領土として国境線を設けた。
当時は非武装地域であったため、国境警備を担ったのは「警察守備隊」であった。
1938年1月3日午後、女優岡田嘉子と演出家杉本良吉の二人は、国境警備の警察官を慰問する目的で、警察署のあるハンダスに到着した。
周辺一帯は雪原だったが、「国境地帯を見たい」という岡田のために、わざわざ警察署長が馬そりを仕立ててくれた。
国境はハンダスら約6キロで、警察につき添われて2人は雪の中を進んだ。そして国境付近で視察のふりをしつつソ連側の国境警備隊員にちょっとした贈り物をして、そのまま歩いて国境を越えた。
その日、ソビエトの国境警備員は脱送者を親切に扱った。彼らはストーブで暖まり、コーヒーを提供してもらった。
ところで、この男女はなにゆえに国境を破ってソビエトに入るなどの危険を冒したのか。
1936年、日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、彼らが出演したり、演出した映画や舞台にも表現活動の統制が行われれていたためである。
、 岡田嘉子は、昭和の初期から中期にかけ活躍した映画・舞台の大女優である。
1902年広島に生まれ、父は新聞記者で各地を転々とする。父が芸術座の島村抱月らと知り合いだったことから芸術座に入団、頭角を現し舞台女優・映画女優として華々しい活躍をする。
しかし、日本の映画界に飽きたらず次第に当時流行のソ連のスタニスラフスキーの演劇理論に憧れて本場のソ連に渡りたいという気持ちを抱いていた。
一方、杉本良平は東京生まれ。1924年4月 北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退、翌年4月 早稲田大学文学部露文科に入学するも同じく中退。
というわけで「北の大地」には馴染みがあった。
1927年から前衛座などの「プロレタリア演劇」の演出に当たる。
同年、知り合いのロシア人の家でダンスホ縁ールに勤める女性と知り合い結婚するが、彼女は病身で1936年11月に亡くなっている。
その一方、同年、杉本は演出した舞台の女優・岡田と魅かれあう仲となる。
1937年、日中戦争開戦。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られる可能性が大であった。
杉本は妻を置いて、1937年暮れの12月27日、岡田嘉子と上野駅を出発。北海道を経て、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。
岡田、杉本のソ連への「逃避行」は、連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。
さて、女優の岡田嘉子がソ連に共に逃れたのは杉本であったが、1972年ロシアから帰国した際に持ち帰ったのは、同じ演劇人の滝新太郎の遺骨であった。
滝は1925年新派の子役としてデビュー。
松竹蒲田に所属し、松竹トーキー第2作の「若き日の感激」で人気を得る。
「忠臣蔵 後篇 江戸の巻」大石主税役にて出演をした際、おるい役の岡田嘉子と共演したことがある。
戦争悪化のため、兵役に服しソ連に派遣されるも、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。
釈放後、ソ連側からの説得に応じ、社会主義の理想を信じてソ連に残ることを決める。
1946年12月3日、ハバロフスクに開設されたモスクワ放送の支局の日本人職員となる。
モスクワ放送の日本語課に勤務し、そこで岡田嘉子と再会し共にモスクワからの日本向け放送を行った。
放送の中では、国の威信をかけた重大問題だけではなく、ソ連各国の文化や伝統を紹介し、日本の人々に親しんでもらう制作を行っていた。
そして1950年に岡田嘉子と結婚、その後も、モスクワ放送局にて活動するが、1971年肝硬変で死去。つまり日本の国土を踏むことはなかった。
岡田は滝の遺骨を持って34年ぶりに日本の土を踏むこととなり、羽田空港には報道陣が詰めかけた。
遺骨は岡田家の多磨霊園へ納められたが、その墓石には「悔いなき命をひとすじに」と刻まれている。
ところで、岡田嘉子と共にソ連国境を破った杉本良吉の方はどうなったのか。
不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で岡田は杉本と離された。
時は大粛清の只中であり、杉本と岡田はスパイとして捕らえられ、GPU(後のKGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事はなかった。
日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せた。
杉本は拷問の末に「メイエルホリドがスパイだ」とするニセ証言を強いられた末に”銃殺”された。
杉本は世界的演出家のメイエルホリドに師事したいと夢を描いていたようだが、結局、彼らの亡命は政権に反抗的なメイエルホリド粛清の口実の一つにされたのである。
そして岡田も脅迫により「スパイである」という嘘の自白を強要っせられてしまった。
それでも彼女は、各地の収容所生活を経て名誉回復がなされモスクワで暮らすが、収容所時代の生活については多くを語らなかった。
岡田はソ連を訪問した日本人議員によりその生存が確認され、東京都知事の美濃部亮吉ら国をあげての働きかけで、1972年亡くなった夫・滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに日本に帰国した。
気丈な彼女もさすがに涙々の帰国記者会見となった。
