戦慄の記録

「ビルマの竪琴」という映画は、リメイクにもかかわらず一度きりでそれ以上見る気が起きなかった。
理由は、兵士達の合唱がうますぎて、その嘘っぽさに気が引けたのだが、後にそれはとんでもない勘違いであることを知った。
世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めたインパール作戦。慰問や戦意高揚のための「うたう部隊」と呼ばれた部隊が実際にあったのだ。
したがって、歌がうまいことは自然なことだった。
インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になった。
兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
映画では、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
水島はその道中、高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人であるビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれたほどだった。
そうした中、僧になりすました水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという目撃情報が寄せられる。
そして皆は、あのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、同じくイギリス起源の「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の「葛藤」を次のように綴っている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。 いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。 死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか? おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。

2017年8月15日放映の「NHKスペシャル 戦慄の記録 インパール」を見て、「ビルマの竪琴」では分からなかった、兵士達の極限状況を知ることができた。
以下は、番組の内容をできるだけ忠実に記述したものである。
1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。
しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。
インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。
1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに進攻し、全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走した。
日本軍の最高統帥機関である大本営はインド進攻を検討するが、すぐに保留。しかし、1943年に入ると太平洋でアメリカ軍に連敗する。
戦況の悪化が再び計画を浮上させる。
そのころ、アジアでも体制を立て直したイギリス軍が、ビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。
1943年3月、大本営はビルマ防衛を固めるために、ビルマ方面軍を新設するが、司令官に就任した河辺正三は着任前、首相の東條英機大将に太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていた。
同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進し、インパールへの進攻を強硬に主張した。
しかし、大本営では、「ビルマ防衛」に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。
ではなぜ、インパール作戦は実行されたのか?
大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。
「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ」。
冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。
インパール作戦は雨期の到来を避けるため、3週間の短期決戦を想定し、3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行された。
南から第33師団、中央から第15師団がインパールへ向かう。その一方、北の第31師団(「ビルマの竪琴」に登場)はインパールを孤立させるため、北部の都市、コヒマの攻略を目指した。
大河と山を越え、最大470キロを踏破する前例のない作戦だった。
1944年3月8日、作戦が敢行される。3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たちの前に、川幅最長600メートルにおよぶチンドウィン河が立ちはだかった。
空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流されたという。
さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。
車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかなく、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。
大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。
作戦開始から2週間。インパールまで直線距離110キロの一帯で、日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起こる。
南からインパールを目指した第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1000人以上の死傷者を出す大敗北を喫した。
第33師団の師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいた。
