秘密の図書館

「文庫(ぶんこ)」とは、書庫を意味する和語の「ふみくら」に対し、漢字のふみ(文)、くら(庫)の二字をあてた「文庫(ふみくら)」に由来する和製漢語である。
書庫としての意味から転じ、後にはある邸宅や施設の中の書庫に収められた書籍のコレクションそのものとして用いられるようになった。
中世では金沢北条氏の金沢文庫、足利学校の足利文庫などが有名な例である。近世には徳川将軍家の紅葉山文庫が名高いが、日本で最初の町人による文庫というのが博多に存在した。
江戸後期に博多の町人たちが資金を出し合い、蔵書を寄付して櫛田(くしだ)神社に設立された。
それは、貴族や武士階級向けの文庫は古くからあるが、町民なら誰でも利用できる近代的な図書館といってもよい。
櫛田文庫は1818年に開館。古事記など神道関係の本をはじめ徒然草や古今和歌集などの教養本、日本の風土を解説した日本水土考、中国の二十一史といった歴史書など計1300冊以上がそろえられた。
なぜ庶民向けの図書館が設立できたのか。
そこには、国学を通じて福岡藩の重臣に人脈のあった同神社神職・天野恒久らの設立への奮闘があったという。
福岡藩は、藩主の意向で藩校として東学問所修猷館、西学問所甘棠(かんとう)館が相次いで開校するなど、藩内の学問熱が高まった時期だった。
さらに藩有数の国学者・青柳種信に天野は師事し、櫛田神社を配下に置いた寺社町奉行の井手勘七も水戸国学を学び、10代藩主の教育係でもあった有力者だった。
ただ、最大の謎はわずか4年で閉鎖したとされること。閉鎖後も蔵書が増え、閉鎖についても、重臣の覚書に残るだけで、後に文庫について書いた天野の文書には全く触れられていない。
ところで、櫛田神社のある冷泉町だが、もともと文化の香りがする地名で、「冷泉閣」という名のホテルや冷泉公園もある。
2017年1月の新聞に、「和歌の家」として藤原俊成・定家以来の歌道を守り続けてきた京都・冷泉家(れいぜいけ)に伝わる古文書の写真版複製本「冷泉家時雨亭叢書(しぐれていそうしょ)」全100巻が完結したとあった。
実は、この冷泉家の名前こそがこの地名の由来である。
ではなぜ高貴な家の名が博多町人の集まる地域の地名になったのか、そこには「人魚」にまつわるミステリアスな出来事が起きていた。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。
冷泉中納言が宿泊していた龍宮寺(当時は浮御堂と言っていた)に人魚を運び、塚を作って埋葬した。
その「人魚塚」は現在でも龍宮寺に残っており、希望すれば「人魚の骨」といわれる実物を見ることができる。

日本史の教科書では、日本で最初の公開図書館とされている施設は「芸亭(うんてい)」ということになっている。
奈良時代末期に有力貴族であった文人の石上宅嗣によって平城京(現在の奈良県奈良市)に設置された。
仏典と儒書が所蔵され、好学の徒が自由に閲覧することができ、9世紀初頭の天長年間まで存続していたとされる。
古代の有力豪族であった物部氏の末裔である石上氏に生まれた宅嗣は、藤原仲麻呂討伐などで活躍をして大納言にまで昇る一方で当時を代表する知識人・文人であり、熱心な仏教信者でもあった。
芸亭を創設した動機として、儒仏一体の思想に基づいて仏教の妙諦を体得させることが目的であったという説もある。
井上靖の小説「天平の甍」(1957年)の中に、自己の能力に限界を感じた日本人留学生が、せめてもの仕事に「仏教の経典」を写して日本に持ち帰る話がでている。
自分が理解できない内容でも、誰かが理解できれば、自分が苦労して留学した価値もあろうというものだ。
最澄や空海は、遣唐使の出立や帰国に際して博多の街へ立ち寄って、東光寺や東長寺を設立したぐらいだから、中国の書籍なども蓄積があったにちがいない。
その点に関して、近年、新聞に興味をそそる記事があった。
中国のひとりの学者が、遣唐使などによる「日中間の交流」を、シルクロードになぞらえて「ブックロード」と名付けた。
当時の中国にシルク(絹)というモノを求めた西域に対し、日本は書物を求めた。
そして特質すべきことは、54の国が唐に使節を派遣し、多くが皇帝からの褒美を喜んで持ち帰る中、日本人はそれを売って書物を買い求めたことだ。
この学者は浙江工商大学東亜研究院の院長であるが、研究のきっかけになったのは、唐代の詩人・王維が詠んだ送別詩やその序文に、日本が同じ文明を持つ国として描かれている点であった。
当時の中国人が、海を隔てた日本に精神的な繋がり感じたのには、よほどのことがあるに違いない。そして学者が見出したのが「ブックロード」というものであった。
その当時、遣唐使や入唐僧は「虚往 実帰」つまり空っぽの船で渡り、”宝物”を満載して帰ると高く評価された。
