「アンチ」なスタイル

「チェッカーズ」といえば、リードボーカル 藤井郁弥(ふじい ふみや)を中心に結成されたバンド。
代表曲「ギザギザハートの子守唄」(1983年)は、若者らしい"反骨心"をよく表現していた。
彼らが結成された久留米において、彼らの衣装「チェック柄」のデザイン展が、今秋(2019年9月21日 〜11月4日)、久留米市美術館で開催されている。題して「タータン~伝統と革新のデザイン」。
イギリス・スコットランド生まれのチェック柄の衣装「タータン」の展覧会なのだが、「タータン」という言葉には馴染みはないものの、それに親しんだ映像の記憶がある。
イギリス人のおじさんが、腰にスカート状の布をまきつけて、バクパイプを吹く姿をスコッチ・ウイスキーのコマーシャル。あのスカート状にまいた「キルト」のデザインこそは、タータン・チェックなのだ。
ところで「キルト」はスコットランドのスカート状の伝統衣装で、通常はタータン柄である。
キルトは英語名で「巻く」の意味で、ゲール語では「フェーリア」と呼ばれる。
さてスコットランドの北西部の高地、ハイランド地方に定住したケルト人は、「タータン」と呼ばれる羊毛の織物を日常着としていた。
防寒性・実用性に優れたタータンをまとった"ハイランダー"は、古来より勇猛果敢な戦士として知られていたしかし彼らの勇名こそが、タータンに悲劇をまねくことになる。
さて、イギリスといえば「連合王国(UK)」であり、それを構成する4つの国、すなわち由来も文化も異なるスコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、すべてが同じ方向を向いているわけではない。
スコットランドは、「連合王国」に属しているものの、固有の法体系をもっており、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化をもち、1707年までは独立した王国であった。
1637年、ステュアート朝(スコットランド系)のイングランド王チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。それに対してスコットランドの長老派は盟約を結び、イギリス国教会と対決すべく兵力を集め始めた。
それに対して、チャールズ1世は、スコットランドに進軍するも、あえなく敗北。
再度、スコットランド遠征をくわだてた国王は、その戦費を得るために1640年に議会を招集したが、国王と議会の対立が鮮明となり、1642年の「ピューリタン革命」へとつながっていく。
チャールズ1世は処刑され、革命を率いた護国卿クロムウェル亡き後、フランスに亡命していた息子のチャールズ2世が即位し、王政復古が実現。
そのチャールズ2世の死後、弟ジェームズ2世が即位するも、1688年、ジェームズ2世が追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王として即位する(名誉革命)。
これに納得ができなかった一派が「ジャコバイト」(「ジェームズ派」のラテン語)である。
そして、ジャコバイトの反乱において、反乱軍の主力となったのが前述の「ハイランダー」だった。
彼らの主張は 「王位継承権は、ジェームズ2世の二男であるジェームズ3世にあるはずだ!」。
その二男ジェームズ(老王位僭称者)は、何度かの反乱に敗れたあと呼ばれたフランスに逃亡するが、これで収まらなかった。
今度は、ジェームズ(老王位僭称者)の息子チャールズ・エドワード・ステュアートこそが正式な王位継承者であるとして、担ぎ上げられる。
彼は、イングランド側からは「若王位僭称者」と呼ばれ、ジャコバイトやスコットランド人からは親しみをこめて「ボニー・プリンス・チャーリー」(美しいチャーリー王子)と呼ばれ、ハンサムで勇敢。大変、魅力的な若者だった。
フランスで育ったボニーは、1745年のジャコバイト反乱に呼応してスコットランドに上陸。 怒濤の進撃を続け、スコットランドの大半を手に入ると、そのまま南下してロンドンを目指す。とはいってもイギリスの間隙をついたものにすぎなかった。
イングランド軍が兵力を整えて反撃に出ると、たちまちボニー側は不利な状況に追い込まれる。
ボニーは、カトリック教徒ということもあって、期待したほどの協力も得られず、追い込まれたボニーは、ハイランドへと撤退する。このとき彼の軍隊は脱走兵が多く出て、崩壊状態であった。
もはや決着はついているようなものであったが、イングランド軍は指をくわえて見守るほど気が長くはなく、ボニーの軍勢は、カロデン・ムアの地に追い詰められていく。
1746年4月8日、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いる政府軍は、容赦なく彼らに攻撃を仕掛ける。
銃や大砲を装備したイングランド政府軍に対して、ジャコバイトの装備は貧弱であった。 槍や剣、あるいはせいぜい農具のような棍棒のみ。まるで勝負にならなかった。
ボニーは命からがら戦場を抜け出すが、息のある負傷者は執拗にとどめをさされ、女性や非武装の民まで捕らわれ、住居は徹底的に破壊される。
