聖書の人物から(パウロ)

歴史上の人物の中には、精神的なものにせよ経済的なものにせよ、パーソナルな問題をより広範な問題として世に問うた勇気ある人々がいる。
唐突だが、大概の人が"のろい"などと無縁と思うだろうが、聖書はすべての人がある種”のろい”にかかった状態にあることを告げている。
その証拠は何かといえば、人が”死ぬ存在”になってしまったことである。
聖書によれば、この”のろい”の発端は、人間が神様が禁じた木の実を食べてしまった罪による。
聖書の世界観について幾分童話風に説明してみたが、聖書は「罪の払う価は死」(ローマ人6章)と明言している。
そこで、ペテロやパウロら使徒達は、人が”罪”から解かれる唯一の方法を熱心に宣教したのである。
それはイエスの血によって洗われること、つまりイエスの名による”洗礼”である。
この”救い”に与ることによって、人は死を克服する。死を克服するとは、”蘇る”存在となるということだ。
そして、死人の蘇りの"初穂"となったのがイエス・キリストの復活で、救いとはイエスと同じ復活にあずかることに他ならない。
そして復活の保証となるのが聖霊であり、人間が神とともに永遠に生きる"約束の印"である。
、”永遠の命”というと何か特別のようなことと思うかもしれないが、それは人間の本来の姿に戻るということに他ならない。
さて、イエス・キリストの刑死後、”イエスの復活”を熱心に説いたのがパウロで、そのことゆえにユダヤ人社会(イスラエル社会)では、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われた。
なにしろユダヤ人は、イエス・キリストを神を冒涜する者として、十字架にかけてしまったからだ。
そこで、ユダヤ人社会からパウロは、「1日たりとも生かしておけない人物」として逮捕され、当時イスラエルを支配していたローマ総督に告発されたのだ。
というのも、パウロはもともと律法学者の家に生まれたユダヤ人エリート層であり、ローマの市民権をもっていたからだ。
ローマ総督は、訴えにしたがってパウロを取り調べるが、パウロがローマの法に反することをしていたとは認められず、だからといってユダヤ社会との関係も良好に保ちたいがために、パウロが訴えられている内容(復活)につき裁判の結審を引き延ばしていた。
しびれをきらしたパウロは、みずから「カイザル(ローマ皇帝)への上訴する」といいだす。
使徒行伝には、「この人は、カイザルに上訴しなければ、無罪であったろうに」(使徒24章)という言葉があるが、実はカイザルの前に立つことこそが、パウロの念願であった。
そして、ローマ総督は、パウロの願いを受け入れて皇帝の元に護送する。
その航海の途中、パウロの乗っていた船は暴風雨にあって難破したが、浅瀬に乗り上げマルタ島に泳ぎ着いて彼は助かり、イタリアに渡って自らローマに赴いている。
ただ、パウロの罪に関する「訴状」も書けないために、パウロはそのまま2年間も軟禁状態となる。
だが、この時間こそはパウロにとって貴重な時間で、パウロは自らの体験について説明を求める者に対しては、神の国について力強く証(あかし)をなし、モーセの律法や預言書の書を引用して、イエスについて説得しようとつとめたのである。
パウロの2年間の軟禁生活のその後については明らかではないが、64年ネロのキリスト者迫害の折に、ローマでペテロとともに、殉教の死をとげたといわれている。
しかしながらパウロによってキリスト教の種子は蒔かれ、その後約300年の時を経て西洋文明の基盤を築いていくのである。

パウロがローマ皇帝を前に自分の信仰を証するまでの経過を読んで、ある人はソクラテスの「弁明」を思い浮かべる人がいるかもしれない。
しかし、同じキリスト教の信仰をパーソナルなものとしてではなく大きな舞台で証したという意味では、マルチン・ルターのウォルムス国会での「信仰表明」に近い場面ではないかと思う。
修道院生活時代のマルチン・ルタ-は、ありとあらゆる苦行をわが身に課し、青白い顔をし憔悴しきった若者であった。人生にはほとんど喜びを見出せず、自分の罪深さと神への畏れや苦悩に満たされていた。
ルタ-が修道院の塔にある自室で聖書講座の準備をしていた時に、突然目から鱗がおちたように聖書の理解が深まり、神への憎しみから神への愛へと心が向き変わる回心がおこった。
これ以降ルタ-のは「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という立場に立つことになる。神の恩寵に一切をゆだね喜びぬ溢れんばかりの体験をした。
こういう心の開放の体験は外部的な誘導や逆に圧迫から生まれたではなく、間違いなくルタ-の魂の内面より沸き出ずるものであった。そしてルタ-は中世の教会の権威を疑った。中世教会では救いでさえも教会の権威の下に保障されていたからである。