しかしそれは言葉の上での話で、遣唐使の船は空舟ではなく、入唐僧も手ぶらで海を渡ったのではない。
書物を求める日本人は、日本の書物を中国へ持ちこんでいる。
ただ、中国の「亜流」または「格下」の日本の書籍が果たして中国で読まれるのかという疑問もおきるが、その学者は次のような事例をあげている。
例えば「勝鬘経」というお経はインドから伝わり、 中国で翻訳されて各地に広がった。
それを読んだ中国の僧侶は各々の見解を入れていくつかの注釈書をつくる。
そして、それらの注釈書は朝鮮半島に輸出され、朝鮮の僧侶は自分の理解で新しい注釈をつけ加える。
中国と朝鮮 の注釈書がさらに日本へ伝わり、聖徳太子は「勝鬘経 義疏」をつくり、それを中国 に逆輸出する。
中国の明空という僧侶は これに啓発を受け、「勝鬘経 疏義私鈔」を著わす。
そして入唐僧の円仁は、これを書写して日本に送ったのである。
重要なことは、海上の航路を通じて運ばれる「書物」は、シルクとは対照的に商品価値 がないこと。
裏を返せば、書物を越境させる「原動力」となったものは、”商業的な利欲”ではなかったという点である。
そして書籍の輸出輸入の誘因のひとつとされるのが、いわゆる「佚存書」の存在である。
中国では、唐末の乱世を経て「書籍散逸」 の惨状は目を覆うものがあった。
唐につづいて「五代」の時代になると、呉王や越王は使者を海外に遣わして「散逸書」を求めさせた。
その結果、高麗遣唐使の一側面は「書籍を求める使者」もしくは「書籍を送る使者」であったのだ。
さて明治時代の日本は西洋化のあまり、伝統な文化は軽く見られる傾向にあったのだが、この時期、多くの中国人が書籍を求めて来日し、「佚書探し」のブームを引き起こしたことはあまり知られていない。
彼らは、奈良時代の「写経」など国宝級のものを安い値段で買い取り、中国に持ち帰ったのである。
そして面白いのは、奈良時代に日本で「写経」に従事していたのが、朝鮮からの渡来人もしくは難民であったという事実である。
実は、676年に朝鮮半島を統一したのが新羅だが、その過程で敗れた百済や高句麗などでは多くの難民が生じ、日本にやってきていた。
「正倉院文書」から8世紀の写経所で働く難民の子孫の姿が見えてくる。
ところで「正倉院文書」の内実は何かというと、労務管理のための事務帳である。
奈良時代の写経事業の中心は、聖武天皇や光明皇后の発願による一切経(すべての経典)の書写でした。たとえば、光明皇后が父母の供養のために写経を行った「一切経」は20年間に約7000巻が書写され、奈良時代全体の写経総数は10万巻を超えると推測されている。
写経所で働く経師らは、「試字」という文字を美しく書けるかどうかの試験を受けて、採用された。
彼らは泊まり込みで働き、一緒にご飯を食べて共同生活を送っていた。
机の前に並んで、同じように足をしびれさつつ、毎日ひたすら文字を写していたのである。
ところで空海は31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、空海を恵果自身の師匠である三蔵の「生まれ変わり」とみたのである。
恵果は空海に会ってからわずか33ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者としたのである。
恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願い、2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
しかしこれは「国法を犯す」ことだった。なぜならば、契約によれば「20年」は中国で学問の研鑽を積まねばならなかったからだ。
また一方で空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都にはそこから別れようと唐に渡る決意をした「旧態依然」たる仏教がそこにあることを知っていた。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。そうして空海がこれから過ごす博多と太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。
空海は博多滞在のしばらくの時間をフル活用しようとしたにちがいない。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピールしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
空海は、先に密教を「断片的」に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれたのである。