それから14年間は日本で暮らし、日本の芸能界にも復帰。映画や数本のテレビドラマにも出演したが、日本よりもソ連の方が落ち着いた生活ができると1986年ソ連に戻り、1992年2月89歳でモスクワで亡くなった。

1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破って満州侵攻、そして樺太を実効支配している。
岡田と杉本の逃避行から約20年をへた1960年代後半頃、北の大地が再び「国境破り」の舞台となる。
しかし、それは日本人ではなく、アメリカ軍の脱走兵たちによるものであった。
米軍による北ベトナムへの爆撃(北爆)が始まった1965年、作家の小田実(まこと)や哲学者の鶴見俊輔らが「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を立ち上げた。
泥沼化するベトナム戦争に、日本の市民達による地下組織「ジャテック」が日本国内の米軍基地などから脱走してきた米兵を国外に逃す支援に乗り出した。
「人を殺したくないし、殺されたくない」と、ベトナム戦争への派兵を拒否した米兵たちが、米軍の兵站(へいたん)基地となっていた日本で、助けを求めたのが、無党派の市民や学生らがイデオロギー抜きで参加した「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)であった。
小田実は「一人の人間が自分の独立と自由を護るためにたたかおうとしているとき、支援と連帯の手をさしのべるのは全く自然なこと」と語った。
1968年4月、脱走米兵6人は根室港から漁船で国後島に渡り、ソ連本国を経て中立国スウェーデンに亡命した。
米兵はパスポートもビザもないため、ソ連のKGB管轄下に置かれた。
いくつかの亡命ルートがあったが、釧路市から国道44号を東に約90キロの場所に脱走米兵たちが一時身を隠した根室市の「厚床(あっとこ)」地区がある。
ちなみに、厚床はアイヌ語の「アッ・トク・ト・ペッ」(ニレの木の生える沼川)が語源で、緑の大平原が広がる酪農地帯である。
当時このあたりに「レポ船」に乗船する人々がいた。「レポ船」とは「レポート船」のことで、ソ連国境警備隊に、日本の公安・防衛情報や金品を提供する見返りに、カニなど高額の水産資源を取ることを暗黙裏に認められた日本の漁船である。
「レポ船」に乗った人々は「スパイ」「国賊」など色々と批判されたが、元々は地元漁民の海、魚をとって何が悪いという思いがあった。
実際、レポ船から水揚げされた海産物が地域経済を潤していたのは間違いなかったからだ。
とはいえ、この街で「レポ船」という言葉は禁句であった。
しかし、その名が日本中の耳目を集めた時があった。
1968年4月、根室港から「レポ船」に乗った6人の米兵が国後島に向かい、ソ連本国を経て中立国スウェーデンに亡命した事件である。
当時、ソ連側も「脱走米兵」の存在は「反米宣伝」の格好の材料だったため、彼らを歓迎したのである。
ところが、協力的だったソ連大使館も、「ジャティック」の活動が日本で知られるにつて、日本の「領海外」での受け渡しにこだわった。
浮上したのが、ソ連が実効支配する北方領土に近い根室だった。
ある社会党議員を通じ、かつてレポ船に乗っていたという根室市議が協力を依頼された。
市議は、地元で「オホーツクの帝王」と呼ばれていたレポ船主のA氏に声をかける。
米兵の引き渡し場所は、国後島の南端「ケラムイ岬」付近と決まった。海上で落ち合う際の合図も入念にツメた。
ソ連大使館を通じ、北方領土の警備を担当した情報機関KGB(国家保安委員会)とも連絡をとっていた。
1968年4月21日決行日を迎え、通訳とともに空路北海道入りした米兵5人は、出迎えの協力者と釧路空港で合流した。車2台に分乗し、国道44号を根室に向かった。
「ジャテック」のメンバーと一緒に根室駅まで来た別の米兵1人とも合流し、22日午後9時45分、6人の米兵は根室港から国後へ。
ソ連本土へは飛行機で移動し、5月4日にはモスクワのテレビに出演して、ベトナム戦争に反対して脱走した経緯などを訴えた。
さて逃走を支援した「ジャテック」のメンバーは普通の市民、映画を見て「尾行のまき方」も勉強したり、「留学生グループの北海道旅行」を装い、寝台列車に乗って道内を移動したこともあった。
「ジャテック」は、協力者を求め、欧州に渡り、さまざまな組織と交渉し、偽造した旅券を手に入れた。
しかしこうした運動も、米軍側が「アメリカの脱走兵」を装ってスパイとして潜入していたら、あっさりと崩れる。
それが、現実に起きたのが、1968年の「弟子屈(てしかが)事件」であった。
メンバーが11月5日、脱走兵2人ラッシュ・ジョンソンとジェラルド・メイヤーズを連れて羽田から釧路に着いた。
空港からレンタカーに乗り、午後7時前、摩周湖に近い弟子屈町に入った。
旅館に寄り、夕食を注文。だが「トイレに行く」と言ったきり、一緒にいたジョンソンが戻ってこない。捜すと靴がなかった。
「スパイだ!」。東京の「ジャテック」幹部に連絡。根室のレポ船主A氏に計画中止を伝えてもらい、メイヤーズ脱走兵を乗せて車で逃走した。
証拠となる資料はライターで焼いたり、ちぎって窓から捨てたりしたものの、すでに町の周囲は警察に固められていた。
しかし、尾行を振り切っても別の車両がついてきて、約70キロ離れた釧路市内で逮捕されたのは午後10時ごろ。メイヤーズ脱走兵は、12月4日にハワイに移送された。
警察庁の発表を受け、各紙は「脱走米兵 地下ルート判明」などと報じたが、ジョンソンには触れていなかった。事件から51年。米兵たちが渡った国後島をロシアは「自国の領土」と主張する。
いまも「国境の海」の厳しい現実は変わらない。