聖書の人物(クレネ人シモン)

映画「ベン・ハー」といえば、戦車の競争シーンの大迫力に圧倒された人が多いであろう。
CGのない時代によくもこれだけのものが創れたものだと感心せずにはいられない。
他にも印象的な場面がある。ベンハーが奴隷になって酷使されて砂漠で喉の渇きを覚えたときに、人影が映ったかと思うと水を持った手が差し伸べられるシーン。この人影こそキリストで、ベンハーは後にキリストと再会することになる。
それは、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと石畳をあえぎながら歩いて行く途中、苦しみに耐えかねて崩れるように倒れるシーン。
その群衆のなかに、ベンハーがいたのだ。そしてベンハーが水を差し出し恩返しをするのだが、ローマの兵卒に強制されて十字架を運ぶはめになる。
実はこの場面、「水を差し出す」行為を除いて、聖書の記述どおり(マルコ15)で、そこにひとりの人物がいた~「クレネ人シモン」。
中東周辺では「シモン・ペテロ」などシモンの名前が多いので、区別するために「クレネ人シモン」と記名してある。
クレネ人シモンはユダヤの「過越祭り」に参拝するためにやってきてイエスの十字架の場面と遭遇する。
群集にまぎれていたシモンは、なぜかローマの兵卒に引っ張りだされて「十字架」を背負うハメになってしまった。
たまたま、そこに居たという理由だけで。
人目にさらされ、きつい思いをして、「なんで自分がキリストと一緒に十字架を担うのか」という気持ちにさえなったかもしれない。
ただ確実なことは、シモンはたくさんの見物人の中で唯一、イエスの担う十字架の重みを体験した人物であるということだ。
そしてシモンは、道端で見ていた誰よりも、身近にイエスを見つめた人物であった。
「ベンハー」の原作者ルー・ウォーレスは、南北戦争の北軍将軍で、弁護士、州知事でもあったが、徹底した「無神論者」であった。
聖書は嘘偽りのデッチ上げの書であることを証明するために数年の歳月を費やして、あらゆる文献を調べ上げていくうちに、聖書が真実の書であると確信するに至り、彼自身が主の十字架を負うはめになる。
そして、ローマ帝国支配時代のユダヤ人ベン・ハーの数奇な半生とイエス・キリストの生涯を交差させて描いた小説「ベン・ハー」を書き上げた。
ちなみに原作「ベン・ハー」の副題が「キリストの生涯」というのは、Wクラーク博士の有名な「ボーイズ ビー アンビシャス」の次に「イン ジーザス・クライスト」という言葉が続いているのと同じくらい知られていない。
「バン・ハー」は、発売当時アメリカで大ベストセラーとなり発行部数がマーガレット・ミッチェル著の「風と共に去りぬ」に抜かれるまでベスト・ワンであり続けた。
個人的には「ベンハー」の原作者が、その運命から「クレネ人シモン」のようにも思えてくる。
さて、かつてカダフィ大佐の独裁国家であったリビアの首都トリポリには、「クレネ」という「世界遺産」(1982年登録)となっている町がある。
クレネ (Cyrene) は、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、現存する遺跡の多くは、ローマの植民都市となった際に再建されたものである。
このクレネの町には、古代より「離散ユダヤ人」の住民が数多く住んでいた。
聖書の使徒行伝2章10節に「エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち」とあるので、クレネという町がリビアにあったことが確認できる。
ところで、クレネ人シモンにとって、イエスと共に十字架を担ったという偶然は、その人に幸いだったのか、災いだったのか。
その後のクレネ人シモンの記録を見る限り、そこには「偶然以上」の何かが働いているように思える。
というのも、マルコ伝に「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」と書いてあるところを見ると、この一家がクリスチャン・ファミリーになっていることがわかるのである。
しかも、パウロが書いた「ローマ人への手紙」の中に突然に「主にあって選ばれた人ルポス」と出てくることを見ると、 彼の父クレネ人シモンが十字架を担ったのも、偶然のようにみえて実は神の意志が働いた出来事であったと知ることができる。
実際、キリストと共に十字架を背負った「クレネ人シモン」が神の恩寵から外れるハズはない。
そう思えるのは、例えば次のような聖句からである。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、そしてわたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見出すだろう」(マタイ16)。

