リアルの遠近法

遠近法は、遠くのことをおぼろげに、近くのことを明瞭に描く。しかし、身近なことは分からなくとも、遠くの方がよくわかるということもある。
「ファンダメンタルズ」、つまり最も基本的なことさえおさえておけば予測がつくからだ。
ちょうど、高速道路は遠方に視点を置いていた方が、安定した走行ができるのに似ている。
かつて池田勇人の「所得倍増論」は、安倍内閣の「物価2%上昇」以上に困難と思われていた。
なぜなら所得が増えるどころか「減る時代」をまじかに体験した人々からすると、国民の所得を10年以内に倍増させるというのは、たわごとのような話としか受けとめられなかったからだ。
しかし、「所得倍増計画」はそれを期待以上のカタチで実現すことになる。
その裏には、池田と同じく病で出遅れた官庁エコノミストとの出会いがあった。
政治家と特定の官僚がタッグを組んで政策を実現していくというのは、最近では鈴木宗男と外務省官僚の佐藤優を思い浮かべる。
池田勇人の「所得倍増論」を理論的に支えたのは大蔵官僚の下村治で、その経済予測は、経済学中級程度のシンプルな成長理論(ハロッド・ドーマー・モデル)から導き出されたものであった。
下村の経済予測では、日本経済は現在勃興期にあり、民間の設備投資意欲は旺盛で、年率10パーセント以上の成長が可能だとしたが、それは綿密な分析に裏付けられていたのである。
比較的単純モデルとはいえ、統計データをどう解釈し扱うかで、他のエコノミストとの激しい「在庫論争」「物価論争」「成長論争」を繰り広げてきたからだ。
さて、「経営の神様」とか「現代の預言者」とも称されるピーター・ドラッカーはしばしば「すでに起こった未来」という言葉を使う。
未来の「種子」は今の時点でまかれているので、それに気づけば未来は見分けられるとした。
ドラッカーが未来を指し示す素早さと的確さにおいて、「現代の預言者」といわれる所以である。
ドラッカーのそんなスタンスから思い浮かべるのは、最近亡くなった元通産官僚で作家の堺屋太一である。
人口ピラミッドの中で突出して横広がりの層があって、「団塊の世代」とよんだ。
その団塊の世代が就職する時代、退職する時代に大きな社会変動がおきることを予測した。
ある意味、確実に起こることをデータから予測した。
ただ、石油がこなくなる、つまり「油断」が起きることを予測するには、誰でも予測できることではなく、 通産省の役人としての独自の情報や直感もあったに違いない。
1970年、大阪万博を成功させるなど、役人としては構想力の豊さがうかがい知れる。
その反面、日本の政治家や官僚が、石油ショックを機に、安定成長に転じても、赤字国債の累積にしても、安易な楽観論の下に制度設計がなされるのは、政治家が国民が喜ばせて「票」を獲得したいがためではなかろうか。
官僚は、そんな政治家に都合のいい資料を用意(忖度)する能力が求められ、言霊信仰なのか良きことしか語らず、正しい現実(リスク)から目をそむけることを、戦時中から繰り返してきたといってよい。
最近発覚した厚労省の不正統計もそんな「政治力学」の所産であるといってよい。
こうした「数値不正」の放置は、学会(考古学)の世界でも指摘されている。
2009年、国立歴史民俗博物館は纏向遺跡の「箸墓古墳」から出土した土器に付着していたものから、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果をマスコミに発表した。
邪馬台国の女王・卑弥呼の死はこの年代幅におさまるため、マスコミは「箸墓古墳は卑弥呼の墓で決まり」、といった論調でこの発表を報道した。
実は、歴史民俗博物館は放射性炭素(C14)年代測定法で年代を測定して、従来350年頃と推定されていた箸墓古墳の築造時期を一気に100年早め、卑弥呼の死期と重なったためにセンセーションを巻き起こした。
しかし倭人伝には、卑弥呼の居所には「宮室、楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、常に人がいて、兵器を持ち守備をしている」「兵器には矛(ほこ)を用いる」「竹の箭(や)は鉄の鏃(やじり)あるいは骨の鏃である」などと記されている。
