応援のイッピン

香港はかつてイギリスの植民地であったが、1997年に中国に返還された。50年間はそのままの 体制が維持されるという約束であったが、情報統制が強く市民を監視下におく巨大中国に、香港が飲み込まれんとしつつある。
2014年の11月に香港反政府デモいわゆる「雨傘革命」が起きた。
香港人の意識の中には、「中国本土(CHINA)」と「香港(HONGKONG)」は別物という意識が根強い。
つまり中国人あるいは「大陸の人」ではなく、まず香港人であるというアイデンティティがある。
そんな中で「選挙制度」そのものを変更してしまえば、北京政府に有利な人々が選ばれ、やがては本当に中国の単なる"地方都市"として吸収されてしまう。
そんな不安から政府に対する反対運動がおきたのだ。
”催涙ガス”を防ぐために傘で防御したことから「雨傘革命」と呼ばれ、「黄色い傘」が革命のシンボルとなった。
労働者階級が多く住む九龍地区にある獅子山が垂れ幕を下す場所に選ばれ、「黄色い傘」を持った習近平総書記の写真が置かれた。
「黄色」は中国の最初の皇帝が「黄帝」であることか皇帝のシンボルである。
幾分不謹慎と思いつつ、「雨傘革命」の風景に似ていると思ったのは、それが東京ヤクルトスワローズの応援風景である。
「似ている」というのは、傘を使った運動というばかりではなく、どこか「傘」が人々のアイデンテティのシンボルのように感じられたからだ。
神宮球場には、屋根がないため雨の日に偶然に傘の花が咲いて応援に使われたというわけではないらしい。
つまり偶然の産物ではなく、ある種の「思想」に基づくものだった。
その思想の持ち主が、かつてのスワローズ応援団長・岡田正泰という人物で、この人物こそが「傘」を応援に持ち込んだ。
生粋の江戸っ子で口でも、応援スタイルにも人柄が溢れ出ていて、「東京音頭」がスワローズの応援歌になったのも、盛り上がりにかけたスタンドの最前列で、岡田が歌い始めたからだ。
岡田が、なぜ応援に傘を使おうと思ったのかというと、「少ない観客をなるべく多く見せる」といのが最大の理由、そしてもうひとつは「家から持って来られる物として傘を採用した」というのだ。
家から傘を持ってくれば、球場でお金を落とす事も無い。その余ったお金で「チケットを買いなさい」と、岡田の応援に対する思想がにじみ出ている。
そして、子どもたちには「神宮の食べ物は高いから、お母さんにお弁当を作ってもらいなさい」ともいっていたという。
岡田の家業は看板製作会社の「オカダ工芸」。
その腕を生かし「神様!! 勝たして下さい」「まだある優勝」「勝ち鯛」「バンザイ」など、オリジナルの横断幕を持ち込み観客を楽しませ選手を励ました。
生粋の江戸っ子であるため大変に口は悪いが実はとても優しい人柄であった。
妻との二人暮らしで子供がいなかった岡田にとっては「チームは家族、ファンと選手は我が子」のような存在であったと公言しており、そんなところに惹かれて私設応援団に入る若者も多かった。
岡田は傘以外にも、応援グッズをプロ野球の応援にもちこんでいる。
テレビでメジャーリーグの映像を見た時に、応援席で観客が用いる”メガホン”の存在に気付き、なんとか同じようなものが手に入らないかを試行錯誤しているうちに、ある日偶然工事現場で設置されている樹脂製の「三角コーン」を発見し、これを加工する事で即席のメガホンを自作したのである。
その類まれなキャラクターから、ヤクルト・スワローズファンである漫画家のいしいひさいちが自作「がんばれ!!タブチくん!!」に登場させ同作のアニメ化によって広く知られるようになった。
実は岡田は、1952年ごろ、当時まだ結婚前だった妻と後楽園球場にデートに行き、読売ジャイアンツ対国鉄スワローズを観戦。
その際、国鉄ファンの余りの少なさ、巨人ファンからの野次の酷さを見かねて国鉄を応援しはじめたのがきっかけ。