その時、牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていた「ある言葉」を日誌に記録していた。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に「どのくらいの損害が出るか」と質問があり、「はい、5000人殺せばとれると思います」と返事。最初は敵を5000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5000人の損害が出るということだった。
まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。
実際、「何千人殺せば、どこがとれる」という言葉をよく耳にしたことだったという。
インパール作戦は敵国イギリス軍の戦力を軽視した戦いでもあった。
第31師団、1万7000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」で、師団長は、コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。
なぜなら、コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していたし、後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になったからだった。
当初、3週間で攻略するはずだったコヒマだが、戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えた。
しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。
日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。
東條大将は、インパール作戦が成功する確率は極めて低いという現場からの報告を受けているにもかかわらず、その翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。
上奏文では、「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」としている。
作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。
作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。
さらに牟田口司令官は自ら最前線に赴き、南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮を執る。
インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。
この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれているが、作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。
牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。
1944年6月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入っていた。
この地方の降水量は世界一と言われている。それにも加え、30年に1度の大雨に見舞われた。
3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていたと見られる。
大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月がたっていた。
しかし、インパール作戦の本当の悲劇は「作戦中止後」にむしろ深まっていく。
実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったからだ。
レッド・ヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。
チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。
腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。
一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団は、後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退した。しかし、ようやくたどり着いた村に、食糧はなかった。
当時の分隊長は、隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。
衛生隊にいた人は、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は1人もいなかったという。
「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ」。
作戦中止後、牟田口司令官は、その任を解かれ、帰国した。
牟田口司令官に仕え、「味方5千人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた齋藤博圀少尉は、前線でマラリアにかかり置き去りにされた。
雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。
前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。
「修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりしたという。私も恥ずかしくない死に方をしよう」と日誌に書いている。
死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか、国の公式の戦史にもその記録はない。
太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。
牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した文書には、数々の押印がある。
その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である」と。
牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国。
その後、結婚し家族に恵まれたが、戦争について語ることはなかった。