しかし300年以前に出土した鉄鏃、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈といった武具の数は圧倒的に九州北部が多くて、奈良県の出土例はほとんどゼロに近い。
10種類の魏晋鏡も福岡県では37面出土しているが、奈良県ではたった2面にすぎない。
そういう点から推測すると、卑弥呼の墓は近畿であるはずがない。卑弥呼の時代に鉄器が出土するのは北九州であり、邪馬台国は伊都国の南にある吉野ヶ里や平塚川添遺跡の方が可能性が高い。
また、纏向の箸墓古墳からは「大量の」木製農具が見つかっており、それらは鉄器の存在によってはじめて製作が可能となるものである。
しかし卑弥呼の時代に近畿地方ではほとんど鉄器が出土しておらず、鉄器がなくして魏志倭人伝にあるような「宮殿」はつくれるはずもないという。
自然界の炭素14は一定の速度で徐々に減っていくため、出土した木片や炭化した穀物に含まれる炭素14を調べることによって、遺跡や遺物の絶対年代が割り出せる。
ただし、気象条件などによって減り方にバラツキが出るため、補正グラフを作るのだが、日本の3世紀から4世紀には、同じ数値が出ても数十年の幅(誤差)が出ることが分かってきた。
つまり、科学のさらなる進歩によって、箸墓の造営年代は「卑弥呼の死の直後」とは断定できない。
邪馬台国論争における「近畿説優位」であったが、振り出しに戻ったといってよい。

旧約聖書「士師記」にサムソンというどうしようもない怪力男が登場する。
サムソンは髪が長いうちは怪力を発揮するが、髪が切り取られてしまうと力を発揮できなくなる。
サムソンの怪力を恐れた敵対するペリシテ人(パレスティナの語源)が、美しい女性デリラを使ってサムソンの髪を切り取り、その怪力を封じて獄に捕らえてしまう。
サムソンは目をクリヌカレルという残酷な「刑罰」を受けた末、獄に入れられてしまう。
ペリシテ人達は、「怪力封じ」で、ようやく枕を高くして寝れるようになる。
その後サムソンは街中を引き回されたり、「見世物」として繋がれてしまう。
しかし、サムソンの髪の長さの「微小な変化」に気をまわす人は誰もおらず、放置されたままであったのだ。そしてソレハいつしか世界を「滅ぼす力」となっていたのである。
宴もたけなわ、そんな時、怪力サムソンが暴れ出した。
サムゾンは、繋がれた建物の二本柱をその怪力をもって倒壊させ、見世物に集まった数千人ものペリシテ人を道づれに、建物の下敷きになって死亡する。
思い起こすのは、数年ほど前に起こった世界の金利規準(LIBOR)に不正が起こった出来事。
イギリスは、かつて「陽の沈まぬ国」としてグリニッジ天文台が世界の「標準時間」と定められ、他にも金の相場や世界金利規準を定めるシティの存在がある。
、 LIBORは、世界の金融市場の中心の一つであるロンドン市場(シティ)で、世界の有力銀行が互いに資金を貸し借りする際の金利である。
業界団体の英国銀行協会が、取引の実績でなく、各銀行が「お金を借りるのに何%の金利を払うか」を自己申告したものを集計し、毎日算出している。
ドルや円など10種類の通貨が対象である。
いわば、世界の基準金利といえるもので、日本の住宅ローン金利にも影響するだけに、「対岸の火事」で済ますわけにはいかない。
問題の発端は、米英の金融監督機関が、英金融大手のバークレイズに史上最大の罰金を科したことである。
その後、次々と新事実が明らかになるが、金融危機のリーマン・ショックをはさんで「二段階」に分かれる。
まず第一段階(2005~08年)では、バークレイズが実態より高い金利を英国銀行協会に報告しLIBORを「高めに誘導し、市場の取引で利益を上げていた疑惑がある。
バークレイズのトレーダーが不正操作に加担した担当者に「今度、会ったとき、君と祝杯をあげよう」と1本8万円の高級シャンパンを飲むことを約束するメールを送ったことも暴露されている。
