立場と責任

日本の日常の中で「責任」という言葉は色々な場面で使われる。
政治家が問題発言をしたり、汚職がバレたとき「○○の責任を取って辞職します」と言ったり、何か新しいことを始めようとすると「お前、それ責任取れるのか?」と問い詰められたり、何かに失敗したら「それは自己責任だ」と言われたり、いろいろな場面で「責任」が言及される。
誰かに「責任を取れ」とかいわれると圧迫感を覚えるが、この「責任を取る」ということは、一体何をもって責任をとったことになるのか。
実際よくわからないが、日本という社会は責任の取り方においてとても特異な社会であるような気がする。
それが際立ったのが1923年に起きた「虎の門事件」である。
昭和天皇は皇太子時代(父・大正天皇の摂政)、虎ノ門において狙撃され、幸い銃弾がそれて助かった事件である。
その狙撃犯は24才の難波大助という人物であったが、衆議院議員の父をもつ。
父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し餓死自殺。長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。
また、当日の警視総監湯浅倉平と警視庁警務部長、さらには現場で警備の指揮をとっていた正力松太郎は責任をとって辞職している。(その後、読売新聞へ)
ここまではありそうな責任の取りかたなのだが、それに留まらなかった。
難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の減俸がなされ、途中難波が立ち寄った京都府府知事は譴責処分となっている。
そして、当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職したのである。
そればかりか、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職している。
新めていうが、皇太子は無事であったのに、である。
こういう広がり方は、「責任をとる」という言葉では充分ではない気がする。
個人的な印象をいえば、天皇は当時「現人神」とされた時代だから、天皇(摂政)が狙撃されたという事態につき、なにか大掛かりな「きよめ」を行っているような感じさえ受けるのだ。
それは日本人の深層にあることで明確に言語化できないが、平安時代の白川法皇に「我が意にかなわぬものは、賀茂川の水、山法師、双六のサイの目」という有名な言葉がある。
比叡山の(山法師)僧兵が神輿を担って街に繰り出すと、人々は「神威」をおそれて自宅から出られなくなったという。
白川法皇の言葉は災害とテロが頻発する現代にも通じるものがある。
平成天皇は災害の多さをに心を痛めたことを発言されたが、生前退位をきめられたのも、現元号においてこれ以上の災害をまねいてはならないという思いもあったのではなかろうか。
天皇が生前退位の意向を発表されたのが、8月。そしてオウム真理教の信者たちが処刑されたのは、その1か月"前"の7月。("後"では印象が全然違う)
まとめて7人の刑が執行されたことは、平成の問題を次元号代にまで持ち込まずに終息させたい、つまり清めておきたいということかもしれない。
さて、虎ノ門事件の責任の負い方をみると、当日に警備を担当した警視庁関係者を除いて、「職務」について責任を問われたのではないことは明らかである。
彼ら以外の人々は、職務よりも「立場」の責任を問われたといった方が適当であろう。
とするならば、何らかの汚職事件が起こると、その責任の追求はかなり広範囲に及ぶ。
松本清張のドラマ「中央流砂」に、ある汚職事件で上役が部下である事件のキ-マンを訪れ「家族の面倒は我々がしっかり見るから心配しないでよろしい」と暗に自殺をほのめかす場面があった。
こんなことが本当に起きているのではないかと思うほどに、特に戦後の疑獄事件では必ずといっていいほど、自殺か他殺か判別しがたい死亡事件が起きている。
これは、汚職事件に直接関わらずとも、上層部の広範な懲戒や降格などが起きる可能性がある。
仮に、強硬な形で累を断ち切るのが無理なら、事件の真相追及を長引かせ自然消滅にもちこんでしまうこともよくあることである。

最近、フラッシュがたかれる中、折りたたみテーブルに関係者が数名並び深々と頭を下げる場面を頻繁に見るようになったと思う。
