「Our Credo」(我が信条)

この世に「経営のプロ」といわれる人がいる。数年契約で様々な企業でマネンジメントに携わり、会社の業績を回復させる究極の仕事人のこと。
最近では、日産を「V字回復」させたゴーン社長もその一人だが経営者としての晩節を汚した感がある。
日本人では京セラ創業者の稲盛和夫が日本航空の業績を回復させるしたことが好例であろう。
「プロ経営者」と評される松本晃(あきら)は、その実績を買われて招かれた「カルビー」でも9年間で売上高を倍にするなど常に結果を出し続けた。
同じ「プロ経営者」でも、カルロス・ゴーンと対極にある存在といってよいであろう。
松本は京都大学の大学院を出て伊藤忠商事に入り、産業機械部門に配属された。
伊藤忠商事は、旧陸軍参謀の瀬島龍三を迎えて航空機商戦で一流企業に成長したが、その頃は三流商社でしかなかった。
入社して3年半の国内営業は、「何でもいいからとにかく売ってこい」の世界であった。
そんな中、松本はパーキングタワーや船や自動車を売り、洗車機も、地元京都の銘菓「おたべ」製造用の機械も売った。
次にやった海外営業では、フォークリフトを扱い、コンテナクレーンや石炭の積み出し設備などの港湾設備も手がけた。
伊藤忠時代の最後の4~5年は農業機械などの機械を手当たり次第手がけた。
さて1980年代ごろまで、アメリカにおいては,短期利益を重視する投資家グループの期待に応えるためと称して、多くの企業が株高経営を推進してきた。
しかし、「株主価値経営」の本当の狙いはもっと別なところにあったといってよい。
企業は株高に支えられて安易に巨額の資金を調達し、必要な事業を買収する。
経営者はストック・オプション(自社株購入権)を賦与されて多額の利益を手にするという「魔法の杖」だったのである。
そうした経営も、エネルギー大手企業・エンロンや通信大手企業・ワールドコムなどの破綻にみられるように、企業が性急に株主価値を追求するあまり、名門会計事務所までを巻き込んで不正操作で株価を維持するまでになっていった。
やがて不正会計操作も発覚し、企業経営に対する信頼を失墜させる結果を招いたのである。
そんな時代に松本晃は、ヘルスケア分野を手がける「ジョンソン・エンド・ジョンソン・メディカル」(その後、合併して「ジョンソン・エンド・ジョンソン」)に誘われたことで、その経営理念「Our Credo(我が信条)」と出会う。
「Credo」は、松本のビジネス人生の決定的な指針となった。松本は「Our Credo」を繰り返し読んで実践してみて、この通りにやれば経営は必ずよくなるという確信を深めていった。
松本は「Credo」の従業員重視の理念にのっとり、「ジョンソン・エンド・ジョンソン」時代から毎年3月末、全社員に金一封を手渡してきた。
新入社員も社長も同じ額で、いわゆる「大入り袋」で、これで喜ばない人間はいない。
財産が増えるほどの額ではないが、もらえば誰でもうれしい。銀行振り込みでは効果はないので、キャッシュで払う。
松本によれば、社員に「頑張ったら給料が上がるよ」と言っても、あまり頑張らない。「給料を上げた。だから頑張れ」と言う方が、絶対に大きな効果がある。
たくさん払えば、いい社員は頑張る。業績はよくなり、もっと払えるようになる「好循環」が始まる。
この「Credo」をつくったのは、J&Jの創業者の息子で3代目のトップを務めたロバート・ウッド・ジョンソン・ジュニアという人物である。
1944年に上場を控えていたが、その前年に「Credo」を生み出した。
「プライベートカンパニー(同族企業)からパブリックカンパニー(株式公開企業)になるのだから、こういう考え方でやらないとうまくいかないよ」と示したのが「Credo」なのだという。
松本晃は2009年4月よりカルビーの取締役会長兼CEOに就任し、同族経営の会社を「Crredo」の教えに則り公器としての会社へと脱皮をはかった。
「Credo」ができてから2019年で76年になる。「J&J」は、世界中でこれに従ってビジネスをして、有名な企業ではあるけれど、本社の歴代CEOの名前を言える人はほとんどいない。
実はこのことこそが「Credo」の教えなのである。
日本のソニーや松下のようにカリスマができてしまうと、後継者はだめになってしまう。
大事なのはカリスマをつくらない組織で、カリスマに替わるモノこそが「Credo」に他ならない。
また松本晃が、カルロスゴーンなどとは違い、みずからカリスマにならなかったことにおいても、その忠実なる実践者といえる。
また、近江商人が創業した「伊藤忠商事」に入社したことも、意味あることだった。
実は、近江商人は、組織の存続を危うくする不心得な経営トップを「罷免」する厳格な「企業統治の仕組み」を持っていた。
それが「押し込め隠居」という制度で、先代や親族そして経営幹部などで作る取締役会が合議して決定すれば、強制的に経営権を「返上」させることができたのである。
