「無きこと」として

ことをなすに、「名簿にない」「記録にない」「枠がない」「空きがない」「席がない」と告げられた体験。寒い夜に風呂に飛び込んだら「湯がない」体験とか。
そんな時の寒々とした空虚感を誰しもが一度は味わったことはないだろうか。
井上陽水の初期の作品に「傘がない」という曲があったが、妙にひきつけられるのは、誰しもが、あるべきものがないことの”あせり”や”寂しさ”を感じた体験があるからなのかもしれない。
そう考えると、井上陽水の別曲のワンフレーズ「さがしものはなんですか」とは、対(つい)となるようなタイトルである。
ところで、中国には「闇っ子」というこ子供もいるし、日本にも「住所がない」場所もあるらしく「番外地」という。
さらに歴史上には、人間の存在、行動(出来事)さえも、あたかも「無きこと」として処されることがある。
1877年、日本近代史の一コマ「竹橋事件」は、一応は教科書で"欄外扱い"のなのだが、この事件の首謀者たちは、あたかも「無きもの」として扱われた感じがある。
作家・澤地久枝のノンフィクション「火はわが胸中にあり」には、この事件の本当の意味を問うている。
1878年8月23日の近衛兵の反乱、これを「竹橋事件」と呼ぶが、その後の推移を見ると、教科書で"欄外扱い"するのでは不当なほどで、この乱こそ、日本の近現代史をある意味で決定づけた、といっても過言ではない。
発端は、皇居を守るべき精鋭であるはずの「近衛兵団」が、西南戦争の恩賞に対する不満と俸給減額への不満から、皇居内に向け大砲を砲火した、ということである。澎湃とおこりつつあった自由民権運動の影響を受けた兵隊もいた。
昭和の兵の大規模反乱226事件は、数多くの重臣達を殺傷し、皇が「自ら兵をもって鎮圧せん」と宣言した途端に、その意図は完全に打ち砕かれたのである。
この事件の黒幕は他にいる。青年将校の天皇への真情を利用して権力の中枢に居座ろうとした皇道派の首魁らである。
彼らの加担は不明だが、少なくとも一度は青年将校らの行為に理解をするような態度を示したのである。
一方、竹橋事件は、大砲を皇居に向かって撃ったをもって「天皇に対する反乱」と見なされ、参加者の意図が充分解明されないままである。
もちろん、軽かろうはずのない大事件である。
最高権力者直属の精鋭には、女王陛下の007から、ナチスのゲシュタポ、足利将軍の奉公衆まなど色々あるが、その直属集団が最高権力者に反乱を起すというのは、歴史上みあたらない。
竹橋事件の参加者が時の権力者にいかに憎悪されたか、その処分の早さと重さでよくわかる。
①8ヶ月にわたる西南の役の叛徒は、禁固以上で1767人に及ぶ中、斬罪に処せられたもの22人に対し、竹橋事件では53人の銃殺。しかも事件から2ヶ月たたないうちでの処刑だった。
②竹橋事件の処刑者は、後に「大赦」となり賊名は消えたが靖国神社の名簿にはない。(衆知のように極東軍事裁判のA級戦犯は名簿にアリ)。
竹橋事件は、兵士達の西南戦争における待遇の不平等を訴えたばかりか、徴兵制度の根本を問うものでもあった。
自由民権運動にも連動し、他の砲兵大隊と統一行動をとるならば、空前の武装蜂起となりうる予断を許さぬものがあった。
山縣有朋によって「参謀本部の設置」が建議され、初代参謀本部長となるが、山縣有朋により「竹橋事件」は政治的に徹底利用された。
最終起案者・山縣有朋の「軍人訓誡」は、「忠実、勇敢、服従」を主眼としている。特に、軍人の政治活動(自由民権運動など)への参加を誡めている。
そして、「軍人訓誡」の配布は竹橋事件の処刑直前の10月12日というタイミング。
それは、この訓誡にそむく兵士がいかなる末路を辿るかを 極めて効果的な形で証明することになる。
「軍人訓誡」はのちに「軍人勅諭」として全国の兵士に下賜される。
また、参謀本部の独立は、統帥権いっさいを天皇の直属させ、政府の介入を許さない、いわゆる「統帥権の独立」の布石となったのである。
竹橋事件は給与問題から起きたということなので、軍事予算削減はおそるべき事件をまねくという政党への口実にも利用されることになった。
兵士に対する鉄の締めつけをするための「みせしめ」として利用されたのである。
徴兵制度に対する疑問と不満をかかえて反乱をおこした平均年齢24歳弱の男達は、結果において徴兵制度を完成させ、 男達は汚名を着せられ殺され消され、以後、兵士の反乱は昭和にいたるまで沈静化する。
ただし疑問はおろか不満さえも表すことが許されない非人間的な内務生活が短い間に創られて、外に向かっては非人間的な残虐さをもって表出していくのである。

1968年韓国冬の山中、4人の村人が薪に使う木を拾いに山に来た時、2人のゲリラ兵に遭遇、銃で脅され、木に縛りつけられてしまった。
ゲリラの掟では民間人に見られたら、殺して埋める決まりだったが、地面は凍っていて、通報したら殺すと脅した上で民間人を解放して、速やかに任務を遂行することにした。
こんな山奥で電話もないため、すぐに通報などできないと考えたのだ。
ゲリラ隊は、念のためこの状況を本部に報告するものの、悪天候で電波が悪く、暗号を聞き取れないずそのまま、任務続行!
