父祖の汚名

NHKの番組「細野晴臣ファミリーヒストリー」によれば、ミュージシャン細野晴臣の祖父・正文は、新潟県生まれ、村きっての秀才で難関の東京高等専門学校(現在の一橋大学)へ進学する。
その当時日本は近代化の途上、全国に鉄道網が急速に伸びていったが、1897年、正文は逓信省鉄道作業局に入り、日本最初の駅、新橋駅に配属される。
1年後、同郷の女性と結婚し、三男一女の子宝に恵まれた。
1905年、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約において、ロシアが建設した南満州の鉄道を租借することとなり。ロシアの鉄道事情を知る人材育成が急務となった。
そこで正文は鉄道員の中から選ばれ、ロシアへの留学を命ぜられ、首都サンクトペテルブルクへ向かった。
1912年2月、正文は1年半のロシア留学を終え、正文は帰国のため、ロシアからイギリスに向かう。
このとき鉄道員の同僚から、ある船に乗ることを勧められる。
それが完成したばかりのタイタニック号。全長270m、当時最大の豪華客船だった。
最新設備を装備し、絶対沈まない船と評判だった。
4月10日、ニューヨークへ向けての処女航海。多くの貴族を含む乗員乗客2200名、その乗員名簿に正文の名が残されている。二等客室の乗客だった。
4日後の14日午後11時40分、タイタニック号は氷山に激突し、わずか二時間後に沈没。助かったのは7百名余り。そのなかに正文もいた。
帰国直後正文も、奇跡の生還者として大々的に報じられたものの、しばらくすると風向きが変わる。女子どもを差し置いて助かったのだと批判をうける。生きて帰ったことは間違いだったのか。正文はタイタニックのことを一切語らなくなる。
そして事故から1年後には鉄道員副参事の地位を退くことを余儀なくされ、その後嘱託として鉄道員の職に留まったものの、表舞台からは遠ざかった。
家族の暮しも一変する。当時中学1年だった長男は、この騒動に巻き込まれ、東京から新潟へ転校せざるを得なくなった。
1917年、46歳の正文に男の子が誕生する。四男の日出臣で、細野晴臣の父である。
定年まで鉄道員を勤めた正文は、1925年、岩倉鉄道学校の講師となる。駅の業務や、車掌の業務を教えた。正文の教え子たちは日本国内はもとより、旧満州や朝鮮半島で活躍した。
そして1939年、正文は68歳で亡くなるが、最後までタイタニックのことを語ろうとはしなかった。
死後、家族が正文の遺品を整理していたところ、思わぬものが見つかった。タイタニックから生還した、一部始終を記した手記だった。
他の船に救助された直後、この出来事を記憶に留めておこうとしたのだ。タイタニック号の船内からたまたま持ち出した便箋に綴られていた。
「大事件が発生せしことを知り、命も本日にて終わることを覚悟し、別に慌てず、日本人の恥になるまじきと心がけた」。
正文の目の前で降ろされた”救命ボート”はすでに満員。まわりの乗客たちは、次に降ろされるボートに向かった。
もはやこれまでと正文はあきらめ、その場に佇んでいた。するとそのとき満員の”救命ボート”から声がかかった。「あとふたり乗れる」。その声を聞いたのは正文と、隣にいたアルメニア人の男性。
すぐにアルメニア人が飛び乗った。
そのときの正文の心境は、「最愛の妻子を見ることも出来ざることかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけりし今男一人飛び込むのを見て」、正文も思い切って飛び乗り、生還を果たしたことが記されている。
決して卑怯なまねはしていない。1942年、家族はこの手記を発表した。しかし戦争中ということもあって、注目を集めることはなかった。
ちなみにこの手記は現在、横浜みなと博物館に保存されている。
タイタニック沈没から85年の歳月を経た1997年、映画「タイタニック」が世界的に大ヒットする。
この年、細野家にある依頼が舞い込む。アメリカにあるタイタニック財団が、映画公開を機に、祖父正文の手記を調べたいと申し出たのだ。
当時調査を指揮したのが、タイタニック財団理事のボブ・ブラッケンで、これまで乗客1500名分の情報を集めていた。
ブッラケン、正文の手記が事故直後の救助船で書かれていて、その克明な記述に驚いたという。そして過去の証言と照らし合わせると、手記の信憑性が極めて高いことがわかった。
その最大の根拠となったのが、正文の隣にいたアルメニア人の「10号ボートには日本人がいた」という証言だった。
そこで、ブラッケン等は、10号ボートについて調べることにした。
すると10号ボートは何の混乱もなく降ろされ、その後定員に満たないことが判明し、ふたりが乗ったことがわかった。
細野家の長年にわたる苦しみを知った財団は、会報で特集記事を組み、「誰かを押しのけることなく乗った。実際にスペースがあった。正文は何も悪いことはしていない。ひきょうな行為は何もない」という事実を世界に届けた。

太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入した。
