聖書の人物から(ナアマン)

地位の高い人が、地位の低い者の話を聞きいれるのはなかなか難しいことにちがいない。
それができるとすれば、よほど追い詰められた時だ。
そんなエピソードが、旧約聖書「列王記下5」にある。
紀元前9C頃のお話、スリヤ配下のナアマン大将は、その主君に重んじられた有力な人であった。
しかし彼は戦場における大勇士であったにもかかわらず、らい病を患って悩み苦しんでいた。
そんな時、スリヤ人がイスラエル側から捕らえた一人の奴隷の少女が、ナアマン大将の妻に仕えていた。
そのイスラエルの少女がいうには、イスラエルにはひとりの預言者がいて、その預言者のもとにいけば、 主人の病は癒されるだろうにというのだ。
しかし、ことはそう簡単ではない。なにしろ他国の預言者であるからだ。まずは、双方の国王の許可が必要となる。
そこでナアマンが、スリヤ王にそのことを相談すると、スリヤ王は彼のために便宜をはかり、イスラエル王にナアマンの病を癒してほしいという旨の文書を渡して、ナアマンを送り出した。
ところがイスラエル王はその手紙を読み、自分に人を殺したり生かしたり出来るはずもないのに、ライ病人を自分によこすというのは、スリア王がイスラエルに何かハカリゴトを仕掛けようとしているのではなかと警戒した。
ところがナアマンの病のことが預言者エリシャに伝わると、エリシャはナアマンを早速自分の元によこすよう語った。
そこで、ナアマンは馬と車とを従えてきて、大預言者という評判のあるエリシャの家の入口に立った。
ナアマンにすれば、ベストのカタチを整えてやってきたといってよい。
ところが預言者エリシャは、ナアマンに会おうとさえせずに使者を遣わして、「あなたはヨルダンに行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉は元に返って清くなる」と語った。
それは、ナアマン大将に対して、アマリにも素っ気ない対応であった。
ナアマンは自分の地位からして、エリシャ自身が出てきて、何か特別の業を持って病を癒してくれるだろうと期待していたのである。
聖書によれば、ナアマンはその時の心情を次のように吐露している。
「私は、彼がきっと私のもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病を癒すだろうと思った。ところが川で七回身を洗えという。わが国にもイスラエルの川以上の川がある。その川で身を洗って清まる事が出来ないかと不平をいった」。
そしてナアマンが怒って立ち去ろうとした時、しもべ達がナアマンに近寄って、ご主人(ナアマン)ぐらい重い病気にかかったらどんな難しいことでもしなければならないのに、川に入って水を浴びるくらい簡単なことではありませんか、と諭したのである。
そこでナアマンはようやく気持ちを切り替えることができ、エリシャの言葉どうりに七度ヨルダンに身を浸した。すると、その肉がもとに返って幼子の様になり、清くなったという。
ちなみに、エリシャは他国の英雄ナアマンを癒してスリア国を利し自国イスラエルの国益に反しているようであるが、それは当時の観念からすれば違う。
イスラエルに「真の預言者」がいるというメッセージは、下手な手出しはできないという安全保障となるのだ。
それはエリシャの「スリアはイスラエルには真の預言者がいることを知るだろう」(列王記下5章8)という言葉からも推測することができる。
さて、ナアマンは旧約聖書「列王記下」に登場する人物だが、新約聖書「ヨハネ福音書3章」には、ユダヤ社会における一人のエリートとイエスとのやりとりが記されている。
ニコデモは、ユダヤ教の中でも熱心なパリサイ人であり、ユダヤ教の最高法院サンヘドリン構成員の一人であった。その人物が、イエスと接点をもった。
なんとユダヤの国会議員にも匹敵する人が、大工のイエスのもとを訪ねて来たのである。
そして聖書において、ニコデモについて「夜、訪問した」とわざわざ記しているのは、人間心理をよく突いている。
例えば今日、大統領や首相が自分の決断に迷いを生じ、宗教家や占い師なんかを尋ねることをマスコミが掴んだらどうなるだろう。
そこで、変装するか夜おそく人目をはばかって訪問するということになる。
ニコデモ自身は、イエスの中に「何か」、それまで現れた預言者とは違う権威とワザがあるのを感じたのだろうが、百卒長という民を率いる立場に周囲の目を気にせざるえないこともあったのかもしれない。
夜やってきたニコデモは、まずイエスに挨拶をした。
「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」(ヨハネ3・2)。
ところがイエスはそんな挨拶の言葉にかまわず、いきなりニコデモの核心をつく。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。