こうみてくると、ヤクルトスワローズの応援で利用される「傘」が、まるで香港の雨傘革命に似て、ジャイアンツという名前からして巨人と対抗しようとする弱小球団アピールのシンボル、そして岡田応援団長に代表される「生粋の江戸っ子達」のアイデンテティの拠り所のように見えてくるのだ。

応援グッズ(アイテム)なるものは、意外なところから生まれ、意外なカタチに展開をするものだ。
その代表がサイリュウムともよばれる「ペンラライト」。
今やペンライトといえば、コンサート、イベントなどで演出効果をあげるための必需品。
100円ショップで買えるほどの小品だが、もともとはアメリカの「アポロ計画」から生まれた技術である。
アメリカでは、1960年代に「アポロ計画」という有人宇宙飛行計画が実施されていたが、宇宙空間で火や電気を使用せずに、安全に光を起こせるものとして、「ケミカルライト」が発明された。
ケミカルライトが光る仕組みとは、酸化反応を起こさせると、電子エネルギーを吸収した分子は励起状態という不安定な状態であるため、通常はエネルギーを放出して、元のエネルギーの低い基底状態に戻ろうとする。
ちなみに、”励起”とは原子や分子などの粒子があるエネルギーをもった定常状態に、外部からエネルギーを与えて、より高いエネルギーをもつ定常状態に移すことをいう。
そして、励起状態と基底状態とのエネルギー差を通常は熱として放出する。
しかし、放出されるエネルギーが”可視光線”の場合、「発光」として現れる。
このような発光を「化学発光」と呼んでいる。
実験室での話をいうと、ケミカルライトのスティックには、溶液Aと溶液BB入っている。
溶液Aは、ガラス製のアンプルに入れ、そのアンプルが溶液Bとともにポリエチレンのスティックに入れられ、密閉されている。
スティックを曲げて内部のアンプルを割ることにより、2種類の溶液が混ざり合う。
両者が混さざることにより、”ジオキセタンジオン”となる。
”ジオキセタンジオン”は、不安定で高いエネルギー準位にあるため、蛍光色素にエネルギーを与えて二酸化炭素へ変化する。
エネルギーを与えられた蛍光色素は励起状態になるが、不安定なため、安定なエネルギーの低い基底状態に戻る。
この時にエネルギーの差分を”光”として放出するのがケミカルライトの発光なのだ。
ケミカルライトの色は、蛍光色素の種類を変えることにより、変更することができる。
ケミカルライトは、酸素を必要とせず、毒性や引火性がないため、屋内、屋外に関わらず、安全に使用することができる。
また、熱をほとんど発生しないので冷光と呼ばれている。
緑、赤、黄色、白、青などの20種類以上の色調のものが販売されている。
常温であれば、通常6~8時間の発光が可能で、数分間の発光時間で高い輝度のものもある。
福岡県の「ルミカ」という企業がこれに目をつけ、1979年に商品化した第1号が「ケミホタル」という”夜釣り用の釣り道具”である。
「ケミホタル」は糸の位置を判別したり、光で魚を寄せるために使用する。1982年には、現在も見られるようなコンサートやイベントなどで使われるケミカルライト類が販売されるようになった。
また、ケミカルライトは防災用として、緊急避難時の簡易ライトとしても使用される。
そうえいば最近テレビで、一見普通の紙を丸めるだけで光を発し”懐中電灯”の役割を果たす優れものをみたが、原理的にはそれも同じものであろう。
ちなみに、福岡県遠賀郡遠賀町に本社がある「ルミカ」が、日本のペンライト市場の約7割を占めている。

広島カープの応援グッズといえば「しゃもじ」。
広島では、高校野球の応援にまで「しゃもじ」を使った応援をしているなので、それは広島の地域性に根差したものであることが推測できる。
実は「しゃもじ」は、宮島の名産品、厳島神社の参拝土産として有名であり、縁起ものである。
もうひとつの理由、「しゃもじ」はご飯を食器に取り分ける器具であり「飯をとる」=「勝ちを召し取る」という語呂合わせ。
さらには、 しゃもじ同士を打ちあわせると「カチカチ」なるので「勝ち」につながる。