2008年リーマン・ショックにおける世界金融不安の元凶となったサブプライムローンの貸し込み、それを証券化したデリバティブを売りさばいて暴利を貪ったことが明らかになった。
そして第二段階では、リーマン・ ショックが起きた2008年秋には一転、申告する金利を「故意」に引き下げ、財務体質を健全に見せかけ、「国有化の危機」を乗り切ったということ。
信用度が低い金融機関がお金を借りる場合は、金利は高くなるのが普通である。
しかしリーマン・ショック当時、金融界は深刻な危機に陥って、経営に不安がある金融機関が市場からお金を調達できなくなり、資金繰りが行き詰まる心配があった。
そこで、イングランド銀行の副総裁がバークレイズに、LIBORのために「申告」する金利を低めに申告するよう誘導したといわれる。
ただ、LIBORは仕組みとして、1行ダケでの不正操作にも限界がある。
ドルの場合で18行が申告し、金利が高いもの、低いもの各4行分を除いた10行の「平均値」を出しているので、バークレイズだけが極端に高く(低く)誘導しようとしても、できるとは限らない。
そこで、欧米の金融当局は、多数の金融機関が「関与」した可能性が高いということだ。
LIBORの生みの親とわれる人物によれば、当初は非公式なものとして、いわばインナーサークルの決定のようなものだったという。
ところが1969年、イラン政府から8000千万ドルの融資を求められた。当時としては巨額で自分の銀行だけで用立てられる額ではない。
そこで一緒に貸そうとい多くの銀行に協力を求め協調融資をまとめた。
ただ一つ大きな問題は、貸出金利をどう「一本化」するかということであったが、契約直前の金利を各銀行に電話で報告していもらい、その「平均」を出すことにしたのである。
この平均値である金利によって、「協調融資」が繰り返されることによって、「国際金利基準」になっていったという。
かつてはロンドンの「金融紳士の集まり」で、互いが互いのことをよく知っていたので、インチキは許されなった。
しかし1980年代の半ば、様々な金融派生商品(デリバテイブ)が広がり、LIBORがその基準に使われるようになったことにより、LIBORが「世界金利基準」となっっていくのである。
そしてそのとりまとめ役として業界団体の「英国銀行協会」に委ねられたが、それだけ広がっても「インナーサークル」的雰囲気は消えなかった。
しかしソレはいい意味ではなく悪い意味である。例えば来週の金利設定日に「低い」金利を出してもらわないと、スゴイ損失がでるのでなんとか操作してくれといった要望が出る。
特に、リーマンショック以降こうしたケースが増える。
もちろん、金利を操作するといっても複数の銀行が関わって出来ている基準だから大きな操作はできない。
しかし気がつかにほど「微小」な操作でも、額が大きいのでかなりの利益が出るのである。
こうした不正な操作があったとしても、何か罰則があるわけではない。イギリスは、ゲームの参加者を相互に監視し、規律を保とうとする。
アメリカのように自由にさせるが、問題が起きたら刑務所送りといった荒っぽいことはしない。
不正のうわさはあったものの、こうした緩んだ状態が放置され、近年そうした操作で損をしたという訴訟のラッシュが続き、不正が発覚したのである。
このLIBORの不正の背景には、金利水準の設定を「仲間内」でやっていた紳士の時代が、「世界基準」になるにつれて参加者がふえ、全く異なる性質を持つようになったとうこと。
大手金融機関は政治への勢力浸透に力を入れ、関係が激変した。
金融界は現実離れした環境で価値を生み出し、新たな商品をどんどん売りに出し始めた。
そんな中、なんといっても基準のとりまとめ役が「英国銀行協会」に変ったことが大きい。
インナーサークルから世界へと広がったものとしては、インターネットがその代表で、もともと大学の研究室どうしを結んだり、軍事関係のシンクタンクを結んだりするものにすぎなかったが、共通のプロトコルで通信が行われると、爆発的な広がりを見せる。
