その時、聴こえた曲

日本の子守唄には、その土地の人間の言葉や風習が息づいていて、子守りのために雇われた奉公人をうたったものも多数ある。
例えば、熊本県の民謡としても知られる「五木の子守唄」や長崎県の「島原の子守唄」などである。
これらは民謡に近いものだが、実際に子供を寝かす「子守唄」には「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな」の、最も耳に馴染んだ「江戸の子守歌」などがある。
世界的に知られているのは、なんといっても「ねむれ ねむれ 母のむねに」で始まる、「シューベルトの子守唄」であろう。
さて、ロシアのウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど「超絶技巧」を誇るピアニストとして注目されていた。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
そして世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中ベアテ一家は日本に滞在し続け、東京赤坂に居を構えた。
ベアテ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなっていた。
幼いベアテにとって、家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となった。
そしてベアテは当時目黒区にあったアメリカンスクールに通い、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めた。
しかし自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、悟らざるをえなかったという。
しかしベアテは、ベアテ家に集まる人々との情報のやり取りの中で様々なことを吸収していった。
そしてもう一人、ベテルの精神形成に大きな影響を与えたのが、家政婦の小柴美代であった。
彼女は高い能力がありながらも「教育を受ける機会」がなかった当時の日本人女性を代表しているような女性であったという。
そしてベアテにとって小柴は一番身近に接していた日本人女性であったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたのである。
小柴を通じて、ベアテの心の中に「日本の女性」についての情報が蓄積されていった。
好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられる。
結婚の前に一度も会わないことすらもあり、そういう結婚のために嫁いだ先でトラブルに悩まされ、理不尽な生活に追い込まれている女性達がいた。
日本では正妻とおめかけさんが一緒に住んでいる話、妻からは離婚は言い出せないとか、夫が他の女性に産ませた子を養子として連れ帰った話、東北の貧しい農家では娘を身売りに出しているとかいう話を知った。
ベアテ自身も幼いながらも、日本女性が置かれている状況について身をもって感じとっていた。
またベアテにとって忘れられないの日が、1936年2月26日の大雪の日であった。
226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、ベアテはそれを実際に見ながら、日本人は表立っては優しいのに、内面に過激なものを秘めていると強く思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心に感じとった。
そして1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
そこで両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにある名門女子大学ミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジは全寮制の女子大学で、ベアテにとってこの大学が「女性の自立」について深く学べる場所となったのだという。
ベアテ女史は、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしたことがあたがそれが大いに役にたつことになる。
そして1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探し、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
そして民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
さらに「晴天の霹靂」であるかのように、ベアテ・シロタ・ゴードン女史が22才の若さで、日本国憲法制定の「人権委員会」のメンバーに選ばれたのである。