他にもメガホンと違ってかさばらないという理由も加わる。
ところで「カープしゃもじ」は、カープの認可を受けた業者の制作によるものであるが、この「しゃもじ」を創る会社「横山せいみつ」には広島の歴史が秘められている。
なぜなら、この会社はもともと「針」をつくる会社であったからだ。
さて、バレーボールおよびバスケットボールの世界シェアNO1は、いずれも広島にある会社で、オリンピックの「公式ボール」が製作されている。
そのボール製作の源流を探ると、意外なことに砂鉄と木炭を使った日本古来の「たたら製鉄」にたどり着く。
バレーボールは、ゴムのシートを成形機に入れて袋を作り、高圧の空気や硫黄で加工する。
糸で袋の周りを巻いて強度と反発力をつけ、最後に人工皮革や牛革などの天然皮革を貼っていくのが基本的な作り方である。
バレーボールシェア日本一の会社「ミカサ」は広島にあり、その源流に遡れば1895年に広島出身の増田増太郎が英語を学ぼうとハワイに渡った時点に遡る。
勤務先のホテルで足音のしないゴム底靴に驚き、ゴム製造の技術に関心をもちゴムの研究をはじめる。
帰国後の1903年にゴム草履(ぞうり)の製造を始め、17年にミカサの前身となる「増田ゴム工業所」を設立した。
第1次世界大戦でドイツなどでの生産が停滞するものの、広島はそれを埋めるだけの「特需」に沸いた。
そして戦後、原爆で焦土と化した広島で、増田ゴムと名前を変えた現在のミカサは進駐軍の指導で「運動用ゴムボール」の生産から再出発した。
ではどうして、戦後まもない日本でそれほど多くのゴムの供給があったのかというと、意外にもそれが「針の生産」と関わっている。
広島の安芸太田町の「加計(かけ)」という場所は、歴史的に「砂鉄」がとれる地域であった。
北広島町内では古代から江戸時代にかけての製鉄場跡が約200ヵ所見つかっており、盛んに製鉄が行われていたことがうかがえる。
「加計」は出雲と並ぶ中国地方の「たたら製鉄」の中心地だったのである。
江戸時代の広島藩主・浅野家はこの砂鉄を原料に下級武士の手内職として「針つくり」を広めた。 その結果、長崎や京都への出荷で栄え、「広島針」は全国に知られた。
時代は下り昭和の初め、広島県のメーカーは中国やタイに大量の針を輸出していた。
行きはたくさんの針を積む一方で、帰りの船は”空っぽ”。これではもったいないとアジア各地で採取できる安い「生ゴム」を持ち帰ったところ、広島のゴム産業が伸びたのである。
例えば、”軍手”の通気性の良さとゴム手袋の滑りにくさを兼ね備えた「ゴム張り手袋」は、40年以上のロングセラーとなっている。
というわけで広島において、針とゴムの歴史は”表裏一体”の歴史があるのだが、その針を作っていた会社のひとつ「横山セイミツ」が、広島カープの応援アイテム「しゃもじ」を生産している。
横山セイミツは、1868年に創業した針をつくる会社で、今は文具用の押しピンや裁縫用品を主に生産してきているが、プラスチック成形も50年以上の歴史がある。
そして、カープの「応援しゃもじ」を商品化し、いまやマツダ・スタジアムを埋めるカープファンの応援必需アイテムとなっているのである。

瀬戸内海、明石海峡に近い”淡路島”には、全国で圧倒的生産シェアを誇る商品がふたつある。
その一つが、お香と線香である。
お香の歴史は古く、わが国へは仏教伝来とともにインド、中国から伝わってきた。お香の起源はそれよりさらに古く、595年に、淡路島の漁師が流れついた流木を燃やしたところ、すばらしい香りがたちこめたので、帝に献上したという伝承が「日本書紀」に記されている。
江戸時代に淡路島で線香が作られるになると、その普及はめざましいものがあったが、そんな淡路島の人々のモノづくりへの思いと通底するもうひとつの全国的なシェアを誇る商品が、野球のスタンドなどで応援のアイテムとしても用いられる「吹き戻し」である。
口にくわえてヒュ-と吹くとスルスルと伸びた後、先からクルクルと戻ってくるもの。