ひとつにはSNSなどによって細かい情報が簡単に届きやすくなり、国民の反響が大きくなったということもあろう。
ただ面白いのは、そこまで謝る必要があるのかといいたくなるようなプライベートに関わることにまで、深々と頭をさげる。
謝罪の理由は「世間をお騒がせた」ということに対してらしい。
日本の場合は、外国と比べて「謝罪」するとうことがとても大きい要素をしめている。
それは「謝罪会見」の時に、頭を丸めていたとか、服装は地味だったとか、何分間、どんな角度で頭を下げていたかといった形式が注目される。
そして、日本人はこの「謝罪する姿」にある程度納得すれば、一応「許す」方向に心を転じる傾向があるのではなかろうか。
その際に、それまでどれくらい「社会的制裁」をうけたかどうかも勘案される。
とにもかくにも、実に不思議な責任のとりかた、そして受け止め方なのだ。
次に、英語から「責任」というものにアプローチしよう。
英語で責任は”Responsibility”または”Accountability”という。
両者の違いをいうと、"Responsibility"は、これから起こる(=未来)事柄や決定に対する責任。
一方、"Accountability"は、すでに起きた(=過去)決定や行為の結果に対する責任、またそれを説明する責任といえよう。
言葉の中身を吟味してみると、"Responsiblityは、"Responce(反応)"と近い言葉だし、"Accountability"には"Count(数える)"という言葉がはいっている。
つまりは、これから起きる事に対してリスクを考えた上で対応策を持っておく事がが"Responsible(リスポンシブル)"であり、起きてしまった事に対して解決策を提示することが"Accountable(アカウンタブル)"ということになる。
したがって、I’m responsible for ということは「私は〜に対して対応可能ですよ」という意味合いとなる。
したがって「責任をとる」とは、謝り続けるのでも辞めるのでもなく、問題を解決しようとする「前向きな」言葉なのである。
また、"Accountable"には、「説明責任」の含意がある。
新約聖書の「マタイの福音書」(24章)に「天国のたとえ話」がある。
神様が人々の生涯の”清算”の時点で、人々に、与えられたお金タラント(転じてタレント)をどう使ったかを申し開きすることを求めた。
英語の聖書では、この「申し開き」に”account”という言葉があてられている。
とはいえ、英語でも日本的な「責任を取る(責められる事を引き受ける)」という表現は存在する。
〜に対して責めを負うというのは、“take the blame for ~” と言うものだが、これは起こりうる問題に対して応答可能な状態を指す"Responsible"という概念とは大きくかけ離れている。
海外での旅先店で店員が何かオーダーを取り間違えたり、買った商品の不具合をクレームされたとしたら「謝る」ことよりも対応することが重視さる。
すぐに代わりの商品を持って来るなり、返金するなり起こったことに対する対応が早い。
欧米では責任をとるということは、「謝罪」という形式よりも、問題に対して「対応」という実質の方がよほど重要なのだ。

日本人は”立派”に謝ってもらったら、被害をうけた方は、一応気が晴れるような面がある。
もちろん問題の内容にもよるが、謝ってもらえば、人の非を「水に流す」つまり、「許す」「忘れる」という方向に向かう。
特に亡くなった人にたいしては、いつまでもその非を追及したりしない。
その点で、同じアジアでも、中国や朝鮮とは、著しく違うところである。
それではなぜ、日本人は「許す」のか。そこには、日本人特有の無常観や「縁」という意識もあるのではなかろうか。
「袖振り合うも多生の縁」という言葉があるように、仮に誰かから被害を受けることになったとしても、縁あって関わった相手だし、自分も全く非のうちどころがないわけではない、恨みやつらみをいつまでも残すことは、かえって不幸のもととなるという意識もあるのかもしれない。
かつて防災相が、「大震災が東北でよかった」との失言で辞任したが、前後の文脈が切り離されていた面があったにせよ、責任ある防災相の言葉とは思えないと批判された。
その一方で、東北の人々は防災相の失言が「東北でよかった」と応じてみせたのである。
その東北に対する差別的ととらえられることをユーモアに転じたのである。
