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予定が変わった日

"数字"で記憶される日というものがある。
最近なら911は世界テロ、311は東北大震災。戦前なら515と226は、インパクトが強いテロの日だけに数字だけで十分に通じるということなのだろう。
個人史もしくはカップル史に刻まれる日もある。
レミオロメンの大ヒット曲に「3月9日」という曲があるが、作曲者の藤巻亮太が友人の結婚を祝って作ったものだが、2004年リリースするや卒業式の定番ソングになってしまった。
我が地元・福岡市民にとっても、数字だけで十分通じるという日もあった。
アインシュタイン来福の日(1922年11月23日)、リンドバークが名島の水上飛行場に飛来した日(1931年9月17日)、そしてマリリンモンローが来福した日(1954年2月8日)も、当時の人にとって”数字”で記憶される日であったにちがいない。
特に、リンドバーク飛来の日は満州事変勃発の前日であっただけに、よく記憶された日付であった。
最近では、博多駅前道路陥没の日(2016年11月8日)も数字で記憶される日かもしれない。
また、予定が変更されて残念な日とか、反対に幸運だったという日もある。
さて、2000年7月21日の沖縄サミット出席の為に来日したフランスのシラク元大統領は知日派として知られており、日本文化に対する造詣も深い。
幼少期にパリの東洋美術館、リヨンのギメ美術館を観覧し東洋美術に目覚め日本文化へのも興味をもった。
学生時代には「万葉集」を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。
来日時に首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめ、以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれるほどであった。
ところで福岡市西区の姪ノ浜に近い場所「生きの松原」海水浴場がある。
国道202号線から50mも入れば海岸に着くのにどこが入口かわからないほど不親切。
ところが、実際に海岸に出てみるといつのまにか巨大な石の護岸が作られているのに驚いた。
実をいうと、この立派な護岸壁は、サミット世界首脳会議の副産物だった。
2000年、日本ではじめての地方開催のサミットの最有力補地が福岡であった。
会議場は福岡市立博物館、ホテルはシーホークがあり、立派な国際会議が出来ますよとアピールした。
その出席予定者にフランスのシラク大統領の名があり、シラク大統領は「福岡へ行ったら“元寇防塁”を見たい」と楽しみにしているという趣旨の発言をしたために、福岡市は大騒ぎになった。
急ぎ、シラク大統領を満足させるべく「防塁」を整備しようと選ばれたのが、”生の松原”であった。
ここなら、会議場から近いし、景色もいい。
ところが、防塁復元工事は完成したものの、警備上の問題からサミット会場は沖縄に変更されてしまった。
そこで結局、駐車場を作る必要はないし、案内板も観光客のための道も不要になり、国からもらった予算を全部使おうと、砂浜に巨大な護岸を作ろうという話に展開していったようだ。
シラク元大統領にとっても残念な予定変更であったが、元寇防塁視察希望の理由を次のように語っている。
「世界を制覇したあの蒙古軍を防ぎとめたという“日本の防塁”を是非、この目で見たい」。
そこに、ヨーロッパの共通体験としての「モンゴル襲来」に対する危機意識の強さを感じる。
実は、西欧文明崩壊の危機といえば、まずは15Cオスマントルコの「ウィーン包囲」が思い浮かぶが、それより2世紀前のモンゴルとの戦い「ワールシュタットの戦い」もある。
ワールシュタットは、ポーランドのワルシャワ辺りのことである。
モンゴル軍による侵略は、その恐るべき残忍さと機動力で西方世界の奥深くヨーロッパにまで達し ていたのだ。
なにしろシラク大統領は、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させたくらいなのだから、日本を襲った元寇に無関心であろうはずはない。
ところで、鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物がある。
実は、誰でもが知っている教科書に出てくるのは、そのほんの一部で、とても長い絵巻物である。
この長い絵巻物「蒙古襲来絵巻」が、シラク大統領来福予定を機に、生きの松原海岸の元寇防塁に沿った石碑にレリーフとして埋め込まれているのである。
この絵巻物を書かせたのは、子孫に己の奮戦を伝えようとした肥後の御家人・竹崎季長である。
絵巻物の展開は、戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには幕府からの褒美の知らせが来ず、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しに行く。
朝廷に至っては、武士の奮戦どころか"神のご加護"と認識していたくらいだ。