空海が、806年留学先の唐から帰国して1年間は博多にいた。その証が博多駅近く祇園に空海が設立した東長寺である。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、「東長寺」の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。

東京のJR三鷹駅の三谷(さんや)通り商店街に、小さなスペースの古本屋がある。従業員はいない。
ガラス張りの出入り口に、天井まである作り付けの本棚に多種多様な本が並び、支払いにはガチャマシンを使う。
本の裏に300円・500円のシールがそれぞれ貼られているので、その金額に応じたカプセルをマシンで購入する。カプセルの中にビニール袋が入っているので、その袋の中に購入した本を入れ、持って帰るというシステムである。
店に入るとセンサーで電気が点く仕組みがあり、出入り口を全てガラス張りにするなどの工夫もされている。
本はどうやって揃えているのかというと、近所の方や周囲の方々が本を寄贈してくれ、店内にも寄贈できる木箱もある。
一つは店員がいない方が地域の人がお店に入りやすいから、もう一つはお店を運営する側にもストレスがないからだ。
古本屋は新刊を取り扱う本屋と違い売れ残った本を返品することができない。
また、お客さんから買い取った本を売ることが多いことから、すべての商品を自分で選ぶことは難しい。
そんな理由もあるからか、古本屋を開業しようと思った時に話を聞いた本屋の店主から 「何も買わずに帰るお客さんがいるとそれがストレスになることもある」と聞いたという。
地域の人の本棚として運営していくには気軽に立ち寄ってもらえる無人の方がストレスもかからず、お客も入りやすく、お互いに良き結果となる。
これは日本に昔からある野菜の無人販売もヒントになっている。
スペースは小さいが、その代わり置いてある本を全て見渡すことができ、普段自分が手に取らない本や、未知の分野の本、こんな本があるのか、と驚くような本を発見することができるという。
お金を払わずに本だけを持ち去る人はおらず、きちんとお金を払って購入してくれている。
ともかく、地域の人の秩序で成り立っているのは確かだし、本を好きな人に悪い人はいなというのが、この社会的実験の結論のようだ。
さて、日本が自動販売機大国であるのは、日本が平和であることの証(あかし)だし、東京武蔵野の無人古本屋の存在もそうであるにちがいない。
その一方で、戦火によって生まれた秘密図書館というものが、内戦が激化するシリアに存在する。
アサドに政府軍に包囲された町ダラヤで、図書館をゼロから作り上げた若者たちがいる。
打ち続くテロと戦乱のなか図書館の本や貴重な古文書を守り通した人たちの記録はいくつかあるにちがいないが、戦火の町の図書館を包囲下の人々がこぞって利用するというそんな風景を描いた本が「シリアの秘密図書館」(デルフィーユ・ミヌーイ著)である。
政府軍の攻撃によって破壊された町、残骸に埋もれた本を若者たちが回収する。
やがて1万5千冊の本が「レーダーも砲弾も届かない地下の空間」に集められ、ここが包囲された町の公共図書館となる。 2018年3月、国際アンデルセン賞の授賞式がアテネであり、「魔女の宅急便」などの作者として知られる角野栄子に、作家賞の賞状とメダルが授与された。
角野は授賞式でのあいさつで、第2次世界大戦中に10歳だったと振り返り、「あの過酷な時期を本によって、どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか」と述べた。
また、5歳で母を亡くし、泣いてばかりいたとき、父がひざの上で昔話を聞かせてくれた体験を基に、「物語は読んだ瞬間から読んだ人一人ひとりの物語になり、その人の言葉の辞書になっていく。その辞書から想像力が生まれ、人の世界を広げ、くらいときも助けてくれる」と語った。
IBBY(国際児童図書評議会)は「角野の描く女性はどんな困難に出会っても、忍び寄る自己不信にとらわれることなく対処法を見つけていく。人々が本の中に求める、今の時代にふさわしい作品」と評した。
また、独軍包囲下のレニングラード、飢餓に苛さいなまれながら市民はトルストイ「戦争と平和」を読み続けたし、米軍は戦地の兵士たちに大量の本を供給した。
戦争ではないが、阪神・淡路大震災下の神戸でも東日本大震災下の東北でも、人々は営業を再開した本屋さんに詰めかけた。
強制収容所でも刑務所でも人は本を読む。
極限状態で人はなぜ本を求めるのか。
おそらく本には著者だけではない作り手や送り手のさまざまな思いが籠もっている。
その意味で、極限状態にある人たちは、誰かの魂に触れたがるのかもしれない。