二つの夢しま

東京と大阪は、家康と秀吉の時代から関ヶ原の戦い、将軍とお膝元と天下の台所、ジャイアンツとタイガースの「伝統の一戦」など何かと因縁話が多い。
古くて身近なものは、佃煮(つくだに)の始まり。家康が本能寺の変の際に堺から領国に帰る途中で世話になった摂津国西成郡佃村の住民を、江戸に招いて江戸湊の小島に住まわせた。
この住民が江戸近辺の河海の漁業に従事する許しを受け、捕獲して余った魚を煮付けた保存食が佃煮の始まりである。
ところで、富士山が日本一の山ならば、大阪には日本最低の山が存在している。それは、天保山という山。
天保山は、天保二年(1831)から3年かけての淀川筋の浚渫工事で採取された土砂で作った人工の山でである。
松や桜を植え、堀や入り江をめぐらし、お茶屋を開いて観光名所になった。
そればかりではなく、江戸と大阪を行き来する廻船のランドマーク的存在であった。
この廻船の往来は、我々が使う日常語「くだらない」の言葉の由来となっている。
江戸時代になると、大坂は天下の台所と言われたように経済の中心地として、一方江戸は政治の中心地として発展した。
そして、京都に近い大阪が上方(かみがた)で、江戸に向かうものを「下りもの」と呼んだのである。
特に京都・伏見の酒は、「下りもの」の象徴で、それは高級品の別名。
一方、江戸にも下らないジャンク品を、「くだらないもの」と呼んだ。
そして、江戸と大坂を酒などをつんで行き来していた船を樽廻船や菱垣廻船といった。
菱垣廻船は積荷が崩れないように、船体の側面が菱形の垣になっていた。樽廻船は伊丹や灘などの酒樽を、大坂から江戸に輸送した。
その樽廻船が大阪湾にはいって目印とした天保山はいまや公園となり当時の面影はないが、天保山山岳会までもが発足して、標高4.5メートル、日本最低の山の登山を楽しんでいる。
「天保山山岳会」発行の登山認定証には、大阪人のお笑い精神を反映してか、「あなたは、本日大いなるロマンとイチビリ精神を以て、日本最低の山を無事に登頂されました。その快挙を称え、記念に登山認定証をおわたしします」とある。
戦後、日本の家電の雄であった関西の松下と関東の日立にも、ひとつの因縁話がある。
それは、大阪・通天閣の胴体にデカデカと掲げてある文字広告「HITACHI」に関するもの。
それは、地元の松下電器や三洋電機、そしてシャープが幅をきかす関西への進出を狙っていた日立製作所と、資金調達のために長期契約を欲しがっていた通天閣側の意向が一致して実現したものである。
松下幸之助は若き日、通天閣の電灯工事に大阪電灯の配線工として参加していたことがあって、松下電器の社長になった後に通天閣への広告を断ったことを、後々まで悔やんだといわれている。
なにしろ大阪のシンボルが、関東企業の文字通り”広告塔”の役割を果たしているのだから。
仮に通天閣に毎晩、”読売新聞”なんてネオンが瞬いたとしたら、いつ火事がおきてもおかしくはない。
実際、戦前から存在した通天閣は近隣からの延焼で焼失してしまい、再建の発起人たちは笑いものにされつつも、市民達の募金によって今ある姿に再現した。
大阪人の通天閣への思いは歌謡曲にも表れている。通天閣ののたもとには大阪の棋士・阪田三吉を記念して「王将」歌碑がある。
その歌詞の中には、「明日は東京へでていくからには、何がなんでも勝たねばならぬ 空に灯がつく通天閣に 俺の闘志がまた燃える」とある。
通天閣はまさに大阪人の心の拠り所であった。
さらに天保山のある大阪南港あたりは、上田正樹の「悲しい色やね」(1983年)に歌われた。
行き場を失った人々がやってくるドンヅマリに広がる大阪の海は、今や先端的な場所になってしまい、”楽しい色やね”に変わっている。

東京と大阪の最大の因縁話といえば、東京には”幻の万博”があり、大阪には”幻の五輪”があったということではなかろうか。
東京「豊洲」は築地市場の移転先として、大阪北港の一角にある「夢洲(ゆめしま)」は、2025年大阪万国博の会場として注目を集めている。
実は夢洲は、2008年五輪の競技場、選手村とし利用される計画が立っていたが、2008年の五輪誘致は北京に決定。
誘致失敗後、100ヘクタールを超える広大な土地は「大阪の負の遺産」となっていたが、正の遺産に転換すべく、「夢洲」は、カジノを設置した統合型リゾートの候補地としても名乗りをあげている。
大阪万博(2025年)の開催が決定し、1970年大阪万博の"夢よ再び"ということだが、実は東京にも「幻の万博」というのがあった。
その開催予定地こそは、築地市場の移転先である豊洲なのである。
豊洲は人工島で埠頭がある。埠頭とは、船が横付けし貨物を保管保蔵する場所である。
東京湾には埋め立てで出来た埠頭がいくつかある。銀座から晴海通りにそって東南方向に車を走らせると、日露戦争記念の勝鬨(かちどき)橋を渡るともんじゃ焼きで有名な月島、朝潮運河を渡って「晴海埠頭」、晴海大橋を渡って「豊洲埠頭」、東雲(しののめ)運河を渡って「有明埠頭」と、人工島が続く。
晴海通りは、有明で東京湾岸通りにぶつかるが、右折すれば、お台場。左折すれば夢の島へと向かう。
