トリックスター

2019年7月、金髪ぼさぼさ頭の型破りなボリス・ジョンソンが保守党党首としてイギリス新首相に就任した。
ジョンソンは、2008年から16年までロンドン市長を務め、その後に下院議員となりメイ首相の下では外相をつとめていた。
ただ昨年7月、メイ首相によるEU離脱協定案が気に入らず、抗議の辞任をしたことで、「離脱強硬派」として知られるようになった。
そして「自分なら、本当の離脱を実現できる」と豪語し、今年10月31にまでにEUからの離脱を実現すると公言している。
ジョンソンがどれ程のヤリ手かは知らないが、前任者メイが何度も挫折したEUとの間の"新協定案"がすんなりと議会を通るなど、ほとんどアクロバットに近いものがある。
あるいは、イギリスが最も避けたい「合意なき離脱」という崖を飛び越えてしまうのだろうか。
ロンドン市長時代にはワイヤー滑降を試みて宙吊りになったままのブザマな格好を披露し、おっちょこちょいの「ピエロ」を演じて人々の心に入りこんだ。
とはいえ、「EU離脱」というイギリスの国運のかかった局面で、ジョンソンがこれまで演じてきたピエロとは違う、「別の素顔」を見せるナンテことがあるのだろうか。
いずれにせよ、ノルかソルかの「ブレグジット」、サーカスに近い気がする。
唐突に思い浮かべるのは、ピエロが主人公の映画「翔べイカロス」(1980年)。
さだまさし演じる主人公の栗原徹は写真家をめざして被写体になる素材を求め、サーカスに写真を撮りにきたのだが、サーカス団で働く人々に魅せられ、頼み込んで働かせてもらうことにした。
そして栗原は、サーカス暮らしの中で次第に芸の魅力にとりつかれ、「ピエロ」という生き方を愛するようになる。
そして、当時日本のサーカスではまだ幕間のツナギでしかなかった「ピエロ」が主役になり得るのではないかと思うようになる。
そして先輩のピエロ役に教えを請うて練習をし、綱渡りや曲芸など、コミカルなだけではない「ピエロ像」を創作していく。
また、厳しい訓練を重ね、高綱渡りの曲芸に観客の拍手と歓声が贈られたとき、彼は生きていることを実感する。
彼は大人気となり、ますます難しい危険な演技に挑戦するようになっていく。
しかしある日、彼は非常に難度の高い綱渡りの最中に落下。テントに観客の悲鳴が鳴り渡り、凄惨な現場を子供たちに見せないために、照明が消される。
舞台裏に運ばれた栗原は、息も絶え絶えに「子供に知らせないで欲しい」と語った。
栗原の心を理解した同僚の団員が、急いで栗原の扮装に着替え、メイキャップして舞台に飛び出した。
落下して負傷したのかと思いきや、ピエロが元気に飛び出してきたので、観客は「演出だったのか」と歓声があがる。
しかしその夜、病院で栗原は亡くなる。ラストに流れた、さだが歌う「道化師のソネット」は、この実話に基づく物語をいやがおうにも盛り上げた。
「ピエロ」を主役にしようとして落下した栗原は、「イカロス」のような存在であった。
太陽に向かって飛んで、"ろう”で塗り固めていた体ともに溶け落ちたギリシア神話の英雄である。

EUからの離脱を意味する「ブレグジット」は、Briten+Exit=Brexitからきた造語だが、「ブレグジット」が大きく浮上したのは、EU内における「労働者の移動の自由」に対する懸念からであった。
2007年にルーマニアとブルガリアがEUに加盟した際、既存の加盟国は7年間は新しい国からの移民を制限しうるとしていたが、その労働者の受け入れが2014年に失効し、「反EU」の世論がイギリス国内で一気に高まったのである。
イギリスのサッカーのプレミアリーグも「ブレグジット」の影響をうける。
なぜならEU司法裁判所は、自国外の外国人枠を制限することは、外国人労働者の移動の自由を保障するEUの条文に反するとされた。
そこで、1999年にはイギリスの「チェルシー」が、イギリス人なしの11人の先発選手で試合をしている。
これは、ワザトなのかと思えるのだが、EUの下で主権が制限されることの一例である。
「ブレグジット」により、イギリス政府は外国人労働者の移動の自由を制限することを予定しており、EU出身の選手にも厳しいビザの審査が行われる。
遡ること2016年6月23日、保守党の党首であったキャメロン首相は総選挙の際のマニュフェストに従って、「EU離脱」の可否を問う国民投票を行った。
結果はEU残留支持者が48、1パーセント、離脱支持者が51,9パーセントと、僅差ではあるものの予想外の結果となった。
国民投票の結果が出て「離脱」が決定すると、EU残留派を主導したキャメロンは辞任表明。
党首選が始まり2016年7月、保守党の女性党首テリーザ・メイが首相が就任した。
ただ根本的に「国民投票」の結果が国政の決定権をもつなどとは、定められているわけではなかった。
「国民投票」の結果は有権者の意思として政治的には尊重すべきものではあるが、なんら法的拘束力をもつものではない。