この特攻兵器こそは、世界に類を見ない「有人誘導式ミサイル」で、設計は当初提案に猛反対していた三木忠直技術少佐が担当することになる。
風洞実験結果など基礎資料を基にわずか1週間で基礎図面を書き上げ、さらにその1週間後には「1号機」を完成させた。
戦闘員の「人命」を考慮にいれなければ飛行機とは案外と簡単につくれるものなのだ。
ただし、この新兵器に対して実戦のパイロットから、現実を直視していない上層部に対して血を吐くような批判も出た。
母機が敵艦隊に接近するためには、「制空権」の確保が前提となるのだが、制空権を握っているくらいなら、もともと「特攻」なんてする必要がないといった根本的な矛盾をはらんでいた。
さて「桜花」の発案者は、大田正一という海軍少尉だが、NHKの番組で、大田少尉の息子が「父の実像」を追跡する内容のものがあった。
息子の大屋隆司は、戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ねながら、知られざる「大田正一」の過去と向きあうことになる。
隆司は父親の名が「偽名」だとは知らずに育ってきたが、中学生の時に母親から父親の本当の名前を聞いた。以来、隆司は母方の「大屋」姓を名乗った。
ただ息子は、それ以上詳しい話を聞くことはできなかった。
その後息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知ることとなるが、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
父は本当はどんな人間だったのか。父が背負い続けたものとはいったい何だったのか。それが知りたかった。
大田正一は、1928年15歳の時に海軍を志願し、日中戦争にも参加した叩き上げの軍人だった。
魚雷や爆弾を投下する攻撃機の搭乗員で、行く先を指示する偵察員として戦火をくぐり抜けてきた。
しかし1942年、ミッドウェー海戦に敗北以降、各地で消耗戦が続き戦況は悪化する一方であった。
そんな中、大田は戦局を挽回する秘策として思いついのが「有人誘導爆弾」であった。
1945年3月21日、初めての桜花攻撃を行ったが、2トンを超える桜花をつり下げその重みで動きが鈍くなった母機は桜花もろとも撃ち落され、1機も敵艦に到達することさえできなかった。
結局、神雷部隊は期待された戦果を上げることができず、敗戦までに829人が戦死している。
1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
ちょうどその頃、死を前提とした新兵器の必要性を仲間に説いていたのが大田正一だった。
大田は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎず、それも自分が率先して乗っていくと提案したものだった。
大田は、たかだか海軍少尉であり、いかに彼が「有人誘導爆弾」などを提案したとしても、上層部は簡単に一蹴できたはずである。
敵の艦船に体当たりするなど軍上層部の口からからは言い出しにくいことだが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できる。
大田は、はからずも飛行機に乗ることなく「英雄視」され、各地の部隊で「桜花作戦」の必要を説く講演に引っ張り出された。
若者たちは、何も知らぬまま部隊に入れられ、大田の講演を聞いた後に、この作戦に参加することを呼びかけたところ、1人がその意思を表明するや、次から次へと名乗りを上げていった。
結局、大田の提案はピタリと軍上層部の意向に沿うものであり、上層部によって都合よく利用されたというほかはない。
桜花作戦の失敗が続いた後も大田は新聞に「英雄」として登場し、このことがさらに隊員たちの気持ちを逆撫でした。
結局、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。そして終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。
その時の様子を目撃した隊員は、「戦闘機が古いミシンが縫うように、するすると空に舞い上がったと思ったら、いつのまにか見えなくなった。
ところが後で、漁船に助けられたという連絡がはいったと語った。そして同僚たちの中に、大田の目撃情報が寄せられるようになった。
実際、大田正一は生きていた。「横山」という偽名を使い、1951年頃から大阪でひっそりと暮らし大屋義子さんと出会い素性を隠して家庭を築いた。
義子さんは、初めて大田正一を見たとき、かっこよく頼りがいがあると思ったという。
しかし、まもなく騙されたと思うようになった。すぐに仕事をやめてしまうからである。
しかし真相は、戸籍を抹消した大田は働こうにも、必要な書類が出せなかったのである。
婚姻届は出せず、仕事はいつも不安定で20以上の職を転々とし、家計は義子さんが支えた。
義子さんは夫になぜ「偽名」なのか、「戸籍」がないのか、その理由を聞いたことがあった。