こうした人工島から、若者が行きかう街として脚光浴びることになったのは、松任谷由美の「埠頭を渡る風」(1978年)ごろではなかろうか。
ちなみに、この歌の埠頭は晴海埠頭で、現在2020年東京オリンピックの選手村が建設中である。
バブルの時代には、シンボルともなった「ジュリアナ東京」は、晴海の海を隔てた向かい側に位置する竹芝埠頭近くに設けられ、倉庫街をリノベーションによって一変させた。
「ジュリアナ東京」は総合商社・日商岩井(当時)とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により、1991年5月にオープンした。
当時、日商社員であった折口雅博がディスコを提案し、上司の反発を受けながらも開業資金を集め、東京倉庫運輸の子会社である東運レジヤーとの共同出資で「ジュリアナ東京」を開業したものだが、1994年には閉店となった。
さて、日本のコンビニの元祖といわれるセブンイレブン。その第1号は豊洲4丁目で誕生し、またたくまに全国に広がった。
オーナーの山本茂は酒屋を経営していたが、センイレブンとして店を開いたのは1974年で、今もこの店は健在である。
セブンイレブン1号店の誕生は、NHK「プロジェクトX」で紹介された。
セブンイレブンの親会社は、イトーヨーカ堂。当時、スーパー業界17位。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。
小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった。
ビジネスノウハウを入手するため、最大手サウスランド社(セブンイレブン)に莫大な契約金を払い、屈辱的ともいえる契約を結ぶが、苦労の末に入手したマニュアルは日本では全く役に立たない代物。
番組では、他にコンビニがないので仕入品の運送回を頻繁にできず、まとめて運送するため段ボールが二階の部屋まで積みあがった姿が印象に残った。
15人の素人集団はゼロから独自の小売り戦略を練り始め、「全品買い取り、返品なし」「在庫は極力減らせ」「1個ずつの小分け配送」など、奇想天外な発想で日本独自の流通機構に風穴を空けていく。
そして、日本で生み出されたノウハウがアメリカに輸出される「日米逆転」が起きることになる。
さて時代を遡り日本の都市を大きく変え近代化したのは、1923年関東大震災であった。
陸上交通が壊滅すると、港のない東京は救援活動の遅れや物資の不足に悩まされることとなった。
これを教訓に、徐々に東京に港が作られていく。
1926年に「日の出埠頭」が供用開始されたのを皮切りに、1932年に「芝浦埠頭」、1933年に「竹芝埠頭」ができ、埠頭では、荷物を運ぶために専用線が敷かれていった。
豊洲は石炭、鉄鋼、ガス、電力が集まる日本最大のエネルギー地域となり、豊洲から運ばれた物資こそ戦後の日本経済をささえたといって過言ではない。
その意味で、いわば日本経済の「外付けバッテリー」のようなものかもしれない。
さて、豊洲埠頭の付け根から東雲運河を航行するとすぐ左手に長さ3.5kmにおよぶ旧防波堤がみえる。
昭和初期、東京港を高波から守る防波堤として活躍した。
その後、貯木場として利用され、この一帯の運河が木材で埋まっていたのだが、その名残が臨海線の「木場(きば)」という地名にみることができる。
そしてこの豊洲が、昭和初期に全国の注目をあつめたのは、日本初の国際万国博覧会にもなったためである。
1940年、豊洲・晴海で開催される計画だった万博は、正式名称を「紀元2600年記念 日本万国博覧会」といったので、神武天皇紀元という点でも時代を感じさせる。
ところが、開催準備は進んでいたものの日中戦争に突入で中止、「幻の万博」となった。
ちょうどその30年後の1970年が、「大阪万博」で豊洲万博の仕切り直しということになる。
豊洲は、1923年の関東大震災で発生した大量の瓦礫処分のための埋め立て地として出発し、おおよそ現在の土地の原型は1937年に完成した。
当時は日中戦争のさなかで、翌1938年、時の近衛内閣は「高度国防国家」の建設を唱え、国家総動員法を制定したことから、急速に重工業化が推し進められた。その前衛地こそが豊洲である。
そして、1939年、石川島重工業(IHI)の巨大造船工場がこの地に完成。同工場へ勤務する労働者の街として豊洲は「高度国防国家」の要衝となった。
ところで、石川島は、隅田川河口の中州が起源で、当初は南隣の佃島と別の島であったが、現在は完全に接続し佃2丁目の一部となっている。
江戸時代は人足寄場があって、無宿人を収容した。
1853年,水戸藩が造船所を開設し、これが石川島播磨重工業 (→IHI ) の工場に発展した。
石川島播磨重工業はその後,豊洲埋立地に移転,跡地には高層住宅 (大川端リバーシティ 21) が建設されている。
豊洲は、戦前から埋め立て工事が行われていたが戦争で中断。終戦後に埋め立てが再開され、戦争で焼け野原になった東京復興の要として「豊洲埠頭」が誕生したのである。
そこは、石炭置き場、ガス工場、火力発電所、製鉄所などができ、都営のSL貨物が走っていた。