1508年、25歳となったルタ-は、創設間もないヴィッテンベルグ大学から招聘され講義するようになり、1511年にはロ-マへの特使にも選ばれた。しかしルタ-がロ-マで見たものは奢侈にふけり貧しい信徒を喰い物にしているかのような尊大な司教や枢機卿であった。
公明正大な裁判や審議の機会も与えられず、無慈悲なまでに生活を破壊された名もなき信者達の声なき不満が充満していたのである。
1517年、一人の修道士がロ-マより免罪符の販売と宣伝のためにドイツに送られてきた。
ルタ-はヴィッテンベルグ城内にある教会の門扉に免罪符に反対する「九十五カ条の論題」を貼付した。罪の許しは神のみで教皇にはそれができないこと、真に悔い改めた人ならば完全に罪と罰から救われることなどが書かれてあった。
この「九十五か条」はすぐさま印刷され、西ヨ-ロッパ中にまったく予想外の速さで広まった。そして大反響を引き起こした。
教皇庁の干渉を常々苦々しく思っていたドイツ諸侯は「九十五か条」に好意的であった。もちろんルタ-に対しては、よくも教皇の存在を認めず、教皇の権威を否定できたものだと攻撃し、激しい論争が巻き起こった。
ルタ-は、教皇庁の使節によりアウグスブルグの国会に召喚をうけ、これまでの言説をすべて撤回することや、恭順書の提出を要求されたりした。
ある神学者との論争の中で姦計にひっかり、異端の言質をとられてしまい、焚刑しか残された道はないかのような危機的状況に陥った。そして1520年に教皇はルタ-をついに破門した。
しかしルタ-は多くの人々の面前でその破門教書を火中に破りすてたのである。
そんな中、イタリアで教皇と対立する神聖ロ-マ皇帝カ-ル五世は、ルタ-の存在に注目し、ヴォルムスの国会に召喚し発言するように仕向けた。この時、ルタ-は皇帝、枢機卿、諸侯、司教達をまえに有名な演説を行った。「私は、聖書によって自説が誤っていると証明されない限り、いかなることも撤回する意志ない」と。
そして最後にあまりにも有名な言葉で答弁を結んだ。「われ、ここに立つ、こうせざるをえない」と。

日本でパウロのごとき人物を探すと、あえていえば「教育勅語」への敬礼を拒否して第一高等学校の職を辞した内村鑑三ぐらいか。
しかし個人的にはキリスト教とは全く関係のないひとりの人物が脳裏にうかぶ。その人とは、熊本の御家人・竹崎季長(すえなが)である。
10月、フランスのシラク元大統領の訃報があった。実は、シラク元大統領は公私あわせて40回以上も来日するほどの親日家で、1996年には福岡の水炊きの名店「鳥善」に大統領が来店したというニュースがあった。
ジャック・シラクは、日本文化に対する造詣も深い。幼少期にパリの東洋美術館、リヨンのギメ美術館を観覧し東洋美術に目覚め日本文化へのも興味をもった。
学生時代には「万葉集」を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。
来日時に首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめ、以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれるほどだ。
自身の「回想録」の中で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べており、温泉も好きで、来日時にはしばしば入浴するという。
さて、拙稿が当時住んでいた姪浜から国道202号線を20分も歩けば「生きの松原」海水浴場につく。
国道から50mも入ればいいのだが、どこが入口かわからないほど不親切なのに、実際に海岸に出てみると巨大な石の護岸が作られているのに目を見張る。
実をいうと、この防塁の復元と立派な護岸壁は、サミット世界首脳会議の「副産物」だった。
2000年、日本ではじめて開かれたサミットの会場候補地に福岡が名乗りを上げた。
会議場は福岡市立博物館、ホテルはシーホークで、立派な国際会議が出来ますよとアピールした。
その出席予定者にフランスのシラク大統領の名があったのだが、シラク大統領は「福岡へ行ったら“元寇防塁”を見たい」と発言したために、福岡市は大騒ぎになった。
急ぎ、シラク大統領を満足させるべく「防塁」を整備しようと選ばれたのが、「生の松原」であった。
防塁復元工事は完成したが、警備上の問題から、サミット会場は沖縄に変更されてしまった。
1996年のサミット前に、シラク大統領は元寇防塁視察希望の理由を次のように語っている。
「世界を制覇したあの蒙古軍を防ぎとめたという“日本の防塁”を是非、この目で見たい」。