しかしメイ首相は2019年3月29日に、EU本部へ正式に離脱を通知した。
ただ、イギリスはEU諸国との新たな関係をどうするか、という難題が待ち構えており、離脱期限を10月末までに延期した。
しかし、メイ首相が提出したEUと合意した「調停案」は3度とも議会で拒否され辞任に追い込まれた。
首相がすすめた「ブレグジット」が難題なのは、イギリスは「連合王国(UK)」であり、UK特有の問題が生じるからだ。
イギリスを構成する4つの国、すなわち由来も文化も異なるスコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、すべてが同じ方向を向いているわけではない。
例えば、スコットランドは、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化だけではなく、独自の教会・教育制度や貨幣をもつ。
また、イングランドの法とは異なる固有の法体系をもっており、1999年には1707年以前のスコットランド議会も再開している。
スコットランドは、「連合王国」に属しているものの、1707年までは独立した王国であった。
ある時期はフランスと協力してイングランドと戦ったことさえもある。
さて17世紀の初頭、イングランドの女王がエリザベスであった時、スコットランドの女王はメアリであった。
しかし一方は国のために生き、他方は愛のために生きるという対照的な人生を送り、結局は夫殺害の疑いをかけられてイングランドに転がり込んだメアリはエリザベスによって処刑される。
ただ、メアリの子ジェームズ6世は、1707年イングランドとスコットランドの両国の王となり「同君連合」が生まれたという経緯がある。
スコットランドは、イギリスのEUからの「離脱条件」が明らかになった段階で、スコットランドの「連合王国」からの離脱の是非を問う住民投票を実施することを表明している。
しかしブレグジットにおけるそれ以上の難題は、イギリス領北アイルランドと「アイルランド」との国境問題である。
かつて北アイルランドでは、イギリス残留を望むプロテスタント系住民と、「アイルランド」との統一を目指すカトリック系住民との間で、幾度となくテロによる流血事件が発生した。
ところが、イギリスもアイルランドもEU加盟国となり、北アイルランドと「アイルランド」の国境検査が撤廃され、EUの単一市場の下でヒトやモノが自由に移動するようになりと、北アイルランドをめぐる紛争は下火になって1998年和平合意が成立した。
ところが、「ブレクジット」が起こると、イギリス領北アイルランドと「アイルランド」との間で厳重な国境管理が実施されることになる。
検問所が置かれ、ヒトやモノの移動が制限される。
つまり、今まではイギリスもアイルランドもEUの中にありヒトとモノの往来は自由だったのに、突然「壁が」出現し、物流の混乱が予想される。
EUは北アイルランドだけをイギリス本土から切り離し、関税同盟、単一市場に残すことにすれば、国境管理をする必要はないと提案した。
しかし、北アイルランドはアイルランド同様EUの法規制が適用され、イギリス本土から独立したようなカタチになってしまう。
メイ英首相は、EU提案はイギリスの本質的な「一体性」を脅かすものだとして拒絶してきた。
そもそもメイ首相は、2020年以降もイギリス全体がEUの「関税同盟」に残るという案を提示したくらいの「ソフトブレグジット」の人だった。
つまりEU離脱後にも「EEA(欧州経済地域)」への加盟を続けて、「単一市場」に加わり続けるということである。
この場合は、イギリスはEU加盟国ではなくなっても、関税無しで貿易が可能となる。
ところが、EU側は「四つの自由移動」、すなわち「モノ、カネ、サービス、ヒト」をツマミ食いするナンテことは許さないとしたため、なんとしても移民の規制を行いたいイギリス政府は、EUからの「強硬離脱」(ハード・ブレグジット)を選択したのである。
そしてEUは、イギリスがEUとの「合意なし」に離脱した場合、一定の厳格な国境管理が必要になるとクギをさした。
そこで隣国でEU加盟国の「アイルランド」が現状を維持するために、EUの支持を受けて求めた保険が「バックストップ」という防御策だ。
それは、移行期間が終わる2020年12月までに別の「調停案」が見つけられなかった場合、「イギリス全体」がEUの関税ルールに従うというというものである。
イギリスの多くの議員は、EUのルールや関税率に縛られ、イギリス独自の貿易協定も結べない状態で、EUの司法機関の監督を受け続けることを嫌っている。
「バックストップ」案はイギリスを永続的にEUの規則に縛られるものとして下院で議員らからの猛反発にあい、閣僚数人が辞任した。
その一人が、当時外相ボリス・ジョンソンであった。

