林の樹の中の林檎

2016年本屋大賞を受賞した宮下奈都の小説の映画化したのが「羊と鋼の森」。
ピアノは鍵盤を叩くと、内部にあるハンマーが弦を叩いて、音が鳴る。音色を決定する重要な要素は、ハンマーにかぶせる羊毛のフェルトなのだ。
「このピアノの中にはいい羊がいる」というのは、ピアノの中に「鋼」を鳴らす「羊」がいるということ。
そのイメージが、「森」のイメージと結びついたということである。
ピアノを表す「羊と鋼の森」に、旧約聖書にある「林の樹の中の林檎」という言葉が思い浮かんだ。
「わが愛する者の男子(おのこ)らの中にあるは林の樹の中に林檎のあるごとし」(雅歌2章3節)。
これは、ソロモン王が歌った女性の麗しさを表現するものだが、ものづくりの過程で生じる人と人の接点の中で、本人達は気づかずとも、"林の樹の中の林檎"のように浮き上がってみえる出会いがある。
さて、ピアノやオルガンは、日本ではどのように作られるようになったのだろうか。
日本国産オルガン製作は意外な展開から生まれた。1851年山葉寅楠(やまはとらくす)は紀州で生まれた。
徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始め、その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての学んだ。
1884年、医療器械の「修理工」として静岡県浜松に移り住み、医療器械の修理、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をたてた。
或る時、浜松尋常小学校で外国産のオルガンの修理工を探していた時、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼したのである。
校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉は、ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。
実は山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
音楽の都・浜松の種は、この時に播かれたといってもよいかもしれない。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの試作を開始した。
試行錯誤2ヵ月で国産オルガン第1号が完成し、学校に試作品を持ち込んだが、残念ながらその評価は極めて低かった。
そこで、山葉と河合は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で専門家に教えを請うことにした。
当時はまだ鉄道未開通で二人は東京まで実に250kmを天秤棒でオルガンをかついで運び、「天下の嶮」とよばれた箱根の難所も超えて、それを記念する碑が箱根の峠に立つ。
二人は、音楽取調所の伊沢修二学長の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
そして山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも国産第2号オルガンをつくり、伊沢修二は、この第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押した。
山葉はその後単身アメリカに渡り、「ピアノの国産化」にも成功している。
さて、ピアノやオルガンが必ず一台置かれている場所といえば、キリスト教会。
鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。
鉄川家がいつ頃から建設業にかわったのかは正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が同寺の棟札に記録されている。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に装飾としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
以前、愛知県の「明治村」を訪れたことがある。
そこで、寺院建築と教会堂建築の「習合」形式の初期の建造物・「大明寺聖パウロ教会」をみることができた。鉄川家が最初に携わった初期の教会堂建築とはそのようなものであったであろう。
鉄川家のもう一つの転機は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。
これをきっかけに鉄川組は神父から西洋建築の手ホドキを受けて田平教会のリブヴォルト天井の建築方法などを学んだという。
1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業「鉄川組」を創業したとされている。
与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越えその施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及び、長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など今も地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な飛躍を与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県大刀洗町の今村教会の設計と建設をはじめ最数的に双頭の教会を完成させた。
今村教会にみられる二頭の教会は日本では数少なく、鉄川与助の技術が西洋キリスト教建築の水準に到達したことを示している。
