聖書の人物から(日出る処)

ローマ法王の選挙で、選挙結果をカトリックの総本山のサンピエトロ大聖堂から立ち昇る煙の色で知らせている。
白煙は新法王決定、黒煙は再投票を意味するというが、その知らせ方ばかりか、選挙を「コンクラーベ」というのには驚いた。
だが2018年5月10日のニュースで、新天皇の即位の儀すなわち大嘗祭に捧げる米の産地の決定方法にはさらに驚いた。
なんと古代・飛鳥時代に行われていた”亀卜(きぼく)”で産地を決定(斉田点定)するというのだから。
"亀"は小笠原諸島のウミガメで大嘗祭に供する米を作る斎田をどの都道府県にするか、神の意志を得る占いが行われる。
べっ甲職人が加工したものを火であぶってその割れ具合で、占いの結果は直ちに天皇陛下に報告されて、悠紀殿(祭場)と主基田(すきでん)の都道府県がそれぞれ定められる。
実は、昭和の大嘗祭であたったのは我が地元・福岡県で、福岡県で選定されたのが福岡市中心から10キロほどの早良郡の脇山村。
そこには今も「大嘗祭主基斉田跡」との石碑がたつ。
偶然にも、鎌倉時代の仏僧・栄西の「茶の伝来」の石碑に近い場所である。
そこで思い出したのは、亀井知事時代、福岡県議会が議会棟は“亀”の甲羅の形をしており、県庁本部棟は“井”の形で、県知事の名「亀井」に見えるという噂があったこと。
東京銀座の日本銀本店行が空から見ると”円”の文字にみえるだけに、噂はまことしやかに広がった。
ところで、「元号」は、それが生まれた中国においてすら、前世紀にやめてしまった習慣である。
"主権在民"にあまりなじまないか、日本にしかないならば、いっそ文化遺産として残してはどうかと思ったくらいだ。
発祥地ではとうの昔に廃れてしまったものが、日本に長く残存していたり、独自の発展を遂げたりするものは多々ある。
日本は、かつての中国やヨーロッパ中心文化からみれば周縁。さまざまな活動の中心地から遠くに位置し、それゆえにこの列島では、古い価値が保存され融合する。そして独自の進化を遂げるのである。
文化人類学が教えるごとく、地方武士の反乱から武家社会が始まったように、「周縁」こそがが変革の起点たりうる。
どの街にも神社仏閣があり霊性に富む自然が息づく。盆正月にお参りし、古式ゆかしい衣食住の作法を季節の節目に共有する。
広く知られているように、茶道、華道、書道なども、元は舶来文化だが、日本で独特の進化を遂げたものである。
また2019年世界文化遺産に登録されることになった仁徳天皇陵と目される”前方後円墳”もそうであろう。
皇族の古墳のそばに住民が暮らしているという親しみやすさも評価理由となったようだが、注目したい特徴は、墳墓の髙さより、世界一の広がりであること。

かつて、日本の芸術が世界で輝いた時代がある。
19世紀の後半、日本の芸術・工芸が西洋に熱狂的に受け入れられ、文化や思想に大きな影響を与えたジャポニズムである。
日本は、明治維新以来150年にわたり科学技術を鍛えてきたものの、西欧の人々を驚かせたのは情緒的な自然観と脱主体的な世界観であった。
1855年にパリで初の万博が開かれ、会場の外では日本の品々がもてはやされていたという。人気の的は団扇(うちわ)と扇子だった。
それは新たな世界の解釈でもあった。
15世紀以来、西洋の絵画は窓から見た風景を遠近法と明暗法によって描き、見る主体と見られる客体との関係がはっきりと意識されていた。
一方、江戸時代の町人の自由な発想で描かれた扇の絵は主客の関係があいまいで、物と人との位置も大きなばらつきが見られた。
神の視点から解放されたがっていた西洋の芸術家たちは、そこに多様な意味と自由な空間創造の可能性を見たのだ。
日本の団扇や扇子が西洋の女性に受け入れられ、家庭の装飾やファッションとして使われたのも、日本文化の受容が急速に広がった理由といわれる。
扇子は日本以外にもあるが、注目したいのは「閉じる」ことを考えついたのは日本人。見方を変えれば”横に広げる”文化であること。
モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャンなど、この時代に日本の浮世絵に大きな衝撃を覚えて、新たな作風を考案した作家は少なくない。
それは、絵画ばかりではなく建築の世界でも新しい視野を提供したのである。
ところで、日本は未来戦略(成長戦略)を打ち出せないというが、日本の面白さを十分に自覚していないということもある。