そのその任務とは、国際社会を揺るがす「韓国大統領暗殺」指令。後に判明するが、暗号は「遭遇した民間人を解放したのなら作戦は中止、帰還せよ」だった。 そうとは知らず、男たちは進軍し続けたのである。
彼らは、精鋭のゲリラ部隊で 驚異的な速さで雪の中を移動し、ゲリラ隊は検問を突破、任務決行の目的地まであと数キロのところに迫った。
だが、ゲリラ隊は、パトロールをしていた警察に止められた。実はあの時、命からがら解放された村人たちは、勇気を持って警察に通報していたのだ。
通報内容は、直ちに警察上層部へと伝えられ、首都近辺では厳戒態勢が敷かれていた。
ゲリラ隊と警備隊との激しい銃撃戦が始まり、大多数の武装ゲリラが射殺され、1人のゲリラ兵が近くの山に逃げ込んだ。
山に逃げ込んでいたゲリラ兵はよびかけに応じ投降。 男の名はキム・シンジョ(金新朝)、26才。 北朝鮮・朝鮮人民軍の兵士だった。
残るもう一人は取り逃がし、北朝鮮への逃亡を許す結果となった。
当時の北朝鮮の指導者はキム・イルソン(金日成)、現在のキム・ジョンウン(金正恩)の祖父である。
第二次世界大戦後、ソ連などが支援する北朝鮮と、アメリカなどが支援する韓国に分断された朝鮮半島。 両国による朝鮮戦争は15年前に休戦になっていたが、その後もたびたび軍事衝突が発生。 依然、緊迫状態は続いていた。
では一体なぜ、北朝鮮ゲリラは死を覚悟してまで韓国に侵入したのか?
しばらくして 大勢の報道陣の前で、手錠をされたままキム・シンジョの記者会見が行われた。
この会見で31名もの特殊部隊を潜入させた、北朝鮮の驚くべき目的が明らかとなる。
暗殺の作戦は以下のようなものだった。 私服に着替え、酔った市民を装い大統領官邸に接近。 仲間同士で喧嘩しているフリをして機会をうかがい、奇襲をかけ大統領を殺害したら、車両を強奪し逃走、その日のうちに北朝鮮に帰還する。 そして大統領を失い、動揺する韓国に軍による総攻撃を仕掛ける、という計画だった。
それにしても、国家の最重要機密にも関わらず、彼はなぜ、わざわざカメラの前で話したのか?