アメリカの作家マーク・トゥエンは、「人間に関することはすべて悲しい。ユーモアそのものの隠れたる源は喜びではなくて悲しみである。だから天国にはユーモアがない」といっている。
この世では 誕生があり やがては死を迎えるのが人間の在り様で、誰も死と罪からまねかれる人はほとんどいない。
人は今日という日が明日も同じように続くと思いこんでいるが、実はその日常ははかなくてもろい「幸運」に支えれているにすぎない。
誰しもが生と死という共通したものに囲まれた時間を生き続けるのに、日常の中でそれを忘れがちだ。それが予期せぬ災害によって打ち破られる。
日本人的は、そういう悲しみの根源にある「無常感」というようなものを共有しているのではなかろうか。
東北震災後、多くの人々が悲しみの只中にあったにもかかわらず、どこかふっきれたような表情があったことを思い出す。
日本人の「許す心」のベースにある無常観や縁といえば仏教の影響を見逃すことはできない。
水俣病で悲惨な被害を受けた人々につき、元上智大学教授・宗像巌は、次のような報告を書いている。
「悲劇の渦中に置かれたにも関わらず、水俣漁村の人々の日常生活には、生きる生命の充実感が満ち溢れている。家族の中の被害者を中心とする助け合いの生活に接すると、この人々の深い悲しみ にもかかわらず、ときおり意外なまでの明るさをそこに見出すのである。
家族や漁村共同体の多くの人々をつつみ込んだ悲しみの共同体験は、人々の間に一時的な不安と緊張を起こしたにもかかわらず、やがて人々の心の奥に流れる生命の連続環を媒介にして、純度の高い愛の共同体験として展開されている」。
さて、水俣病多発地帯には、浄土真宗の源光寺や西念寺の門徒が多くいたことを付言したい。
これが、石牟礼道子の「苦海浄土」という言葉の背景にあることなのかもしれない。

ヨーロパの思想では、責任論は自由との兼ね合いで論じられることが多い。
というのも、責任は自由意志と結びつくためで、自由のない社会には根本的に責任も存在しえないということになる。
ところで、日本人の責任は、ひとつひとつの行為よりも、その時置かれた立場に対して責任が問われるということだ。
例えば、政治の世界でも、部下の失言などで、首相の責任(例えば、任命責任)がいつも取り上げられ、これも海外からみれば不可解にちがいない。
アメリカで、「責任」を問われるのは、立場ではなく職務に対して、つまり「職責」なのだ。
分かり易いのは、韓国やイタリアで、船長が乗客をおいて船から逃げたこと事件があった。こういうのは、責任がかなり明瞭である。
東京電力の原発問題があそこまで海外で批判された理由の一つは、あの時の社長が、社長としての職務を怠って、ちょうどあの時の船長のような行為をしたためである。
船長は、職責として「船とその乗客乗員の安全のために最善を尽くす」という義務があり、その義務を怠ったことが問題となった。
要するに、欧米では「仕事を全うする」 ということへの厳しい目が、トップである船長に向けられた。
事件がおきて、ただトップが責任をとって辞任することを「引責辞任」というが、欧米流にみれば、日本流の責任の取り方は、何の解決にもならいないので、彼らからみると不可解であろう。
記者会見なので、日本ではしばしば「立場上、発言は控えさせてもらいます」という言い方が聞こえるが、地位を上がれば上がるほど、立場の制約が大きくなる。
そういう意味では、立場が上にある人ほど、欧米的な「自由意志」としての責任は追及しにくくなる。
その代わりに「立場」としての責任が問われることになる。
また、様々な政治スキャンダルや企業の粉飾決済などで、真相究明が困難なのは、上のいわずもがなの空気を察して、部下のほうが働くため、職務としての責任の在り様の実態をつかむことがますます難しくなるからだ。
そこで上司は部下が勝手にやったことだと言い逃れる一方で、部下の方も、下手に「非」を認めると、「立場」だらけの周囲(組織)に迷惑がかかることになる。
そこで、汚職や行政を歪めた疑いなどの追及に対して、知らぬ存ぜぬ、記憶にないが「常套語」になる。
一方、欧米では地位が上がれば上がるほど、経営トップの裁量権が大きく、その分、「経営責任」を厳しく問われることになる。
欧米では、社員の不祥事などに、トップや上司が直接かかわっていない限り、責任はあくまで個人に向けられるのみ。
ただし、その結果会社の業績がダウンすると、会社の利益をあげるという職責を全うできなかったために、トップはその手腕を追求されことはおおいにありうることだ。