この攻撃があまりに悲惨であったため、カンバーランド公は「屠殺者」という名で密かに呼ばれるようになるほどであった。
戦いの結果とはいえ、放っておいても崩壊しそうな流れであるのに、それを一方的に惨殺するというこの戦いは、スコットランド人にとって深いトラウマとして刻まれ、後々まで影を落とす。
さて、戦場を脱出したボニーはどうなったか。
カンバーランド公の配下は、ボニーを追いかけてスコットランド中を探し回ったが、一向に行方をつかめなかった。
逃げ回るボニーは、ヘブリディーズ諸島にたどりつき、そこで、友人を訪ねて来ていたフローラ・マクドナルドという勇敢な娘に出会う。
フローラはボニーを女装させ、ベティ・バークというアイルランド人侍女だと名乗らせる。
そして女装したボニーを小舟に乗せ、ヘブリディーズ諸島北方のスカイ島へ。ボニーはそこからフランスまで亡命する。
彼女は、逮捕されてロンドン塔に収監されてしまうが、後に釈放され、夫ともに天寿を全うし、勇敢なジャコバイト女性として、歴史に名を残した。
一方、フランスに亡命したを慕い続け、ジャコバイトの人々の集まりでは、乾杯をするとき「水の向こうの王へ乾杯」と言い合あった。
その意味は、「ボニーに乾杯」という意味で、「マイ・ボニー」という有名なスコットランド民謡はこの史実が背景にある。
日本語で「いとしのボニー」のタイトルでカバーされ、その歌詞は「愛しいボニーは海の向こう側にいる、ボニーを私のもとへ返して」である。
とはいえ、残った40年以上をフランスで生きたボニーことチャールズ・エドワード・ステュアートは、人々を魅了した魅力的なかつての王子の姿ではなく、酒に浸る日々をおくったという。

1746年、カロデンの戦いの後も、イギリス政府軍によるハイランダー残党狩りは苛烈をきわめた。
のみならず反乱軍の一種のシンボルとなっていたタータンはじめ、ハイランドの「伝統衣装」は着用が禁じられたのである。
逆にいえば、禁止令をだすほどタータンには、「人々を結びつつける力」があるとみなされたのである。
ところが、18世紀から19世紀の間に、タータンやハイランド文化をめぐる状況は大きく変化した。
着用禁止令が撤廃される1782年に先んじ、78年にはロンドンハイランド協会が設立。
産業革命後の近代化が進むイギリスで、強固な民俗的アイデンティティとドラマチックな歴史をもつハイランダーは、ロマン主義の進展に伴い、文明に冒されていない素朴さと勇敢さを持つ者として理想化されていく。
ハイランド文化復興の動きによって数十年後にその禁令が解かれると、スコットランドないしは英国を象徴する文化として再び脚光を浴びるようになる。
そして、ついに1822年には、国王ジョージ4世が自らスコットランド・エディンバラ訪問の際にキルトを着用するに至る。
それは、カロデンの戦いで敗走したチャールズ・エドワード・スチュアートがかつて身に着けていたというゆかりの柄であった。
それは、「ロイヤルスチュアート」とよばれ、気品ある赤と緑の格子の「ロイヤル・ステュワート」は、世界中で最も知られているタータンの一つである。
さて、「タータン・チェック」とよくううが、「タータン」は布地の柄というよりも、氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのである。
正確には、二つ以上の色を使い、縦・横の配列が同じ格子柄を指す。
古代ケルト人の衣装が起源といわれ、今では用途や目的によっていくつかの種類に分けられている。
氏族や家系を象徴する「クラン・タータン」や、王室に用いられた「ロイヤル・タータン」、特定の地域に結びつく「ディストリクト・タータン」などである。
さて、タータンは、タテ・ヨコの格子状が基調だが、色合いや線幅などで無数の柄が作られうる。
団体や会社でタータンを定めているところもあり、軍隊の場合には連隊ごとに固有のタータンを持っていて、タータンはスコットランドの「タータン協会」で承認登録管理されている。
ちなみに、日本からは新宿伊勢丹のタータン・チエックが登録されているという。
ところで、スコットランドの祭りといえば「ハロウイン」があるが、スコットランドの運動会的なお祭り「ハイランド・ゲームズ」も世界各地で開かれており、日本でも幕張や神戸で毎年開かれている。
「ハイランド・ゲームズ」とはスコットランドの民族衣装を身に着けて、太棒投げやハンマー投げなどの重量競技、徒競走などの陸上競技、バグパイプやドラム演奏、ダンスのコンテストなどを行う伝統のお祭りである。
バグパイプの楽隊のキルトはテレビなどで見かけることもあるが、かわいらしいタータン・チェックのスカートを巻いた男たちが力比べや格闘技などをしている様は、我々日本人の感覚からすれば、かなり違和感がある。
しかし、よくよく考えると、セーラー服は元々英国海軍の軍服だし、チェックスカートもスコットランド陸軍の軍服から転用されたもので、両方とも男性の「戦闘着」だったのである。
そんなことを思うと、かつて日本で大ヒットした「セーラー服と機関銃」(1981年)という角川映画があったが、それほど奇抜といえるほどのタイトルではないのかもしれない。