つまり高きや強さをめざすよりも、異分野コラボや多様性など横展開などをもっと生かせたららどうかということである。
かつて東大の教授・中根千枝が「タテ社会」と表現したため、日本人の武家社会や軍隊の姿からタテ組織を思い浮かべがちだが、実は「横展開」の要素が強い文化なのだ。
戦前から日本の市民の手で育てられた漫画やアニメが、今フランスやドイツで熱狂的な人気を得ている。
それは物語が"時間の経過"により横に流れる「源氏物語絵巻」や「伴大納言絵巻」の意識を現代風に大衆化したものだろう。
ゴーギャンの大作「人は何のために生きるか」という作品も人類を時間の経過とともに描いた作品である。
日本では、万物に神性が宿り、どんなものにでも心があると見なす日本的な感性が、人形やロボットとの共生を支える。
それが急速な進歩を遂げているITや人工知能と組み合わさったらどんな新しい世界が現出するだろうか。
フィジカル空間とバーチャル空間が融合していくのが未来だとすれば、人間が他の媒体に心や体を移して活動することになる。
天から主体性を与えられた人間が自然を支配し管理しようとする論理ではない。
主体も客体もなく万物と溶け合おうとする日本の精神文化が息づいている。
現在と過去の間で、あの世とこの世との間で、異次元の世界の間で、人々が往還するというのは、源氏物語であり、村上春樹の世界である。

中島みゆきの作曲の「糸」という名曲があり、大ヒットした曲でもないのに常にカラオケランキングでトップに近い曲である。
1998年放映のテレビドラマの主題歌であるが、この曲が長く広く歌われるのは、メロディー・ラインが歌いやすいことに加え、歌詞のセンスのよさにある。
例えば、♪縦糸のあなたと横糸のわたしとで織りなす布は いつか誰かを暖めうるかもしれないし、誰かの傷をかばうかもしれない。
そういう逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼ぶ♪
辞書によると”仕合わせ”とは「運命の巡り合わせ」という意味で、この歌に陰影を与えているのは「ナゼ生きているのかを迷った日の跡のささくれ」「夢追いかけて走ってころんだ日の跡のささくれ」という歌詞の中の「ささくれ」という言葉。
辞書によると、”ささくれ”とは「指頭爪ぎわの皮がむけること」を意味する。
さて、中国の孔子は弟子から「経営とは何か」と問われ、「経は織物で言えば縦糸、営は横糸」と答えた。
布を織るとき、縦糸は動かずに通っている。
創業時からブレないしっかりとした縦糸が存在する意義は大きい。
これが経営の「経」の字なら、自在に動く横糸は「営」の字であると孔子は言う。
縦糸がしっかり通っていて初めて横糸は自由奔放に動ける。
環境の変化が激しい時代には、スピードと柔軟性が大事であり、そのためには自由な発想や大胆な行動が求められる。
もしも不動の縦糸がなく、自由奔放に動く横糸だけを見ると、バブル期には本業そっちのけでマネーゲームに走ったり、理念なきベンチャー企業のようなものが跋扈することとなる。
さらに「機織」の技術からたとえると、変えては成らない「不変(不易)の縦糸」と変えなければならない「可変(流行)の横糸」があり、そのバランスをとることが重要なことなのである。
また歌舞伎狂言も、それは「縦糸(たていと)」と「横糸」が、織り成す精巧な織物に例えられる。
ここで縦糸というのは、「歴史的な事実」つまり史実のことを指し、「横糸」というのは、狂言作者の空想になる味付け(ストーリー)ということになる。
そして歌舞伎狂言の出来・不出来や面白さいうのは、実にこの「横糸」の出来・不出来に掛かっていると言っても過言ではない。
誰もが知っている歴史上の事実(素材)はしっかり押さえておいて、「空想」を広げる部分は思いきり広げて面白いものに仕上げる。
これが狂言作者の力量で、我々が見ることのできる名作狂言といわれるものは、いずれもこの「縦糸」と「横糸」が見事に調和した世界を芝居の中で作りあげている。
さらに、制度面から縦糸と横糸を探してみたい。
幕府統制の強い江戸時代には、領主からムラにいたるまで年貢納入システムが確立され、農民の代表が「村方三役」として年貢納入や、非キリスト教であることを証明をする「宗門改め」などの責任を担い幕府体制に「完全」に組み込まれたようにもみえる。