しかし日本に戻ってきたベアテ女史にとって思いで深い乃木坂の家は焼けつくされ、ようやく玄関の柱で確認できたのだという。
ベテア女史の両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、悲しみが抑えきれなかった。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベテル女史の抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという使命感によって次第に打ち消されていった。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテア女史の仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
それは誰にも相談ができないということを意味するが、「両性の本質的平等」(24条)などベアテ女史の草案作成には、赤坂の乃木坂の家で家政婦として働いていた小柴美代の存在が大きかった。
憲法草案作成の際に、ベアテ女史の耳元に絶えず聞こえていたのは、小柴美代が口ずさむ「子守唄」。
もしくは子守唄のようにも聞こえた"家政婦のミヨ”の様々な話であった。

1969年 東大安田講堂において高く放物線を描く放水と、火炎瓶の煙。
その激しい攻防の末に安田講堂は落城へと至るが、バックにこの年にヒットした曲「夜明けのスキャット」が流れていた。
由紀さおりの「ルールルルー」の透き通った声が静かに語りかける。
後に海外でも高く評価された歌声だが、合いそうもない映像と音楽(BGM)とのこの不思議な「調和」は何なのだろう。
「言葉がない」歌詞というのは、それぞれの時代のへ思いが聞き手にすべて委ねられるということも、その理由のひとつであろう。
だがもっと重要なことは、言葉なきメロディの中に、はからずも世代間の「断裂」が表現されていたからではなかろうか。
そう思うようになったのは、「もうひとつの場面」と出会って以来のことだ。
2001年の911テロで世界貿易センターの崩落が起きた。その衝撃の場面をみながら、不謹慎ながら、サイモンとガーファンクルの「サウンド オブ サイレンス」の歌詞が、脳裏に浮かんだ。
旧約聖書の「創世記」に、天にまで届く塔をたてようとした人間に対して、神は「人が思いはかることはよろしくない」と、人々の言葉を乱したとある。
言葉を乱すということは、その思考回路までも乱したということだろうが、「バベルの塔」という言葉は、人間の不遜ばかりではなく、人間のコミュニケーションの「断絶」を意味する言葉なのだ。
そして、「サウンド オブ サイレンス」は直訳すれば「沈黙の音」で、こんな一節がある。
「その光の中で僕が見たのは1万人 たぶんそれ以上の人々/みんな しゃべってはいるけど会話はしていない/みんな 聴いてはいるけど聞いてはいない/みんな 誰に聴かせるでもない歌を書いている/そして 誰もこの"静寂"を妨げない 」。
さて911テロの10年後の2011年の9月11日、追悼式のニュースを聞いて個人的に驚いたことがあった。
式典でポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を歌ったというのだ。
それも、ポール・サイモンは当初、「明日にかける橋」を歌う予定だったが、急遽「サウンド オブ サイレンス」に変えたのだという。
推測だが、ポール・サイモンが世界貿易センターの「グラウンドゼロ」に立った時、「明日にかける橋」の親和感よりも、「サウンド オブ サイレンス」の断裂感の方がこの場にはよく似合うと、咄嗟の判断をしたのではなかろうか。
実際に、ポール・サイモンがギター一本で静かに歌い終えると、少なからぬ遺族たちが「あの曲こそがベストだった」と語ったという。
ところで、自分が大学に入学したての頃、連合赤軍事件や丸の内三菱重工爆破事件で、世の中や大学のキャンパスには、荒んだ空気が漂っていた。
若者も大人も、政治に厭(あ)いていたさ中、ABBAの「Dancing Queen」(1976年)の浮揚感は、我々を別世界に連れて行った。
歌詞の中身といえば、ディスコのフロアで周囲の視線をひとり占めする17歳女子の「輝き」を歌ったもの。
それでも、”See that girl Watch that scene、Dig in the Dancinng Queen!”のサウンドに、心が躍った。
「ABBA」の名は、4人の名前アグネッタ、ビヨルン、アンニ、ベニーの頭文字でてつくられた名前で、二組の夫婦で結成されたいわば「ファミリー・バンド」であった、
とはいえ、そんな幸せなファミリー・グループなんていう存在は、パンク・ロック全盛期の70年代当時には格好の「非難」の対象となった面がある。