「クレネ人シモン」のように、たまたまそこに居合わせたという理由で、重い十字架を担わせることになった人々がいる。
そんな人物として思い浮かべるのが、黒人公民権運動の指導者であるマルチン・ルーサー・キングに起きた出来事である。
アメリカの黒人による「公民権運動」は、バス乗車をめぐっておきている。
1955年、アラバマ州モントゴメリーにおいて、黒人の店員ローザ・パークスがいつものように市バスで帰宅の途についた。
「市の条例」によれば、白人専用の前部座席が埋まると、後部座席の黒人は席を白人に譲らなければならなかった。
その日、勤め帰りにクリスマスの買い物をして、足が疲れていたパークスは、あとから白人がバスに乗り込んでも席を立たなかった。
白人運転手は警察を呼び、パークスは逮捕された。
パークス逮捕の知らせを受けて、市の黒人指導者は市バスの一日ボイコットを計画した。
そして、前年に市内のバプテスト教会の牧師としてボストンから「着任したばかり」のマルチン・ル-サ-・キングにリーダーとして協力要請をした。
キングは、アトランタの豊かな牧師の家に生まれたが、ボストン大学を出て一年少し前にこの市の教会に着任したばかりの弱冠26歳。なぜ、地域の事情に通じてもいない若者に白羽の矢が立ったかというと、有力な黒人有力者達は「名前が知られてしまう」と表に出ることをためらったからだという。
仮にキングが運動失敗の暁には、全責任を負ってどこかに逃走できるのようなヨソ者だったからである。つまり失敗してもどこにも累がおよばないということが一番の理由だった。
要するに、キングはクレネ人シモンと同じように、突然に表舞台に引き出されて、黒人の指導者というリスクの多い重責を担わされたということである。
しかし、この無名の若きキング牧師は、誰も予想できなかったほどの存在感とリーダシップを発揮していく。
キングはそれまで現実の苦難から逃れる「避難場所」にすぎなかった教会を戦う拠点に変えたのである。
キングは4千人を集めた決起集会で原稿なしの演説を行い、屈辱と忍従に代わって「自由と正義」を求める時が来たと訴えた。
キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにジョンソン大統領時代の1964年7月2日に「公民権法」が制定された。
これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の下における人種差別が終わりを告げることになった。
しかしキングは、しだいに「身の危険」を感じることも増えていった。
キングはガンジー哲学を学び人種差別のもっとも激しかったバーミンガムを戦場と選んだ。しかし白人保守層の過激な反対運動もおきた。
バーミンガムの教会が爆破され、聖歌隊の4人の少女が犠牲になり、イスラム教の立場から運動をしていたマルコムXも暗殺された。
マルチン・ルーサーキングも次第に身の危険を感じ始めるが、死の危険にさらされながらもキングはこの運動と関わり突き進んでいく他はなかった。
「死は怖いし長生きしたい。でも人々を救う犠牲なるのら、死んでも意味はある」と語った。

宮崎と大分の県境にある土呂久(とろく)の岩戸小学校に一人の新任教師が赴任してきた。この教師もまた、山奥のその小さな小学校に転勤になったというだけで、重い十字架を担うことになる。
彼は土呂久の娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。
彼女の小学校時代の記録を知ろうと指導要録をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の異常な欠席数だった。
教諭は、この村には何か秘密が隠されていると思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。
生徒は体調不良で欠席が多かったので家庭訪問したのだが、彼が住む集落一帯が古い「廃坑」地帯であったことを思い起こした。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か胸騒ぎを覚え日記をつけ始めた。
そのうち不自由な目と弱った足で村人の健康調査を始めた。
それまでは一歩も村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが、始まりといえば始まりだった。しかし彼女の訴えは一顧だにされることはなかった。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったと聞いていたが、その後は静かな山里に戻っていた。