つまりイエスはニコデモに、先ずは「生まれ変わる」ことだと言ったのである。
ところが、ニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と応えた。
なんと即物的な応えという印象だが、ニコデモという人は、ユダヤの指導者で戒律もしっかり守る人であったのにもかかわらず、こんなふうにしかものごとを捉えることができなかったのである。
イエスからも「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」といわれている。
イエスは別の場面で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6)と語っている。
実際、世事に長けているが、信仰や霊的な話をすればとても幼稚ということは、社会的地位の高い人に案外と多いものだ。
イエスのいう「生まれかわり」とは、たとえ戒律や道徳を守りながらも、心の目がこの世にしかむかない人に、天のものを求めなさいということ。
さらにイエスは「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3)と言っている。
言い換えると、ニコデモほど生真面目で偉くはあっても、救われて新しい人にならなければ神の国には、入れないといっているのだ。
このニコデモがイエスを信じるようになったかは、この箇所には何も書かれていない。
しかし彼の「その後」について、聖書は二箇所にフォローしている。
ある時、祭司長たちとファリサイ派の人々はイエスを逮捕しようとした。
しかし、ニコデモは議員としてイエスの側にたち、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない事になっているではないか」(ヨハネ7)と弁護した。
さらに三度目にニコデモの名が聖書に登場するのはイエスの死後のこと。聖書には「夜御許にきたニコデモも、没薬・沈香の混合物を百斤ばかりを携えて来たる」(ヨハネ19)と記してある。
かつての「夜の訪問者」ニコデモが今度は白昼堂々と官憲に申し出て、身の危険を冒してヨセフと言う人と一緒にイエスの死体を引き取り、香料を塗って埋葬したというのである。
この「この夜御許にきたニコデモ」というスルーしそうな言葉に、ニコデモの「生まれ変わり」を知ることができる。
と同時に、自らを低くして直接イエスに真理を求めた者に対する神の恩寵を知ることができる。

804年、平安仏教の両雄・最澄と空海が遣唐使船で唐に渡っている。
最澄38歳、空海31歳の時、7月6日九州肥前田浦の港を発った遣唐使の船は4隻の船団で出発した。第一船に乗り込んだ23名の中に空海、第二船に乗り込んだ27名の中に最澄がいた。
空海が唐に長期間とどまって学ぶ「留学」だったのに対して、最澄は「還学生」であった。
「還学生」というのは、すでに学業なった短期の視察旅行をさせるためのもの。 最澄はすでに桓武天皇の寵僧であり、一方、空海は山野を浮浪する乞食僧の如き生活を長い間送り、入唐の前に急いで戒を受けた無名の僧であった。
いわば最澄は東大教授の留学、空海が私費留学生であり、全く格が違っていた。
最澄は近江国分寺でさらに修行を続け、19歳の時に奈良東大寺で受戒し、国家公認の僧となった。
奈良の都は、営々と築き上げてきた「匂うがごとき都」であった。
最澄の東大寺戒壇院での「受戒」は785年4月だが、最澄はその年の7月には晴れて「国家公認」の僧になった栄達を捨てて、比叡山に入ってしまう。
都では華厳宗の東大寺を頂点として、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗の諸大寺が連なっていた。
西大寺は師の行表が籍を置く大寺で、最澄が生涯をかけて求めた天台学との本格的な出合いは、この時であったに違いない。
その最澄は受戒に備えて勉学にいそしみながら、政治の乱れ、社会の乱れ、そして何よりも仏教界の乱れを目の当たりにしたことであろう。
最澄は比叡山に登って、山間の窪地に小さな草庵を営み、比叡山寺と名付け、「一乗止観院」と号した。
そして最澄は、ひたすら「一乗思想」を伝える天台学の研究にのめり込んだ。
「平安京」建設が急ピッチで進められていたそんな折、最澄の書いた「願文」に心動かされた僧が、叡山に「法華経」による新しい仏教の立宗を目指して、教典研究に励む無名の青年僧がいることを桓武帝に報告した。
孤独な隠遁者は、思いがけない好運に恵まれる。
桓武帝は、和気清麻呂らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見いだし、登用を決意した。