安達泰盛という幕府の大物相手に直訴に行くこと自体が大変な勇気だが、それよりも、命をかけて戦果をあげたのに褒美という形で報われない、この理不尽さに対する怒りがあったと推測する。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して褒美として竹崎の地元の地頭の地位、それから名馬一頭を与えている。
このニュースはたちまちのうちに広がり、鎌倉武士の志気を高めた。それが再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる要素の一つとまで言われている。
つまり竹崎の貢献とは、戦場での戦果というよりも、戦果にふさわしい報酬をしっかりと求めた近代性にある。
さらに、竹崎のもうひとつは文化的貢献。つまり子孫に残した絵巻物によって当時の戦いをリアルに後世に残したということあろう。
再び攻めてきた元軍と日本軍は「鳥飼」あたりで合戦となる。中村学園すぐ前にかかる「塩屋橋」を目印にしたらよい。
その時の様子が、教科書に載っているアノ有名な絵で、たくさんの弓矢や「てつはう」が飛び交う激しい戦いがリアルに伝わってくる。
鎌倉幕府は、元寇再来の危機に備え、九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じたが、築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。
「今津 3km 日向大隅/今宿 2.2km 豊前/生の松原 1.7km 肥後/姪浜 2km 肥前/西新(百道)2.3km 不明/博多 3km 筑前・筑後/箱崎3km 薩摩/香椎 2km 豊後」という分担であった。
各国の分担地区によって石材が異なったが、注目したいのは、生の松原が「肥後国」担当となっていることである。
つまり、竹崎季長は肥後の御家人であり、絵巻物の中の馬上の季長の姿はまさに「生の松原の情景」そのものなのである。
かくして「生きの松原」の元寇防塁に「蒙古襲来絵詞」のレリーフが設置されることになったのである。
実は、元寇防塁の復元は博多湾周辺で細々と行われたが、大規模な復元計画の始まったのは、1913年のこと。
福岡市荒戸の郷土史家・木下讃太郎を会長に「元寇記念碑建設計画」がスタートした。
木下は建設資金もさることながら、海岸の柔弱な砂丘のために「記念碑」の重みに耐えられるか不安だった。その木下に名案が浮かんだ。
当時、久留米の捕虜となったドイツ兵は、久留米から博多湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも270名ほど送られていた。
彼らドイツ兵は中国青島の海岸に「砲台」を築いた人々であった。つまり木下はこのドイツ兵に防塁修築をさせようというものだった。
1915年4月にドイツ兵も「防塁修築」を受け入れ、福岡連隊司令部に出頭し元寇記念碑建設が許可され、我が国初の「捕虜使役」が実現した。
当時日本でもジュネーブ協定が遵守されており、「捕虜使役」といっても奴隷的酷使が行われたわけではない。「元寇記念碑」の設計は築城学の権威・東大工学部の伊東忠太博士に依頼された。
建設地の地ならしは連日、地元の青年団・婦人会が当たったが、やがてドイツ捕虜の本隊も加わった。
兵卒80人が電車を乗り継ぎ「ラインの守り」を合唱しながら乗り込んだ。
そして1916年7月、福岡市西区・今津海岸に元寇記念碑が見事に完成したのである。
シラク大統領はプライベートで何度も福岡に来られているので、復元された元寇防塁は間違いなく見られていることであろう。
果たして、フランスのシラク大統領は、生きの松原から西へ10キロほどの今津の元寇防塁が第一世界大戦中にドイツ人が修復した事実を果たしてご存知であろうか。
ちなみに第一次大戦・西部戦線において、フランスとドイツは塹壕戦を戦った経験がある。
さて、類まれな知日家のシラク元大統領は、愛犬の名前に「スモウ」とつけるほどの大相撲の大ファンでもある。
駐日大使館の重要な任務の一つは、エリゼ宮に大相撲の結果を場所中毎日報告することだったといわれる。
大統領は2000年に沖縄サミットで来日した際、大相撲の優勝力士を顕彰する「フランス共和国大統領杯」を創設し「日仏友好杯」と名称を変えていまも続いている。
モンゴルの脅威に対抗して日本人が建設した元寇防塁を見たいという希望のシラク大統領にとって幾分皮肉なことは、その元寇防塁は少なからずドイツ人が復元し、大統領の創設した「日仏友好杯」の多くが日本の力士ではなく、その進出をくいとめられなかったモンゴル出身力士に渡ったということである。

シラク大統領の来福の予定変更は、ご本人や関係者にとって残念なことではあったが、気まぐれな予定変更が”吉(きち)”と出た外国人もいる。
その幸運の主とはチャーリー・チャップリンで、そこには”相撲観戦”が関わっている。
さて、チャップリンの秘書は、高野虎市(こうのとらいち)という日本人であった。
高野は、広島の裕福な家庭に生まれるが、自由に憧れて1900年、15歳のときに移民としてアメリカに渡った。
