箱根宮の下

正月3日に箱根大学駅伝、東海大が総合優勝を果たし、青山学院の五連覇を阻んだ。
1920年に箱根大学駅伝が始まった頃は、今では想像できないようなことが起きている。
第1回大会は、「箱根の山道はどんなルートを走っても良い」という、今では考えられないルールであったため、参加校はそれぞれ事前合宿をして、箱根の山道を念入りに調査したという。
第6回大会(1925年)では、歴史に残る「替え玉事件」が起きている。
日本大学は、3区の選手として「替え玉」を走らせたのだが、走ったのは大山という車夫。バイト代を出して走ってもらったという。
東京の人力車業界では有名な足の速さであったため、あっという間に4人をゴボウ抜きした。
ただ大山は、人力車の車夫だということが簡単にバレてしまった。
腕をまったく振らず、ピッタリ腰につける車夫らしい走り方だったから。
さらに抜くときは「アラヨーッ!」という、車夫独特の掛け声をあげていたためである。
この結果、日大は翌年出場停止となった。
日大による、悪質というよりお笑い「替え玉事件」であった。
実は、この大山にタスキを渡した日大2区を走った前田というランナーも、幾分車夫と関係のある経歴のもち主だったことも奇遇である。
前田は、第2回大会(1921年)において、日比谷交差点で熱狂する駅伝ファンの整理を担当する巡査であった。
だが、大会当日、選手が姿を現すと、誰よりも熱狂してしまったのが前田巡査。選手と一緒に走り出してしまったのだ。
福岡国際マラソンでペースメーカーがゴールまで走った珍事を見たことがあるが、巡査の職場放棄とは驚きである。
おかげで日比谷交差点は大混乱に陥ってしまい、前田はこの混乱の責任をとったのか?警視庁を退職している。
警視庁退職後、前田は失意のどん底に陥ったかというと、そうでもなかった。
駅伝をやるため日大へ入学して、退職した翌年の第3回大会から、箱根大学駅伝に出場して、車夫の大山にタスキを渡している。
前田は(元)公務員ランナーであり、"駅伝お巡り"と呼ばれるほど有名になっていて、区間新記録をマークする快走で、大学での駅伝生活を締めくくった。
さて、箱根大学駅伝のTV中継で、最終区の小涌園を過ぎて間もなくの13キロ地点、急坂のカーブにあるグラウンドの前で毎年、子供たちの一群が選手に声援を送っている。
彼らは、箱根恵明学園の生徒達で、現在は2歳から高校3年までの47人が生活をする。
1949年11月に同所に開園し、翌50年から70年にわたり選手たちを励ましてきた。
現在は里親などと過ごす子供たちもいるが、毎年半数程度は学園で年越しをする。
ほとんどすることのない子供たちが、正月行事として応援をするようになったのが始まりという。
TV中継を通じて全国から寄付が寄せられるようになり、卒園生たちもTVの応援をみて「頑張ろう」という気持ちになってくれるという。
ただ、箱根恵明学園は、施設の老朽化などで、国道1号線の沿線の場所に移転が決定したため、来年からは応援の場所も移動することになろう。
箱根恵明学園の子供たちは、開園当時、施設にいた多くは戦争孤児であった。
彼らが応援する姿はTV中継されることにより、身元が判明したこともあったという。
一方、ランナーの側にも箱根大学駅伝を通じて不思議な出会いをした父子がいる。
ロンドン在住の作家・黒木亮は、大手邦銀をはじめ総合商社や証券会社などで国際プロジェクト金融を手掛け、アフリカから中東、アジアなどを縦横に駆け巡った経験を持つ。
それに裏打ちされた「巨大投資銀行」「エネルギー」といった作品は、多くの読者を獲得した。
黒木は、元マラソン選手で本名を金山雅之という。早稲田大学在学中に華々しくデビューし、五輪にも2度出場した。
ちょうど瀬古利彦と同じ時期に、早大競走部に在籍している。
金山は箱根駅伝では、"花の2区"を走った瀬古から首位でタスキを受け取って3区を走り、首位をキープしたまま、4区へタスキを引き継いだ。
そして、翌年は8区を走った。
黒木亮の作品「冬の喝采」は、自身である金山雅彦の青春物語で、エンジ色のランニング・シャツに、白字で大きな「W」。
それは、若き日の金山の姿であった。
競走部時代の瀬古利彦や監督の中村清のエピソードなどが書かれていて、ノンフィクションとしても面白い。
金山は、北海道の田舎町で本格的に走り始めた高校時代から早大時代まで、ただひたすら走る毎日であった。ケガで走れなくても、頭の中にあるのは、走ることだけ。
単調でもあっても、その凡庸たる日々を積み重ねた者だけが非凡さを獲得し、道が開けるという信念があった。
しかし、それだけではなかった。「走る」ことによって忘れたい心の葛藤があったのだ。
金山が実の両親と信じて疑わなかった父母は、実は養父母だった。生後7カ月のとき、養子に出されたのだという。