そし794年9月、桓武帝の行幸を迎え、竣工した比叡山寺「一乗止観院」の落慶法要が盛大に行われると、以後、比叡山は王城守護の「根本道場」と見なされるようになった。
803年、遣唐使の派遣が決定した際、最澄は天台の教えをさらに深く知るために「入唐求法」の旅に出ることを桓武帝に願い出る。
そして翌年7月、中国明州に無事にたどり着いた最澄は、中国天台宗第七祖「道邃」を紹介され、師から直接天台の奥義を学んだ。
そして弟子の義真とともに、大乗戒を授けられ、天台山国清寺の座主行満から天台の法門、秘蔵の典籍や法具までことごとく授けられた。
また最澄は、台頭していた密教を学ぶために、帰途の慌しさの中で真言密教の大家順暁阿闍梨を訪ね、「密教」までも学ぶ。
こうして最澄は8ケ月の短期入唐求法の旅を終えて、805年の夏、最澄が帰国すると、彼のよき理解者であり庇護者であった桓武帝が、重い病の床についていた。
最澄は血を吐くような思いで密教の秘法を修し、天皇の病気平癒の祈祷を行う。しかし、最澄は最初からの密教修行者ではなかった。
最澄は、並はずれて優れた宗教者ではあったが、密教の秘法を深奥まで体得することはできていなかった。彼の祈祷の力は、すでに死期の近づいていた天皇には及ばなかった。
こうして最澄の後ろ盾となり、惜しみない援助を送ってきた桓武帝は、ついに70歳の生涯を閉じた。
最澄の名声が少なからず傷ついたところに、密教の正統さをまるごと受け継いだ空海が帰国する。
最澄は空海が正規の密教を学び、その経典を法具とともに大量に持ち帰ったことを知ると、相手が都ではまだ無名で、しかも自分より7歳も若い僧であったにもかかわらず、彼を密教の師として仰ぐ。
そのことが、「空海」の名を一躍有名たらしめることになったのには違いない。
最澄と空海は当初、仏法を広めるものとして協力したといってよい。空海は最澄に真言密教の入門灌頂*を授け、持ち帰った密教経典も求めに応じて快く貸してきた。
しかし、最澄が密教の根本経典のひとつである「理趣経」の解釈書「理趣釈経」の借用を申し込むに至って、空海は手厳しく拒絶する。
「あなたは密教秘法の伝授を受けるのに不可欠な、密教の行を修めていないではないですか」。
空海は最澄を、“宇宙の生命である大日如来との一体化を経験せずに、字面だけで密教を知ろうとしている”と批判したのだ。
「大日如来と一体化すること」によって超人的な力を獲得し、その喜びの中で人々を救うというのが空海の真言密教だからである。
密教は体得するもので、「全人的な没入」が必要でもあったにもかかわらず、最澄には天台法華宗の教主という立場にあった。
「顕教」に軸足を乗せていながら「密教」の領域にも踏み込もうとしたのである。
空海に教えを乞うとした最澄の思いはかなわず、もの別れに終わったのである。
さて、最澄と空海の関係で思い浮かべるのが、キリスト教でいえばペテロとパウロである。それぞれが、同時代に生きた伝道(布教)の両雄であった。
新約聖書の内容の多くはパウロが書いたが直接の弟子ではなく、イエスの最初で一番の弟子はシモン・ペテロである。
ペテロとパウロは実に対照的な存在である。ペテロは異教の地ベッサイダ生まれの漁師、直情径行と言うか、素直で熱血漢でもあった。あまり理性的ではないが、誰よりもイエスを愛し、忠実であった。
ペテロの名は”岩”を意味しており、カトリック教会のローマ法王は、このペテロの後継者とみなされている。 なにしろ、ペテロはイエスと生活を共にし、重要な機会にはすべてその場にいた生き証人であり、キリストの昇天以後を託された人であった。
他方パウロは、ベニヤミン族の生粋のユダヤ人でありながら、ローマ植民地のタルソに生まれ育った特権階級、ローマ市民であった。そればかりか、当時最高の律法学の系譜の人であり、「博学がおまえを狂わせている」といわれるほどの知識人。
パウロは最初、彼はイエスとその弟子たちを、神を名乗りを神を冒涜する者として、ユダヤ教を守るために、イエスとその弟子たち異端者たちを根絶しようと人一倍熱心に活動し、実際、ステパノを殺害した時の証人でもあった。
ところが、ダマスコに向かおうとしていた時天からの強烈な光によって打ち倒され、パウロはイエスの復活の証人として異邦人伝道に邁進するのである。
原始教会とパウロを始めとするアンティオキアの教会の代表者は協議を行い、ペテロ達はユダヤ人に、パウロ達は異邦人に伝道するという伝道圏の棲み分けにより、最澄と空海のような決裂も起きなかった。
さて、最澄は遣唐使として中国に渡る折、航海の安全を願って薬師如来を彫刻し、博多に帰った際にこの薬師像を守る僧達が住む「東光院」をJR吉塚駅の近くに創り現存するが、仏像は市民博物館に移転し地名「東光」がかつての繁栄の名残を示している。