また、ハーバード大学のインナーサークルから世界中に広がったのが「フェイスブック」である。
ゲームへの参加者が広がり顔が見えなくなると、従来の基準とはまったく別の意味合いをもつということである。
ところで、何をなすにも「数値目標」を掲げることがはやっているが、その数値を満たしているかに見せかける不正の弊害の方が大きい気がする。
特に、ものづくりにおいて一流企業が検査基準に満たない製品を世に送り出して信用をうしなっている。
かつて日本は、企業内のQCサークルによって、正確な統計に基づく品質管理で、不良品のなさで信頼を得ていた時代とは隔世の感がある。
海外から、不良品率を1パーセント以下に抑えてくれと注文をうけた日本企業は、「不良品を1個いれておきました 」と応えたというジョークができるほどだった。
ところがグローバル化による低コスト競争の時代とはいえ、数値をねじまげてまで基準を満たす偽装がまかりとおる。それも人間の命にかかわるところまで。
また、厚生労働省で不適切な統計調査を長年放置していたことが判明し、国会などで追及が続いている。
ただ、政策立案の土台である経済統計が現在直面する課題は、もっと根本的なところにありそうだ。
GDPは国民経済の成長や景気動向を示すセンサーであるはずだが、デジタル技術を利用したサービスが質量ともに重みを増している経済環境の変化を的確に感知できなくなっている。
例えば、フェイスブックやLINEなどのSNS。多くの人に欠かせないサービスを提供しているが、無償のためGDPには計上されない。
また、仮想通貨での取引は、果たしてGDPに反映されているのだろうか。
利用者は対価として、料金にかわりに「個人データ」を提供しているわけだが、貨幣価値で計上するGDPにデータの価値は反映されないからだ。
また、民泊や配車サービスなどで注目されている「シェアリング・エコノミー」。モノの所有から利用へのシフトにより、遊休資産の稼働率を高められる。
例えば、1台の車をITシステムを介して、複数の人間で効率的に使いまわせば、全体の経済効率は増すが、車の販売台数は、減少するのでGDPにはマイナスに働く。
というわけで、GDP統計のセンサー機能はかなり劣化しているし、そもそも経済成長や豊かさをどうとらえ、どう計測するか、複数世代を含めた"遠近法"で捉えなおす必要さえある。
ところで日本人は過去を水に流し、遠い未来をみない「今ココ主義」、今とココの福利を最大にしようという精神、インスタ映えをねらう精神も、それと関係しそうだ。直近だけがリアルで、あとはおぼろ。
続発する企業の検査データ不正も、それがどんな結果をもたらすかという視野を欠いている。
それは単なる一例にすぎず、社会全体でリアルを覆い隠そうというのが、今の風潮のようだ。
ただ社会全体でリアルを遠ざけるうち、檻につないだサムソンの髪は確実に伸びている。

佐賀県に生まれ、1930(昭和)5年に東京帝国大学経済学部へ入学した。 当時はマルクス経済学が主流で、「(大学時代は)経済学には出会っていな い」と後年語っている。1934(昭和9)年に大学を卒業し大蔵省に入省 した。同期の勉強会では一歩引いたところから議論を見守り、要所で的確 な発言を行っていた。行政官というより学者であると評された。 1936(昭和11)年から37(昭和12)年にかけてアメリカに駐在した。 この時、刊行されたばかりのケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理 論』を入手した。これが下村の理論の基礎となり、経済の現場に携わる中 でこれを練磨し後の「下村理論」へと発展させていった。帰国後は会社経 理統制令の制定に携わった。これは抜け道の無い完璧な法令であるとの評 価であったが、自身は統制経済に疑問を抱くようになった。 終戦後は物価局第1 部調査課長として戦後急騰する物価の対策に尽力 した。1947(昭和22)年に刊行された『経済実相報告書』(第1 回『経 済白書』)では経済安定本部物価政策課長として物価部分の執筆を担当し たが、執筆責任者の都留重人(後の本研究所長)と激しく対立した。