彼はその事実を、早大入学時に知ることになった。
小説の中のその場面では、北海道から上京してきた養父に真実を聞かされる。
養父はシュークリームの箱を差し出すや、金山は箱を部屋の隅に叩きつける。
自分はこれからも何も変わらないと思っているのに、養父が媚びようとすることに腹が立った。
金山は、おもむろに48歳の養父に向かって言った。「これからも僕の親は、父さんと母さんだけだから、よろしくお願いします」と。
大学卒業後、大手邦銀に入った金山は、戸籍を手がかりに、北海道岩見沢市に住んでいた実の両親に初めて手紙を書いた。
すると、すぐに母から返事が届き、封を開けると、何枚もの写真が入っていた。
一番大きな写真は、昭和20年代の「箱根大学駅伝」の写真だった。
なんとそれは、金山の父親の若き日の姿だった。金山の父も、箱根大学駅伝の選手だったのである。
「M」の文字の入ったランニング・シャツを着た若者が、父親の若き日。自分の「W」(早稲田)と父の「M」(明治)で、文字が逆さになっただけの違いのようだった。
驚いたことは、そのことだけではなかった。
明治大学の選手として、父は4年間に4度出場した。金山が走った3区と8区は、父も走っている。
しかも大学4年のときは、2人とも8区を走り、ともに区間6位・チーム3位だったというのだ。
そのあまりの符節の合一に、金山氏は愕然としたという。
それからしばらく過ぎた1996年。英国の永住権を取った金山は久々に郷里、北海道を訪れた。初めて両親に会いに行き、そして知った。
自分の出生の経緯と、生後7カ月の自分を手放すとき、母は布団をかぶり、声を押し殺して泣き続けたこと。
ただ、幼くして別れただけに、父子に親子の歴史はなく、陸上競技だけが共通の話題だった。
TVでの「箱根大学駅伝」の全面中継は最近だが、それ以前に参加ランナーの名前の中に、父はきっと息子の名を見出していたに違いない。

明治維新後、横浜の居留の在住外国人の避暑地として、箱根・宮ノ下は、外国人の間でもよく知られるようになった。
駕籠で片道22時間の行程であったが、江戸時代から旅籠であった「藤屋旅館」や「奈良屋旅館」にも外国人は宿泊していたことが推測できる。
箱根の発展の功労者である山口仙之助は、横浜の漢方医を家業とする家に生まれた。
遊廓「神風楼」の養子となり、江戸浅草の漢学塾で学んだ後、維新の際に横浜に出て商業を研究した。
1871年に渡米し、皿洗いなどをしながら牛を購入して日本に持ち帰り、「牧畜業」を志すようになった。
しかし突然にその意志を翻して牛を売り払い、慶應義塾に入り、福沢諭吉により「国際観光」の必要性を諭された。
卒業後の1878年に、外人客専門の保養地宿泊施設が無いことに着目し、箱根宮ノ下の老舗旅館「藤屋旅館」を改築して「富士屋ホテル」を開業した。
名称の由来は富士山を眺望できる場所にあるからだが、日本のシンボルを意識しての名前であっただろう。
しかし、1883年、宮ノ下をおそった大火で、「富士屋ホテル」も「奈良屋旅館」も全焼したのである。
翌年、山口仙之助は、養父に援助を請い一階建ての「アイビー」を建築し、1891年現在の本館を建築した。
1887年には、ライバルである奈良屋旅館は富士屋ホテルを意識して洋風ホテルを建築し「奈良屋ホテル」と呼ばれ再出発した。
両ホテルとも、横浜の居留地の発展とともに、箱根を訪れる外国人も増え、「外国人争奪戦」が行われるようになった。
そこで1893年両者が協定を結び、富士屋は「外国人専門ホテル」に、奈良屋は「日本人専門旅館」というように棲み分けすることとなった。
山口仙之助は当初から「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残し、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」をめざした。そのため、日本文化を伝える展示や工夫がされている。
岩崎弥之助や古河市兵衛が宿泊に来ても「外国人専用」ということで、ホテルゆえ泊まらせなかったぐらいに徹底していた。
富士屋には、ヘレン・ケラーやチャップリンも宿泊しており、別館にはジョン・レノンとオノ・ヨーコが滞留していたこともある。
さて、「富士屋旅館」を創業した山口仙之助はホテルの経営ばかりではなく、箱根の発展に力を注ぎ、私費で道路を開いたり水力発電の会社も立ち上げた。
1904年には水力電気事業を開始し、宮ノ下水力電気所を設置した。
また温泉村の村長となり、続いて塔之沢~宮ノ下間の三道を自力で開墾して道路を整備(現在の国道1号)した。
山口仙之助は1904年に死去(63歳)したが、娘婿の山口正造が専務に就任する。
山口正造は、日光金谷ホテルの創業者・金谷善一郎の次男だったが、富士屋ホテルにホテル経営を学びに来た際、山口仙之助に気に入られ娘婿となったのである。