新首相ジョンソンは、何が本当か、何をしようとしているのか、謎に満ちた存在だ。
ジョンソンは、1964年ニューヨークで生まれた。母はアーティスト、父はのちに欧州議会議員になる。上・中流階級に属する富裕なイギリス人家庭で育った。
名門校イートンからオックスフォード大学に進学。2年後輩がデービッド・キャメロン元首相である。
大学在学中はキャメロンとともに社交クラブ「ブリンドン・クラブ」に所属し、ドレスアップして乱痴気パーティーを楽しんだと言われている。
研修生としてタイムズ紙で働きだすが、ある記事でコメントを捏造し、解雇されてしまう。
そして、「フェイクジャーナリズムの先駆」と呼ばれるようになった。
キャメロンが2010年に初の首相(自由民主党との連立政権)に就任し、ジョンソンは先を越されてしまった。
そこで、ロンドン市長になったことを機に議員を辞めていたが、2015年の下院選に出馬した。当選を達成し、保守党・党首そして首相就任への下地ができた。
ジョンソンが首相になれば、「合意なき離脱」の現実味が増すと言われている中、そんな危険な人物がなぜ人気者なのか。
キャラクターとしての「ボリス」は、気取っておらず「ジョークを飛ばす面白い奴」だから、どんな社会層の人ともつながることができる。
ロンドン市長としてはなかなかの人気者だった。
日本でも知られたイギリスの2階建てバスを「ルートマスター」というが、車掌を乗せなければならないため経費がかかることや出口が危険なことからことで1970年代以降は近代的な1階建てになった。
ただ、この「ルートマスター」への郷愁は強く、それを復帰させるか否かが、2008年ロンドン市長選の争点にまでになった。
そして「ルートマスター」の復帰を公約したボリス・ジョンソンが当選し、安全性にも配慮した「ルートマスター」が運行されることになった。
ロンドン五輪の際の輝かしい功績も人々の記憶に残っており、「ボリスなら、きっと何か楽しいことをやってくれる」、「イギリスを一つにまとめてくれるだろう」という大きな期待感がある。
その一方で、失言や暴言が多いジョンソンを嫌う人も多い。
宗教や人種に対する差別的暴言が多い。オバマ米大統領(当時)には「ケニア人の血が入っている」から「大英帝国を毛嫌いしている」とのコラムに書いたし、イスラム教徒の女性が目以外の全身を覆うニカブを着用する姿を「まるで郵便ポストのようだ」と評したこともある。
ところで、ジョンソンがふざけまわっている姿をTVで見て個人的に思い浮かべたのが、「トリック・スター」である。
「トリックスター とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。
西洋ではギリシアのプロメテーウス、ピエロ、日本では スサノオ、中国では孫悟空などがその代表例であろう。
黒澤明の「七人の侍」で、百姓でもない、野武士でもない、そんな中間的存在が百姓とサムライの間をとりもった。三船敏郎が演じたその役は、トリックスター的存在とはいえないだろうか。
いつもホーホーとわめきちらす、あの武骨な男に「菊千代」という名前からして、いたずらっぽい。
トリックスターは、時に悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い。
展開する行動としては、盗みやいたずらというパターンが多い。
抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もあり、時には両方の性格を併せ持つ者もある。
英雄であると同時に悪しき破壊者であり、あるいは賢者であるが悪い要素を持つなど、法や秩序に制限されない存在である。
ジョンソンがトリックスター的なのは、何をしだすか予想不能な点である。
政治的には、ロンドンの市長としてJGBT支援などリベラルな面を見せたかと思うと、ブレグジットを提唱し、「英国を国民の手に取り戻そう」と呼びかける内向きの面も見せる。
ジョンソンが「EU離脱派」を選択したのはライバルのキャメロンが「残留派」だったためと言われ、信条や信念に基づくものではなかった。
さて、トリックスターが成果を出すというより、そこにいて既存の世界を破壊することによって、交わらない二つの世界を融合してしまう。
本人が凄いのかはわからないが、ともかくも新しいものが生まれる「触媒」のような存在。
トリックスターとピエロの違いは、ピエロは人を人々を笑わせ緊張感を和らげる存在だが、トリックスターは、縦横無人に暴れて既存の枠に風穴を空け新しい地平を垣間見せたりする。
トリックスターによって大混乱に陥るが、それがいなくなった時には以前にも増して結束が強まっていたということもある。
となると、ジョンソンの真価は「辞任後」ということにもなるが、「合意なき離脱」の場合、混乱は「円高」を含め世界に広がるのは必至である。