つまり会社を私物化するようなおごりや慢心を戒めていたのである。

1980年代に世界に広がった理念に「CSR(企業の社会的責任)」というのがある。それまで企業の第一の目的は「利益の追求」だと言われてきた。
「CSR(Corporate Social Responsibilit」とは、企業は利益を追求するだけでなく、環境問題や人権問題への対応をはじめさまざまな社会的な責任を果たすべきとする考え方やその取り組みを指す。
実は 企業の活動は多くの関係者の協働によって展開されているのである。
株主(出資者)・経営者・働く人・資材やサービスの供給者・資金の提供者・顧客・地域社会・国や地方自治体など。
これらはすべて企業が長く存続するために必要な存在で利益を還元すべき相手でもある。
企業の社会的責任を”具体的”に表した言葉に「ステークホルダー」がある。
株主(ストックホールダー)と対比されるが、ストックがもともとは「家畜」を意味するが、ステークはそれを繋ぎとめる「杭(くい)」が語源で、企業が向かい合う利害関係者を表す。
したがってストックホルダーはステークホルダーの一部でしかない。
さて、「CSR」が世界的に広まる前から、それを意識し1世紀にわたり事業を続けたアメリカの企業こそが、松本晃が日本支社社長となった「ジョンソン・エンド・ジョンソン」である。
我々には綿棒やバンドエイドなど医療用品の商品として馴染んでいる。
「ジョンソン・エンド・ジョンソン」という不思議にも思える名は、その創業者が、ジョンロバート・ウッド・ジョンソン ・ジェームス・ウッド・ジョンソン ・エドワード・ミード・ジョンソンの三兄弟であるからだ。
この3兄弟は1886年、米国ニュージャージー州ニューブランズウィックに「ジョンソン・エンド・ジョンソン」を創業した。
草創期にジョンソン3兄弟は、殺菌済み外科用包帯、滅菌縫合糸、応急処置具、創傷管理製品、女性用ヘルスケア製品、デンタルフロス、ベビーケア製品などの新分野の先駆者として開発に力を注いだ。
そういえば、「ジョンソン・ベビーパウダー」という名も記憶にある。
当時はまだ救急絆創膏がなかったが、1人の社員のアイデアを上司に報告したことから「バンドエイド」が誕生した。
また同社で研究したフィリップ・レヴィン博士は、「血液型」の発見者としても知られている。
ただ、「ジョンソン・エンド・ジョンソン」の真の貢献は、2代目、ロバート・ウッド・ジョンソンJr.による「Our Credo」=「我が信条」の起草だといえるかもしれない。
1932年から63年まで会長を務めたロバート・ウッド・ジョンソンJr.は創業者ロバート・ウッド・ジョンソンの息子。
彼は、事業および従業員との関係について強い信念を抱く、明確なビジョンの持ち主であり、1943年に起草した「Credo」の中で、企業原則ならびに患者、医師、看護師および地域社会に対する責任を記した。
彼が作った「Our Credo」は、CSRの先駆的文書ともいえる。
それは株式会社が通常考えられる「株主ファースト」ではなく、株主が優先順位の「最後」におかれている点が、際立った点である。
さて、日本でステークホールダー的発想をしたのが、近江商人の「三方よし」ではなかろうか。
「三方よし」は、「売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし」のことで、そこには「企業の社会的責任」のキザシが見られる。
「プロ経営者」の松本晃は、「伊藤忠商事」がビジネス人生の始まりだったので、その経営理念をも学んだことであろう。
代表的な近江商人の1人である初代伊藤忠兵衛は、「利真於勤(利は勤むるに於いて真なり)」という言葉を座右の銘にしていた。
真の利益とは、「地道」に商いに励んだ結果として得られたものだけだ、ということである。
投機的な売り買い、買い占め、売り惜しみなどによる相場の操作、相手の弱みに付け込む強気の商いなどは禁じていた。
つまり、小手先のテクニックや他人に無理を強いることで儲けても、結局は「信頼」を損ねて家業長久の妨げになると考えていたのだ。
さて現代の多くの実業家を生んだ滋賀県の伝統校、八幡(はちまん)商業は、その卒業生にはソウソウたる名前がつらなる。
宇野宗佑( 内閣総理大臣)/伊藤忠兵衛 (伊藤忠商事社長)/永井幸太郎 (日商岩井創業者)/塚本幸一( ワコール創業者)/川瀬源太郎(日本生命保険社長)などなどである。
つまり地域の経済人というスケールをはるかに超えた人々なのである。
近江商人は、当時世界最高水準の「簿記」を考案したり、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店を積極的に開設するなど、先駆的に取り組んでいる。
こういう「近江商人」のスゴサを語るうえで、近江の地が大消費地の京都に近く全国的な情報を入手可能な延暦寺領荘園(得珍保)を拠点としたことあげられる。しかしそういう「地の利」だけでは説明できない「何か」があるように思われる。