兄の金谷眞一が金谷ホテルを継ぎ、弟の山口正造が富士屋ホテルを継いだことになる。
金谷兄弟はともに「立教大学出身」で共にアメリカ留学を経験している。
富士屋ホテルの3代目の社長となった山口正造は「乗合バス」の運行をしたり、ホテルマンの育成にも力を注ぎ、1930年「富士屋ホテルトレーニングスクール」を立ち上げている。
このスクールは1944年山口正造の死により途絶えたが、山口の遺産が寄贈され立教大学社会学部「観光学科」(現在、観光学部)が設立された。
ちなみに、この学科の卒業生にミュージシャンの細野晴臣がいる。
ユダヤ人ラビであるトケイヤーは、「日本買いませんか」という本の中で箱根・宮の下において、外国人スパイの追跡が行われていたことを明らかにしている。
その人物とは「リヒャルト・ゾルゲ」で、トケイヤーは、「本邦初公開」と断って、ゾルゲ逮捕の「迫真」の顛末を書いている。
ゾルゲが箱根宮ノ下の湖に魚釣りに行くとき、日本の警察は密かにその湖の周辺で見張りについていた。
ゾルゲは、ボートに乗って魚釣りの用意をして湖の中央にこぎだす前、手にもった紙片に暗号文を作成していた。
ボートに一緒に乗っていたのは、ドイツ国籍のソ連のスパイであった電気技師だった。
このような状況を一部始終、湖のまわりで観察していた日本の警察当局者は、彼らがボートから上がって、東京に向かって自動車で立ち去ってから、湖の中を徹底的に捜索したのである。
当局はゾルゲがボートの上から細かくチギッて捨てた「紙切れ」を、一片残らず集めてそれをつなぎ合わせ、それが「暗号文」である事実をつきとめ、それがゾルゲ逮捕の決定的な証拠となったのである。
しかしこの逮捕劇以上に、箱根大学駅伝で注目度の髙い箱根宮ノ下は、日本現代史の重大な局面に望むことになる。
1945年終戦で、富士屋ホテルはGHQによって接収せられ、GHQの首脳が滞在する一方で、奈良屋旅館には、当時の日本の首脳が滞在し「憲法草案」が考案されたのである。
この「憲法草案」とは終戦時、幻となった「松本案」のことで、実にこの奈良屋の一室で書かれたのである。
奈良屋旅館は、政財界人が多数訪れる格式高い老舗名旅館だったが、2001年(平成13年)その歴史を閉じた。
一方、国道1号に面した富士屋ホテルは年始の「箱根大学駅伝中継」では選手の位置関係を示す際に使われる「ランドマーク的存在」となっている。

長野県と岐阜県の境には、諏訪地方で働く女工たちの思いを伝える「野麦峠」の石碑が立っているが、箱根山の頂近くには、「国産ピアノ製造」の夢を抱いた二人の人物の記念碑が立っている。
山葉寅楠は、1851年紀州で生まれた。
徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始め、その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての学んだ。
1884年、医療器械の「修理工」として静岡県浜松に移り住み、医療器械の修理、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をたてる。
或る時、浜松尋常小学校で外国産のオルガンの修理工を探していた時、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼したのである。
山葉は、ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。
実はこの時、山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの「試作」を開始した。
試行錯誤2ヵ月で国産オルガン第1号が完成し、学校に試作品を持ち込んだが、その評価は極めて低かった。
そこで、山葉と河合の二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で専門家に教えを請うことにした。
二人は、音楽取調所の伊沢修二学長の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
そして山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも国産第2号オルガンをつくり、伊沢修二は、この第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押した。
当時はまだ鉄道未開通で、山葉と河合の二人は東京の音楽取調所まで実に250kmを天秤棒でオルガンをかついで運んだ。
「天下の嶮」とよばれた箱根の難所も超えて、それを記念する碑が箱根の峠に立っている。
山葉はその後単身アメリカに渡り、「ピアノの国産化」にも成功している。