戦後、豊洲は疲弊した日本経済を復興軌道に乗せるために採用された「傾斜生産方式」の拠点となる。
傾斜の意味は、まずは、経済の基幹となる鉄と石炭の生産に、資金と労働力を集中的に投入するためである。
その拠点になった豊洲は、1950年に海上を埋め立て、豊洲石炭埠頭が開設される。
つまり豊洲は日本最大級の「石炭島」であった。
そして石炭埠頭の隣接地を埋め立て、石炭からガスを製造する東京ガスの工場が建造された。埋め立てはさらに続き、その隣に東京電力の「東洋一」とよばれた石炭火力発電所が作られ、1956年東京ガスとともに操業を開始している。
豊洲には石炭の積み下ろし港が整備され、専用の貨物鉄道として、江東区塩浜の越中島と豊洲を結ぶ支線(深川線)が開通した。
しかし、日本経済は爛熟を迎え石炭の時代は終わった。さらには、そのシンボル的存在であった石川島の造船産業も、1980年代後半から特に韓国との競争にさらされ斜陽になった。
さらに豊洲には東洋一の新東京火力発電所があったが、この火力発電所は、1954年に完成し、東京都の全消費電力の6割をまかなっていた。
ところが、深川線は時代の趨勢に沿うように1986年に廃線となり、広大な造船工場の跡地は1987年の「東京都臨海副都心計画」により、高層マンション、複合商業施設、教育施設誘致(芝浦工大)、そして東京ガスの跡地に豊洲市場が移転し、住・商・学混合の一大地区として再生している。

東京のごみ処理場といえば、「夢の島」で、1957年からごみの埋め立てが開始された。当時は清掃工場の建設が追い付かず、ごみを焼却せずにそのまま埋め立てていた。そのため夢の島は生ごみなどが発酵分解を続ける不安定な土地となり、島内では、たびたび発生したガスにより自然発火があった。
今や、その土地が完全に整備され、今や一般の商業地区に様変わりしたのには驚きであるが、この夢の島にはいわば人類の「負の遺産」が保存されている。
そのことは、築地市場が放射能に侵された出来事と関係している。
1954年3月のビキニ環礁の実験で、マグロ漁船「第五福竜丸」140トンが被爆したことはよく知られている。
当時の状況をいうと、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。
不漁のミッドウエー海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ-シャル群島の東北海上にあって操業にはいった。
その時乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。
数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおい、生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
その突然の異変を訝しみながらも 誰とは知れず原水爆の実験ではないかと言った。
無線で助けをよぼうともしたものの、傍受したアメリカ軍に撃沈される危険があると判断し、母港静岡県焼津港に向かった。
帰港した際、福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでおり、船員達は隔離され検査をうけ、多くの船員は体調不良を訴えながらも回復していった。
しかし、無線長である久保山愛吉、当時33歳は回復せずに、被爆から半年後の9月23日に「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
さて、第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に放射能が発見され、原水爆禁止運動の萌芽が意外なところから芽吹いていった。
運動の中心となったのは、放射能に汚染された魚が築地から食卓に上るのではないかという危惧を抱いた東京杉並区の主婦達であった。
そして杉並公民館を拠点として原水爆禁止署名運動が広範な広がりをみせ、杉並区議会においても水爆禁止の決議が議決された。
杉並公民館はこうして世界的な「原水爆禁止運動」の発祥の地となったのである。
かつて杉並公民館があった現在の荻窪体育館の前には奇妙な形をした"オブジェ"が立っている。
ところで第五福竜丸の船体は数奇な運命を辿ることになる。
第五福竜丸は被爆後1967年に廃船になったが、エンジンは別の人物に買い取られた。
その人物所有の「第三・千代川丸」にとりつけられたが、その後、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられ、東京都はエンジンの寄贈をうけ、第五福竜丸展示館に隣接することになり、今も東京「夢の島」の人工浜辺に展示されている。
東京”夢の島”や大阪”夢洲”の名に、松尾芭蕉の「つわものともが夢のあと」という句が浮かぶが、東京オリンピック(2020年)や大阪万博(2025年)の招致で、東西ベイエリアの”負の遺産”周辺から「夢よふたたび」という気運が盛りあがりつつある。