歴史のファインダー

近現代史には、様々な写真があるが、幕末に多くの写真をとったのは、上野彦馬(ひこま)という人物。
長崎銀屋町で蘭学者の次男として生まれ、日田にあった広瀬淡窓の私塾、咸宜(かんぎ)園で2年間学ぶ。
咸宜園を離れた後の1858年にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(せいみがく/化学)を学んだ。
このとき、蘭書から湿板写真術を知り、同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功する。
つまり、化学の視点から写真術の研究を深め、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、1862年には堀江と共同で化学解説書「舎密局必携」を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で日本における最初期の写真館「上野撮影局」を開業し、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官などの写真を数多く撮影した。
その他に日本初の天体写真となる金星の太陽面通過の観測写真を撮影。
1877には日本初の戦跡写真となる西南戦争の戦跡を撮影し、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。
一方で写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、多くの門人を輩出し、1904年、長崎で67歳で死去している。
さて個人的に印象的な写真といえば、サムライ30名ほどがスフインクスの前で休憩している写真。
「スフインクスとサムライ」というあまりにチグハグな出会いは、勘ぐればコマーシャル用の合成写真のようにさえ見えてしまう。
しかしこの写真はマガイ物でもなんでもなく、正真正銘1884年にエジプトで立派な写真家によって撮られた写真なのだ。
1863年末つまり明治維新の4年前、フランスとの外交交渉を主とする「文久遣欧使節団」は仏艦ル・モンジュ号は池田筑後守を団長とする徳川家の家臣34名をのせ横浜を出航した。
江戸幕府が1858年にオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと結んだ修好通商条約で交わされた新潟・兵庫のニ港および江戸・大坂の開港開市の延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のためのものである。
往路、エジプトに15日間滞在し、二本のレールを走る火輪車を見たり、蒸気ポンプで稼動する製鉄所を見たりしている。
そしてスフィンクスの前で記念撮影したのがこの写真である。
一行はピラミッドはもちろん異文化に驚いたろうが相手方も珍奇なイデタチの日本人には興味を覚えたことだろう。
1864年3月13日パリに到着したが、交渉は不調に終わった。
ところでこの「サムライとスフィンクス」を撮ったF.Beatoはイタリア生まれでイギリス国籍を持ち、クリミア戦争・インドのセボイの反乱など主に戦争写真を撮ってきた「従軍写真家」である。
開国前の日本の混乱期に興味を示し1863年春頃来日し、幕末から明治初期の日本の風俗・風景・戦争写真などをジャンルを問わず数多く残している。
上野彦馬が長崎に「写真撮影所」を設立したのが1862年であるから、その活動時期が重なる。
驚きの写真といえば、第一次世界大戦中に日本人が敵国ドイツ人と親交を深めている写真。
戦争の敵対国同志にこれほどの交流があったとは、今日のようなテロと紛争が横行する時代からすれば、痛快でさえある。
場所は、讃岐山脈の山裾に抱かれた穏やかな徳島県坂東、四国霊場めぐりの一番札所である霊山寺があり、昔より心傷ついた者達を暖く受け入れてきた。
1920年この坂東の村にドイツ人俘虜収容所がつくられた。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえたドイツ人捕虜達を日本国内各地の捕虜収容所に送り込んだ。
この収容所の所長は松江豊寿(まつえとよひさ)で、会津で生をうけたがゆえに、収容所長にして松江は敗者の側の気持ちを十分理解できたはずだ。
松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない」。
そして国際法にのとってドイツ兵を遇した。そして日独の驚くべき文化交流がうまれた。
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。
また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。
ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソーセージつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。
彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリーダーとする楽団で日本で始めてのべートーベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。
エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。
その中には練習場として使った徳島市の「立木写真館」の人々もいた。
エンゲル楽団は日本を去っても「第九」は残り続け、大晦日に「第九」の合唱が響いていくようになっていくのである。
NHKドラマ「なっちゃんの写真館」(1980年)は、立木写真館の人々をモデルにしており、当時徳島にあった海軍航空隊のエピソードが登場する。
ある日、3人の学徒兵が外出がてらに主人公の家で記念写真を撮る。
後日そのうちの1人が不意に写真館を訪れ、夏子とキャッチボールをする。
それからほどなくして写真館に一通の手紙が届く。
「この手紙が読まれる頃私たちはもうこの世にはおりません」。
3人は特攻隊員であった。ちょうど、2人の特攻兵が佐賀県の鳥栖小学校を訪れ、ベートーベーンの「月光」を演奏した出来事を思いおこす。
二人は音楽学校の学徒で出撃前に思いのままにピアノを弾くために、目達原基地に近い日本に二台しかないドイツ製のフッペルのピアノを弾きにきたのだった。

