日の出る処

日本人の風景といえば、まずは富士の山。岩間を結ぶ注連縄の向こうから昇る太陽、遠景にうっすらと富士山が見えるならば、これぞ日本の風景といってよい。
そんな場所こそが、伊勢志摩の風景である。
2016年5月に開催された伊勢・志摩サミットで、安部首相も「伊勢は日本のふるさと」と語った。
特に、伊勢の初日の出を拝むのが、正月恒例の人も多い。
さて、「日の出るところ」を意味する言葉がオリエントで「東方」を意味する言葉となり、ものごとが始まるという意味で「オリエンテーション」という言葉が使われるようになる。
つまり物事のはじまりが「東方」と結びつくようになったのだが、太陽が昇る処に強い関心と興味をもつのは自然なことであろう。
ヨーロッパから見て、オリエントといえば「中近東」を指すが、それはあくまでヨーロッパ(イギリス)からの視点である。
実際、地中海に西岸が面したパレスティナの地は、ヨーロッパ文明の支柱「キリスト教」の揺籃の地であるから、ものごとが始まる場所という意識があった。
ところが、中東の人々にとって「日の昇るところ」はさらに東なのである。
太陽を神と拝する人々が、日の昇るところに「何があるのか」を確認したくて東へ向かったということはなかったであろうか。
そして、イギリス起点の「経度」でみて、日本より東方の国は存在しない。
日本は文字通り「極東」の国。日本という国名も「日の本(もと)」だし、国旗も「日の丸」。
遣隋使の小野妹子の煬帝に渡した「国書」に、「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致す」では、日本が自らを「日出る処」と位置づけている。
日本のことを「日の出るところ」とよび中国を「日没するところ」としたことに煬帝は怒ったらしいが、日本基点で地理的位置関係に言及したにすぎない。
煬帝が怒ったのはむしろ、世界に「天子」が二人存在することだったのかもしれない。
なぜなら、「天子」という言葉の奥には「宇宙をつかさどる」という意味合いがある。
太陽への強い思いは、いつしか太陽が昇る「東方」へ転じたことであろう。
とするならば、シルクロードをペルシアなどの宝物が最東端の日本に伝わったのは、日出る処の支配者への思いから生じたのではなかろうか。
実際に、日本の古代文化はきわめてコスモポリタンな文化であった。
奈良の正倉院が、シルクロードの終点ともいわれるのは、太陽への思いをもつ人々の終着点であったということ。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の宝物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
この正倉院宝物の多くは聖武天皇のものだといわれている。
そして、正倉院にはインド起源とされる「五絃琵琶」や古代ペルシアが起源とされる四絃の「螺鈿紫檀(らでんしたん)」の琵琶が現存する。
そうした文物の精巧さや精密さに驚かされるが、シュメール文明においては、石材に乏しいため大彫刻は発展せず、記念像や記念碑、建築の装飾彫刻等細かいものが多い。
金、ラピスラズリ、貝殻等を用いた精巧な工芸品が多く装飾技術の発達が著しい。
それは日本の伝統的な職人の「匠(たくみ)」を想起させるところである。
さて、日本人にとって、太陽の光を映す「鏡」が大きな位置をしめる。
もともと銅鏡は中国から日本にもたらされたものであったが、日本独自に製造されたものがある。
中華思想にあって周辺諸国に銅鏡を下賜することにより、その支配圏にある諸国を序列化したということでもある。
それは政治的な意味合いをもつが、日本の場合は宗教的な意味合いが強かったのではないかと推測される。
我々が博物館でみる「銅鏡」は裏面を見せており、何の変哲もない表面をほとんど見ることがない。
現代の鏡はガラスの裏面に銀メッキして光の反射を高め姿が映るようになっている。
しかし、古代の鏡は石や金属の表面をきれいに「磨き」上げることで光を反射させている。
日本では、素材として青銅や白銅を鋳造し表面をきれいに磨き上げたものだ。
もし巫女のような人が鏡をかざして人々に向かって光を反射させたら、まるでそこに太陽が降りてきたように見えるのではなかろうか。
そればかりか、光は心の内側までも照らし出すかのような畏れを抱かせたかもしれない。
その呪術的な効果は絶大であり、それだけに「銅鏡」は宗教的権威のシンボルとみなされたのである。
ちなみに福岡県糸島市の平原遺跡は、日本で最大の銅鏡が見つかった遺跡として有名だが、古墳の主である女王の四隅に埋められた銅鏡はいずれも粉々に砕かれた状態で発見されている。
何らかの事情で宗教的な権威を失ったとも思われるが、ミステリアスである。

近年、話題をよんだ書物「文明の衝突」(1996年)で、歴史学者ハンチントンは今日の世界は次の8つに分類されるとした。