昭和30年代ころまで、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる亜砒焼きが行われたいたのだ。
「亜砒酸」は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。
亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
実はこの教諭は、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体格が他にくらべて劣っていることにも気がついた。
そして他の教諭とともに土呂久住民の健康調査に取り組んだのである。
そして、各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の半世紀にわたる被害の実態が明らかになっていったのである。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年にようやく住民による土呂久公害訴訟が起こり、1990年にようやく和解が成立した。
認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月時点)を数えている。
ところで、ヒ素の毒性が高いことは古くから知られており、森永ヒ素ミルク中毒事件や和歌山毒物カレー事件等のヒ素中毒事件などが記憶に残っている。
世界に目をむけると、1900年代初頭、ニューヨーク、ブルックリンには染料と顔料のメーカーが多く立ち並び、様々な顔料を製造していた。当時のパリ・グリーンは主に農薬としての使用が多かった。
特に、アメリカにおける、綿花とジャガイモの害虫に対する殺虫剤としては優秀だったらしい。
ところで海外で起きた事件で興味深いのは、1950年代、ローマの米国大使館で起きた不思議なヒ素中毒。女性大使はそれが元でイタリア大使を辞任せざるを得なくなった。
どうみても、毒を盛られたらしいのに、犯人がわからない。
ソ連の工作員か?当時、イタリアでは共産党が強かった。CIAがローマに放った諜報チームの勢いも強い。
やがてヒ素の出所がわかる。大使が寝室にしていた部屋の飾り天井に、ヒ素系の顔料がたっぷり塗ってあったのだ。
上の階にある洗濯機の振動が下の部屋にヒ素系のほこりを充満させ、それを大使が吸い込んでいたのだ。
ナポレオンが1815年6月18日にワーテルロー、最後に流されたのは南大西洋のセントヘレナ島で、ロングウッドハウスで安楽に暮らしていた。
しかし、1821年5月6日に亡くなる。
あまりにも唐突な死に、殺人説も浮上した。実際、ナポレオンの体内から正常値の100倍もあり、それがヒ素中毒の動かぬ証拠だといってもよい。
一服盛られたにせよ自発的にせよ、ナポレオンが前年にヒ素を摂取したのは間違いない。
また、ナポレオンの棲んだロングハウスの内装に問題があったのではないかという説もあるが、ロングハウスに棲んだのは、随員が20名ほどいたのだから、彼らにも異常がでていいはずで、決定的な証拠はないということだ。
1920年代、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。
そしてゾウリムシ撲滅に「亜砒酸」が欠かせないものとわかり世界的に亜砒酸の値上りした。
このことが一人の山師を、アラバマと縁もゆかりもない土呂久村によびよせることになる。
男は、廃坑になっていた銀山跡から硫砒鉄鉱を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸の「焼き窯」を築いたのである。
さて、被害発覚から50年近くが経ち、風化が危惧されている。宮崎県は「土呂久」を環境教育の場として残そうと動き始めた。
県が頼ったのは土呂久公害の告発者でアノ時の新任教師・齋藤正健氏(75歳)は、木脇小校長を最後に定年退職して、沈黙を破るかのように当時の思いについて語っている。
1966年、新任地において、周りの物すべてが新鮮に映っていた新任教師は、すぐに児童の異変に気付いた。
顔色が悪く、体調不良を訴えては保健室に駆け込む土呂久の子どもたち。
焦土のように草木一本ない鉱山跡、鉱物などで青白く濁った川は異様だった。
当時は水俣病、イタイイタイ病の影響もあって公害学習が盛んな時代。齋藤氏は、PTAの親子学習のテーマとして土呂久地区を調べるようになった。
しかし、「嫁が来なくなる」「農作物が売れなくなる」「数年で転勤する人に何が分かる」などと辛辣な陰口が耳に入り、住民宅前に止めていたバイクを倒される嫌がらせを受けることもあった。
