スキマねらい

最近、ホルムズ海峡で日本のタンカーに火災がおきている映像を見て、映画「海賊とよばれた男」で見た緊迫した場面を思い浮かべた。
ホルムズ海峡といえば日本のエネルギー供給の生命線。
そこを日章丸で通過する、出光佐三こそが「海賊とよばれた男」。
出光佐三は福岡県宗像郡赤間に生まれ、福岡商業から神戸高商にすすむが、門司にあった石油を扱う零細な商会に就職した。
その後、病弱な知人から君に使ってほしいという資金を得て独立するが、陸の石油販売店網はエリアが仕切られており佐三が入りこむ余地は少なかった。
そこで海上にでてポンポン船にコストのかからない軽油を補給した。これが大当たりして出光商会発展の基礎となった。
ここに、スキマをつく出光佐三の原点をみる。
さて、出光の名を世界にとどろかせたのが、タンカ-による直接のイラン石油の買い付けである。
これこそが、出光の一世一代の賭け、世界の石油情勢のスキをついた行動だった。
1951年メジャーを離脱し石油施設の「国有化宣言」を発表したイランは、石油の売り先を探すのに苦労していた。
他方、外国資本を入れな民族資本の出光石油は、石油の買い手をいつもメジヤーにはばまれてきた経緯があった。
ここにイランと出光の利害の一致を見るが、この段階での「イランの国有化宣言」、つまり外国資本排斥はイランの一方的宣言であり、かつてイランを勢力下としていたイギリスや国際的承認を得たものではない。
もし出光のタンカー日章丸がイランの港に向かうならば、イギリスによって50余人の乗組員とタンカーは拿捕される危険さえもあった。
この時、出光佐三は男子一生の決断を行う。日章丸の行き先は船長にしか伝えず、すべてを極秘のうちにすすめた。
そしてイランの港アバダンに巨大タンカーを横づけし、出光佐三は世界をアッと言わせたのである。
映画「海賊とよばれた男」で、日章丸がホルムズ海峡でイギリス艦船と対峙する場面がある。
その時、イギリス極東艦隊所属の艦艇より停船命令がでる。
それに対して日章丸は、イギリス艦船に次のような信号をおくる。
「日本もイランも正式な独立国である。英国がその二国間の貿易に介入するのは、全くの筋違いである。貴船が武力を行使するのであれば、当方にはその事実を世界に向かって公表する用意がある」と。
そして、イギリス艦船の停止命令をよそに、イランのアバダン港へと向かうのである。
出光佐三が「石油王」に至る途において、天が味方したと思えるものが多い。
彼が独立するに際して得た資金や、オーダー石油の発想、満州鉄道でのひらめき、また彼の一世一代の決断となったイラン石油の買い付けなど、人生の節目、節目に天を味方にしている。その意味で「天佑の人」といえる。
ところで最近、NHK「逆転の人生」でみた倒産寸前の水族館を蘇えらせた館長も、「天佑の人」といっていい人物。
館長の村上龍男は現在80歳。4年前に館長を退き、現在は「名誉館長・シニアアドバイザー」として水族館の運営に関わっている。
山形の魚たちの本を出版されてきたエッセイストでもある。
この館長を、最後まで諦めなかった人とか「スキマねらい」とかいうのは正しくない。本人はほぼ諦めて負け続けそうな気持ちでいた。
ところが万策つきたと思った時に「神様」に導かれるように次の展開が生まれ、倒産危機の水族館がいつのまにか、世界に知られるほどの存在になっていく。
しかもその「神様」とは、自分のもっとも身近にいた”生き物”だった。
山形県鶴岡市にある加茂水族館は、1930年に誕生した古い施設であった。
かつて閉館の危機にさらされ“オンボロ水族館”といわれるほど、客もこなかった。
太平洋戦争中には接収されるなどの中断を経て、1956に復活する。
高度経済成長期には安定した集客があったが、バブル崩壊とともに人気が落ち込み、営業そのものが立ち行かなくなった。
当時増えてきた第三セクター方式や、自治体など様々な経営方式を経て模索を続けてきたが、日本全体の景気の冷え込みとともに閉館の危機を迎えていた。
村上が、加茂水族館を任されたのは弱冠27歳のとき。そして経営が厳しくなった時期には個人として1億円にものぼる負債を背負ってしまった。
ラッコをいれたら客が呼べるというので、ラッコを入れたが客足は伸びない。
ラッコは新鮮な貝類やイカしか食べないので費用ばかりがかさんで、親会社に借金までして水族館を支えようとしたのだ。
家屋敷すら抵当に入る事態になり、ストレスで体中に発疹ができて、これまで試験用に生き物を殺生してきた報いかと思ったこともあったらしい。
入館者数が「過去最低」を記録した1997年。全てが行き詰まる中で、まるで“最後の悪あがき”のように当時の流行り物のサンゴをテーマにした企画展を行ったが、ハズレ。
