産地と仕事歌

最近、エシカル(倫理的)な投資ということがいわれるが、「環境にやさしい」に加え「人にやさしい」かどうかも、問われるようなった。
「人にやさしい」とは、作物なり製品が良好な労働環境の下で生み出されたかということ。
反対に奴隷的労働で作られるもの、つまり「エシカル」でない事業に対しては"投資"をしないという動きが起きている。
ただ産地の労働事情は一般にはわかりにくいが、歴史的にみると、プランテーションなど苛酷な現場であればあるほど"仕事歌"が生まれる傾向がある。
日本の民謡、「炭坑節」や「ソーラン節」なども、そういう一面をもっている。
さて、日本人が食べているものは外国産のものが多く、原産地の様子は全く見えない。
例えば、回転寿司のヒラメのエンガワと思って食べているものは、オホーツク海から北極海などに棲むオヒョウという巨大な深海魚である。
「ほっか弁当」のノリ弁に乗っかっている白身魚は、アフリカ・タンザニア産のナイルパーチである。
ナイルパーチは、スズキ目アカメ科に属する魚類で、現地(アフリカ)では商業上重要な食用魚で、多くがヨーロッパや日本に輸出されている。
ナイルパーチを商業用に育てることで、周囲の自然環境や社会環境がいかに悪化していったかを描いたドキュメンタリー「ダーウインの悪夢」は2004年に公開され、アカデミー賞にノミネートされた。
ところで、寿司ネタといえば「江戸前」つまり江戸湾でとれる魚が使われたが、いまや過ぎ去りし時代の話で、東京湾以上に日本人に関わりが深いのが北欧ノルウエーのフィヨルドである。
ノルウエーは人口が500万人程度、日本とほぼ同じ面積の国土は長い海岸線に恵まれ、水揚げされたシーフードの95%を輸出にまわし、輸出先は146カ国に広がる。
1986年、ノルウエーの日本への輸出戦略では、要はカペリン(カラフトシシャモ)だった。
しかし、時の漁業相らが日本を視察して方針が変わった。日本には生のサーモンを食べる文化がないことに気がついたのだ。
江戸前寿司にもない「生サーモン」の握り寿司を考案し、試食会を重ねた。
そして2012年にはノルウェーの首相自ら日本の回転寿司店で振る舞うなど、徹底したプロモーションで「ノルウェーといえばサーモン」のイメージを30年かけて築き上げたのである。
日本人が好んで食すズワイガニやタラバガニも実は近年、ノルウェー産の存在感が高まっている。
旧ソ連時代、オホーツク海のカニが北極圏のバレンツ海に放流されたのをきっかけに、急激に繁殖。
毎年、ノルウェーとロシアの間で漁獲量を取り決め、輸出に回している。
そんなノルウェー産の強みは何かといえば、山からの雪解け水が海に混ざって魚が育つ絶好の塩分濃度となること。さらに漁船ごとに漁獲量を定めて乱獲を防ぎ、量より質の高収益な漁業を確立したことである。

「バナナボート」の歌は、♪デ~~オゥ!♪で始まるが、一時期大リーグで旋風を起こした野茂英雄のテーマソングとして使われたこともある。
「バナナ・ボート」はもともとジャマイカの民謡メントで、バナナを積み出す港で荷役に従事していた人たちの仕事歌である。
♪もうじき日が昇る。オイラはつらい仕事を終えて家に帰りたいんだ。tally man(伝票をつける人)さん、バナナを数えてくれ~♪という内容の歌詞が繰り返される。
ジャマイカの産業は砂糖とバナナを中心とする一次産業であったが、イギリスによる植民地主義、したがって奴隷主義の影響を受けて階級色が社会に濃いものであった。
それゆえ「バナナボート」は、そういう過酷なバナナの荷積みを歌ったものだが、ラテン系の明るさとリズムで、それをうち払わんとしていようにも聞こえる。
バナナといえば我が地元・福岡県・門司の名物バナナの「たたき売り」が思い浮かぶ。
バナナが日本に輸入されたのは1903年頃で、当時、基隆(キールン)(台湾)の商人が神戸に持ち込んだのが始まり。
それが大量輸入されるようになったのは、1908年以降で、終戦の4、5年前までである。
その頃、台湾は日本の領土であったことと、門司港が産地台湾と最も地理的に近い関係もあって、大量荷揚げされ、市場が設けられたのであった。
とはいえ今や日本に輸入されるバナナの圧倒的ジェアは、格安のフィリピン・バナナである。