この言葉の裏には、ユダヤ系フランス人のシラク氏の、ヨーロッパの共通体験としての「モンゴル襲来」に対する意識の高さがあるのではなかろうか。
なにしろシラク大統領は、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させたくらいなのだから、日本を襲撃した元寇に無関心であろうはずはない。
ところで、鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物がある。
教科書にも必ず出てくる、誰でも知っている有名な絵である。実は、教科書に出てくるのは、そのほんの一部で、とても長い絵巻物である。
実は、この長い絵巻物「蒙古襲来絵巻」が「生きの松原」海岸の元寇防塁に沿った石碑にレリーフとして埋め込まれているのである。
そして、この絵がここに埋め込まれたのには、深い理由がある。
この絵巻物を書かせたのは、子孫に「己の奮戦」を伝えようとした肥後の御家人・竹崎季長である。
しかし、なんといっても竹崎の最大の貢献は絵巻物によって当時の戦いをリアルに後世に残したという文化的貢献であろう。
実際、歴史を検証する立場からありがたいことに、福岡市内の現在でも残っている場所や神社が数多く描かれている。
1回目の襲来の「文永の役」に関して現在地と比較すると、元軍はまず、百道原(ももぢばる)から上陸してきたと言われている。
現在の「よかとぴあ通り」周辺がその場所で、その後、内陸部まで侵略を進め、赤坂山、現在の福岡城の場所に陣営を築いた。
「蒙古襲来絵詞」それ自体は、元軍の侵略を聞きつけた武士たちが博多に集結したところから始まっている。絵詞に描かれている鳥居は筥崎宮の鳥居である。
武士たちは息の浜(現在の奈良屋町付近)に作られていた日本軍の陣営に向かっていった。その陣営には日本軍の総大将・少弐景資が待機していた。
陣営までの道中を描いた様子には松が生い茂った場所を通っている姿がみられるが、現在の東公園あたりを描いたものではないかと推測される。
また今日の生きの松原にあたる息の浜に陣営を築いていた総大将・少弐景資は足場の悪い赤坂付近での戦いは日本軍に不利であると考えていたので、元軍が博多に攻めてくるのを待っていた。
ところが、肥後の菊池武房が赤坂の元軍に攻撃を仕掛け、見事これを追い払い、元軍は赤坂から祖原に向けて逃げて行く。
現在の別府で三井資長が元軍に追い打ちをかける様子も描かれている。祖原まで逃げていった元軍は小高くて見晴らしの良い「祖原山」に陣営を作った。
元軍がドラや太鼓を打ち鳴らして士気を高める様子が描かれている。
祖原山は祖原公園として整備されていて、とても見晴らしが良く、確かに陣営を作るには最適な場所である。
その後、再び攻めてきた元軍と日本軍は「鳥飼」あたりで合戦となる。中村学園すぐ前にかかる「塩屋橋」を目印にしたらよい。
その時の様子が、教科書に載っているアノ有名な絵で、たくさんの弓矢や「てつはう」が飛び交う激しい戦いがリアルに伝わってくる。
ところで、「蒙古襲来絵詞」の数々の絵が、レリーフとして「生きの松原」の元寇防塁の石垣に埋め込まれて一番の理由は、この絵の主人公・竹崎季長がマサにこの場所を歩く絵が残っているからだ。
第1回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と上陸を許し、内陸を蹂躙された。
この苦い経験から幕府は九州各国の御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。
鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じたが、築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。
「今津 3km 日向大隅/今宿 2.2km 豊前/生の松原 1.7km 肥後/姪浜 2km 肥前/西新(百道)2.3km 不明/博多 3km 筑前・筑後/箱崎3km 薩摩/香椎 2km 豊後」という分担であった。
各国の分担地区によって石材が異なったが、注目したいのは、生の松原が「肥後国」担当となっていることである。
つまり、竹崎季長は肥後の御家人であり、防塁の前を馬上で進む場面は、実はこの「生の松原の情景」そのものなのである。
かくして「生きの松原」の元寇防塁に「蒙古襲来絵詞」のレリーフが設置されることになったのである。
絵巻物の展開は、戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには幕府からの褒美の知らせが来ず、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しに行く。