しかし、こうしたタテの力学が働いているなか、村人達はヨコの連帯をつくり、タテの締め付けをある程度、溶解していたのではないか。
それがユイやモヤイといった、労働交換や相互扶助もヨコの繋がりであった。
また、ヨコ連帯の精神的支柱が「講」であり「若者組」で、信仰を学んだり、大人になる様々な知識を学ぶ、自発的な「勉強会」といってよい。
ところで、「寺小屋」という庶民教育機関が江戸時代に数多くつくられたが、幕府によって奨励されたわけでもなく、税金によって運営されているわけでもなく、教師がお上に任命されたものでもなく、自発的・自主的な「勉強会」であった。
とすると、「寺小屋」の広がりこそは、日本の草の根の強さを最もよく示すもので、「寺小屋」こそは日本人の「草魂」の証(あかし)ではないかと思う。
教師はお師匠さんとよばれ、町年寄り、庄屋、武士、医者、僧侶、神官などがなり、寺小屋とよばれながらも自宅を教室として使い、男女共学であったことは特筆に価する。
そして、1872年の学制により全国に3万近くの小学校が創られたが、これらの多くは寺小屋を「衣替え」した小学校であったのだ。
つまり、寺小屋学習こそが、近代日本の飛躍を可能にした大いなる助走とみてよい。

我々が「伸びる」という言葉でイメージするのは「縦に伸びる」ことなのだが、その一方で「低く横に伸びて」生き抜こうという方法もある。
人間は高層ビルを建てることを競ったり、最も高いものを愛でる傾向がある。それはシュメール文明における「バベルの塔」の時代以来変わっていないようだ。
現在、世界一の高層ビルはアラブ首長国連邦(UAE)ドバイにある高さ約827メートルの「ブルジュ・ハリファ」である。
そして今、サウジアラビアのウジアラビア西部の紅海に臨むジッダ市に立てられる高さ約1キロ200階建ての超高層ビル「キングダムタワー」の建設計画が進められている。
その一方で、低く横にはびこるのが”雑草”である。
雑草は踏まれても踏まれてもつしか芽を出すし、地を這うように生きた方が、地面にタタキつけられることもない。
確かに「雑草のようにたくましく」という言葉がくらいだかひ弱にみえてもすべてが失われた不毛の大地にも最初に芽を出すのが雑草である。
雑草がジャマで嫌われるのは、人間が育てようと思っている作物よりもうまく環境に適応してよく育ってしまうからだともいえる。
ところで、雑草のことを「ルデ」というが、ルデラルというのは、「荒れ地を生き延びる智恵」といいかえてもよい。
つまり、ルデラルな生き方とは「横に低く伸びて生き抜こう」ということなのだ。
ルデラルにとっては、変化と逆境こそが、新しいものを生み出す確かな鼓動である。
ルデラルを企業展開にあてはめると、「多様なタネでチャンスを広げる」という戦略だといいかえてもよい。つまりコスト減などの「縦展開」ではなく「横展開」の戦略である。
通常、部品メーカー特に自動車や家電製品の部品メーカーは、どちらかと言うと単品製品に特化し、大量生産効果による「コスト競争力」で戦っている。
つまり、生産体制は自動化・省力化が進み、まさに単品・大量生産で業績を伸ばして来た。
我が国の部品メーカーは大量生産・薄利多売路線につきすすむが、このままの路線を走ったら、いつかは海外メーカーにコストで負けるそれが分かっているにもかかわらずである。
そして実際に、台湾、韓国、中国メーカーが台頭し、我が国メーカーを抜き去った感がある。
しかしその一方で、製造する製品を多様化して、其々の「先行利益」を積み上げている会社もある。
なぜそのようになったのかというと、植物だって上を切ると、自然に横に伸びる。つまり上に伸ばそうと思うとコスト競争になる、だから横に伸ばそうとしただけのことだという。
そこでこの会社は、中小企業でありながら「多様性」を選択し、常に幾種類もの開発を続け、他社に先駆けて新製品を提案して先行利益を上げている。
そして、同等もしくはそれ以上の製品が出そうになる前に、さらに次の製品を提案する、その繰り返しを行うのである。
ところでペトログラフと呼ばれる「岩刻文字」は日本ばかりか環太平洋で見つかっており、日本での発見が一番多い古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字だといわれる。
我が地元福岡にちかいところでは関門海峡近くに浮かぶ彦島で、なんとペトログラフが見つかっている。
