日常に潜むもの

「ティファニーで朝食を」の作家・トル-マン・カポ-ティはルイジアナ州ニューオリンズで生まれた。
両親は彼が子供の時に離婚し、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマなどアメリカ南部の各地を遠縁の家に厄介になりながら転々として育った。
後に自殺する母に連れられて町々を渡り歩き、ホテルの部屋に一人閉じ込められ母の帰りを待つこともあった。
引越しの多い生活のため、ほとんど学校に行かず、独学同然に勉強したという。
そんな彼にとって一つの幸運は、アラバマ在住当時、ひとりの女の子と知り合ったこと。
カポーティは、「冷血」を書いた際に、その幼ななじみと共に事件の取材にあたっている。
この女の子は、ハーパー・リーの名で知られる女流作家となり、その作品「アラバマ物語」は、出版から半世紀以上たった今も世界中で多くの読者を獲得し続けている。
アメリカ南部を描いた「風と共に去りぬ」の陰に隠れた感があるが「アラバマ物語」はピューリッアー賞受賞小説で、南部アラバマで、差別に決然と戦う父親とその姿をを見て育つ子供の姿がえがかれている。
「アラバマ物語」で描かれたのは、アメリカ南部に染みついた奴隷制度であり、人々はそこからなかなか抜け出すことができない当時の現状を描き、それは今でも根本的な変化はないといえる。
ただ、「アラバマ物語」は差別を告発し、人種差別と闘うことを目的とした作品ではない。
この小説の原題は、「ものまね鳥を射つ」という。
マネシツグミとも呼ばれる北米南部産のこの鳥には、ほかの鳥の鳴き声を巧みにまねる特徴を持っているそうだが、それは長く続いてきた制度の中で、一律に同じような生活を営んできたメイコームの町の人々にも似ている。
何か事件が起きると、よく調べることもなく有罪にされる黒人の話は南部では珍しくなかった。
まともな人間なら誰でも、そのことに抗議した主人公アティカス・フィンチのように生きたい。
そのアティカスの言葉には、差別主義者を責めるのではなく、もちろん人種差別を擁護しているわけではない。
それは、南部の小さな街の日常を描く中で、そこに古くからあるひとつの現実として描かれたに過ぎない。
黒人の目ではなく、白人の目から、それも幼い少女の視点から描かれていることが、この本の読者を増やしている要因だと言えるだろう。
偏見を抱いたまま大人になった自分が恥ずかしく思え、もう一度純粋な自分に戻りたいという気持ちにさせられるのではないだろうか。
ほのぼのとしていて、子供の視点から素直に世の中を観察している分、押しつけがましさがなく、読者の心に違和感なくストレートに入ってくるのだ。
そして、我々は気づかされる。何かが間違っていると。そして、考えさせられる。

小津監督の「東京物語」は1953年公開だが、いまだに映画史上最高傑作という評価もある。
最初見たとき、平坦なストーリーで退屈したが、後年見たところ、我々の日常的な心の機微を描く異才だと思うようになった。
誰にも思い当たることを、心しみるように描いた点で「アラバマ物語」に似ているかもしれない。
老夫婦が尾道から子どもたちに会いに東京にやってくる。長男も長女も歓待してくれるが、忙しいので、充分な応対はできない。
かといって夫婦はそれを責める風でもない。
ただ、戦死した二男の嫁(原節子)は親身に接してくれ、これがなによりだった。
老夫婦は尾道に帰るが、妻はあまりにもあっけなく亡くなる。
子どもたちは尾道に駆けつけるが、葬儀が終われば、せわしげに東京に帰っていく。
二男の嫁は遅れて帰るが、実の娘以上に親子の愛情を感じさせる。
そして父は、妻の形見である時計をその嫁に渡す。
この物語、どの家族にもある風景を淡々と映しているようだが、どの家族もどこかに隠し持っている業(ごう)のようなものを垣間見る気がする。
子供夫婦には、それぞれの生活がある。老夫婦には、いくつになっても他者(家族を含めて)にもたれかかるような生き方はしない。
たとえ自分で自分の身の世話ができなくなっても、絶対に家族に負担はかけない。
そう覚悟を決めているようなところがある。
小津作品はしばしば、禅的世界を描いたと評されるが、老夫婦は運命を受け入れ時がすぎるのを静かに受容しているかのようだ。
また、妻の死や嫁の再婚にともなって老人の周辺から、家具などが無くなっていくのが、ひとり人の老人の孤独をひき立たせるようであった。
この映画の印象は、カメラが下に固定しておいてあるせいか、人が部屋を歩くシーンでも足元が近い。
確かにローアングルは、観ている者に安心感を与えさせる効果があるのかもしれない。
隅々まで厳しく気を配られ、それが物語のゆったりとした進行のリズムと融合しているのが感じさせる。
小津監督の「ローアングル」は様々に論議され考察されているようだ。
これについて個人的にはあるスポーツ番組で、「東京物語」とは何の関係もなく、福田正博というサッカー選手が語った語った言葉がヒントになった。
スアジアムで上から見られるということは、プレーのすべてが「評価」されることだと語った。
