聖書の人物から(民の声)

戦後の政治的大変動のシンボルは、1991年「ベルリンの壁」崩壊といえるかもしれない。
ここから東欧革命まで遡ぼっていくと、ポーランドにおけるワレサ書記長を指導者とする暴動に行き着く。
そしてこの暴動のきっかけというのは、グタニスクの造船所に働く労働者達("連帯")の「肉が食べたい」という欲求だった。
この出来事から思い浮かべるのは、BC13世紀頃の古代ヘブライ王国。エジプトを脱出した後にイスラエルの民が指導者モーセに訴えた不満。それは「肉が食べたい」というツブヤキである。
さて、聖書の中に「民(たみ)」という言葉がしばしば登場するが、神の目からみて、民衆がいいことをしたタメシがない。
イスラエルは、モーセに代表されるように神が選んだ指導者が民衆を率いてきた。
そして、神の声に従ったモーセの働きにより、奴隷とされていたエジプトの境遇から脱出。そしてシナイ山でモーセが「十戒」を神より授けられる。
それまで紅海が割れるなどの奇跡を体験しているにもかかわらず、民衆はモーセがいつまでも戻らないので、山の麓で「金の子牛」を作って拝みはじめる。
また、神はシナイ半島を移動する民を養うために、毎朝「マナ」とよばれる不思議な食べものを降らせた。
しかし、民衆はモーセに、マナには飽きたので、肉がたべたい。我々を野垂れ死にせるために荒野に導いたのではないか。
エジプトに帰ればたらふく肉が食べられるので戻りたいと訴えた。
モーセは、身勝手な民衆に憤りを覚えつつも、民の声が神に届くように、”とりなし”の祈りをする。
すると、風が吹いてうずらの大群が民の宿営の周囲に舞い降りてきて、民は立ち上がってうずらを集め、鼻からハミでるほど食べた。
しかし神は、民がその肉が食べ尽くされないうちに、非常に激しい疫病で民を打たれたという(民数記11:31-33)。
さて、ヨーロッパの近代思想に「王権神授説」というものがあるが、聖書は「王権」のはじまりが、意外にも「民の声」から来たことを教えている。
イスラエルは王政に先立って、指導者が民衆を裁き導く「士師(しし)」の時代であった。
その1人がギデオンで、自分に統制を委ねようとした人に「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」(士師記8)と答えている。
それは、イスラエルの王は”神”であり、誰もそれに代わることはできないという信仰を表している。
士師ギデオンといえば、神が先頭に立って300人の精鋭でミディアンの大軍を同士討ちにする混乱を起こして勝利を得た話が有名である。
これこそ「主の名」のみが崇められる主の戦いであったが、民衆は「王が裁きを行い、王が陣頭に立って戦う」という行き方を求めた。
そしてBC11C頃に「サムエル」という預言者が現れ、民衆がもしも王を立てることを求めるならば、息子や娘を兵役や使役にとられたり、税金をとられたち、奴隷となることもあり得るとそのデメリットを語ったが、民衆は聞き入れなかった。
さらに預言者サムエルは、”王政”について「また、あなたがたの羊の十分の1を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう」と預言している。
それでも民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」(サムエル記上8章)」と応じている。
サムエルは民の最終意思を確かめ、「民の声」をとりなして神に伝えた。
すると神は、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と答えている。
こうして「王制」が始まるのだが、神はサムエルを通して、彼らが退けたのはサムエルではなく、”神”が彼らの上に君臨することを退けたのだと、応えた。
つまるところ、イスラエルの民が他のすべての国々のように王を望んだのは、自分たちの上に君臨し守り導く主なる神への揺るぎない信仰ではなく、自分たちの”武力”により頼んで行こうとする「不信仰」を表すものである。
それは民衆の「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかう」という言葉にも表れている。
つまりイスラエルは、ギデオンの時のような「主の戦い」ではなく、英雄を求め、武器や馬に頼る普通の国に転じていく。
そしてサムエルは、「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」と預言する。
実際、イスラエルの民衆は「王」によって、様々な辛酸をなめることにもなる。
サムエルが神の言葉によって立てた最初の王サウル王は、「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民はだれよりも肩から上、背が高かった」(サムエル記上9章)。
ある戦いで、サウル王が逼迫した戦況のため、預言者サムエルが来るのを「待ちきれず」に燔祭を行う。