さて、鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともに、ヤマハ製(山葉)のオルガンやピアノの音色が響いているにちがいない。
異なる分野で「国産化」に燃えた鉄川与助と山葉寅楠とは、陰画の樹の中に並び置かれた2つの赤い林檎のように見える。

明治の時代、それぞれ「フランス料理」と「クリーニング」という別世界で生きた二人が、皇室御用達という点で接点をもった。二人の店はそれぞれに発展し今も場所を変えながら存続している。
それは、築地精養軒の発展の基礎を築いた秋山徳蔵と日本橋に白洋舎を創立した五十嵐健治である。
さて、「宮中晩餐会」の模様がテレビで一瞬中継されることがあり、壮麗なシャンデリアや、食卓を飾る美しい食器を垣間見ることができるのだが、どんな料理が出ているのかと気になるところだ。
明治維新後、長崎、神戸、横浜が次々に開港するとそこの外国人居留地に役人や商社の人が使用するホテルも少しずつ建っていった。
そして、そこで働く日本人料理人は、西洋料理の技術を着々と身に付けていた。
しかし、訪れた外国の要人を泊めるホテルや、彼らをもてなす「西洋料理店」は東京にはいまだなかった。
それを国恥として、当時岩倉具視の側近であった人物が、洋食店とホテル経営に乗り出すことになった。
そして、1872年に我が国初の西洋料理店「築地精養軒」を創設したのである。
築地精養軒創設の後、上野公園の開設とともに上野精養軒も開かれ、両精養軒では、開業当時から、フランス人を料理顧問におくなど、本格的なフランス料理への取り組みをはじめていた。
そしてその精養軒の黄金時代を築いた鈴本敏雄の弟子にあたるのが秋山徳蔵である。
1888年、秋山徳蔵は 福井県武生の比較的裕福な家庭の次男として生まれた。
秋吉は東京から来た軍用の料理人と知り合い、洋食をはじめて食べさせてもらう体験をした。
そして、その味が忘れられず、東京へ上京し西洋料理の道をひたすら究めようときめた。
秋山は精養軒はじめいくつかの名店で修行した後に、1909年に料理の修行のために21才で渡欧した。
当時、料理のために留学する日本人など皆無だったといってよい。
秋山は言葉のハンディにかかわらず頭角を現し、フランスでシェフと呼ばれるところまでになる。
そして、大使館より「天皇ために料理をつくらないか」という話があり、1913年に帰国して、宮内庁内での料理人としての歩みを始めることになる。
秋山は弱冠25才で宮内省大膳寮に就職し、1917年には初代主厨長となり、大正・昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大礼の賜宴、宮中の調理を主宰した。
そしていつしか、人々は秋山のことを「天皇の料理番」とよんだのである。
現在のクリーニング・チェ-ン白洋舎の社長は五十嵐丈夫氏で、この五十嵐丈夫の父親が白洋舎を創設した五十嵐健治である。
作家の三浦綾子が100通を越える手紙のやりとりを元に小説「夕あり朝あり」(1987年)を書いたことにより、彼の生涯がはじめて知られた。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
三国干渉に憤慨しロシアへの復讐を誓い北海道からシベリアへの渡航を企てるが、だまされて原始林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられた
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教のことを聞き、市中の井戸で受洗したという。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として「宮内省の御用」を務めるが、そのことが彼の人生を大きく変えることになる。
宮内省をはじめ、宮様、三井家など上流階級の顧客を紹介してもらえた。
五十嵐は三越を通じて学者を紹介してもらい、当時の日本では未完成だったベンゾールを溶剤にして石鹸に似た物質を入れると、水溶性の汚れがよく落ちることに気づいた。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に白洋舎を創立した。
独力で日本で初めて水を使わぬ洗濯法つまりドライクリーニングの開発に成功した。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を「天職」にしようと決心したという。
1920年白洋舎を株式会社に改組した時、その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」をあげている。
また本社の近くや多摩川工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員にキリスト教の福音を伝えた。
五十嵐は1972年に亡くなったが、その2年後に秋山が亡くなっている。
秋山が料理に出す際のテーブルクロス、シェフの服などは当然に、五十嵐の白洋舎でドライクリーニングされ純白になって戻ってきたのであろう。
二人が実際に出会ったかは不明だが、秋山と五十嵐の人生が"林の樹の中の遭遇"のようにクロスしていた。

1964年10月1日、東京オリンピック。雲ひとつない晴天の日、聖火最終ランナー・坂井義則により点火された灯火は、大会最終日の10月24日まで燃え続けた。
坂井義則は広島出身の早稲田大学の陸上選手。その大役に選ばれた理由は、原爆投下の日を誕生日としたためで、オリンピックが平和の祭典であるというメッセージをその走りに込めたものだった。
ちなみに、坂井は大学卒業後、フジテレビに入社するが、故逸見正孝と同期である。
実は、この「聖火台」が作られたのは、1962年に公開された吉永さゆり主演の映画の舞台となった「キューポラのある街」である。