アメリカでは業績が悪ければ、投資家や株主から責任を追及される場面が非常に多い。
こうした訴訟攻勢に対抗する手段として、「企業者向けの賠償責任保険」が発達してきた。
特に企業買収が絡んでくると、特に経営者の判断責任は非常に大きいといわざるをえない。
それが元で、株主が巨額の損害を蒙ったとなれば、まず経営者の責任追及訴訟が起こされるのは避けられないからである。
そこでこうした経営者受難を表す言葉として、「ゴールデン・パラシュート」という言葉がある。
日本語にすると「黄金の落下傘」だが、M&Aにおいて企業を売り渡す際に、経営者が多額の報酬を受け取って退任することをいう。
会社はなくなっても、自分だけは身の安全を保障されるので、「黄金の落下傘」という。
アメリカの企業で、役員報酬が日本と比べてはるかに大きいのは、その分リスクを冒すことにもなるからである。
日産のゴーン会長が、自分の収入を誤魔化したりした背景には、そうした文化の違いもあることを知る必要がある。とはいえ、”ゴウに入ってはゴウに従え”ということわざもある。

ところが、最近では「アメリカン・ドリーム」の実現も、訴訟の洪水に押し流される気配を見せ、そうしたスガシサにも「陰り」が見えるようになってきている。
今アメリカで「成功」とは、「訴訟対応保険」と表裏一体化しているといっても過言ではない。
どんな立場の人も、いつ訴えられるか判らないので、その対抗手段として「保険」に加入することになり、その保険料たるや過大なものになっているということである。
訴訟は、「デイープ・ポケット」すなわち資力のあるものほどターゲットとなりやすい。
例えば、日本における取締役の地位は、サラリーマンの憧れの的であるが、訴訟社会アメリカでは、華やかなサクセス・ストーリーの反面、裁判による厳しい責任追及の標的であり、会社の「重役」は必ずしも憧れの対象というわけではなくなっている。
世界のビジネスマンにとって憧れの人物といえば、ビル・ゲイツ以前ならば、リー・アイアコッカを思い浮かべる。
アイアコッカは、GMの重役をやめてクライスラーを再生させたアメリカン・ドリームの体現者である。
後に大統領の候補までになったアイアコッカは、法曹協会の年次総会の席上、居並ぶ弁護士を前に「アメリカ国民の訴訟好きな性格が、産業界への危険負担への意欲を減少させ、国家の競争力に対して脅威になっている」と直言した。
そして「もし私達が他の国で当然に承認されている危険のいくつかを認めようとしないのであれば、たとえアメリカ憲法が300年にわたって存続しようとも、そのことを祝福するに値すると思わない」とまで言いきった。
もちろん「自由に伴う責任」という意味で使われることもあるが、比率でいえば、「立場と役割」の文脈のほうが多いのではないか。
また、立場はどんな集団のメンバーを想定するかによって変わる。その意味で日本社会における「責任」は、実質的には、所属する集団の中で定まる相対的な概念なのかもしれない。
同様に「自由」という言葉も、欧米におけるそれとはかなり違う使われ方をしているようだ。自由とは、近代社会における非常に本質的な概念であり、色々な捉え方があるが、これも日本語では、「立場や役割」との関係で語られることが多い。
例えば、「自由人」や「自由業」といった言葉には、立場に伴う責務から免れている、というニュアンスが付着しているのではないか。
つまり「組織や集団との縁が薄い状態」が、「自由」という言葉に対して、最初に連想されるイメージなのである。
しかしこの理解は、近代的な自由の概念とは、かなりかけ離れていると言うべきだ。
もちろん、欧米においても役割についての責任という概念はあるが、個人の自己決定との関係で、責任が語られることの方が目立つ。

シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が、先月、実に3年4カ月ぶりに解放された。多くの人々が彼の無事を知って安堵(あんど)したが、同時に、いわゆる「自己責任論」も再燃したようだ。
この問題については、すでに多様な議論があり、ここで改めて付け加えるべきことは多くはないが、特に気になる点を若干考えてみたい。
まず、近代的な法概念においては、個人の行為に対して責任が生じるのは、その者の自由な選択が可能な場合であるとされる。例えば、強盗の人質になった人が脅迫されて行った行為については、刑事的な責任は問われない。そこには自由意志が介在する余地がないからだ。