これは預言者がすることで、国王がすることではなかった。それは「民の声」に動かされた可能性が高いのだが、それ以後、サウルがなすことはことごとく裏目に出て、精神的にも狂ってしまう。
預言者サムエルはサウル王に「あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」(サムエル記上13章)と預言する。
そしてサウル王の後、ダビデ王とソロモン王の全盛期を迎えたが、成立した王国はわずか数十年で分裂し、北のイスラエル王国は分裂後、ちょうど200年目のBC722年に滅び、南のユダ王国はBC587年に滅び、ダビデの家の支配が終わる。

紀元前数年の頃、聖書の予言通り、ダビデの系図からイエス・キリストが誕生する。
「ダビデの子」イエスは、聖書の預言に応じて表れた「メシア」(救済者)であることを自ら公言し、「キング オブ キングス」とも称されるが、イエスの存在の意味が弟子たちによって理解され、広く知られたのは、十字架の死と”復活後”であった。
、 イエスには直接選んだ12使徒の他さらに行動を共にした70人の弟子たちがいた。その他に、イエスに従っていた婦人たちがいた。
そしてさらにその周りに、イエスについていけば「何かいいことあるかも」と期待を抱いていた群衆がいた。
しかし群衆ばかりではなく弟子達も、イエスが自ら「十字架」に向かうという我が目を疑うような結末につまづいた。
それまで群衆は、イエスを「王」に担ごうとしてつき従ってきたといってよい。
ローマ帝国を打倒してユダヤ人の王をたて独立を勝ち取れば、今のような屈辱的な生活から逃れられると思っていた。
たまたまイエスが十字架にかかった日は過ぎ越しの祭りの日で、当時ユダヤには刑にかかる者の中で一人を恩赦する習慣があった。
イエスを裁いたローマ総督ピラトはイエスのどこにも罪がないことを認めたがために、熱心党のバラバかイエスかのどちを解放してほしいか、と民衆の側に責任を投げ渡したのである。
そしてこの時の「イエスかバラバか?」というのは、ある意味で全人類的な「問いかけ」にも聞こえる。
イエスに失望して民衆は、ローマからの独立闘争の指導者バラバの方に期待をかけ、「バラバを解放せよ、イエスを十字架へ」と叫んだのである。
この応答はとてもシンボリックで、群衆が望んだことは結局はコノ世における「解放」であり、「永遠の命」や「神の国」などに関心があるはずもなく、当面の現状を変革しようとしないイエスにほとんど人々が「つまずいた」のである。
イエスは、聖書の預言と自らの振る舞いを対照させるなどして、自らの「神性」を世に表したものの民衆は理解せず、たかか大工のせがれに過ぎないイエスの言動を「神への冒涜」とみなしたのである。
このモーセ以来、1500年以上にもわたって預言されたメシヤ(救世主)がイエスであったことは、生前には全く理解されずにきたが、十字架の死後に、数々のイエスの「復活の証人」が現われ、イエスがようやく聖書の預言されたメシアであったことが理解されるにおよびエルサレムで「初代教会」が成立する。

イスラエルは、紀元70年に滅ぼされるが、イエスの復活を語るパウロやペテロによって精神面においローマを支配することになる。
ペテロの 後継者とされるローマ法王によりローマの皇帝は任命され、キリスト教は392年に国教になる。
そしてローマ法王が皇帝と認める際に行うのが、皇帝に「油を注ぐ」ことなのだ。
実は、キリストとは「油そがれし者」という意味なのである。
それはイスラエルで預言者が、”王”となる者に対してなす「油を注ぐ」ことと一致している。
つまり、このことによってローマの皇帝は他の国王に勝る権威をえたし、ヨーロッパの支配者となりえたのである。
ローマ帝国は東西に分裂し、476年に西ローマ帝国、1453年に東ローマ帝国は滅びるが、西ローマ皇帝の権威を継承したのが、神聖ローマ帝国であった。
この神聖ローマ帝国は、選帝侯より選ばれたが、 その神聖ローマ帝国も1806年になくなるが、現代もローマの延長上にある感じがする。
そして、我々にとって重大なのは、ローマの隆盛ではなく衰退の方かもしれない。
政治への無関心とポピュリズム的傾向、道徳の退廃、努力嫌いとか伝統の軽視なども、結構今日に通じるものがある。
古代ローマを表すのに「パンとサーカスの都」という言葉がある。
ここでいう「サーカス」とはアクロバチックな曲芸ではなく、血なまぐさい見せ物であった。
それは、「剣奴」といわれる奴隷達に、相手を倒すまで戦わせるという見世物であり、刺激を求めるローマ市民にとってこの上ない楽しみであった。
その出場者を育てるのを目的とした剣奴養成所までも作られた。
こういう見世物の現場こそが、イタリア最大の観光地・コロッセウムであり、収容人員は5万人にも達した。最下階にはライオンの檻が設置された。
ローマは、広大な属州から搾り取った富がどんどん流れ込んで、その富がローマ市民に分配された。
したがってローマ市民であれば、何も財産がなくても食べるに困らず、娯楽も無料で楽しむことができた。
ローマの皇帝は、民衆の支持もしくは軍人に支持されてこそ安泰であったため、ばらまくだけばらまいたのである。