朝廷に至っては、武士の奮戦どころか神のご加護力と認識していたくらいだ。
安達泰盛という幕府の大物相手に直訴に行くこと自体が大変な勇気だが、それよりも、命をかけて戦果をあげたのに褒美という形で報われない、この理不尽さに対する怒りがあったことが推測できる。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して褒美として竹崎の地元の地頭の地位、それから名馬一頭を与えている。
つまり竹崎の貢献は、文化的な貢献ばかりではなく、戦果にふさわしい報酬を幕府のトップにしっかりと求めた勇気と近代性にある。
ところで、日本の古い言葉に「言挙げ(ことあげ)」という言葉がある。しっかりと問題をとらえて、それを言葉にして提起することである。
パウロは、自らのローマ市民権を活用して、キリスト教という異端の教えにつき告発されていることに対して、しっかり弁明する(証する)ためにローマ皇帝の前に立った。
同じく、宗教改革において、あくまでも聖書に基づく信仰にたつとカトリックにプロテストしたマルチン・ルターも国会の証言に立った。
熊本の御家人・竹崎季長も、戦果に対する報酬のなさを言挙げして、幕府トップの安達泰盛の前に立った。
このことは、鎌倉武士の志気を高め、弘安の役でも勝利に繋がる要因の一つとまでいわれている。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠の生命です。」 福岡市内には、博多湾に沿っていくつかの元寇防塁が点在するが、特に西区の今津と「生の松原」にある元寇防塁はよく整備・保存がなされている。
その点、少々意外な事実を言うと、前者は、第一次世界大戦中に日本が中国・青島で捕えたドイツ人捕虜たちの労役により修築が行われ、後者の「生の松原」防塁の整備にはフランス元大統領が遠巻きながら関わっている。
このあたりは秀吉が「茶会」を開いた場所としても有名であるから、近世までたくさん松が生い茂った「千代の松原」と呼ばれる場所であった。
さらに、少し離れた場所には住吉神社も描かれてあるので、もしかしたら合戦の成功を祈願しているかもしれない。
パウロは「カイザル」(皇帝)に上告するといいだす(使徒行伝24章)。
この問題を法的に結審して、パウロを無罪とすればユダヤ人たちから嫌われ、パウロを有罪とすればローマ市民に対する正しい裁判をなさなかったという非難を後で問われることになるからだ。
かもしれないというジレンマの中に置かれたからです。総督ペリクスのこの裁判に対する結審は、自己保身のために、公には延期、つまり結審しないというのが彼の結論だったのです。 ##総督ペリクスにとってこの裁判は、まことに不都合な裁判だったのです。このことはパウロの目にもはっきりしていたために、後に、パウロが彼の前で「正義と節制とやがて来る審判」を論じたとき、ペリクスは「恐れを感じて」います。 イエスは、パウロに聖霊によって「世の権力者によって捕らえられ法院で証しをさせられることになっても恐れるな」と教えられる。その時何を語るかは聖霊が示して下さる」と語っている。

1517年10月31日、神聖ローマ帝国(今のドイツ)ヴィッテンベルグ教会の司祭が、ローマカトリック教会のあり方を批判する95ヶ条にも及ぶ問題提起の文章を公表した。
ここから「宗教改革」というヨーロッパ全土を揺るがす出来事が始まった。その司祭こそマルチン・ルター、その人である。
当時のローマカトリック教会の権力は絶大なものがあった。世俗の王(皇帝)よりも教会のトップ(教皇)の力の方が強く、皇帝でさえ教会からの破門宣告を恐れるような時代であった(カノッサの屈辱)。
ルターの前の時代にも教会のあり方を批判した改革者はいたが、異端宣告を受け、ある人は追放され、ある人は処刑された。
そのような行為に出ることは、いわば命がけの行為であったのだ。
ルターも教会から「破門威嚇勅書」を送りつけられたが、それを火にくべて焼き捨てた。
ローマと訣別の意思表示を示す、過激な行動である。
ヴォルムス帝国議会において、自説の撤回を迫られた時、ルターはこう言い放った。
「教会も教皇も間違いを犯す。私は聖書の言葉によって間違いを指摘されない限り、自説を撤回するつもりはない」。
そして最後にこう述べたという。「我ここに立つ。他になしあたわず。神よ、われを助けたまえ」。
帝国議会によって公民権停止の状態に処せられたルター。
しかし彼の危機を救った人がいる。ザクセン地方の有力者、フリードリッヒ3世という人物である。
彼も教会の横暴には不満を抱いており、ルターの「95ヶ条」を読んで共感し、教会の権威に楯突く勇気ある男を支援しようとルターをかくまった。
当時開発された印刷技術により、ルターの主張は瞬く間に広まっていたのである。