鉱山操業後、ヒ素によって亡くなったとみられる住民数は集計で100人以上に膨らんでいった。
想像をはるかに上回る事態に追い詰められたような心境になったのか、齋藤氏は雪が降る道をバイクで自宅に帰る際、土呂久の深い谷を見下ろして涙ながらに祈った。
「私がいなくなったら、土呂久のみんなもこのまま(鉱害で)死んでしまう。助けてください」と。
今も、黄ばんだメモには、旧環境庁担当者らとの慌ただしいやりとりが手書きで記されていた。
そればかりか、齋藤氏が土呂久集落を回って聞き取りした8年間を記録した145本のテープもみつかった。
1971年、28歳のとき教員の研究集会で発表、戦前から人知れず続いていた亜ヒ酸鉱山による健康被害を告発した。
医師や弁護士が救済に動き、国は公害病に指定した。
3年後、転勤を言い渡されたという。
その後は、公の発言を控えてこられたが、定年退職後に自身が告発した土呂久鉱害のことをより考える時間も生まれ、悲惨な記憶を風化させてはならないという思いに駆られるようになったという。
こうして山里の村「土呂久」は、齋藤氏の手記や証言などを元に、環境教育の場として生かされるようになっていった。
しかし、もし齋藤氏が土呂久の小学校に赴任しなかったらどうであろう。むしろ陸の孤島のような山村のまどろみに、恐ろしさを感じる。

日本では、大久野島を戦後払下げしてもらった帝人系列の久野島化学が作っていたことがある。
亜ヒ酸銅やアセト亜ヒ酸銅は1800年代に優秀な緑色顔料としても利用されたが、これはその毒性が後になってわかり、問題になったことがある。
現在ではもちろん使用縮小方向にあります。
宮崎県の高千穂・天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では約半世紀近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるということが続いていた。
第2次世界大戦中は、宮崎県高千穂町の土呂久(とろく)鉱山で産出した硫砒鉄鉱を空気中で酸化焙焼し、三酸化二ヒ素(いわゆる「亜ヒ酸」)を製造した。
これを染料会社に納入し、誘導化したのちに瀬戸内の大久野島(陸軍の化学兵器工場があった)に運び、ルイサイトをはじめとする有機ヒ素化合物を合成し、毒ガス弾を作った暗い歴史がある。
かつては、農薬や顔料にヒ素化合物を多用していた歴史がある。
歴史を縦覧すると、土呂久は日本神話の古里すぐ近く、あまりにも長い村のまどろみ。 齋藤氏は、町教育委員会の教育相談員として週3日、子どもや保護者らと接している。
亜ヒ酸は農薬や防虫剤の原料に使われ、鉱石を窯で焼く「亜ヒ焼き」という手法でつくられたのである。
ドイツのノーベル賞科学者フリッツ・ハーバーの生涯である。
ハーパーは「毒ガス」の開発者として知られ、しかもその兵器の刃(ヤイバ)は、アインシュタインからは「才能を大量虐殺のために使っている」と非難され、結果自分の同胞にむけられることになる。
ハーパーはドイツと同盟国であった日本の科学者とも繋がりが深く、アインシュタイン同様に、日本の文化のよき理解者でもあった。
時代はビスマルクの統治下、ユダヤ人の両親のもとに生まれたハーバーは化学の道を志し、「反ユダヤ主義」の障壁にも負けず、もちまえの勤勉さでカールスルーエ大学に職を得る。
まず、合成肥料の元となるアンモニアの合成法を開発し、ドイツの「食糧危機」を救った。
しかしアンモニアは「火薬」の原料でもあったため、ドイツは第一次世界大戦へと突入するやそれが爆薬として利用される。
しかし、ドイツが戦況不利になるにつれ、ハーパーは早く戦争を終わらせるために「毒ガス開発」に没頭していく。
ハーパーは、自分の科学研究がどういう道を開いていくか、想像力に欠けていたのか、それともユダヤ人である自分がドイツ社会に受けいれられるために、何でもやろうとしたのだろうか。
ハーパーの妻クララも優秀な科学者であったが、夫のこうした研究に対して「自殺」というカタチで抗議を示している。
ドイツは第二次世界大戦では日本と同盟を組むが、ハーバーは日本への技術供与に貢献し、1926年には日独の文化交流機関「ベルリン日本研究所」を開設、初代所長に就任した。そして日本の星製薬の創業者・星一らとも技術的な関わりをもった。
訪日時の講演で「美の繊細さが日本独自の独創的な文化だろう」と日本のすばらしさを世界に先んじて理解した人物でもあった。
ハーバーの最大の悲劇は、戦争を早く終わらせようと開発した「毒ガス」が多くのユダヤ人同胞を死に追いやったことだった。
>いずれも日付は1968年9月12日。水俣病が公害病と認定される2週間前に当たる。