また皇帝達は、人気取りのために国家の祭りや記念日を増やし、そういう祝日祭日に市民は「サーカス」を見て楽しむことができる。
また皇帝や軍人達が行う市民サービスとして現在そのいくつかが世界遺産になっているのが、「公衆浴場」であった。
ところで、「世論」と「民の声」とは異なる。世論形成に大きな役割を果たすのが、マズメディアであるが、「民の声」を形成するのは人々の生活である。
アメリカのトランプ大統領は、世論では不利といわれていたが、フタをあけてみるとトランプが大統領に当選した。
日本社会が政治的な制度という面で大きな影響をうけたのは、ローマ影響下の大陸よりもイギリスである。
イギリスの市民革命後、ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治はうまくいった。
二度の革命を経て、議会が大きな権限を持つようになり、それに加えて、もともとオランダ総督だったウィリアム3世はイギリスの内情をあまり知らなかったので、自分から積極的に政治に関与しようとしなかったこともある。
この国王と議会の関係により、憲法など、法律に基づいて行われる「立憲政治」の基盤が出来上がる。
ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかったため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位する。
アン女王の時代の1707年には、イングランドがスコットランドを併合する。
アン女王にも跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、「ステュアート朝」が断絶する。
アン女王の死後、ジェームズ1世の曾孫にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯だったジョージ1世を王として迎え、新たに「ハノーヴァー朝」がはじまる。
「選帝侯」というのはドイツ皇帝の選出権をもつ有力な諸侯のことである。
ジョージ1世はドイツ語ではゲオルグ1世。ちなみにハノーヴァー朝はその後第一次世界大戦でドイツが敵国となった関係でドイツ系の名称を嫌い、1917年以降、宮殿の地名に由来する「ウィンザー朝」という王朝になっている。
ジョージ1世は、40歳を過ぎイギリス国王に即位し、英語が苦手で、ドイツ滞在が多かったため、国王に変わって、首相と内閣がイギリスの政治を行うという制度が発展する。
こうした流れを受けて、ホイッグ党のウォルポール首相のもと、内閣が議会に責任を負うという「責任内閣制」が確立する。
ジョージ1世以降、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス王の地位と責任内閣制を象徴する言葉が生まれた。
こうして、内閣が国王ではなく議会、いいかえると「民の声」代表に対してその責任を果たすというカタチが出来上がったことである。
聖書は「民の声」が徹底的に自分本位でしかないことを教えているが、そんな「民の声」を代弁する議員とは、どんな存在なのだろうか。
さて、理念としての民主主義は、議員内閣制というカタチをとり、「責任内閣制」でより具体化されるが、その意義は血を流さずに「政権交代」が可能になったという見方ができる。
日本は、それらの制度が整っているのだが、ほとんど政権交代が期待できない状況にある。
日本では「大衆批判」はタブーに近いものがある中で、昨年亡くなった評論家・西部邁(にしべすすむ)は、スペインのオルテガの思想に依るところ大きく、するどく「大衆社会」を批判を繰り出しきた。
ホセ・オルテガ・イ・ガゼットは19世紀のスペインの思想家である。その著書「大衆の反逆」で、大衆社会の愚劣さを間断なく語りつくしている。
今読むとその”貴族臭”に違和感をもつが、少なくとも民主主義というものが優れた政治制度などという思い込みに、”待った”がかかる。
大衆民主主義は、一言でいうと”付和雷同的”な社会の傾向のことで、西部は皮肉をこめて、オルテガでさえ地球の反対側の日本でこれほどの「高度大衆社会」が実現するとは思いもよらなかったことであろうと言っている。
さて、世界の政治史的な1つの流れは、為政者の耳が「神の声」から選挙権の拡大と共に「民の声」へと向かったプロセスということだ。
近代の代表民主制において、代表者は当然に国民の声を尊重するが、国民の声をそのまま映すような利害関係者なのではない。
イスラエルの預言者が「民の声」をとりなして神に受け入れやすくして訴えたのとアナロジーでいうと、代表者は「民の声」をより髙い「一般意思」(JJ・ルソー)に高める役割を期待されているからこそ、「選良(せんりょう)」という言葉があるのに違いない。
今、日本でも「分断社会」の兆しがあり、国家という枠組みが 薄れていく中、国民の「一般意思」などを見出すのは、ますます難しくなりつつある。
まして、政治家自身が「民(たみ)」と同化しては、国の方向が定まらぬのも致し方ないことだ。