当初は従兄弟を頼りに暮らしながら雑貨店などで働きながら現地の学校に通った。
1916年にチャップリンが運転手を募集していたため赴いたところ、採用された。
特にチャップリンのファンであったわけでもないが、当初は運転手としての雇用だった。
そのうち、後にチャップリン邸の秘書となる。
チャップリンは高野の仕事に対する一途な姿勢に感銘をうけ、一時期家の使用人全てを日本人にしたほどである。
また、チャップリンが日本贔屓であるのも彼に由るところが大きい。
高野に最初の子息(長男)が誕生した際には、チャップリンは自らのミドルネーム(スペンサー)をその名前として与えている。
そんな中1931年に公開された「街の灯」が興行収入500万ドルを越える大ヒットとなった。
しかしその直後人気絶頂にあったチャップリンが次回作のプレッシャーに追い詰められ部屋に閉じこもるようになってしまう。
人々を楽しませなければならないプレッシャーと孤独の闘いに苦しむ天才チャップリン。
その姿を見た高野はどれだけキツくてもチャップリンを支える事を決意し、公私ともにあらゆるワガママに応えていった。
素人同然にも関わらずチャップリンの命令で無理矢理映画に出演させられたり、 挙げ句の果てには、チャップリンの妻の浮気調査までさせられていた。
自由を求めてアメリカに来たはずの高野には、子供たちと過ごすことも出来ず束縛される日々が続いた。
チャップリンの高野への信頼度を示すことのひとつが、 家の使用人17人を全て日本人に変更したことがあげられる。
そのチャップリンが日本に初めて訪れたのは1934年5月14日。つまり、歴史的事件でもある515事件の前日である。
当時、国民には政党政治への不信が蔓延し、1932年5月15日、海軍将校・陸軍士官学校候補生らが決起し、「憲政の神様」とも評された犬養毅首相宅に押し入った。
犬養は、毅然とした態度で青年将校を抑えとどめる。「諸君はいったい、なんの用で来たのか」「乱暴なまねはするな、靴ぐらい脱いだらどうだね、おたがい話せばわかることだ」。
しかし、将校は 「問答無用、撃て」 将校が発砲した弾は頭部を貫通。こめかみに入った弾丸は、鼻の辺りに止まる。だが、出血が止まらない。意識は薄らいでいき、犬養は夜中に死去した。
以上が世に言う515事件の顛末であるが、実はこの日に首相官邸でチャップリンの歓迎会が行われる予定であった。
そしてチャップリン自身も襲撃のターゲットになっていたのである。
チャップリン訪問のことを事前に知っていた軍人たちは、欧米の退廃文化にかぶれた連中を効率よく殺すことができる と考えたからだという。
そして同伴した高野も、チャップリンが日本で受けるであろう敵意に対しても敏感だった。
515前夜に皇居付近を自動車で走行中、チャップリンに「車を降りて皇居(当時は宮城)の方角に向かって会釈してほしい」と依頼した。
これはチャップリンに対する不穏な動きを察知してか、印象を少しでも良くするために行ったものであったが、チャップリンはそれに従ったものの、その真意を測りかねていたという。
ところが5月15日の歓迎会の日、首相官邸にチャップリンの姿はなかった。
チャップリンは勝手な思いつきで総理との面会をキャンセルし、相撲観戦へと足を運んでいたのだ。
5月18日、犬養毅の葬儀が執り行われ、チャップリンは「友国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」という弔電をよせた。また、襲撃現場に立ち寄り、追悼の意を示した。
高野は1934年までチャップリンの下で秘書を務めた。
チャップリンの当時の内縁の妻ポーレット・ゴダードの浪費癖を指摘したところ、ポーレットがこれに激怒。
高野は、自分を取るか、ポーレットを取るかとチャップリンに迫ったところ、チャップリンは高野をクレイジーだと応じたため、高野は自ら辞任した。
とはいえチャップリンは高野に莫大な退職金とアメリカの映画配給会社ユナイテッド・アーティスツ社の日本支社長の地位を用意した。
このうち支社長の地位は、日本での作品上映に当たる代理店としての権利を与えたものであったが、日本の興行習慣に高野が馴染まなかったため長続きはしなかった。
高野はその後いくつかの事業を試みるがいずれも成功せず、妻イサミを病気で失っている。
日米開戦後には日系人の一人としてモンタナ州の強制収容所に収容された。
高野は「特に親米的な日本人」として待遇も良かったものの、日本の敗戦後も収容が続き、6年間の抑留を経て釈放されたのは、戦争終結から3年後の1948年8月のことであった。
高野は、収容所の中で自分の故郷・広島に原子爆弾が投下されたことを知ったはずだ。
1956年に、第二次世界大戦中にアメリカ市民権を失った日系アメリカ人のアメリカ市民権回復運動への支援を日本で募る目的で日本に帰国した。
晩年は故郷の広島で過ごし、1971年に、86歳で死去した。
世界が第二次世界大戦の巨大な渦に巻き込まれていく時代、チャップリンが世界に向けて発信した平和のメッセージは、高野の存在や日本での危機体験なくしては語れない。