(1)キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、(2)東方正教文明(ロシア・東欧)、(3)イスラム文明、(4)ヒンズー文明、(5)儒教を基礎とするシナ文明、(6)カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明、(7)サハラ南部のアフリカ文明、(8)日本文明。
この分類のなかで注目すべきことは、日本だけが「一国一文明」となっていることである。
ハチントン以前に、日本の文明が中国文化圏とは異質であることを指摘したのは、アーノルド・トインビーで世界文明を6つに分けた際に、中国文明と日本文明を異なる文明として数えている。
日本が中国文明と一線をかっするのは、大陸の東端にあり太陽への思いが強い人々の終着点であったということに求めたい。
その人々とは、具体的には中近東のシュメール文明の栄えたの地から来た人々である。
「シュメール」とは南部バビロニアの古名,また民族名,言語名。
前3800年ころから前3000年ころにかけて人類最初の都市文明を発展させ、形成期のエジプト文明にも影響を与えた。
ウル、ウルク、キシュ、ラガシュなどが中心都市で、これらの都市には日乾煉瓦を用いた神殿やジッグラトが建てられ、その跡から多くの遺物が発掘されている。
ちなみにジッグラトとは聖塔のことで、その最大のものがバベルの塔であった。
アッカド人によって都市国家から王国となり、ウル第3王朝(前2100年ごろ)時代に統一国家ができたが、エラム人、アムル人(アモリ人)の侵入で滅亡している。
日本では、東北地方の八戸あたりに、「シュメール文明」との関連した遺跡の存在が以前から喧伝されていたが、最近ではさらに「衝撃的」な発見が相次いでいる。
山口県下関市の西端、関門海峡を目の前にする彦島から、奇妙な模様=「ペトログラフ」を刻んだ石が次々に発見された。
江戸時代初期に、剣豪の宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った「巌流島」も、すぐそばに浮かぶ。
彦島八幡宮が鎮座する丘陵一帯は、縄文時代の石器や土器などの遺物が出土。
古くから人が住んでいた痕跡が残り、「宮の原遺跡」とも呼ばれている。
解読進めるにつれ、驚愕の事実がわかってきた。
なんと、それは、シュメールの古代文字だったのである。さらにこの後、ペトログラフは、九州北部と山口県西部の各地で相次いで発見された。
このペトログラフの発見のニュースは、日本の考古学界は殆ど無視を決め込んでいるものの海外で注目されている。
彦島といえば、平家と源氏が戦った「壇ノ浦の戦い」で、平家が最後の陣を敷いた島としても有名である。
また、彦島が平家と縁があるならば、思い浮かべる場所がある。
平家の落人が逃れた先の筑後川には、福岡県吉井町の珍塚古墳にエジプトのピラミッドの図とそっくりの「女官の船遊び」の絵が描かれている。
これはベトナムから来た人々が書いたといわれているが、本当にシュメール人が書いたのかもしれいない。
吉井町にあるこの古墳の名は「珍敷塚古墳」である。
古代バビロニアの日像鏡、月像の首かざり、武神のシンボルである剣は、日本の「三種の神器」に一致している。
さらには、古代バビロニアに多く見られる「菊花紋」は旭日を美術化したもので、皇室の「菊花紋章」に一致している。

コロンブスが1492年に、新大陸を発見したのはよく知られているが、歴史書はその動機を単純化しすぎるきらいがある。
コロンブスから遡ること250年、チンギスハーンによって、モンゴルはすさまじい勢いでその版図を広げたが、1241年、バトゥに率いられた モンゴル軍が現在のポーランドからフランスあたりまで侵攻する。
ドイツ騎士団と諸侯連合軍がモンゴルの軍勢を迎え撃つが完膚なきまでに叩き潰され、ヨーロッッパ側の驚愕は尋常なものではなかった。
そこで4年後の1254年に、リヨンで公会議を開いて、特使をモンゴル帝国に派遣する決定を下す。
その後、ローマ教皇によってカトリック神父が次々にモンゴルに派遣され、その中でも有名なのがマルコポーロである。
1171年に東方に旅立ち、元朝に仕えるという立場ながら、25年もの間アジアを旅してまわり、1295年にヴェネチアに帰る。
17歳に旅立って41歳になって帰国したわけだが、ヴェネチアとジェノバの間で戦争がおこり自らも参戦するが、運悪くジェノヴァの捕虜となり獄に繋がれる。
その獄の中で憂さ晴らしに, 同じ獄に繋がれていた作家に口述筆記させてできたのが「東方見聞録」として知られるものである。
この中に日本のことが書かれていて、「住民は、皮膚の色が白く、礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、独自国王をいただいている。この国ではいたるところに黄金がみつかるものだから、国人はだれでも莫大な金を所有している」とある。