近江商人の哲学「三方よし」というのは、 要するに「売り手本位」の商いを禁じるという厳格な経営理念のことであり、徹底した「利他」の商売哲学なのだ。
近江から各地に展開した出店で働く従業員は家族を近江に置いてきているので、商いを通じて他者に奉仕し、社会から求められ、頼られる存在になっていくことが商売の成功の秘訣であり、また彼ら自身の心の支えになっていたのである。
顧客や地域社会を第一に考える「利他」の経営を貫くことで、組織も強くできるとして、近江商人たちは度重なる不況にも屈せず、永続する企業集団をつくり上げた。
利益の「正当性」にこだわるのは、近江商人全般に共通している。つまり、利益を見るときには、「結果」である数字を評価するだけではなく、どのようにして儲けたかというプロセスを重視していた。
安易な利益追求に陥らずに、「ビジネスの本道」を踏み外さないことを常に心掛けていた。
だから、人材(=奉公人)を見極めるのも、単純な実績主義を採らず、正直であることや周囲への心配りができることなども重視していた。
たとえわずかでも、モラルの綻びを放置すれば、信頼という財産はたやすく崩れてしまうことを、近江商人は自覚していたといえる。
この近江商人の出身の地にやってきた、まるで「ジョンソ&ジョンソン」の「Credo」の教えをジでいったような外国人がいる。
1905年2月2日、24歳のウイリアム・ヴォーリズYMCA本部から宣教のために日本に派遣され、八幡商業高等学校の英語教師として着任した。
着任した八幡商業高等学校は、近江商人たちの多額の資金提供によって開校したばかりの学校であったが、ヴォーリズは、英語教師のかたわら自宅でもバイブルクラスを開き、多くの生徒たちが集まるようになった。
その中には、「フォークの神様」とよばれた岡林信康の父親もいて、ヴォーリズに心酔して牧師となっている。
しかし、地域の人々のバイブルクラスへの反発もあって、ヴォーリズは来日してわずか2年で教師を解任されてしまう。
ただ、ヴォーリズは「近江兄弟社」というのを設立して薬品であるメンソレータムの輸入販売をして大きな収入を得た。
しかし、その収入の大部分を伝道活動や、「日本初」の私設結核療養所である近江サナトリウム(現ヴォーリズ記念病院)の設立などに投じたのである。
「メンソレータム」はかゆみ止めなど皮膚につけるもので、商標となったマスコットキャラクターとして「リトル・ナース」は懐かしいものである。
現在は、その「商標」の使用権は近江兄弟社を買い取った「ロート製薬」が独占的に保有しているという。
ヴォーリズはそのまま日本に留まり、キリスト教の伝道をしながら、本来の専門である建築設計の実現のために事務所を開いた。
ヴォーリズの設計で最も有名な建築は、数多くの文豪に愛された東京の「山の上ホテル」である。
1931年、日米関係は最悪の状況になり、暗雲が立ちはじめたが、ヴォーリズは日本への帰化することを選び、「一柳米来留」(ひとつやなぎ・めれる)と改名した。
しかし青い目をした一柳米来留は、戦時体制の影響で建築事務所も解散させられた上に、「スパイ容疑」をかけられ、日本人の夫人とともに軽井沢でひっそりと暮らしていた。
そんな緊迫したなか、元首相の近衛文麿の「密使」が軽井沢のヴォーリズのもとへ向かった。
近衛からヴォーリズに伝えられた要請とは、「天皇陛下の件について、マッカーサーと話し合いたいので、その場を取り持ってほしい」というものだった。
9月12日、ヴォーリズは近衛に会い、天皇が「日本の象徴」として「人間宣言」をするというアイデアを提案をすると、近衛はその提案に満足げに受け入れたという。
1946年正月、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」をしたが、ヴォーリズは1964年に84歳の生涯を閉じるまで、一切そのことを口にしなかった。
1983年10月31日東京新聞がそれは、ヴォーリズの当時の日記や夫人の証言などにより、その事実を報じた。
ヴォーリズは、密使がやってきた時の体験を「体内に鉄を流し込まれた思い」と書いているが、それだけの任務が与えられるほど、彼の社会的信用が高かったといえる。
日本でも元禄バブル経済崩壊による貴重な体験から、多くの商家がそれまでの事業者本位の「投機的・一発勝負型」の商活動の非を悟り、顧客や多くの事業関係者の満足を得る商活動こそが、商活動本来のあり方に目覚め、それらの戒めを「家訓」にして残している。
「Credo」の本貫は、企業が様々な人々の協働によって得られた利益を社会に還元することにある。
対照的に、日本の多くの企業が人件費をコストとしかみなさず、従業員に非情なノルマを課して「不適切な契約」を強いるまで追い込んだり、膨大な「内部留保」をため込んだりしている。
それは「Credo」理念や「商家の家訓」とも、真逆の行き方である。

一時は、ライザップの経営にも関わり結果にコミットしたこともある。