73年前、23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、日誌つまり「戦慄の記録」を書き続けた。
「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか」とある。
NHK取材班が、車椅子の齋藤博圀(96)を訪問し、氏の手による「戦慄の記録」を提示した。
「よくみつけたなあ。あんまりみたくないね。日本の軍人がこれだけ死ねば陣地がとれる、自分達が計画した戦が成功する、だから日本の軍隊の上層部は、・・・・・・(声が変調)悔しいけれど、兵隊に対する考えはそんなもんです。だから知っちゃったら つらいです」。
この眩暈を起こしそうなドキュメンタリーは、第72回文化庁芸術祭賞 テレビドキュメンタリー部門 優秀賞/第26回 橋田賞/第55回ギャラクシー賞 テレビ部門 選奨/第18回 石橋湛⼭記念 早稲田ジャーナリズム大賞 公共奉仕部門大賞など数々の賞を受賞している。
個人的には、日露戦争時の雪中行軍訓練の悲劇を描いた「八甲田山」や安倍内閣による「自衛隊・日報隠し」などが重なったが、この番組の最後の最後に自分に、もうひとつの感動が待っていた。
それは、エンドロールに出現した名前。
番組70分間、息づまるナレショーンで最後まで引きつけられた声の主こそは、我が大学時代、同じゼミにいた外山誠二氏(文学座所属)であったこと。

1961年5月20日、参議院庶務課に「参議院議員辻政信がラオスで行方不明」という情報がもたらされた。
政治家が異国の地で消息を絶つケースはあることだとしても、「ラオス僧」に変装していたという情報まで飛び交った、この辻政信とはいったい何者か。
辻政信は、旧日本陸参謀にして戦後はベストセラー作家、そして参議院議員に転身したという異色の政治家である。
数々の作戦に従事した「作戦の神様」、清廉潔白の士と謳われる一方、悪魔、無能、下克上の権化といった悪評も絶えない。
辻政信が携わった主だった出来事には、ノモンハン、マレー侵攻、ガダルカナル攻略といったものがあり、このうち、マレー侵攻における辻の評価は高い。
もちろん、彼一人が作戦を仕切っていたわけではないが、果断な作戦で敵の虚を突き、シンガポールを陥落させた功績の多くは彼に帰せられるものである。
しかし、辻その他の作戦における彼の評価は非常に低い。
特にノモンハン事件は、単なる不毛な土地の国境争いで無益に多数の兵を消耗したとして悪名高い。
同じようにガダルカナルでも、彼は敵を見くびって惨憺たる結果に終わっている。
戦績とは別の方面でも辻は悪名を残している。
ノモンハンで捕虜になって帰還してきた部隊に自決を迫ったとされているほか、シンガポールでは「華僑は皆潜在的な敵である」とばかりに虐殺命令を出している。
サイゴンで終戦を迎えた辻は、中国に潜入して日本再建のための情報収集を図るという名目の下、7人の青年士官と共に僧侶に化けて同地を抜け出す。
やがて日本に帰国した辻は、しばらくの間、各地を点々として身を潜めていたが、戦犯指定が「解除」された翌年の1950年、世人がアット驚くカタチで姿を現した。
そして戦後の逃避行を描いた自伝小説「潜行三千里」を刊行、ベストセラー作家に躍り出たのである。
売り上げはめざましく、辻はこの年の作家の納税額ランキングで10位になっている。
その後も辻は「ノモンハン」「ガダルカナル」といった人気作を矢継ぎ早に発表し、作家としての人気を不動のものとした。
しかし、辻は自分が作家として終わることをヨシとしなかった。
父親の「えらいものになれ」という遺言が彼の脳裏にこびりついていたのか、1952年、参議院選挙に打って出る。
元軍人の間では眉をひそめる者も多かったが、作家としての人気、持ち前の「雄弁」が功を奏し、辻は見事初当選を果たす。
その後も彼は衆議院議員選挙に3回、参議院議員1回当選し、辻の選挙における強さを物語っている。
だが、政界における辻は「一匹狼」の浮いた存在でしかなかった。
なるほど彼は時に正論を吐く。しかしその正論を実現するため、他者を味方につけていくという能力に「絶望的」に欠けていた。
「荒唐無稽な綺麗事ばかり言う奴」とか、「お得意のスタンドプレーか」だと、周囲の人間は鼻白むばかりの思いで彼を見ていた。
そんな中、辻は「ラオスの左派パテト・ラオに、ソ連や中共、北ベトナムがどれほどの軍事援助をしているかを観察する」、「ハノイに行き、ホー・チ・ミン大統領と会見、ラオス、ベトナムにおける内戦停止の条件を聞き出す」という名目で渡航願いを出す。
起死回生を狙っての政治的実績作りか、それとも他の目的あってのことかはよくわからない。
ラオスのビエンチャンから徒歩で高原地帯に消えていったのを最後に、彼は歴史の表舞台から姿を消してしまった。
「よくみつけたなあ。何人殺せば陣地が奪える。上層部が建てた作戦が成功する」 ラストの齋藤氏の言葉、平静を保っていた声がおさえきれず変調した。
「日本兵に対する思いはそんなもんだった。そのことを知ってしまったことが、つらい」。
大学の同級生のなかには、少なからず世に知られた人達がいます。~インタ-ネットで知りました。 私が所属したゼミ生の一人であった外山誠二氏は在学中に文学座に合格し役者の道を歩まれましたが、役者だけあって宴会芸で見せる腰のクネリには非凡なものがありました。 外山氏はゼミの発表の時日本の地価問題を発表したのですが、「地価」をなぜかすべて「地下」と書いたレジュメを使って発表しため、教授を呆れさせかつゼミ生を笑の渦に巻き込んだのを今でも憶えています。 外山家は代々学者・裁判官を生んだ一家でしたが、御本人は全然堅苦しいところはなく、サ-ビス精神に溢れた好人物でした。 しかし演劇への秘めたる情熱は並々ならぬものがあったようです。 インタ-ネットで調べると、現在も都内一流劇場で華々しく活躍をされているようです。 また同じクラスにいた塩塚博氏はいつもギタ-を片手にキャンパスを歩いていましたが、千葉の館山近くであった新入生クラス合宿で名演奏を聞かせてくれました。 現在もギタリスト、作曲家として活躍しておられ、郷ひろみや早見優などに楽曲を提供していたようです。 何よりも首都圏地区の鉄道の発車メロディの作曲を行っていることで有名です。 いわゆる駅メロ作曲家です。 インタ-ネットによるとJR東日本向けのJR発車メロディ9作と接近メロディ9作を制作されたそうです。 合宿で同級生のリクエストに答えて即座にギタ-を奏で、場の雰囲気を盛り上げるために即興で曲を作ってくれたのを思い出します。 さらに大学院の経済学研究室にいた岡田靖氏は、ピカイチの秀才でいつかは世に知られるだろうと思った人でした。 大学院中退後に大和証券に入られたのは意外な感じがしましたが、インタ-ネットで「その後」を調べてみると、内閣府経済社会総合研究所主任研究官から現在は学習院大学の客員教授として教職についておられるようです。 