聖書の人物から(エステル)

お家存亡の危機や民族抹殺の瀬戸際に立つことを余儀なくされた女性達がいる。
そんなの女性の一人が旧約聖書「エステル記」の主人公・エステルである。
BC8C頃、ユダヤ人は大国アッシリアやバビロニアによって攻められ多くの民が捕虜として強制連行された。そして、ペルシア王国の領土内にコミュニティーをつくっていた。
ペルシア・クセルクセス一世は、ペルシアの首都スサで王位に就き、その3年後に180日に及ぶ「酒宴」を開き、家臣、大臣、メディアの軍人・貴族、諸州高官などを招いた。
その後、王妃ワシュティも宮殿内で女性のためだけの酒宴を開いていて、最終日に王はワシュティの美しさを高官・市民に見せようとしたが、なぜかワシュティは王の命令を拒んで、宴席にさえ出ようとはせず、王はすっかり腹を立ててしまった。
王は側近から、こうした噂が広まると女性達は夫を蔑ろにするという助言をうけ、王妃ワシュティを追放した。
そして王は大臣の助言により「新たな王妃」を求めて全国各州の美しい乙女を一人残らず首都スサの後宮に集めさせた。
スサは紀元前500年頃から大きなユダヤ人コミュニティーがあり、そこに美貌のエステルがいた。
義父モルデカイはエステルを応募させ、エステルは後宮の宦官ヘガイに目を留められて王妃となり、誰にもまして王から愛された。
しかしエステルは、自分の出自と自分の民族つまり「ユダヤ人」であることは誰にも語ってはいなかった。
彼女の本名は「ハダサ」であり、エステルは実はペルシア名であった。
エステルはバビロン捕囚時のユダヤ人の子孫だったため、二つの名を使い分けて生きてきたのである。
ペルシア帝国が台頭し、バビロン帝国が滅ぼされると、強制連行されたユダヤ人達も解放され、国を再建することが許されたものの、異国の地に留まり続けなければならなかったユダヤ人も大勢いた。
モルデガイがエステルの養父になったのも、そんなユダヤ人コミュニティーの特殊な事情があったためであろう。
一方、王の下での最高権力者ハマンは、宗教的な儀式の場面などで自分に従おうとしないモルデカイに対する恨みを抱くようになった。
そしてハマンは、ユダヤ人全員の殲滅計画をめぐらせ、王にユダヤ人への中傷を繰り返し述べて、その計画を着々と進めていった。
そしてクジで選ばれた日に、すべてのユダヤ人を抹殺することが決定したのである。
これを聞いたエステルとモルデカイは悲嘆にくれ、そしてほとんどのユダヤ人は、自分達にやがて降ってくる災難を嘆くほかはなかった。
そこで義父モルデカイは養女エステルに言った。「この時のためこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。
エステルはスサの全てのユダヤ人を集め、三日三晩断食するように命じ、その後、意を決して王に直接会いに行った。
その時代、王妃といえども「召し」なくして近づくことは許されなかったが、王は上機嫌でエステルとの面会を許し、エステルは王に最高権力者ハマンと共に、酒宴に開きたいという旨を伝えた。
そして当日の宴席で、エステルは王に自分がユダヤ人であること、およびユダヤ人殲滅計画が信仰していること、さらにはその首謀者がハマンであることを伝えた。
実は、その宴会の前日、なぜか眠れない王は、宮廷日誌を持ってこさせて家臣に読ませた。
するとモルデガイがかつて王の暗殺計画を察知し、王の暗殺を未然に防いだ記録をはじめて知り、さらにはその「恩賞」さえ与えていないことを知った。
このこともあってモルデガイと養女エステルへの信用度をあげていた王は、ハマンの計画を追及し、ハマンを柱にかけて処刑した。実はこの柱、ハマン自らがモルデカイ殺害用に立てたものであった。
そして、首謀者ハマンの死とともに、「ユダヤ人ホロコースト計画」は寸でのところで阻止された。
その後、王妃エステルの義父モルデカイは、処刑されたハマンの空席を埋めるかのようにハマンの財産と地位を譲り受け、宰相となる。
「エステル記」には、神もその言葉もでてこないが、神に訴えるものサタン(つまりハマン)との間にに立つ仲介者、イエス・キリストの「雛形」(つまりエステル)としての物語である。
また、シュワティの座にエステルが座り、ハマンの座にモルデガイがすわった。そしてモルデガイが架けらるハズの十字架に、ハマンが架けられることになった。
つまり、「エステル記」全体が「呪いを祝福にかえる神」(申命記23)を表している。
「呪いを祝福」に変える点で、この一連の出来事は、イエスの十字架の「型」ととらえることができる。

日本の歴史で「エステル」らしき女性をあえて探すとすれば、幕末・明治を生き抜いた会津出身の山川捨松が思い浮かんだ。
何しろ山川はエステルと等しく”敵方”の将と結婚し、「鹿鳴館の華」とよばれるほどの存在となる。
その上で、日本の重荷となっていた不平等条約改正に向けて一役かったためである。