このような形で、責任と自由は密接に結びついていると考えるのが基本である。
だが日本社会においては、「責任」が自由との関係で語られることは、あまり多くないように思われる。
ゴーン氏が不満なのはわかるが、ゴウに居ればゴウになれということを理解してほしい。
仏自動車大手ルノー(Renault)の最高経営責任者(CEO)で日産自動車(Nissan Motor)の会長だったカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)容疑者は、日産の報酬の過少申告や会社資金の私的流用の疑いで日本の警察当局に逮捕された。内部告発者に関する情報もいくらか明らかになったが、動機は不明なままだ。
豪日研究財団(FAJS)のある研究員は、ゴーン容疑者逮捕の経緯について「日本には内部告発の文化がきちんと確立しておらず、異例だ」と指摘。「社内に何らかの緊張関係や権力争いがあるのかもしれない」と述べた。
メリカン・ドリームがある一方で、激しい競争に身を投じることが想定され、その只中で自分の身を守るにせよ戦うにせよ、客観的な「法」を盾として行く外にはなかったのである。
そしてアメリカは、フェアな成功者を讃えるについてのイサギの良さという点で、我が日本と違うスガシサを感じるところではあった。
ところが、最近では「アメリカン・ドリーム」の実現も、訴訟の洪水に押し流される気配を見せ、そうしたスガシサにも「陰り」が見えるようになってきている。
今アメリカで「成功」とは、「訴訟対応保険」と表裏一体化しているといっても過言ではない。
どんな立場の人も、いつ訴えられるか判らないので、その対抗手段として「保険」に加入することになり、その保険料たるや過大なものになっているということである。
訴訟は、「デイープ・ポケット」すなわち資力のあるものほどターゲットとなりやすい。
例えば、日本における「取締役」の地位は、サラリーマンの憧れの的であるが、訴訟社会アメリカでは、華やかなサクセス・ストーリーの反面、裁判による厳しい責任追及の標的であり、会社の「重役」は必ずしも憧れの対象というわけではなくなっている。
世界のビジネスマンにとって憧れの人物といえば、ビル・ゲイツ以前ならば、リー・アイアコッカを思い浮かべる。
アイアコッカは、GMの重役をやめてクライスラーを再生させたアメリカン・ドリームの体現者である。
後に大統領の候補までになったアイアコッカは、法曹協会の年次総会の席上、居並ぶ弁護士を前に「アメリカ国民の訴訟好きな性格が、産業界への危険負担への意欲を減少させ、国家の競争力に対して脅威になっている」と直言した。
そして「もし私達が他の国で当然に承認されている危険のいくつかを認めようとしないのであれば、たとえアメリカ憲法が300年にわたって存続しようとも、そのことを祝福するに値すると思わない」とまで言いきった。
アメリカでは業績が悪ければ、投資家や株主から責任を追及される場面が非常に多い。
こうした訴訟攻勢に対抗する手段として、「企業者向けの賠償責任保険」が発達してきた。
特に企業買収が絡んでくると、特に経営者の判断責任は非常に大きいといわざるをえない。
それが元で、株主が巨額の損害を蒙ったとなれば、まず経営者の責任追及訴訟が起こされるのは避けられないからである。
そこでこうした「経営者受難」を表す言葉として、「ゴールデン・パラシュート」という言葉がある。
日本語にすると「黄金の落下傘」だが、M&Aにおいて企業を売り渡す際に、経営者が多額の報酬を受け取って退任することをいう。
会社はなくなっても、自分だけは身の安全を保障されるので、「黄金の落下傘」というわけだ。
「ゴールデン・パラシュート」という言葉は、成功者を無条件に讃える「アメリカン・ドリーム」の変色を物語っているように思う 。

アメリカ社会における訴訟の洪水は、人の成功を羨み足を引っ張り合う日本人のムラ社会的態度とは異なるものだと思う。
なぜならアメリカンドリームの体現者の存在は、誰の前にも開かれた可能性をも証明してきたからだ。
ただアメリカ人の幸福追求の主要な手段が「訴訟」という権利に向かい、それが「金儲け」の手段と化しているところに、「チャンスの平等」から「取り分の均等」へシフトしつつある「病理」の大きさを感じざるをえない。