SNSの時代ではなかったのが幸いだったと思えるくらい「酷評」を浴びた。
1970年代、ヨーロッパでは、ブラック・パンサーにIRA、日本の連合赤軍、イタリアの「赤い旅団」などの左翼ゲリラが跋扈する時代。グラム・ロックのようなムーブメントが生まれ、その代表がTレックスやスレイドだった。
ところでABBAは、オリビア・ニュートン・ジョンも参加した英国のコンテストで、「恋のウォータールー」という曲で優勝して、一躍世界に知られた。
従来の価値観を真っ向から否定して破壊する事を目的としていたパンク世代にとって、ABBAはまさに「天敵」だったといってよい。
しかしABBAは、彼らの強烈な音に対抗できるほどの魅力をもつサウンドを放った。
しかも、その楽曲の全てをメンバー、主に男性二人ビヨルンとベニーの作曲・プロデュースしていた。
ABBAの結成は、誰かの「発案」(プロデュース)よったものではなく、自然な成り行きだった。
四人は、音楽を愛する二人の親友と、それぞれの恋人が意気投合して結成した。
しかも、その全員がスウエーデンの音楽界でキャリアのあるスターだったというのだから、彼らの出会いそのものが伝説といってよい。
ゴミだとかカスとか酷評されたABBAの運命を変えたのが、「ダンシング・クイーン」であるが、最初に披露されたのは、とても意外な場面であった。
2012年にスエーデンに新王妃が誕生した。新王女の祖母にあたるシルヴィア王妃は、スウェーデンの王室で最も苦しく、困難な道を歩んできた王妃だといえる。
ロイヤルウエディングを迎えるまでに幾多の試練があり、ウエディングを終えてからも、国民からなかなか受け入れられない、という状況だった。
なぜ、シルヴィア王妃がスウェーデンの王室や国民に受け入れられなかったのかといえば、シルヴィア王妃がスウェーデンではない異国の一般市民だったこと、王子よりも2歳年上だったこと、父親が戦時中にナチス党員であったことなどが理由であった。
民間出身の美智子妃人気、ミッチーブームを巻き起こした日本とは、対照的ではあった。
シルヴィア王妃は、1943年にドイツ人の父、ブラジル人の母との間に、第4子として生まれ、4歳の頃から家族とともに10年間サンパウロで過ごした。
その後、ドイツにあるデュッセルドルフ市の高校を卒業し、その後スペイン語通訳の仕事について学んでいる。
スペイン語だけでなく、ドイツ語、ポルトガル語、英語、フランス語、スウェーデン語も流暢に話せるため、それを活かして通訳や国際的なイベントでコンパニオンとして活躍していた。
1972年に開催されたミュンヘン・オリンピックではグスタフ国王の担当コンパニオンに任命され、ここでスウェーデン王子として開会式に参席していたカール16世グスタフと知り合い、恋に落ちた。
カール16世グスタフがシルヴィア王妃に一目惚れしたともいわれており、生れながらの美貌ばかりではなかった。
というのは、シルビア王妃は、グスタフを一国の王としてではなく、ひとりの男性として接した点が、皇子の心をつかんだといわれている。
数々の困難を乗り越え、やっとの想いで結婚まで辿り着いた2人。出会ってから4年後にストックホルムの大聖堂で結婚式が執り行われた。
しかし、TV中継のインタビューでシルビア王妃が充分にスウェーデン語が話せないことが発覚し、王妃の資格がないという意見が澎湃と起こっていった。
ロイヤルウエディングの前夜祭、王妃はこわばった表情で国民の前に現れた。
だが、新クインーンの結婚を祝うために、思わぬ演出が待っていた。
スウェーデンで人気が上昇中のABBAが「ダンシング・クイーン」を世界で初めて披露したのだった。
そこには、「スウェーデン国民はあなたを歓迎しますよ」というメッセージが込められていた。
そして王妃の顔から見る見るうちに緊張が解け、ほほえみさえ浮かべることになる。
ロイヤルウエデイング当日、クリスチャン・ディオールの真っ白なウエディング・ドレスをまとったシルヴィア王妃。
ティアラは、ベルギー国王であるレオパルド3世が、娘のシャルロットにプレゼントしたもので、シンプルな中にエレガントさも兼ね備えた「さすが王室の結婚式」と感じられる式となっった模様である。
当初、周囲からの猛反対、国民からの受け入れがたい状況を乗り越え、シルヴィア王妃の明るい人柄、何事にも屈しない素質は徐々に受け入れられ、現在では高い人気を誇る王妃となっていった。
そして、「ダンシングクイーン」はABBAの運命をも変えることになる。
アグネッタは、「ダンシングクイーン」との出会いは、伴奏をきいただけで、鳥肌が立つような「何か」を感じたと語っている。
以後、「テイク・ア・チャンス」、「チキチータ」、「ギミー!ギミー!ギミー!」などのヒットを連発し、レコード・CDのセールスは、世界歴代4位を記録している。
ABBAは、全米1位の「ダンシングクイーン」を契機に、世代を超え国境を超えて受け入れられていく。