南米ジャマイカ産のバナナは日本では輸入されないが、「母の日」のカーネーションは意外なことに、南米のコロンビア産が圧倒的である。
日本で流通しているカーネーションの約半分が外国産で、輸入元の国をみると、もっとも多いのが南米のコロンビアで輸入全体の66.8%を占めている。
地球のほぼ裏側にあるような南米からやってくる花たちは、早く枯れたりしないのかという疑問がわくが、苗の段階で日をよく浴びた花は、基本的に大丈夫なのだという。
もともと、日本のカーネーション需要はひとつの枝にたくさんの花がついているスプレーと呼ばれるタイプが主流だった。
また、色も赤と白、ピンクの三色しか求められなかっため、国内の農家も、求められる三色のカーネーションばかりを栽培していた。
ところが、15年ほど前に海外から多様なカラーバリエーションを持つカーネーションがはいり、国内では花のタイプもスタンダードと呼ばれる"一輪もの"がおしゃれだと注目された。
時を同じくして、コロンビアが“花とコーヒーの国”をうたい文句に、それまでの内戦と組織犯罪の物騒なイメージからの脱却を図り、遠く日本へも花を売り込みにやってきたのである。
ちなみに、朝鮮でよく歌われ国民歌謡とまでいってよい「アリラン」は、キキョウを掘る娘を歌ったもので、「トラジ」(桔梗)とともに、仕事歌して生まれたものである。

最近新聞で、世界で最もきつい仕事と紹介されていたが羊の”毛刈り職人”である。
アスリート並みの体力が必要とされ、数の減少に歯止めがかからない。
一方、ウール人気は上昇中。そこで「毛刈りロボット」を開発する試みも始まっている。
大きなバリカンを手にした職人が一列に並び、豊かに生えそろった羊の毛を刈っている。
もう一方の手で頭を、両足で胴体を押さえる。
刈り終わった羊毛は毛布のように一枚につながっている。
1匹にかかる時間はわずか1~1分半で、1日8時間で300~400匹を刈るのだという。それは羊と向かい合って、あたかも「社交ダンス」を踊っているようにもみえる。
こちらが落ち着いてやると、羊も静かになる。
羊の動きにはいくつかのパターンがあり、個体ごとにその動きをつかんで刈り方を変えのだという。
職人は各地の牧場を渡り歩く。報酬は出来高制。最新レートは1匹で3・11豪ドル(約244円)だ。普通の職人なら150~200匹は刈るから、1日で4万円前後の稼ぎになる。
さて、ウールによく似たニット素材にカシミヤがあるが、どう違うのだろうか。
ウールは人にとって最も身近な家畜の羊から採れる素材である。
世界各地で飼育されている羊は、品質改良が重ねられ現在その品種は3000種ほど。コットンに次いで大量に生産、消費されている天然繊維である。
一方、カシミヤはインド北西部の”カシミール地方”の地名からきたものである。
国境に近いカシミール地方の高地の厳しい地形と気候の中で育てられた「カシミヤ山羊」から採れる素材がカシミアである。
カシミールといえば、インドとパキスタンの国境紛争(カシミール紛争)で核戦争(第三次印パ戦争)の危機さえまねいた土地である。
生産地が限られているだけでなく、収穫のさいは羊のようにバリカンで一気に刈るわけにはいかず、時間をかけて櫛ですいて繊維の細い産毛を集めなければならない。
手間暇かけて一頭から採れる量は150〜200グラムと少ない希少価値の高い天然繊維である。
ウールとカシミヤのセーターを見比べるとどちらもふんわりと柔らかくて暖かそうだが、着てみるとカシミヤの方が格段に暖かい。
同じ動物性天然繊維でも暖かさに差が出るのはどうしてなのか。
まず、暖かさを保つには「冷たい外気が肌に触れないこと」と「体温を外に逃がさないこと」が重要。
この二点をかなえるために大きな働きをしているのが、”空気”である。
動いた空気が肌に触れると寒く感じますが、逆に動かずにこもった空気は断熱効果が高まり、暖かさ感じさせる。
ウールとカシミヤの繊維を拡大して見ると、チリチリと縮れていて、縮れた繊維が複雑に絡み合っているため、空気が動かずにこもり、暖かさを保っている。
繊維が細いほど空気をたくさん抱き込むことができるので、暖かさも増す。