東京・文京区にある映画会社に貯蔵された1962年公開の映画「あすの花嫁」のフィルムには、「萩本写真館」が登場する。
「萩本写真館」は昭和のコメディアン萩本欽一の実家で、映画では吉永小百合演じる役の実家として使われたという。
萩本家は、香川県高松市にルーツがある。そこで饅頭屋をやっていた欽一の父・萩本団治は自分の力で勝負したいと高松を飛び出した。
団治は東京の上野広小路のカメラ店に住み込みで働き、24歳になっ時に見合い話があり田岡トミと結婚。
2人はその後、子宝に恵まれた1941年には萩本欽一が誕生した。
その後「萩本商店」を開店してカメラの販売はフィルムの現像などを引き受けた。
太平洋戦争が起こると団治はゴミ同然になったカメラの部品を買い取っていた。
戦争後には平和が来るので、それまで材料を買い続けると語っていたという。
1945年に終戦になっても奇跡的に戦火を免れていた「萩本商店」は、カメラを作って上野地下鉄ストアビルで販売した。
1946年に団治は進駐軍相手にカメラ販売が絶好調で、各地に支店を出店したり工場を新設したりしていた。
しかし1947年になるとGHQは「ロールフィルム」の生産中止を命令を下した。
そこで団治は新しいカメラの開発に取り組み、1948年に「ダン35」が完成した。しかし「ダン35」はまったく売れなかった。
それもそのはず、当時はこのカメラに使うフィルムが流通していなかったのだ。
団治は多額な借金を背負うことになり、1950年に萩本商店は倒産した。
萩本商店の倒産で家族の生活は一変した。膨らんだ借金のために団治は家を空けがちになった。
母トミも自分の髙価な着物を質に入れした。
トミは一切の愚痴をこぼさずに、子どもたちには、仕事をしたら男性は家に返ってこないなどと語っていたという。
しかし借金取りが家にやってきて、母が謝罪している姿を見て欽一はとっさに仕事をしようと思ったという。
一家は解散して、欽一はコメディアンを目指し、「浅草東洋館」に飛び込んだ。
そこで人気コメディアンの東八郎を師とあおいで芸のイトハを学んだ。
1966年に坂上二郎と「コント55号」を結成した。
欽一はテレビに出演するようになり、アパート暮らしの母トミを迎えに行って10年ぶりの再会をした。
しかし母は、息子が”笑われる”職業についていると息子に近寄らなかったという。
それでも欽一は仕事に勤み、その活躍がお笑いの地位と質を向上させていった。
父の萩本団治はその後、故郷である高松市に戻って兄の営む写真店の現像係として働いていたことがわかった。
いつも萩本欽一を気にかけていて、1943年に亡くなっている。
疎遠だった母子の距離が短くなるのは長野オリンピックの年の1998年。
萩本欽一が閉会式の司会を務めた時、息子の晴れ舞台に母トミは涙を流し、2008年に101歳で亡くなった。
萩本欽一は73歳で駒澤大学に合格し、仏教学部に在籍中で、2020年に卒業予定である。
実は、萩本欽一には出すことができなかった大学の入学願書の下書きがあり、萩本欽一は大学に行くことで母へのお返しが出来た気がすると語っている。
さて、昭和のバラエティ番組の司会者で元参議院議員の大橋巨泉は、東京市本所区(現・東京都墨田区)両国生まれで、 祖父は江戸切子の名人であった。
実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。
同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、 幼い萩本と大橋はその当時からの知り合いなのだという。

ノンフィクション作家・工藤美代子の「工藤写真館の昭和」(1993年/講談社ノンフィクション賞)の冒頭には、摂政宮時代の裕仁(昭和天皇)の写真撮影における興味深いエピソードが書かれている。
後に写真館を設立した工藤哲朗は当時、千葉の陸軍航空隊の写真技師であった。
摂政宮の行啓にあたり工藤哲朗に撮影を申しつかる栄誉にあずかった。
しかし、上下白い服を着ること、撮影の際には、摂政宮の顔をみてはならないという注文がついた。
工藤は、摂政宮の顔を見ずにどうやって写真をとるか何度もリハーサルを行う。
摂政宮が通る時間も道もあらかじめわかっている。
そこで、カメラを抱え下を向いて、あらかじめ測ってある歩数だけ前進してから立ち止まる。
パッと、摂政宮の立っている方角にカメラを向け、いそいでシャッターを切ると、また下を向き、そのまま下を向いて後ずさりする。
絶対に撮り直しのきかない被写体だけに、哲朗は緊張のあまり汗まみれになったという。
結局、いい写真は撮りようもないが、その天皇を真正面から撮った写真がある。ただし、外国人によって。
終戦後の昭和天皇とマッカーサーが並んだ写真で、日本国民にこれほどインパクトを与えた写真はない。
それは、日本の敗戦を深く印象付ける写真となった。
1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送をもって「ポツダム宣言」受諾を表明し、日本は敗北を受け入れ、大東亜戦争(第二次世界大戦)は終結した。
同年8月30日、厚木飛行場に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー着陸した。
来日したマッカーサーは、日本軍の無条件降伏調印、また日本政府に事前通告なしに東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕など行う。
9月10日、昭和天皇を「戦犯」として裁くことがアメリカの政策であるとの決議案が、アメリカ議会に提出され、いずれ天皇や皇族も、戦争犯罪人として逮捕される可能性があった。
9月27日、暗殺や逮捕の恐れもある中、昭和天皇はマッカーサーに会うために通訳一人だけを連れて、アメリカ大使館公邸を訪れた。
大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、わずか2人の副官だけだった。
昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサーは第一次大戦直後、占領軍としてドイツへ進駐した父に伴っていた時、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元に訪れていた事を思い出していた。
カイゼル皇帝は「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい。」と命乞いを申し出たのだ。
同じような命乞いを予想していたマッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。その姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。
そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」。
そして「罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と語った。
この言葉に、マッカーサーは驚いた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。
マッカーサーはこの時の感動を、「回想記」にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」。
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーは予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。
この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答している。
マッカーサーと昭和天皇は、この後合計11回に渡って会談を繰り返し、昭和天皇は日本の占領統治の為に絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、マッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら「天皇助命」の先頭に立った。
また当時、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対して食糧物資を支援させ日本の危機を救っている。
昭和天皇はマッカーサーとの会談につき、一切語らなかった。マッカーサーとの固い約束を交わしたためといわれるが、当時の通訳によってようやくその一部が明らかになった。