逆にいうとカメラの位置を下げるということは、「評価」を抜きにして、より近い位置から真実のみを見ることができるということだ。
福岡ドームにもコカコーラ・シートというものが出来て、選手と同じ視線で試合を見ることができ、その迫力をより身近に感じることができるようになった。
ただしこの視線からは、全体のポジションなどは見えないため、解説者はまずこの場所にすわって、試合の内容を伝えようとは思わないはずだ。
ところで、小津監督は「東京物語」で何かを伝えようとしたのだろうか。
映画を作る以上それがないはずはないが、あるがままに家族の日常を映し出しただけのように見せている。
しかし、そのローアングルをもって日常意識しなかったような真実が見えてくる。
このことこそが、オヅの魔法なのかもしれない。

宮崎県の高千穂・天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では約半世紀近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるということが続いていた。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か胸騒ぎを覚え日記をつけ始めた。
そのうち不自由な目と弱った足で村人の健康調査を始めた。
それまでは一歩も村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが、始まりといえば始まりだった。しかし彼女の訴えは一顧だにされることはなかった。
そのうち一人の新任教師が岩戸小学校に赴任してきた。
彼は土呂久のの娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。
彼女の小学校時代の記録を知ろうと指導要録をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の異常な欠席数だった。
教諭は、この村には何か秘密が隠されていると思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。
生徒は体調不良で欠席が多かったので家庭訪問したのだが、彼が住む集落一帯が古い「廃坑」地帯であったことを思い起こした。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったと聞いていたが、その後は静かな山里に戻っていた。
昭和の30年代ころまで、、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる亜砒焼きが行われたいたのだ。
「亜砒酸」は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。
亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
実はこの教諭は、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体格が他にくらべて劣っていることにも気がついた。
そして他の教諭とともに土呂久住民の健康調査に取り組んだのである。
そして、各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の半世紀にわたる被害の実態が明らかになっていったのである。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年にようやく住民による土呂久公害訴訟が起こり、1990年にようやく和解が成立した。
認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月時点)を数えている。
さて、被害発覚から50年近くが経ち、風化が危惧されている。宮崎県は「土呂久」を環境教育の場として残そうと動き始めた。
県が頼ったのは土呂久公害の告発者である当時の新任教師、齋藤正健(さいとうまさたけ)氏、75歳であった。
齋藤氏は、沈黙を破るかのように当時の思いについて証言をなされている。
1966年、新任地において、周りの物すべてが新鮮に映っていた新任教師は、すぐに児童の異変に気付いた。
顔色が悪く、体調不良を訴えては保健室に駆け込む土呂久の子どもたち。
焦土のように草木一本ない鉱山跡、鉱物などで青白く濁った川は異様だった。
当時は水俣病、イタイイタイ病の影響もあって公害学習が盛んな時代。
齋藤氏は、PTAの親子学習のテーマとして土呂久地区を調べるようになった。
しかし、「嫁が来なくなる」「農作物が売れなくなる」「数年で転勤する人に何が分かる」などと辛辣な陰口が耳に入り、住民宅前に止めていたバイクを倒される嫌がらせを受けることもあった。
鉱山操業後、ヒ素によって亡くなったとみられる住民数は集計で100人以上に膨らんでいった。
想像をはるかに上回る事態に追い詰められたような心境になったのか、齋藤氏は雪が降る道をバイクで自宅に帰る際、土呂久の深い谷を見下ろして涙ながらに祈った。
