エコ・オリンピック

1962年に出版されたレイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」は次の文章で始まる。
「それは奇妙な静けさだった。例えば鳥たちは、一体どこへ行ってしまったのだろう。人々は当惑し、動揺して鳥たちのことを話した。
僅かに見かける鳥は、生きているというよりも死んだようで、激しく震えて飛ぶことはできなかった。
それは沈黙の春だった。音がなく、原野を、森を、湿地を静けさだけが覆っていた。
魔法でもなく、敵の攻撃でもなかった。自分たち自身の起こしたことへの償いだった」。
レイチェルカーソンは、化学肥料について警告するために「沈黙の春」を書いたのだが、現在は別の文脈で"鳥たちの沈黙"を語らねばならない。
ところで日本人は、食の安心や安全について意識が高いが、「倫理的(エシカル)」な消費という意味での選択肢はほとんど存在しないといってよい。
最近、モデルハウス展示場を訪れると、木材が世界中の多様な地域から切り出され日本に来ているかがわかった。東南アジアもあれば南米やアフリカもある。
我々は、はるか遠い国々の伐採について日頃無頓着だが、最近では森林伐採が地球温暖化と密接に関わっていることは、もはや明白だ。
木を植えれば温室効果ガスを吸収することができ、「持続可能」な社会をつくるためにも、コンクリートよりも木を使うことが望まれる。
木造の高層建築には規制もあるが、加工技術が進んで"耐火性能"なども上がっている。
しかし木を使うためには木を伐採しなければならない。問題は、その木の伐採がどれほど許容されるかである。
先進国では「違法伐採」に対する法規制が進み、日本でも合法伐採された木の利用を促す「クリーンウッド法」が2017年から施行された。
しかし法に反しても罰則があるわけではなく、保安林では伐採後に植栽が義務づけられることがあっても、伐採時に合法ならたとえ植えなくてもそれで通る。
そこで最近、木材が適切に伐採されたかを示す「FSCマーク」というものが登場している。
これは、持続可能な森林管理を評価するNGO「森林管理協議会(FSC)」の認証を示すマークである。
コンビニに並ぶジュースの紙パックにもこのマークが入っているものがあり、英王室や米ホワイトハウスでは、招待状にこのマーク入りの紙を使っている。
また特に注目してほしいのが、スターバックスの紙コップである。
一見、コーヒーと鳥とは無関係に見えるが実は大アリで、近年のコーヒーの農法の変化が、鳥の生態系を脅かしているという。
アメリカ大陸では42種以上の鳥が、数百万羽という規模で、毎年、北米からメキシコ、カリブ海、中南米に渡って越冬し、成長しエネルギーを蓄えた状態で再び北米の繁殖地へと帰っていく。
その渡り鳥たちにとっては、越冬するのに最適な場所は、高木が作り出してくれる木陰。
その最たる例が、コーヒーの樹が生い茂るっている自然状態の森林である。
コーヒーが育つ自然環境には、鳥たちの食糧や水が豊富にあり、安全で気候も暖かい。
カエルや蝶等の昆虫に加え哺乳類も生息し、多様性に富んだ地域となっている。
しかも鳥たちの多くは、過ごすのに”最適な場所”を記憶していて、毎年同じ場所を目指してやってくる。
ところが現在、渡り鳥の生息数は半減しており、自然環境保護や生物多様性保全の観点からも、渡り鳥の生息環境を保護していくことは非常に重要となっている。
しかし、その生息地が失われつつあるのはどうしてなのか。
じつは、ここ数十年、南米のコーヒー農園では、自然状態の森林での育成から、「サン・コーヒー(Sun Coffee)」と呼ばれる低木のコーヒー種を大量に栽培する農法へと転換が進んでいる。
すでに南米の約半数でこの転換が実施されたとも言われている。
背景には、森林を伐採しコーヒーの「単一栽培」を機械で展開するほうが効率が良いためだ。そのため、多くの自然森林がすでに失われてしまったのである。
このような状況を打破するため、米国立スミソニアン動物園保全生物学研究所の「スミソニアン渡り鳥センター」は1999年から「バードフレンドリー認証」制度を開始した。
持続可能なアグロフォレストリー(森林農業)の観点から木陰栽培コーヒーを支援しているという。
日本が関わる点でいえば、フィリピンは過去にラワン材を日本に大量に輸出した結果、森林が減り、大雨による洪水が起きている。
最近では「違法伐採」はかなり減り、輸入材の多くは現地で合法と認められたものになったことは確か。
とはいえ多くの地域が政情が不安定で、伐採が合法か違法かなどを問える以前の地域も少なくない。
武装組織の資金源として木が切られたり、森林が減って地元の燃料源が失われたりする。
さて、2020年東京五輪・パラリンピックの会場になる新国立競技場は、日本的な木の文化や環境への配慮という面から木材をたくさん利用する建造物として作られることになった。
しかし、型枠に使う合板が熱帯林で乱伐された可能性があり、国際環境団体などから批判が出ている。
過去のオリンピック大会では、FSCの認証を受けた木材が会場や表彰台に使われたという。
東京オリンピックの大会組織委員会はエコを目指すものの、「木材調達」面でエシカルとはいえなかった。