一般的なウールの繊維の太さは20ミクロン前後だが、カシミヤの繊維の太さは15ミクロン前後と細いので、ウールとカシミヤを比べるとカシミヤの方が、柔らかくて細い繊維が空気をたくさん蓄えてくれるというわけである。
ところでカシミアンショールのデザインとなったのものに、「ペイズリー」のデザインがある。
「ペイズリー」は、日本でいえば勾玉(まがたま)に似たデザインである。
さて、ヨーロッパで17世紀頃より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
バロックとよばれる真珠の形はまさしく「ペイズリー」の形なのだが、意外なことに「バロック」は西洋の固有文化ではなく、実はオリエンタルの影響なしには出現し得なかったという。
ヨーロッパでバロック様式が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、実はオリエンタルの影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きる。
また「ペイズリー」とは、前述のようにカシミール地方で織られたショールにつけられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミアンョールのコピー製品が作られるようになり、その代表的生産地がイギリス・スコットランドの町”ペイズリー”なのである。
卑弥呼が身に着けていた装身具の勾玉とペイズリーは、どこかで通じ合うものがあるのかもしれない。

日本では、「コーヒー・ルンバ」とししられた歌も仕事歌で、かつては西田佐知子、最近なら荻野目洋子が歌っている。
、♪昔 アラブの偉い御坊さんが 恋を忘れた哀れな男に/痺れるような香りイッパイの「琥珀色した飲み物」を教えてあげました/やがて心ウキウキ とっても不思議 のムード/忽ち男は 若い娘に恋をした♪という不思議ソングである。
オリジナルは、ベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニがコーヒーをモチーフに1958年に作詞・作曲した「Moliendo Cafe」(原意「コーヒーを挽きながら」)という曲で、昼間摘んだコーヒー豆を夜 挽く重労働を描いた仕事歌なのである。
♪夕方、日が傾くと、また暗闇がやって来る/ あるのはコーヒー農園の静けさだ/いつものように、またその歌が聞こえる/ それは(コーヒーの)古い挽き臼の悲しい恋の歌♪
ところで、コーヒー豆のブランド「モカ」の名前は、アラビア半島のイエメン共和国にある港町・モカに由来している。
紅海を挟んだイエメンの対岸にあるエチオピアは、コーヒーの木が初めて発見され、そして栽培されはじめた場所といわれている。
イエメンでもエチオピアに次いで古くからコーヒー栽培が行われていた。
このコーヒーを世界的に広めたのは、アラビア半島の商人、イエメンやエチオピアで採れたコーヒー豆を中東の主要な港町であったモカに運び入れ、ヨーロッパ諸国などに輸出していた。
もともとはここから輸出されたコーヒー豆のことを、港町の名前にちなんで”モカ”と呼んでいた。
つまりモカはコーヒーが世界中で親しまれるようになったきっかけの地であり、最も古いコーヒー豆ブランドだったのである。
モカではイエメン産のほかにもエチオピア産のコーヒー豆も一緒に輸出していたため、両国産のコーヒー豆を合わせて「モカ」と呼ばれている。
イエメン産の豆は小粒で楕円形をしているので「ショートベリー」、エチオピア産は細長い形をしているので「ロングベリー」と呼ばれることもある。
さて、日本では”茶摘(ちゃつみ)の歌”というものがある。♪夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る♪で始まる、日本人には馴染みの曲である。
歌詞の中に、♪日和つづきの今日此の頃を、心のどかに摘みつつ歌ふ/摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ摘まにや日本の茶にならぬ♪というような、切羽詰まったような歌詞がある。
その点、お茶摘みとニシン漁の違いはあるものの、北原ミレイの名曲「石狩挽歌」を思い出す。