ただ、その水槽の中に小さな生き物がまぎれこんでいて、これが館長の運命を変えることになるとは、この時気づかなかった。
それは“サカサクラゲ”の赤ちゃんで、その泳ぐ姿がかわいくいとおしく、これがスキマつき人生の始まりである。
クラゲの水槽を用意して展示したところ、お客さんが喜ぶ様子をみて、何か「日本一のもの」を作ろうとクラゲの種類を増やしていった。
加茂水族館は2000年、12種類を揃えクラゲの展示数日本一となり、クラゲ専用の展示室も作った。
このころ館長はようやく、人まねばかりしても、客は伸びないことを悟る。
ただクラゲは繊細な生き物、しかも多種類同時に安定して飼育・繁殖させるには知識も技術も足りず、その分野に適切なアドバイザーの存在もなかった。
そこで、村上館長以下、飼育スタッフ総出で様々な方法を考え模索する日々が続いていた。
あるスタッフが何かの折に、クラゲを食べた話をしたところ、館長はクラゲを様々な料理にして食べて親しんでもらう企画をする。
女性スタッフが考えたジャム・クラゲなどでとてもおいしいとはいえなかったものの、「クラゲの水族館」としてその名が知られていくことになる。
そのうつちに山形自動車道の整備が進み、アクセスが良くなったこともあり、来館者が増え、経営も安定していった。
それによって研究も進み、採算がとれるレベルまでに入場者が増えたが、年間27万人台を上限にしてそれ以上伸びることはなかった。
ここで館長は、再び行き詰る。そんな時、館長は海中で光るクラゲに注目するが、なぜか水族館で育てても光らない。
そんな折、驚くべきニュースが飛び込んでくる。
2008年、光を発するオワンクラゲを使って研究していた下村修がノーベル化学賞を受賞したのである。
館長は下村氏のアドバイスを得るべく、手紙を書いたところエサの中にセレンテラジンを入れて食べさせたら「光る」ことを教えられる。
それを実際に行うとクラゲが水槽の中で幻想的に点滅するようになる。クラゲ流れ星のように。
そしてオワンクラゲを飼育する加茂水族館は、学術的な方面でも世界的に知られるようになった。
中途半端なものでは人の心をうたないと学習してきた館長は、クラゲに全面的に特化したクラゲ水族館へと変貌させ、直径5mの大規模な水槽「クラゲドリームシアター」を虹色のライトで照らし、幻想的な雰囲気を醸し出した。
その後、クラゲの展示種類数が世界一となり、2012年にはその記録がギネス認定されるなど大ブレイクし、年間入場者数73万にも増えていった。
2015年に76歳で退任するが、それ以降も名誉館長・シニアアドバイザーに就任して、加茂水産高校の講師としても活躍している。
館長がクラゲに教えられたことは、人まねばかりしていてもダメなこと。人の心を打つ為には、中途半端はダメで大胆にうって出ること、ブレイクの種は身近にあること、などである。
“水族館概論”という授業を担当され、後進のために自らの経験を語り、よりよい水族館を作り、運営するための人材を育成している。

江戸湾といえば、江戸前寿司、その寿司が食べられないとなると、ひと騒動おきそうなほど我々は寿司に馴染んでいる。
ポーランドでは、グタニスク造船所の労働者の「肉たべたい」が、ワレサ率いる民主革命に繋がり、日本にも大正時代に「米騒動」や戦後「食糧メーデー」が起きている。
今日の日本人にとっても、食糧難で長く食べられなくなることを想定してみて、つらいものといえば、「お寿司」もそのひとつではなかろうか。実際、そんなことが起きた。
つまり、お寿司が日本から消えかかったことがあったのだ。
終戦で日本全体が食糧難であった。連合国軍GHQは様々な政策を行い、ついに米をつかった飲食店の営業を禁止した。
これでは「寿司屋」ができなくなると、お寿司屋さんは悲嘆にくれた。
「寿司食いてぇ~」の思いは日本人共通のもの、そこで、東京の店主が集まりある話し合いをした。
ある寿司やの当時の回想録によれば、米をうまい飯にするのが一番得意なのが寿司屋なのだから、しっかりとGHQに陳情しようということになった。
ところが、GHQに何度お願いしてもOKしてもらえなかった。
そんな中、その灯を守りたいとスキマをねらう人々がいた。
そして彼らは、ある「秘策」を思いついた。そのことを示すのが、浅草の寿司屋に残されていたひとつ看板。それは、「寿司持参米加工」という看板であった。
つまり、寿司屋を飲食店としてではなく加工業、「寿司を作るだけの店」として許可を得たのである。
なんだか「木賃宿」を思い浮かべる。「木賃宿」とは、火をたく木をもっていけば、安く泊まれる宿のことである。