ただし、これは伝聞にすぎないが、信用できるものではないという評判のたつことがあったが、15世紀後半にコロンブスやマゼランがこの本に触発され、黄金郷を探し出そうという夢を抱き、地理上の発見が相次ぐことになる。
さて、コロンブスの時代にスペインを治めていたのは、イサベルとフェルナンドというカトリックの両王であったが、対イスラムとの戦争での出費で国庫が払拭していた。
あまり知れれていないことだが、コロンブスを支援したのはキリスト教に改宗したユダヤ人達であった。
ユダヤ人改宗者の中には政府高官や高位の聖職者がいて、彼らがコロンブスを支えたのである。
ジェノヴァ生まれのコロンブスだが、ジェノバには多くのユダヤ人が住みコロンブスもユダヤ人であった。
つまりユダヤ人の支援によってイサベル女王は、コロンブスの航海にゴーサインをだしたのである。
このことは、コロンブスの航海動機を考えるうえで欠かすことのできない視点である。
宗教学者のエリアーデは、中国の桃源郷からプラトンのアトランティスまであるので、彼が求めたものはそのようなものであったのではなかろうか。
コロンブスがインドへと東ではなく西へ進んだのは、ガリレオの「地球球体説」を証明するためということになっている。
しかし、コロンブスは「ガリレオ説」なんかではなく、西へ向かえばどこか東方への通路があるぐらいの思いだったかもしれない。
南米アルゼンチンの現代作家は、コロンブスが当時の宗教意識に基づいた「異界への入口探しをしていた」という観点から伝記を書いている。
シュメール文明は、ユダヤとの関連も深い。なぜなら、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教における「信仰の父」アブラハムの故郷がシュメール最古の都市ウルである。
コロンブス自身がユダヤ人であることを含めて、その航海の旅は少なくとも東方の産物を求めただけのものではなかったことは確かである。

天皇が古代において「スメラミコト」とよばれたことに対して、幾分違和感を覚えるのは、それが他の文明の人々から見立てられた名のように思えるからだ。
実は日本において、シュメール文明についての研究は、戦前早くから進められてきた。「スメル学会」や「バビロニア学会」が組織され、何冊もの研究報告が出版されていた。
だが、そんな研究報告の多くがあまりにも驚異的な内容を含んでいたので、戦後の“実証主義”の歴史学のなかで、ほとんど故意に抹殺されてしまった。
実は、日本人とシュメール文明との関連を最初に唱えたのは日本人ではなかった。
元禄時代、日本にやってきたドイツ系のオランダ人歴史学者ケンペルである。日本の歴史を研究した彼は「高天原はバビロニアにあった」とし、「日本人は、はるか西方のその源郷から渡来した」と提唱したのである。
しかし、当時の日本には、まだ、民族の歴史を世界史規模で考えるだけの視野がなく、注目する人もいなかった。
戦前において、日本人の起源を シュメールに求めたのが三島敦雄である。
「スメ(皇)、スメラ(天皇)」とは古代バビロニア語のスメル(Sumer)と同語で、ル、ラは助辞の変化、シュメールとも発音された。
このスメとは神の意で、ラテン語のスメ(Summae)も至上至高の意で同系語である。
三島の大胆な説を要約すれば、「古代の日本列島にはさまざまな民族が渡ってきたが、建国の大業を経営統一した中心人種は、世界の諸文明の祖であるシュメール系民族だった。彼らは今から数千年前その大宗家たる皇室を奉戴して、人類文明の揺りかごである西の豊葦原の瑞穂の国から、日出ずる豊葦原の瑞穂の国に移住し、シュメール人本来の大理想を表現するためにこの日本を築いた」ということになる。
まるでアメリカを建国したピューリタンのようなイメージがわくが、根拠なき空論ではない。
「シュメール」という呼び名はアッカド語で、シュメール人自身は自分たちの国を「キエンギ」と呼んでいたる。
「キエンギ」というのは、「葦(あし)の主の地」という意味となる。
一方、日本では古来より、「豊葦原中国(とよつあしはらのなかつくに)」と称しており、豊かな「葦の原の国」という意味であり、何とシュメール語表記の「キエンギ」の意味と日本の古来の国名は意味が同じになっている。
ヘブライ民族の「出エジプト」を導いたモーセは、生まれてまもなく「葦の船」でナイル川に流されたことが思い浮かぶが、旧約聖書「創世記」にその位置が示されている「エデンの園」の地こそは、後にシュメール文明が栄えた地である。
ペトログラフと呼ばれる「岩刻文字」は日本ばかりか環太平洋で見つかっており、日本での発見が一番多い古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字だといわれる。
天に上ろうとしたシュメール人が、バベルで神の怒りをかい、日の出る処を水平にめざしたとはいえまいか。