シュメール人といえば、塔が大好きで神の頂に近づこうと「バベルの塔」を建設して神の怒りをかった人々である。
ところで、オリエント「日の昇るところ」は中近東をさすが。その中近東の人々は、日の昇るところに「何があるのか」を知りたくてうずうずしていたに相違ない。
実は新約聖書の末尾において、”日の昇る処”について「もう一人の御使いが"日出る方"からのぼってくる」としている。
そして、その御使いが「地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使いに向かって」「わたしたちが印を押してしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」と大声で叫んだ(ヨハネ黙示録7)とある。
さて、日本という国名も「日の本(もと)」だし、国旗も「日の丸」。
遣隋使の小野妹子の煬帝に渡した国書にあるように「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致す」と、日本が自らを「日出る処」と位置づけている。
バベルの塔の出来事で髙きへの思いを封じられ、いつしかその思いは「東方」への思いへと転じたという解釈はどうであろう。
シルクロードをペルシアなどの宝物が最東端の日本に伝わったのは、「日出る処の支配者」への思いから生じたのではなかろうか。
古代より日本に住み着いたのは、もともと髙きよりも横に展開するルデラルな人々だったのかもしれない。

多くの中小企業が、「量」のウマミとびつき生産効率を上げることに全力を上げる中、それをアエテ追わずに、あたかも植物が上に伸びようとするその枝葉を切ってしまい、横に伸びるしかない状況に自らを追い込んでいくようないき方である。
アニメの主人公になり、ロボットに変身してフィジカルな世界を体験する。それはまさしく日本の文化が古くから描いてきた世界なのだ。
最近の事例では、アメリカから来た「品質管理」も、似た経過をたどったと言えるかもしれない。
今では想像しにくいことだが、戦前の日本の工業製品の世界的な評価は、「安かろう、悪かろう」であった。
終戦後、品質管理の専門家W・E・デミングは、国勢調査について統計学上の助言をするために来日したが、このことを知った日本科学技術連盟が、品質管理の理論について講演をするよう彼に依頼した。
これを契機として、品質管理の手法が製造業の現場に広く普及することとなる。その結果、日本の工業製品の質は急速に向上し、周知の通り世界市場を席巻するまでになった。
その後デミングは米国に帰り、特に注目されることもなく暮らしていた。ところが、日本製品が米国の製造業を圧迫するようになったことで、その原因を解明すべきだという機運が米国内で起こった。
その過程でデミングの存在が再発見され、彼は晩年になって、再び品質管理の専門家として講演活動をするなど、大いに活躍したという。

タテへの上昇願望が抑え込まれ、横への拡張願望に向かったということだ。
さて、人類が布を織り始めた頃は手作業で糸を通しており、紀元前8000年には手織りの布があったものと見られ、初期の織機は編み物や籠作りの過程で誕生したものと推測される。
はたおり機にまず縦糸を張り、そして横糸を左右に運びながら手作業で行っていたが、産業革命の時代になると、水力や蒸気機関によって動く機織(しょっき)」が生まれた。
こうした「織機」では、経糸は横棒2本の間にピーンと張られ、その間に緯糸を通すためのシャトル(ひ)、経糸の間にシャトルが一気に通る隙間(杼口)を開けるための綜絖(そうこう)が仕組まれている。
さらに綜絖を固定するシャフト(綜絖枠)、シャフトを上下させ経糸を開口させる踏み板(ペダル)、経糸を横幅どおりに配置し通った横糸を打ち込むための、櫛の目が並んだような形態の筬(おさ)などが配置されている。
そして、ペダルを踏み、経糸を上下に分けて、その間を一気に緯糸が通ることができるよう開口する。
開口した経糸の間に、シャトルにつないだ横糸を入れて反対側へ届かせる。
通った緯糸を筬で手前へ打ち、経糸と緯糸を組み込む。
織機はこのような基本的な動作で、これを何度も繰り返して織物は完成する。
以上のように、経糸が1本おきに上下するのがもっとも単純なパターンであるが、斜文織や朱子織、その他複雑な模様を織るには、1本1本の経糸の上下をより細かくコントロールする必要がある。