さてインドは、中国に次ぐ世界第2位の茶葉生産国だ。特に「紅茶のシャンパン」とも称されるダージリンは、水色は薄いながらも格別な香味をもっているため、世界三大紅茶のひとつとして数えられている。
インドのダージリン地方は東ヒマラヤ山麓に位置し、茶樹は標高2000mの高地から急峻な谷底に至る斜面に植えられている。
日中の直射日光と夜間の低温による寒暖差で発生する霧が、独特の味と香りをつくり出す条件となっている。
しかしインドが独立して70年近くたった今も、茶園労働者たちは、イギリス統治時代と大して変わらない奴隷同然の待遇で働かされ続けている。
賃金があまりに低いだけではない。食料の配給、飲み水、医療施設、学校、電気を会社に頼っており、家も会社の所有なので、代々仕事を継いでいかなければ追い出されかねない。
それに、会社が破産して茶園が閉鎖されれば、賃金も水も食料も一夜で失う。
現地のNGOによれば、過去15年間で栄養不良により死亡した茶園労働者は2千人を超え、我々が飲む紅茶の陰では、人々が苛酷な生活を強いられている。
またインド南部の島スリランカは、「紅茶の王」セイロン紅茶の産地として有名である。
しかし、茶園の人手不足や異常気象に悩まされ、2000年代に入ってからアフリカのケニアに輸出首位の座を奪われた。
スリランカは近年まで長く内戦状態が続いたが、その火種がまかれたのは植民地時代にさかのぼる。
当時の宗主国イギリスは紅茶プランテーションの労働力として、南インドからタミル人(ヒンドー教徒)をスリランカに呼び寄せ、彼らを優遇していた。
その反動として独立後、1956年のシンハラ語公用語化を始めとするシンハラ人優遇政策がとられたことにより、民族間の対立が深まったことによる。
ちなみに、日本の売れ筋の「午後の紅茶」のミルクティは、かつてシンハラ王朝の都があったセイロン紅茶発祥の地、キャンディの茶葉を使用している。
また2019年4月、IS国を名乗る組織のテロで250人以上の死傷者がでて宗教対立が激化している。
我々の生活の日常品が、苛酷な環境や紛争の土地で生まれていることに、思いを寄せてみた。

ヒラメのエンガワは、回転寿司では鮪()・サーモンとベスト3を競う人気ネタ。でも実態は、ご存じのヒラメとは全く無縁の巨大な、最大2~3mもの深海魚のオヒョウのエンガワである。
エリザベス女王とスコットランドからやってきたメアリースチュアートの話である。エリザベスは国教会でメアリーがカトリック側という「宗教的バックの違い」があり、エリザベス1世は議会で「嫡子」と認めらたにもかかわらず、それでもなお王位継承の正当性を主張するメアリに対し、エリザベスは大きな敵対心を抱くようになる。
そしてメアリを軟禁状態においたうえ、謀反の罪で死刑にしてしまう。
さて、フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来た。「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などであった。
エリザベス女王が、滝のように真珠を身に着けるようになったのは、このメアリ・スチュアートに対する「対抗心」があったと推測できる。
しかし個人的には、エリザベスの真珠をまとう姿から、「真珠の首飾り」は単なるファッションではない、王権をさえ表象するものではなかったかと推測する。

真珠は本来、貝に入り込んだ砂粒などの異物を貝自身が分泌液で幾重にも包み込み真珠層を重ねていく、つまり貝自身が時間をかけてゆっくりと作り出す神秘的な宝石である。
母貝の色によって白・黒・ピンク・ブルーなどの様々な色の真珠を生み出す。
では真珠の価値は何で決まるかというと、単純にサイズは大粒であればあるほどそれだけ年月がかかっているから価値は高くなる。また、真珠の価値基準の一番の要素は「テリ」つまり光沢がある。
また、真珠は形状において一般的に「真円」に近いほど価格が高くなるが、生き物が生み出した石だから多少のクボミがあって当然で、「真珠のエクボ」などとよばれている。
さて、日本の労働歌でポピュラー化したものはないかと調べると、三輪明宏氏の「ヨイトマケの歌」というのがある。
三輪氏が、小学生時代に土方の子供として差別され、イジメられた体験がベースにあるという。