闇市 場の物価を調査し、現実の物価測定に努めた経験から賃金上昇と物価の上 昇は循環しているという「賃金物価循環論」を打ち出し、それに基づいて 執筆した。しかし都留は受け入れなかった。下村が執筆した部分は不採用 となり、都留が全面的に差し替えた。 1948(昭和23)年からは結核で休職を余儀なくされた。病状は徐々に 快方に向かい、病床でケインズの『一般理論』を読み込み、時に音読して はノートに書きつけ、『経済変動の乗数分析』をまとめ上げた。これによ り1956(昭和31)年に東北大学より経済学博士号を取得した。 終戦直後 生い立ちと戦前の経験 孤高のエコノミスト 下村治 下村がエコノミストとして論壇に登場したのは大蔵省在職中の1957(昭和32)年、「在庫論争」においてである。翌1958(昭和33)年には「成長論争」で一躍有名となった。当時、多くのエコノミストが「戦後復興期の高度成長が終わり、昭和30年代は安定成長に移行するだろう」との見方をするなか、下村は「日本経済は歴史的勃興期にある」と主張し た。都留重人や経済企画庁の大来佐武郎、日本銀行の吉野俊彦らと激しい論争を繰り広げ、戦後最大の経済論争と言われている。同年大蔵省の部内資料として発表した「経済成長実現のために」が岸内閣の閣僚池田勇人の目に留まり、1960(昭和35)年に池田内閣で発表された「国民所得倍増計画」の理論的なバックボーンとなった。この計画は国民に大きな衝撃を与えたが、当初3年間の9%という予測を大幅に超える10%超の経済成長を達成し、下村の予言は的中した。これにより下村と下村理論は広く国民の知るところとなった。 日本経済がなお高度成長を続ける1971(昭和46)年頃より下村は「経済減速論」を唱え始めた。導入技術から新規の技術開発へと構造が変化したため、成長は緩やかにならざるを得ないという主張である。さらに1973(昭和48)年の第1次石油ショックを機に「ゼロ成長論」へ主張を転換した。日本経済を取り巻く環境が変化したため、ゼロ成長、せいぜい微速度の成長しかできないと予測した。高度成長論からの180度の転換は社会に衝撃を与えたが、国際均衡と国内均衡を同時に実現してこそ安定成長が達成されるとの考えは一貫していた。日本経済は1974(昭和49)年はマイナス成長、その後石油ショックに適応し、低いながらも成長を続けた。そのため「ゼロ成長」の予測が外れたと誤解を受けたが、実は的確なものであり、終生その主張を撤回することはなかった。 論争の中心へ ゼロ成長論への転換 1980年代に入ると日米の貿易摩擦はアメリカの需要拡大政策に原因があるとしてレーガノミクスを痛烈に批判した。1986(昭和61)年に発表された前川リポートも、日本の経済構造を破壊するものとして強く批判した。この頃から始まったバブル経済についても早い時期から経済活動の本来あるべき姿から乖離していると主張し、財テクやマネーゲームに警鐘を鳴らした。下村はバブルの崩壊とその後の経済の停滞も予測しつつ、バブル経済のピークである1989(平成元)年にこの世を去った。歿後は忘れられた存在であったが、2000年代より見直しが進み、近年著書の復刊や評伝の出版が相次いだ。 下村の理論はケインズの理論を基礎とし、ハロッド゠ドーマー理論に影響を受けていたが、それにとどまらず日本経済の現場を見据えた独自の理論を確立した。下村は国を良くするにはどうすればよいかを常に考え、実際の経済に携わるなかで感じた日本人の勤勉さや技術といった才能を信じていた。生涯を通して日本経済の実態に即した分析を行う実学の人であり続けた。 「下村治著作関連資料」は、日本開発銀行設備投資研究所(現日本政策投資銀行設備投資研究所)が下村の歿後その業績をまとめた『下村治博士著作集』(私家版)を作成するにあたり、遺族より提供された資料がその中心となっている。総数約2,000点の資料のほとんどが、下村氏の論文(評論、対談、講演速記、関連記事等)の切抜き及びそのコピーであるが、