1947年11月、「持参米加工」で寿司屋が再開する。配給のわずかな米をもって寿司屋に詰め掛ける人の姿があった。
米をたんすの中にいれていたため、米からは防虫剤のにおいもあった。それでも、寿司が公然と食べられるのは、ありがたい。
とはいっても、もっと大きく本質的な問題があった。配給で米や魚がなく、寿司ネタ手に入らなかったのだ。
方々をまわって寿司ネタをかき集めた。ならづけ、かまぼこまでも使った。
マグロの代わりにマスなどの川魚がつかわれた。タイは入手できないので、白身はフナ。フナなど川魚は骨が多くさばくのにも一苦労だったが、寿司屋自ら川に行って捕ってきた。
アサリの身はいくつも重ねて豪華に見せ、玉子のオボロは、おからを混ぜてボリュームを出した。
また、カンピョウやシイタケなど、少しでも華やかになるように色合いにも工夫を凝らした。
要するに、寿司屋は、もっとお客さんの笑顔をみたい思いの一心でひねり出したアイデアだったが、そんな過程で新しい寿司ネタの発見にも繋がった。
その代表が、戦後の苦境の中で、キュウリを使った「かっぱ巻き」が生まれた。
ではなぜ「かっぱ巻き」という名がついたのか。
河童が好物がキュウリらしい。ではなぜマグロをまいた寿司を「鉄火巻き」というのか。
鉄火巻きの「鉄火」は、もともと真っ赤に熱した鉄をさす語である。
マグロの赤い色とワサビの辛さを「鉄火」に喩えたもので、木質の激しいものを「鉄火肌」や「鉄火者」というのと同じであるのだそうだ。
寿司屋の様々な工夫で、食糧難の時代、一度は消えかけたお寿司の灯は守られた。
それどころか、こうした苦難の時代を乗り越えた寿司は、そのバリエーションを豊富にし、「華やかさ」を増した感がある。

漁業において、スキマをついて蘇ったのが横浜市・子安(こやす)の漁民たちである。
漁業権は沿岸漁業の秩序維持と漁民の経済的な保護を目的としている。
漁業権には、「定置漁業権」というのがあり、定置漁業とは主として回遊性の魚類の捕獲を目的とする漁撈方式で一定の場所に「網その他の漁具」を敷設し、垣網等に沿って自然に魚介類が身網に陥入したものを漁獲するものをいう。
他にも養殖にかかわる漁業権がある。
さて、神奈川横浜市の海岸線を走る首都高速横羽線、その脇には「子安浜」という小さな船溜まりがある。
昭和の時代にタイムスリップしたような光景が700mにわたって続く。
子安浜の漁師たちは、昼過ぎに東京湾のでて、海の底の砂地に潜むアナゴを獲る。
砂地に潜むアナゴはレーダーに映らないため、長年の経験と勘だけが頼りだという。
漁師たちは、筒を使いアナゴを獲るためにワナを作っていた。
そして日の出前の東京湾に繰り出し、前の日に仕掛けた筒を引き上げる。
さて、子安浜は江戸時代から続く幕府お抱えの漁師町である。
子安駅から一駅下った神奈川新町駅界隈には、「神奈川宿」という東海道五十三次の三番目の宿場町があったところ。
そればかりか神奈川港があり、ハリスとの間で日米修好条約によって5港(箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫)を開くが、宿場に近くに外国人をいれてはまずいと、横浜が開港地になった。
それは、兵庫港と神戸港の関係に似ている。
横浜が国際港として華々しく発展していくのに対して、神奈川港周辺の子安は、高度経済成長とともに取り残されていく。
船溜まりの岸壁を見ると、水上に家屋の足場が組まれ、水面に半分せり出すように軒を連ねている。
トタンと木材で造られた家が、岸壁に寄りかかるようにずらりと並んで建っている。
ここに残るのは、東南アジアの写真で見たことのある水上家屋群である。
昭和40年代、東京湾の埋め立てにより公害問題が発生。子安の漁師たちは、保証金と引き換えに漁業権を放棄した。
これにより、生業としていた「底引き網漁」ができなくなってしまった。
ここで暮らす若者にとって、実質、漁師になる夢が断たれたことになる。
目標がなくなり生活が荒れたものも少なくなかった。
多くの漁師たちは丘に仕事を求めたが、「刺し網漁」で再起を図る仲間も現れた。
時はバブル時代。魚がびっくりする高値で取引されている。このチャンスを逃す手はないと、中古船を買い、遅咲きの漁師になるものもいた。
バブル崩壊後、本格的にアナゴ漁を始めた。
一昔前はシャコ漁で賑わっていたが、アナゴは「江戸前」の中でも、子安産は格別で「身に脂がのっているので、値が張っても買いたい」と市場価値は高い。
アナゴ漁は、たとえ漁業権がなくても、網を使わずに漁具でもない「筒」を設置しておいて引き上げるため、法の網にかからないというスキマをついた。
人々に再生の夢をかなえたのは、身近な生き物とスキマであった。