明治新政府は、近代国家を建設するにあたり、幕末の乱れた「貨幣制度」を立て直す必要に迫られた。
そこで、先進諸国の貨幣に劣らない貨幣を製造するため、大阪に造幣局を設立した。
造幣局の本局は大阪市北区天満に位置し、構内に造幣博物館があり、支局はさいたま市大宮区と広島市佐伯区の2か所に位置する。
造幣局は、1871年4月4日に創業式を行い、造弊はあくまで金属貨幣を製造し、紙幣(日本銀行券)の製造は国立印刷局で行われている。
ところでこの造幣局、 硬貨の製造ばかりを行っていると思っていたら大間違いである。
勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)まで様々な仕事を行っている。
1864年東京オリンピックや札幌オリンピック・長野オリンピックの金・銀・銅の各メダルばかりか、なんと名古屋城の金鯱なども製作されている。
入試問題の印刷が刑務所で行われているくらいに意外だ。
2020年東京オリンピックは、原発事故のイメージから環境にやさしい国へとイメージ・チェンジをはかる絶好のチャンスでもある。
そこでメダル作りにおいても、造幣局にて「エコメダル」の製作を行っている。
実際、日本は世界の中でもリサイクルが進んだ国で、使用済み電子機器のなかに大量の金などの希少金属が含まれている。いわば「都市鉱山」をフル活用しようというものである。
オリンピック・パラリンピックのメダルを作成する際に必要になる原材料の金などを調達する段階で「廃電子機器等からリサイクルされた二次原料であること」を調達条件として明示した。
この使用済み電子機器は発展途上国などに不法に投棄されると、そこに含まれる有害物質で廃電子機器汚染という重大な環境問題を引き起こしている。
しかし日本では「小型家電リサイクル法」が制定されて、有害物質を処理し希少金属を取り出す取組がすすんでいる。
この「小型家電リサイクル制度」によって、使用済み携帯電話機などが集められてきた使用済み電子機器などをオリンピック・パラリンピックの「メダル」に生まれ変わることができるのである。
かつてはリサイクル原料というと「格落ちの原料」のようなイメージが強かったが、今は得られる品質は高い技術で保証され、かつ地球環境を考えて将来を志向する取組みとして多くの人たちの努力が結集したものとなっており、まさに世界のアスリートを顕彰するにふさわしい素材といえる。
オリンピック・パラリンピックの機会に、世界中に日本の取り組み知ってもらうことは、これからリサイクルを進めようという国々にも大きな励みになるにちがいない。
我々の方でも自分たちが使用していた電子機器が、メダルに生まれ変わってオリンピック・パラリンピックの入賞者を飾るとなると、オリンピックへの参加意識を高めることにも繋がる。
ちなみに、リオデジャネイロ・オリンピックの銀と銅のメダルも30%のリサイクル原料が使われているとされたが、金は持続可能な方法で得られたとのみとしか発表されていない。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックではメダルの100%をリサイクル原料で賄うことで、「環境にやさしい国・日本」を世界にアピールすることができる。
2020年東京オリンピック・パラリンピックがまさに成熟したオリンピックとして、持続可能社会そして「MOTTAINAI」精神を世界にアピールしいく絶好の機会ともなろう。

1964年10月1日、東京オリンピック。雲ひとつない晴天の日、聖火最終ランナー・坂井義則により点火された灯火は、大会最終日の10月24日まで燃え続けた。
坂井義則は広島出身の早稲田大学の陸上選手。その大役に選ばれた理由は、原爆投下の日を誕生日としたためで、オリンピックが平和の祭典であるというメッセージをその走りに込めたものだった。
ちなみに、坂井は大学卒業後、フジテレビに入社するが、アナウンサー・故逸見正孝と同期である。
実は、この「聖火台」が作られたのは、1962年に公開された吉永さゆり主演の映画の舞台となった「キューポラのある街」である。
埼玉県の川口市は、火鉢などの鋳物を製造する街として知られ、その巨大な煙突のような溶鉱炉をキューポラという。
そして、この「聖火台」の製造において、ある職人親子への「たすきリレー」が行われたのである。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助のもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。
このアジア競技会とは、1958年5月に開催された第3回アジア競技大会のことである。
川口鋳物師の心意気を見せようと、萬之助は、期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。
聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
ここで「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄のこと。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。