そういう華麗なる同級生の中でもひときわカレーなる人物がいました。 ボンカレ-で有名な大塚食品の御曹子の大塚J氏で、現在は大塚化学の役員としてご活躍のようです。 大塚氏はいかにも神戸六甲のお坊ちゃまという感じの人でしたが、なぜかマンションではなく大学の寮で生活をなされ、大学に入りたての頃にボンカレ-を寮の皆に配られたのを覚えています。 大塚氏と同じ英語の授業をとっていましたが、ボンカレ-の箱を見ると、試験用にノ-トを借りた時の大塚君の迷惑そうな表情がいまだに浮かんできます。 そういうわけで私は、日本のカレ-史に名を刻んだ華麗なる一族と接点をもったのです。 先日パソコンの修理をしていただく前に、dataの整理をしていたときに、古い鑑賞文があるのを発見しました。あまりにも昔のことと、青臭い感想なので恥ずかしいのですが掲載します。  この映画は、明時35年(1902)に青森の連帯の雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件が題材になっています。この不幸な出来事は、幾つかの「システム的な問題」の上にスタートし、指揮官の判断の誤りにより致命的な結果を迎えました。 1.起案上の問題   参謀長の趣旨は「ロシア軍に分断された場合、山中を二手に分かれて移動する」するために  1) 寒中の移動という「寒さ対策」  2) そのための「交通路の確保」   が主な命題であった。しかし、上司の『「八甲田山」で落ち合おう』という、同志的な発想による気楽  な立案?が 悲劇のトリガーとなった。 2.計画段階の問題   1) 弘前31連隊   ① 周到な計画立案 ・調査が主なため、精鋭を選抜するため少数とし「小隊編成」とした。27名。 ・工程計画を10泊11日270kmと正確な計画を立案。 ・各、その土地の案内人に依頼して道案内をさせている。   ② メンバーの選出 ・雪になれた津軽地方の者を中心に選抜 ③ 注意事項の伝達 ・雪山の注意事項(休憩時の足や手の指の動かし方、防寒着の装備など)を具体的に説明。 2)青森5連隊 ① 連隊の編成 ・31連隊と同様に小隊編成を立案するが、目的を忘れて31連隊との相対比較に重きを置いた大 隊長(山田少佐=三國連太郎)の意見を覆せなかったこと(目的:寒さ対策/交通路の確保→有 事の際のdata採取)。 ・大隊本部が帯同することにより、指揮命令系統が複雑になり、立案者が指揮者ではなくなる可 能性性を秘めた(この種の問題はプロ野球のオーナーの横鑓やDR会議でも散見する)。 ② 計画段階 ・下見を実行したのはよいが、好天候のみの調査であり偏ったdataになった。 ・田茂木野村に案内を依頼しに行った際も、必要な情報を受けながら「依頼」の確約をせずあや ふやなままで済ませている。 ③ メンバーの選抜 ・岩手県や宮城県出身者が中心で、雪の怖さを判らない者が中心(意識していたかどうか)。   ④ 装備 ・メンバー相互の工夫が語られているが、5連隊として深く研究打ち合わせした様子がない( 「かんじき」で戯れなど、出発前から志気に弛みが生じている)。 ・さらに、中隊長(神田大尉=北大路欣也)は懐炉の灰を日程の倍だけ準備する意識があったに もかかわらず、その懸念を連隊の共有財産としていない。 3.実際直面した問題  1) 弘前31連隊 ① 案内人を尊重(大切なことを体現) ・行く先々で土地の人の説明に耳を傾け、最悪の場合の心構えを聞き出している。 ・途中の村に到着した際にも、「案内人」を先頭に立て感謝の気持ちを表した。 ・同様に、案内人と別れる際も「頭右」で敬意を表した。このことは、現場で必要な情報を持ってい る人を大切にして、有益な情報を引き出す「姿勢」を強調したと思われる。 ② 確固とした信念 ・村の長が「宿泊の準備ができており、休んで行かれてはどうか」と気遣ったが、『軍には軍の方 針があると言って』断っている。全体の目的/工程を最優先に考えた結果の上での判断である と思われる。 ・疲労した隊員の装具を手分けして持たせている。 ・鳴沢大崩沢で弟の亡骸を発見し、背負っていくという部下に対して、『背負うと疲労し、背負った 者を今度は他の者が背負うことになり、結果として我隊は全滅する』といって、全体目的の遂行 のため、感情論を排除している。 2)青森5連隊 ① 指揮の不徹底 ・中途な形になっていた「田茂木野村」の村長(加藤嘉)が案内にきたが、帯同していた大隊本部 の将校が「お礼目当て」と勝手に判断して断ってしまう。この報告を聞いても、最高指揮者として の意見を発露できなかった点(この将校はコンパスの有益性を説いているが最後まで使用する 場面はなかった)。   ② 信念の弱さ ・ソリにての運搬が、初期の計画を遅らせていることに気づき、ソリを放棄することを「大隊長」に     具申したが、堅い信念からではなく却下されてしまう。本当に責任を感じるなら、身体を張って     具申すべきである(隊員の生命がかかっている)。   ③ 指揮権の変更 ・田代へ2kmの地点で、大隊長の号令を許し、自らは「斥候」の役割を担わされた。本来指揮官 は、このような部分になるべきではない。 ④ 鳴沢平沢森での判断 ・斥候の成果で避難所を確保したが、大隊長から「全員凍死の危険性があるので帰営する」との 命令を聞いた際、明朝の出発を主張するが聞き入れ慣れなかった(夜間進軍の危険性/低温不 眠の疲労と生命にかかわる大事を主張しなければならなかった。これまでの行程がいかに大 変だったか、戻るのが困難な事をしっかりと説明すべき)。   ⑤ 計画差異    ・道中、大隊本部員が目印を発見して「田代への道標」と勘違いする。この時も、地図との相違点     をしっかりと主張すべきであった。   ⑥ 大隊長の誤算    ・彼は後に反省しているが、計画の立案者でもなく、雪山に詳しいわけでも無かった。    ・組織の上司というだけの資格で、素人のお節介を演じて部隊を混乱に陥れた(山の知識のない     者を斥候に出し、体力の疲弊した兵に斜面を登らせた)。   ⑦ 倉田大尉の役割 ・基本的な計画者でない、倉田大尉(加山雄三)の方が毅然としている。 (元気な者より「斥候」を募集する。帰営を提案し、大隊長に先頭に立つよう依頼する) (神田大尉もこのくらい固い信念で行動を起こすべきであった) 失敗には各々原因が必ずあるが、今回の場合は「自ら浅瀬で溺れるような」印象を受ける。 今回の映画からの教訓として 1.テーマの目的は何か?ということを最優先に考える。 2.都度の状況の変化に際しては、専門家の意見を大切にして大局を誤らぬこと。 3.このような大プロジェクト活動の際は、詳細な日程計画・責任体制の明確化・指揮命令系統の明 確化が必要と考える (神田大尉の不幸は、全て自分一人で抱え込み、全てにおいて中途半端 であった)。 昭和52年(1977)に公開されました。