マンガの「ちびまるこちゃん」主題歌を歌ったBBクインーズの「踊るポンポコリン」で使われた、あの”ピーヒャラ笛”のことである。
この「吹き戻し」を夜店で売られている”紙おもちゃ”ぐらいに軽く思ってはならない。
昭和初期のころは日本中で作られ、地方によって「巻鳥」、「巻笛」、「蛇笛」などの名前で親しまれてきた。
この「吹き戻し」生産で圧倒的なシェアを誇るのは創業された大阪で「八幡光雲堂」という紙製品を扱う会社であった。
1950年代から、吹き戻しの生産に主力を移し、1960年代初めには専用の機械を開発して”特許”を取得した。
そして1972年に淡路島に工場を建設し、国際的な需要にも対応していったのである。
実は、「吹き戻し」は、海外では「BLOWOUTS」と呼ばれ、パーティーの会場で、また新年を祝う人々が街角のあちらこちらで「BLOWOUTS」を吹く習慣があった。
そのため、日本では1970年代にパーティーグッズとして、アメリカやヨーロッパなど世界中に輸出したのである。
昭和40年代には、淡路島に拠点のある「八幡光雲堂」の商品がアメリカやカナダ、ヨーロッパ等に輸出され、日本政府から「輸出貢献企業」として表彰されたこともあるほどである。
2015年4月1日から、株式会社「八幡光雲堂」は、株式会社「吹き戻しの里」に社名を変更している。
そして現在、淡路島で日本国内で製造される吹き戻しの80%を占めるのは、「(株)吹き戻しの里」で生産されているためである。
そして「吹き戻し」はパーティや応援を盛り上げるばかりではなく、医者の中には、「吹き戻し」をリハビリに使う人もいるという。
「吹き戻し」は、吹く息の変化が目に見えるため、喘息や言語障害などのリハビリが、楽しみながらできるからだ。
”応援”といえば、淡路島出身者として最もよく知られた人物が作詞家の阿久悠である。
阿久は、2007年に亡くなったが、その生誕地である洲本市五色町には「顕彰モニュメント」とともに「愛と希望の鐘」が設置されている。
阿久悠はだいの高校野球好きで、淡路島を舞台とした自身の野球体験を書いた「瀬戸内少年野球団」は、直木賞候補作にもなっている。
また、阿久悠作詞の「狙い撃ち」の「うらら うらら うらうらよ」が、「うてよ うてよ うてうてよ」に変えられ、永遠の野球応援定番曲となっていくのも、どうにもとまらない展開であった。

♪あなたに逢えてよかった
 あなたには希望の匂いがする
つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
 さわやかな希望の匂いがする
町は今 眠りの中
 あの鐘を鳴らすのは あなた
人はみな 悩みの中
 あの鐘を鳴らすのは あなた
あなたに逢えてよかった
 愛しあう心が戻って来る
やさしさや いたわりや ふれあう事を
 信じたい心が戻って来る♪
「鐘」をモチーフにした曲が、震災で大きな被害を受けた淡路島と東北を結ぶことになった。
2010年3月22日、作詞家阿久悠(2007年死去)の出身地である兵庫県洲本市五色町(淡路島)の「ウェルネスパーク五色」に、阿久の顕彰モニュメント「愛と希望の鐘」が設置された。
この「顕彰碑」は、1972年3月25日に発売された和田アキ子のシングル「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフにしたものであった。
除幕式には、この曲を作曲した森田公一や和田アキ子も出席した。
もともとホリプロが和田アキ子に「歌唱賞」をとらせるべく阿久悠に作詞を依頼して出来たのが「あの鐘を鳴らすのはあなた」だったが、それが本当に実現してしまったのだからスゴイ。
さて淡路は1995年に大震災に見舞われたが、ちょうど「愛と希望の鐘」の設置の1年後に東日本大震災がおきる。
東北の被災者支援の義援金の募金活動の一環として、同年3月17日にホリプロが「あの鐘を鳴らすのはあなた基金」を創設したという。