強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。
しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助は、その8日後に帰らぬ人となった。享年68。
その壮絶な死は、息子の文吾には伝えられなかった。
完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ鈴木文吾にかかる重圧が大きすぎると心配した家族の苦渋の決断だった。
やがて葬儀の日がやってきて、文吾は初めてそのことを知ることとなった。
父親を見送る文吾は「弔い合戦」と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
やがて迎えた湯入れの日、そしてついに成功。
ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
この聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、それから6年後の東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で聖火を燃え上がらせた。
聖火台には「鈴萬」の文字が刻まれていた。
ところで、市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」に印象的な場面がある。
聖火トーチが富士を背にもうもうと白煙を上げ、風にたなびく。その煙はさながら蒸気機関車のようだ。
市川作品に収められた前回の東京五輪用トーチを製造したのは、「日本工機」(東京)の前身、「昭和化成品」であった。
組織委員会から課されたのは「雨にも風にも消えない炎」「夕闇でも目立つ大量の白煙」との難題二つ。
その難題に挑んだのは、同社技術者であった門馬(もんま)佐太郎である。
門馬は戦時中海軍火薬廠で照明弾の研究製造に従事し、戦後は民間会社で発煙筒など扱って来た。
火と取り組む25年の歴史を歩んだレジェンドである。
トーチは横浜の同社の戸塚工場で作られたが、その時、門間は工場の技術課長の地位にあった。
トーチは英語で松明の意味、外径35センチの円筒形で、長さ54.5センチ。マッチなどの酸化剤に使われる二酸化マンガンと赤リン、木粉、アルミニウム、マブネシウムが主成分である。
リレーすると火つきがよいよう、頭部にマッチと、テルミットに似た加熱剤がついており、全体で500グラム。
東京オリンピック以前に、アジア大会の時に日本体育協会の依頼で作ったことがあった。
その時門間は研究課長で、薬剤に何を使えばよいか分からず、東大に知恵を借りに行ったりもした。
また、メルボルンオリンピックで使われたものを体協から取り寄せてもらい、調べたところ火が付きにくい上に消えやすいことにかえって驚いた。
そして東京オリンピックに向けて制作したトーチの特徴は、強く振っても消えないし、雨にあたっても平気、水の中でも燃えるというほどの自信作となった。
厳粛な式典にふさわしい火でなくてはいけないというので、薬剤の主体を「赤リン」にした。
リンは昔から神秘的な感じのものでメラメラした橙色の光を出す。
当時、環境への問題意識は少なく、白い煙も演出効果満点だと好評であった。
今日では環境重視のため、炎が小ぶりで煙も少ない聖火が主流なのだという。
当時の門間佐太郎は、火の粉がランナーの目に入ると危ないので絶対火の粉を出さないようにするのにひと月かかったことや1本でも不良品があってはいけないので、品質管理を徹底して均一な製品が出来るよう気を配った点。そのため8000本作るのに1000本のテストをやり、採算など度外視したことなどを語っている。
さて、その息子の門馬隆は早稲田大学入学の年が東京オリンピックの年で、奇しくも最終聖火ランナーとして聖火台へ父親のトーチを傾けた坂井義則と同じ大学に通っていたことになる。
聖火点火の場面を「透かして」みると、国立競技場で聖火台に火が灯った瞬間というのは、互いの人生を知る由もない、埼玉県川口の鋳物師・鈴木萬太郎と神奈川県平塚の砲弾職人・門間佐太郎とがモノを介して遭遇した”瞬間”でもある。
それは決して出会うことのない星々の”遭遇”のようなものだが、門間は1966年2月4日、北海道への出張が終わり平塚に帰宅しようと千歳空港から全日空機60便を利用するも、羽田沖墜落事故により死亡(享年46)。二人とも不慮の死を遂げている。
さて「日本工機」(「昭和化成品」が前身))は、門間らの築いた技術的土台により、2019年7月「はやぶさ2」の宇宙実験におい再び重要な役割を果たすことになる。
日本工機が開発した「衝突装置」は、秒速2キロメートルの超高速で小惑星に向かい、爆薬約5キログラムの爆発による圧力で銅板が球状に変化し、最大直径10メートルほどのクレーターを形成する仕組み。
「はやぶさ2」は搭載された「衝突装置」により、人工的にクレーターをつくり、内部物質の採取に成功。
門間佐太郎のトーチは「はやぶさ2」に引き継がれていた。

当時、オリンピックをテレビで見るものにとって、その苦闘を知る由もなかった。