名誉革命から遡ること約80年、イングランドの女王がエリザベスであった時、スコットランドの女王はメアリ・スチュアートで、エリザベスは国のために生き、メアリは愛のために生きるという対照的な人生を送ったともいわれ、両者の確執は様々なカタチでドラマ化された。
。 メアリ・スチュアートは、スコットランドのジェームス5世とフランスから迎えられた王妃との間に生まれた。ちなみに、ジェームズ五世は、イギリス国教会の創立者ヘンリー8世の姉の子供つまり甥にあたる。
メアリは、父親が逝去してスコットランド王となるが、未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていた。
そしてメアリはめでたくもフランス王妃となるが、王がすぐに死去したため19歳で祖国・スコットランドに帰国することになる。
一方、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
そしてイングランド国内では、エリザベスがヘンリー8世の「庶子」であったことを問題にし、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリ・スチュアートこそが「正統な王位継承者」という意見がくすぶっていた。
メアリ・スチュアートは、美貌と多才であるばかりか、フランス王・アンリ2世の息子と結婚して舅からも溺愛されていたのである。
こうした強力なライバルの存在は、絶対王権をめざすエリザベスにとって大きな脅威であったのだが、皮肉にも、そのライバルのメアリ・スチュアートがエリザベスの下にころがりこんでくる。
実はメアリはスコットランドに帰国して再婚するも不幸せな結婚となり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となっていたのだ。
エリザベスとメアリとの間には、エリザベスは国教会でメアリーがカトリック側という宗教的バックの違いがあり、エリザベス1世は議会で「嫡子」と認めらたにもかかわらず、それでもなお王位継承を主張するメアリに対し、エリザベスは大きな「敵対心」を抱くようになる。
そしてメアリを軟禁状態においたうえ、謀反の罪で処刑してしまう。
ただ、メアリの子ジェームズ6世は、1707年イングランドとスコットランドの両国の王となり同君連合、つまり「イギリス」が誕生するという面白い経過をたどる。
さて、フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来た。
「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などであった。
エリザベス女王が、滝のように長い真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートに対する「対抗心」があったと推測できる。
ヨーロッパで17世紀頃つまりエリザベス1世の時代より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
とはいえ、歪んだり窪んだりしていればなんでもバロックというわけではなく、それはまさしく"ペイズリーの形"をしたものが多い。
あのカーシュナッツにも似たかたちで、ネクタイやスカーフからインテリアまで幅広く使用されるペイズリー。そのペイズリーとバロック(窪んだ真珠)とが、どこでどう繋がるのかは、謎である。
ペイズリーはペルシア起源と言われ、インドのカシミール地方のカシミア・ショールに使われていた伝統文様で、この植物文様の起源として西アジアに古くから伝承される“生命の樹”がモチーフとする説がある。
19世紀になると、ヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その代表的生産地こそがメアリ・スチュアートの国スコットランドの港町ペイズリーだったので、一般的にも 「ペイズリー」 と呼ばれるようになった。
ヨーロッパで"バロック様式"が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、実はオリエンタルの影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きており、例えばマリー・アントワネットの母親のオーストリア君主マリア・テレジアは、「伊万里焼」の愛好者であった。
ペイズリーは、日本では卑弥呼も身に着けていたと推測される勾玉(まがたま)に形が似ていて、「勾玉模様」ともいわれる。
それにしてもペイズリー模様が植物模様が起源であったとしても、あれほどの普及力をもちえたのは、ひょっとしたら「エンブリヨ」、つまり”胎児”を思わせる形象に秘密があるのではないかと勝手に推測している。
ともあれスコットランド発の、"タータン柄のキルト"といいい、「ゆがんだ真珠」を髣髴とさせる"ペイズリー"といい、どこか「アンチ(反)」な雰囲気を醸し出すスタイルである。