埼玉県の川口市は、火鉢などの鋳物を製造する街として知られ、その巨大な煙突のような溶鉱炉をキューポラという。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助のもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。
このアジア競技会とは、1958年5月に開催された第3回アジア競技大会のことである。
川口鋳物師の心意気を見せようと、萬之助は、期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。
聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
ここで「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄のこと。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。
強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。
しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助は、その8日後に帰らぬ人となった。享年68。
その壮絶な死は、息子の文吾には伝えられなかった。
完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ鈴木文吾にかかる重圧が大きすぎると心配した家族の苦渋の決断だった。
やがて葬儀の日がやってきて、文吾は初めてそのことを知ることとなった。
父親を見送る文吾は「弔い合戦」と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
やがて迎えた湯入れの日、そしてついに成功。
ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
この聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、それから6年後の東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で聖火を燃え上がらせた。
聖火台には「鈴萬」の文字が刻まれていた。
ところで、市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」に印象的な場面がある。
聖火トーチが富士を背にもうもうと白煙を上げ、風にたなびく。
市川作品に収められた前回の東京五輪用トーチを製造したのは、「日本工機」(東京)の前身、「昭和化成品」であった。
組織委員会から課されたのは「雨にも風にも消えない炎」「夕闇でも目立つ大量の白煙」との難題二つ。
その難題に挑んだのは、同社技術者であった門馬(もんま)佐太郎である。
門馬は戦時中海軍火薬廠で照明弾の研究製造に従事し、戦後は民間会社で発煙筒など扱って来た。
トーチは横浜の同社の戸塚工場で作られたが、その時、門間は工場の技術課長の地位にあった。
東京オリンピック以前に、アジア大会の時に日本体育協会の依頼で作ったことがあった。
その時門間は研究課長で、薬剤に何を使えばよいか分からず、東大に知恵を借りに行ったりもした。
そして東京オリンピックに向けて制作したトーチの特徴は、強く振っても消えないし、雨にあたっても平気、水の中でも燃えるというほどの自信作となった。
厳粛な式典にふさわしい火でなくてはいけないというので、薬剤の主体を「赤リン」にした。
リンは昔から神秘的な感じのものでメラメラした橙色の光を出し、環境意識も低く白い煙も演出効果満点だと好評であった。
当時の門間佐太郎は、火の粉がランナーの目に入ることのないように火の粉を出さないようにするためにも、品質管理を徹底して行った。そのため8000本作るのに1000本のテストをやり、採算など度外視したことなどを語っている。
聖火点火の場面こそは、ものつくりに執念をもやした鋳物師・鈴木萬太郎と砲弾職人・門間佐太郎との互いの人生が、"林の樹の中の光”のように交叉した。
ただ門間はその2年後の1966年2月4日、全日空機60便の羽田沖墜落事故により死亡(享年46)。
2019年7月、「はやぶさ2」に搭載された衝突装置により、人工的にクレーターをつくり、内部物質の採取に成功した。この衝突装置を開発したのが日本工機、なんと門間佐太郎のトーチは「はやぶさ2」に引き継がれていたのだ。

さて、その息子の門馬隆は早稲田大学入学の年が東京オリンピックの年で、奇しくも最終聖火ランナーとして聖火台へ父親のトーチを傾けた坂井義則と同じ大学に通っていたことになる。
それは決して出会うことのない星々の”遭遇”のようなものだが 今日では環境重視のため、炎が小ぶりで煙も少ない聖火が主流なのだという。
ちなみに、坂井は大学卒業後、フジテレビに入社するが、アナウンサー・故逸見正孝と同期である。
火と取り組む25年の歴史を歩んだレジェンドである。
さて「日本工機」(「))は、門間らの築いた技術的土台により、2019年7月「はやぶさ2」の宇宙実験におい再び重要な役割を果たすことになる。
日本工機が開発した「衝突装置」は、秒速2キロメートルの超高速で小惑星に向かい、爆薬約5キログラムの爆発による圧力で銅板が球状に変化し、最大直径10メートルほどのクレーターを形成する仕組み。
トーチは英語で松明の意味、外径35センチの円筒形で、長さ54.5センチ。マッチなどの酸化剤に使われる二酸化マンガンと赤リン、木粉、アルミニウム、マブネシウムが主成分である。
リレーすると火つきがよいよう、頭部にマッチと、テルミットに似た加熱剤がついており、全体で500グラム。
火と取り組む25年の歴史を歩んだレジェンドである。