さて、薩摩の陸軍大将・大山巌と、会津生まれの山川捨松の出会いは、「演劇」であったのも面白い。
山川捨松は、津田梅子と同じ日本最初の女子留学生の一人である。
女の子に「捨松」とはひどい名前だと思われるかもしれない。幼名は咲子だが12歳で留学させる時、「あんな小さい娘を海外に追い出すなんて、母親は鬼だ」と噂された母が、「一度は捨てるが将来を期待してマツ」という意味で改名させた。マッタ甲斐が十分あったわけだ。
会津藩出身と言えば、捨松は戊辰戦争を8歳で体験し、辛苦を嘗めることとなる。この戦争体験は生涯を通して忘れられない記憶であった。
彼女は、名門バァッサー大学に進学。卒業後は、ニューヘブンの市民病院で看護学の勉強をし、「甲種看護婦」の資格を日本人で初めて取得した。
帰国後、留学生仲間の結婚パーティで「ベニスの商人」を演じたが、この時に捨松を見初めたのが、薩摩出身の陸軍中将の大臣・大山巌、当時42歳であった。
大山は前年3人の娘を遺して妻に病死されていた。
そして大山より24歳年下の捨松を後妻にとの結婚申込みがあった。
しかし、大山は会津の旧敵薩摩人で、戊辰戦争では会津若松城を砲撃した隊長であった。
さらに捨松の兄嫁はこの砲撃で死亡していた。当然、山川家はじめ会津側は「大反対」だった。
ところが、この結婚を決意したのは捨松自身であった。大山を女性を大切にする素晴らしい人だと思ったらしい(実際、そのとおりだった)。
かくして、陸軍大臣夫人で3人の娘の母となった大山捨松は「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。
映画「シャル・ウイ・ダンス」では、一人のサラリーマンが、「社交ダンスの世界」に入っていく姿が描かれていた。
それは「ペア」というものに不慣れな中年男の恍惚と不安が描かれたものといってもいい。
ところで「ペア」というのは「対」(つい)のことだが、「同族でありつつも異なる機能・作用をもつ」がゆえに「対」となる。
日本でそうした「ペア」の思考が長年生まれなかったのは、儒教の影響で「男尊女卑」の傾向を生んだためで、夫婦で「横関係」のペアであることはなかったといえる。
外国では偉い人はペアで社交するが、日本ではたとえ社長夫人であろうと、オモテに出る必要はなく、逆に出過ぎると嫌われる。つまり社長夫人はあくまで「奥さん」であるべきなのだ。
そういう伝統文化で育ってきた日本の女性が、明治のはじめに突然「鹿鳴館」でペアで踊る羽目になった時、その様子はどんなものであったろうか。
実は、日本の社交界で動員されたのは、「ダンスはうまく踊れない」芸者たちだった。外国人が彼女らをどう評したかは、ここではふれまい。
そんな中で、西洋風の良家の子女の「ダンシング・ヒロイン」として羨望を集めたのが、山川捨松である。
また山川は鹿鳴館でバザーを開き、この収益金で有志共立東京病院(慈恵医大の前身)所属の、我が国初の「看護婦学校」を設立するなどしている。
大山巌との間には、二男一女の子に恵まれ、日露戦争の時、大山巌は満州派遣軍総司令官であったが、日露戦争後、大山巌は公爵・元帥に出世している。

江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室の篤姫、第14代将軍徳川家茂の正室である和宮。
1000人を超す女性がいた大奥において、二人は相容れない仲であった。 ところが、大奥最強のふたりは共に戦う同志という関係に変わっていく。
篤姫が正室になった背景にも薩摩藩と幕府の都合があったように、和宮の輿入れも朝廷と幕府の都合があった。
和宮は孝明天皇の妹であり、公武合体のために朝廷から幕府に送られた正室であった。
朝廷は攘夷(外国船砲撃)を切望していたが、朝廷は幕府に攘夷を実行させることを約束させ、その引き換えに和宮の輿入れを約束する。
当初、和宮は将軍の正室になることを断固拒否した。天皇は幕府に対してすでに承諾済であり、拒否することは容易ではなかった。
そのため和宮は、これまでの大奥のしきたりに従わないという条件で徳川家に嫁いだ。つまり、当初から波乱含みの輿入れであった。
篤姫は薩摩藩の武家育ちであり、一方の和宮は公家育ちで、しかも天皇の妹という身分。
篤姫としては武家の風習や文化を大事にしない和宮に対して苦々しいし、 和宮としてはイチ大名の娘である篤姫に従うことは許しがたいという、それぞれが相容れない関係となる。
身分としては圧倒的に和宮が上だが、最初のふたりの対面の時、篤姫が上座に座り、和宮には座布団もなかったというほどの扱いであった。
そんなふたりの関係が変わる時がくる。家茂が21歳と若くして亡くなり、一橋家出身の徳川慶喜が第15代将軍となり、和宮は静寛院と名前を改める。
そこで慶喜が大奥を変えようと動きだす。もともと篤姫も含めて大奥は一橋家(水戸藩)に対して苦々しく思っていた。
慶喜がふたりの共同の敵のようなかたちとなり、篤姫と和宮の対立関係も改善していく。