「私がいなくなったら、土呂久のみんなもこのまま(鉱害で)死んでしまう。助けてください」と。
今も、黄ばんだメモには、旧環境庁担当者らとの慌ただしいやりとりが手書きで記されていた。
いずれも日付は1968年9月12日。水俣病が公害病と認定される2週間前に当たる。
1971年、28歳のとき教員の研究集会で発表、戦前から人知れず続いていた亜ヒ酸鉱山による健康被害を告発した。
医師や弁護士が救済に動き、国は公害病に指定した。
3年後、転勤を言い渡されたという。
齋藤氏は、木脇小校長を最後に定年退職してからは町教育委員会の教育相談員として週3日、子どもや保護者らと接している。
告発後は「自分は鉱害問題に火を付けただけ」と公の発言を控えてきたが、自身が告発した土呂久鉱害のことをより考える時間も生まれ、徐々に悲惨な記憶を風化させてはならないと考えるようになったという。

宮崎県の山間の土呂久の歴史は、実はアメリカのアラバマと幾分つながっている。
1920年、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。
そしてゾウリムシ撲滅に「亜砒酸」が欠かせないものとわかり世界的に亜砒酸の値上りした。
このことが一人の山師を、アラバマと縁もゆかりもない土呂久村によびよせることになる。
男は、廃坑になっていた銀山跡から硫砒鉄鉱を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸の「焼き窯」を築いたのである。
少し時間を遡ると、1900年代初頭、ニューヨーク、ブルックリンには染料と顔料のメーカーが多く立ち並び、様々な顔料を製造していた。当時のパリ・グリーンは主に農薬としての使用が多かった。
特に、アメリカにおける、綿花とジャガイモの害虫に対する殺虫剤としては優秀だったらしい。
亜ヒ酸は農薬や防虫剤の原料に使われ、鉱石を窯で焼く「亜ヒ焼き」という手法でつくられたのである。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」出版(1962年)をきっかけに、化学物質の環境汚染やそれに伴い農薬の安全性に関する議論が沸騰する。
1970年頃、この頃農薬取締法が強化され、農薬登録に毒性試験や残留試験などを義務づけた法律改正が行われる。
そして、DDT・水銀剤などそれまで中心的役割を果たした農薬が使用禁止となり消えていった。
ところで、水俣病など四大公害は学校で習う機会があるが、土呂久公害に触れる学校は少ない。
また、MINAMATAの名はアメリカのジャーナリストによって世界に写真報道されたが、TOROKUは世界で知られることはない。
しかし、日本ばかりか世界の企業が環境基準の低い地域を狙いうちするかのように進出していることを思えば、土呂久公害被害の世界的な意味は大きいといわざるをえない。
なぜなら、そこに住む住民が、自らに起きていることを自覚せずに、時を過ごしているかもしれないからだ。
世界に第二、第三のTOROKUを生むかもしれないという思いにかられるが、マレーシアの寒村でおきた日本の健康被害について知ることとなった。
それは、亜ヒ酸ではなく、トルエンによる健康被害であった。
1979年に三菱化成が35%出資してマレーシアに設立した会社ARE(エイシアン・レア・アース)がある。
82年に操業を開始し、マレーシア現地などでとれるモナザイトから、レア・アースを精製している。
その過程で、放射性物質トリウムが工場周辺のブキ・メラ村の環境を汚染し、住民の健康被害を引き起こした。
トリウムは、日本では68年の原子炉等規制法改正により規制され、71年には国内での精製が中止された物質である。
したがって、三菱成は、トリウムの危険性を十分に認識していながらマレーシアに精製工程を移したことになる。更に工場の管理体制は、非常にずさんなものであった。
操業開始前に環境アセスメントは行われず、住民はトリウムの危険性を認識しないまま生活を続けた。
トリウムは工場裏手の池に捨てられ、警戒表示もない。住民は池の周りを日常的に通行し、子供たちがよく遊んでいたという。
「肥料として使える」とまで聞かされ、トリウムが入った物質を畑にまいていた住民もいた。
1987年の健康調査では、ブキ・メラ村の子供たちのうち約半数の者の白血球が正常範囲以下で、残りの者も非常に低いという結果が出た。
実際に、白血病やその他のガン、水頭症、先天性の障害などに侵される子供が多発した。
また、健康な母親108人からの200例の出産を調査したところ、15例が流産または新生児死亡という異常出産であった。
こうした状況を受け、ブキ・メラの住民3000人らが立ち上がり、反対運動を展開した。
最高裁判決では住民側が敗訴したが、94年に工場が操業停止したことによって、事実上住民の勝利となったものの、住民の受けた健康的・経済的損失や精神的苦痛は取り戻すことはできない。
土呂久公害被害同様に、異常があまりに日常的であることの恐ろしさを教えてくれる出来事であった。