しかし、肝心なことは教えてくれず、義子さんも、子供たちのこともあり、それ以上深入りすることをためらった。
大田は、近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はおらず、一人椅子に座りずっと空を眺めていることが多かったという。
大田正一は1994年12月7日に亡くなっている。

戦後、日本の占領時のミステリー事件として、松川事件、下山事件、三鷹事件がある。
いずれも国鉄で起きた事件で、早くから共産党の”仕業”であると発表された点で共通している。
事件の起きた1949年は、中国では共産党政府ができ、朝鮮戦争はいつ勃発するかわからないという状況で、その年の総選挙で共産党が4議席から35議席に大躍進しており、日本政府も共産党を何とか押さえ込みたいという意図があったと推測できる。
国鉄がストライキでマヒしては作戦行動に影響するということにあった。
松川事件では逮捕された全員が無罪になっているが、三鷹事件は、逮捕された10名のうち9名は無罪になったのだが、その残る1人には1959年、死刑が確定している。
その竹内景助元死刑囚は1967年、脳腫瘍で獄死してしまうのだが、最近も遺族によって再審請求が行われてきたが2019年7月再審請求は棄却された。
ところで、三鷹事件は旧国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走し、6人が死亡した。
三大事件は国鉄に影響力を持っていた共産党を弾圧するために行われたものと言われているのだが、”党員でない”竹内ひとりが有罪となった点である。
竹内は厳しい取り調べを受けて、二転三転させるが単独犯であると自供し、一審では無期懲役、二審では死刑判決が出された。
しかし、その後は一貫して無罪を主張するが、1955年最高裁で上告棄却。
つまり、単独犯として死刑が確定したのである。
当然、判決後それを批判する意見も多く、すぐに再審請求を申し立てたが10年も放置され、ようやく再審の動きが起き始めた矢先に竹内が獄死してしまう。
その遺志を継ごうとしていた妻も、その後1984年に死去している。
その息子である竹内健一郎によると、小学校に入学した年の7月に三鷹事件が起った。父親は国鉄職員であることを誇りにして、父はいつも私たち子どもたちを可愛がってくれた。
ところが事件から半月後、突然に警察に連れて行かれ、それ以降、一度も家に帰ることはなく、死刑判決を受けたまま、45歳の若さで獄死してしまう。
家族全員、父親の無実を信じていたが、死刑囚の子どもだということで、就職や結婚にも言葉では言い尽くせないさまざまな困難を経験した。
健一郎は中学卒業後、働きに出るのだが、映写技師やトラック運転手など仕事を転々とする。
特に母親が亡くなってからは社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無実を信じながらも、「再審」を申し立てることなど、とても出来ない状況であった。
さて、2011年の再審請求で、弁護団が出した新証拠は、交通工学の第一人者の曽根教授によってなされた暴走した電車のパンタグラフについての明確な鑑定であった。
事件当日に構内の合図所から目撃していた人が「暴走して行く時に、目の前でスパークが続けて二度した」と法廷で証言している。
そのことから、2つの車両のパンタグラフが上がっていたことは間違いない。
2つ目のパンタグラフを上げるのには、犯行に関わった者がもう一人いないといけない。
2つのパンダグラフが走行中に上がっていたことを、曽根教授は現場検証の際に撮られた写真を解析し、さらに独自の検証データを照合して鑑定した。
この鑑定に対して検察側は、あくまでもパンタグラフは1つしか上がっておらず、もう1つは衝突時に上がったものだと反論した。
他にも、前照灯と手ブレーキに関する証拠も、竹内死刑囚による単独犯行を否定する新資料を提示したが、再審は認められるには至らなかった。
すでに様々な証言で明らかになっていることは、この事件が大掛かりな謀略であることを匂わせる場面がいくつかあった。
例えば、警察内部では、事件直前に三鷹駅で事故が起きるという電話連絡が来ていた。
さらに、事故の直前に三鷹駅脇にジープが止まっていて、事故直後にMP(アメリカ憲兵隊)が来て見物人を追い出し、日本側の捜査に待ったをかけるなど、この事件の背後には、何か組織的なものを感じさせる。
再審運動の中心的弁護士高見沢昭治の著書によると、担当の弁護士は接見で「事件を竹内が被ってくれないか」というようなことを言っている。
またある筋からは、共産革命も近い、しばらくは罪を被ってくれ、党だって労組だって大勢でお前を全面的に信用するなどといわれ、竹内の方でも苦しんでいるものを助けたいという「義侠心」から偽りの自白してしまう。
三鷹事件は、裁判とはいえ政治闘争の面が強く、弁護団も、共産党員ではない竹内の弁護については、ほとんど重きをおいていなかった。
理不尽にも、竹内恵介という人自体が、時代のエアポケットに吸い込まれた感がある。