嫁と姑の諍いなんてことはいっていられない徳川幕府崩壊の危機が訪れる。
慶喜より大政奉還がなされ、官軍の江戸への攻撃が目前に迫り、篤姫と和宮からすれば、薩摩藩と朝廷というふたりの実家同士が、力を合わせて嫁ぎ先の徳川家をつぶしにかかってくるようなものである。
その時、ふたりは徳川家を、そして江戸を守るために協力し合うことになる。
篤姫は薩摩藩の西郷隆盛に対して、和宮も朝廷側にそれぞれ徳川家と江戸城を守るよう嘆願書を出している。
ふたりの動きも影響し、江戸での総攻撃は阻止することができ、徳川家の滅亡も防ぐことができた。
徳川の女となった犬猿の仲ともいわれた和宮と篤姫が、その存亡の危機に際して"私情"を捨てた姿に、ヨーロッパの小さな公国の存亡がかかった場面でみせた、ひとりの公妃のことが思い浮かんだ。
ところで、古代イスラエルの王ソロモンが語った言葉を集めた「箴言」の中に、印象的な言葉がある。
"わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。"
ソロモンのいうとおり男女の出会いが不可思議というならば、現代史の上とても印象的な事例がモナコ公国のレーニエ公とハリウッド女優・グレースケリーの出会いではなかろうか。
さて、モナコ公国は、フランス南部、地中海に突き出した崖の岩山に要塞があった場所から始まった国で、その両側の山が海に迫った細長い場所がモナコ国で、ヴァチカン市国に次いで世界で2番目に小さい国である。
周りは全部フランスで、国境に検問所はなく、逆になんでフランスでないのか、と思いたくなる。
要するに、「モナコグランプリ」があってカジノがあって、税金が安くしかも安全となると、モナコは「金持ちになった人達」に住みやすいように作られた国で、実際に多くの億万長者が住んでいる。
1911年以来の立憲君主制の国で、現在の君主は、2005年4月6日に亡くなったレーニエ3世の息子、アルベール2世である。母親はもちろんグレース・ケリー。
1929年アメリカで生まれたグレースは、カンヌ映画祭でモナコ大公・レーニエ3世と会う。
翌1955年に結婚し、いわば「おとぎ話」の主人公となった。
当時、産業といえばカジノしかなかったモナコ公国は倒産の危機に瀕していたが「世紀の結婚」によってアメリカ人観光客が押し寄せるようになり、経済危機を救ったという面もある。
グレースが生まれたフラデルフィアは、アメリカ合衆国建国の地といってよく、「自由の鐘」がそのシンボルである。そのフィラデルフィアの市長選に立候補したこともある建築業を営む父親と、モデル出身の母親の裕福な家庭に生まれた。
そんなグレースがモナコ公妃となるのだが、女性が政治に意見するのは「アメリカ流」だと釘をさされ、夫のレーニエからも公の場では「美しいだけの人形」でいることを望まれる。
そんな味気ない生活を送るグレースが「ハリウッド復帰」の誘いに心を動かされていた頃、レーニエ3世つまりはモナコ公国は最大の危機に直面していた。
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が、アフリカのアルジェとの戦いなどから、過酷な課税をモナコに強要する。
そして、承諾しなければ「モナコをフランス領にする」という声明を出したのだ。
そんな折、グレースの「女優復帰」の情報がマスコミにリークされ、人々は「グレースはモナコから逃げ出そうとしている」と批判した。
1962年7月、フランスの圧力に屈したレーニエは課税を了承するが、ド・ゴールはモナコ企業にも課税しフランスに支払うように要求し、モナコとの国境を封鎖する。
交渉に失敗したレーニエはグレースに八つ当たりし、「女優復帰」の話を断るように告げる。
ショックを受けたグレースは離婚を考えるが、ひとりの神父に諭され思い留まる。
そして、グレースは、人形のような生き方に抵抗を抱き続けたが一転、自分にしかできないある秘策を抱いて、外交儀礼の特訓を受けて、完璧な公妃の役作りに励み、世界の要人が集まる舞台を用意する。
その舞踏会で、赤十字代表として挨拶するグレースは、モナコの現状を語り、それでも愛を信じて、屈しないというスピーチをして満場の拍手を浴びた。
アメリカのマクナマラ国防長官ら出席者の反応を見たド・ゴールは、世界中がグレースを支持していることを痛感し、モナコへの強硬策を撤回、翌1963年にモナコの国境封鎖を解除する。
数年前にみた映画「モナコ公妃~最後の切り札」は虚実織り交ぜた物語だが、2005年まではモナコに男子の正当な王位継承者がいない場合、フランスへの併合を取り決められていた事実が背景にある。
したがって、世界に祝された国王夫妻を押し通すことこそ「公国存続」の大きな力となりえたとみてもよい。
その「おとぎばなしの主人公」も、1982年別荘からモナコへの帰り道、自動車事故にあい他界した。
急なカーブを曲がりきれなかったという。