一方、空海は唐から帰国して1年間は博多に留まり、祇園に「東長寺」を創立した。
今日、我々が博多で目のあたりにするのは、最澄の「東光院」の没落(宗教法人解散)と空海の「東長寺」の繁栄というコントラストである。

「聖書に"わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする"と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(Ⅰコリント1:23)。
空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼる。 18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない経典である密教の根本経典「大日教」と出会う。
当時の密教は日本ではそれほど重視されておらず、空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考えるようになった。
31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。前述のとおり同じ船団には最澄の姿もあった。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが経済的にそれほど潤沢であったとも思えない。 また空海は「私度僧」という立場でもあり特有の不安定さがつきまとっていた。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。
しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。 恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の「生まれ変わり」とみたのである。
そして自分の持つものすべてを空海に惜しげもなく開陳した。恵果は空海に会ってからわずか33ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者としたのである。 恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
しかしこれは「国法を犯す」ことだった。なぜならば、契約によれば「20年」は中国で学問の研鑽を積まねばならなかったからだ。
また一方で空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都にはそこから別れようと唐に渡る決意をした「旧態依然」たる仏教がそこにあることを知っていた。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。そうして空海がこれから過ごす博多と太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。
空海は博多滞在のしばらくの時間をフル活用しようとしたにちがいない。
なぜならば最澄らとは異なり一介の私渡僧にすぎない自分が、勇んで都にでていったところで誰も相手にしないし、まして「国禁」を犯した立場なのだ。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピールしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
空海は、先に密教を「断片的」に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれたのである。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。
天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していた。平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。

高橋は日露戦争時には外債募集に奔走し日本の勝利に大いに貢献した。しかし高橋は財務家としては優れていたものの、必ずしも政治家としては優れていたとはいえない。 その後、大蔵大臣となり政友会総裁から首相となるが、政友会総裁として党をまとめることができなかった。 前任者である原敬が一度会った人物の個人情報を実によく知っていたのに対し、高橋はそうした人間的関心がきわめて薄く無欲恬淡とした人物であった。 1936年、軍部の独走を批判し226事件で東京赤坂の自宅で射殺される。

走狗として生きた人間が、方向転換して民衆のためにいきる姿は、四日市の事件を思い出す。