とろけるような食感が支持を集め、現在では輸入アトランティックサーモンの3分の2をノルウェー産が占めている。
♪父ちゃんのためならエンヤコラ/ 母ちゃんのためならエンヤコラ/もうひとつおまけに エンヤコラ♪。
「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下する時の掛け声であり、この仕事は主に日雇い労働者を動員して行った。
美輪氏によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源としたという。
「日雇い労働」といえば、「団塊の世代」にとって最もポピュラーな 岡林信康の「山谷ブルース」がある。
しかし、これは「労働歌」というよりも、労働者の歌という方が適切かもしれない。
少し歌詞を紹介すると、♪今日の仕事はつらかった/あとは焼酎をあおるだけ/どうせ山谷のドヤ住まい/他にやることありゃしねえ♪といった哀切な調の歌となっている。
最近の歌謡曲で思い浮かぶのは、北島三郎の「与作」である。
♪与作は木をきる!ヘイヘイHO-!へいへいHOー!♪は、のどかな労働歌ではないでしょか。
北原ミレイの「石狩挽歌」は、歌詞の中にニシン漁をする漁民達の専門語が出てきて分かりにくいのですが、それゆえに単なる「大漁歌」を越えた重厚な歌になっている、と思う。
この歌が、作詞家・なかにし礼氏の実体験を元に生まれたというところにも、重みがある、

サーモンと双璧を成すエースがサバだ。
ノルウェーでは、年間で最も脂が乗る「大ぶりで売れるサバ」を日本向けに輸出している。
日本で流通するサバの50%以上がノルウェー産で、塩サバに限れば80%に達する。
サーモン、サバに続くのが「フィヨルドトラウト(まず)」。
フィヨルドで育てられたニジマスのうち、特に品質が高い「プレミアム魚」。
チリ産などと区別するため、2010年にブランド化を図った。サーモン、サバに次ぐ戦略魚で、日本では輸入の8割がレストランに流通する。
鮮やかなオレンジの身は軟らかく、生のまま食べられ、サラダに向く。
北原ミレイの名曲「石狩挽歌」は仕事歌ではないが、作詞家のなかにし礼一家のニシン漁体験がベースにあるが、小林多喜二の描いた「蟹工船」の状況を幾分想像させるものだ。
それは、何か月もの航海中、船に閉じ込められた人々の苛酷な労働を描いたものだ。
英国には消費者雑誌which?がとても有名でした。当初この雑誌をもじってAlternative Which Guideという名前にしようかと考えていたそうです。「消費者という言葉自体に関心を持ちましたが、英語には無いエシカルとコンシューマーを合わせるというのは、なかなかチャレンジングなアイデアで、珍しいアイデアでした。みんな、最初はethical consumerという文字を見た途端に笑いました。ユーモア雑誌か、何かみたいな感じで。」エシカルとコンシューマーが合わさった言葉は当時なかったのですが、「エシカル・インベストメント」(ベトナム戦争のころ、武器に投資しないというCouncil on Economic Priorities(CEP)のキャンペーン)というものはあったので、そこからヒントを得たということでした。またエシカルを用いた理由は、環境だけじゃなくて、人権や動物が入っているからだということです。 誰にも公平に与えられるボイコットという選択肢 エシカルな商品を買うだけでなく、買わないというボイコットはお金がなくても、消費者にオプションとして誰にも与えられている行動であるということです。だから貧しくてもアクションが取れないというわけではなく、市場の中で消費者の購買行動の選択肢をまったく与えられないというわけではないと説明してくれました。コインの裏表のように、「良い物は買いましょう、悪い物は買わないようにしましょう」ということです。 1902年に佐々木商会として創業し、その後英国皇太子が来日されたときに乗船されていた戦艦(上記の巡洋戦艦レナウン)の名前からレナウンに改名した。 戦後テレビ放送が始まり、レナウンは小林亜星作曲の"レナウン♪レナウン♪レナウン娘が・・・♪" といったようなキャッチーな歌詞が盛り込まれた「ワンサカ娘」を放映、海外において日本初のCM作品賞を受賞した。