取り調べを担当したのは、大韓民国中央情報部のカン・インドク。 村人からの通報を受け、大統領官邸の警備を徹底させた人物である。
当初、キム・シンジョはいかなる質問にも一切答えることはなかった。
キムは、取り調べでの頑なな態度を変えることなく、10日が経過した。すると何とカンはキムをソウルの繁華街、ミョンドンに連れ出した。
周りを見回していたキムは、店に入る客が普通の市民だと知ると、こう言った。 「バラックに住んでる連中がこんなところで飲めるはずない」。
キムは北朝鮮で、「韓国民はアメリカに搾取され、全員がバラックに住み、飢えに苦しんでいる。よって韓国民を開放し南北統一を実現するのだ」。 しかし、実際のソウルでは、大勢の市民が外食を楽しんでいたのだ。
客たちは、まさか本人がいるとは思わず、事件のことを話題にし始めた。 彼らは、北朝鮮ゲリラのことを”野蛮な共産ゲリラ”と呼び、北朝鮮は恐ろしい国だと話していた。
それは、北朝鮮の教え「韓国民を開放し、南北統一を実現する事が我々の使命」ということと明らかに隔たっていた。
「そこでパク・チョンヒ(朴正煕)大統領を暗殺し 韓国民を解放するんだ。君たちの事は、必ずやソウルの労働者や市民が助けてくれる」とも教わった。
キムはその教えを信じていたからこそ、投降の呼びかけに応じ、会見で大統領の暗殺が目的だったと明かしたのだ。
そんな頃、 韓国政府が、29人のゲリラ兵の遺体を両国の軍事境界線上にある、板門店で返還しようとしたところ、 北朝鮮は、遺体の引き取りを拒否。
北朝鮮の主張は、「事件は韓国のでっち上げ」、「キム・シンジョなどという男は知らない」というものだった。
そのことをキムに知らせると、「ずっと騙されていたのか」と、泣き崩れた。 北朝鮮による洗脳が溶けた瞬間だった。
その後、キム・シンジョは、韓国の刑務所に入れられた。 しかし、銃を一発も撃っていないことなどが考慮され、2年後に恩赦を受け釈放の身となり、韓国の居住資格を得た。
新たな生活が始まった。 自立した生活が出来るようになった頃、1人の女性と結婚。 一男一女を授かり、慎ましくも穏やかな生活を手に入れた。
結婚から数年が経った頃、 北朝鮮から亡命してきた男性が、キムを訪ねてきた。
そして自分の北朝鮮にいる家族のあまりにも残酷な運命を知る。事件から2年後、両親が銃殺され、兄は収容所へ送られていたのだ。
北朝鮮には、かつてのキムのような特殊部隊の隊員が数多くいる。 隊員たちに対し、国家機密を漏らしたら命を狙われる、そう思わせる必要があったのだ。
キムのように北朝鮮の兵士が、生きたまま韓国で捕えられた例が公式に発表されたことはなかった。
そのため、彼自身も投降したら家族にまで危害が及ぶとは、想像すらしなかったのだ。
そして北朝鮮の暗殺者が殺しに来るかもわからない恐怖。 その苦悩から逃れようと、キムは酒浸りの生活となっていった。
そして1974年、式典で演説中のパク(朴)大統領が襲撃で、同席していた夫人が射殺された。
捜査当局は、北朝鮮の関与があったと発表。せっかく緩和していた南北関係が再び緊迫、北朝鮮への感情が悪化すると子供たちが、イジメを受けるようになった。
両親に続いて、妻子まで自分のせいで周りが不幸になる。キムは何度も自殺を考えた。
そんなある日、妻のすすめで教会に行くと、牧師と話をしていた男性が「いろいろと話せてすっきりしました。ありがとうございました」と言いながら出てきた。 キムは、自分を訪ねて来た、あの脱北者の表情が重なった。
決死の覚悟で亡命したものの、韓国では仕事も見つからず、途方に暮れていた脱北者の彼は、同じくかつて北朝鮮にいながら、韓国で生き抜くキムに話を聞いて貰ったことで安堵したに違いない。
だからこそ、脱北者の悩みに耳を傾ける。それが、自分にしか出来ない"使命"なのかもしれないと思った。
韓国は、 キリスト教が普及しており、大勢の脱北者の相談に乗るには、教会が一番と思い、キムは牧師になろうと決意した。
牧師になるには当然 資格が必要で、キムは神学校で学ぶために猛勉強を始めた。
そしてキムは、神学校を卒業すると、52歳で牧師の資格を取得し、75歳になった今も牧師として活躍。 脱北者ばかりか広く韓国の人々の相談に乗っているという。

1968年1月21日に発生した「青瓦台襲撃未遂事件」では、北朝鮮が派遣した31名が38度線を越えて韓国首都ソウル市内に侵入し、大統領官邸青瓦台の襲撃を試みて失敗した。
工作員のうちただ一人捕虜となった金新朝少尉は襲撃の目標が韓国大統領朴正煕の暗殺にあったことを供述し、朴は激怒して事件への報復措置を取ることを決心した。
パク(朴)政権は事件の報復として直接的な軍事侵攻を検討したのだが、直後に起こったプエブロ号事件で、当時ベトナム戦争を遂行していたジョンソン政権には朝鮮で新たな戦端を開く余力はなかった。
アメリカの援助が得られなくなり、朴政権も北進を断念せざるを得なかった。
それでもパク政権は、自らもゲリラを使って北朝鮮主席宮爆破と金日成を暗殺する計画を秘密裏に進め、1968年4月に専属の特殊部隊である空軍により派遣隊を創設した。
隊は編成年月の「68年4月」からとって「684部隊」というコードネームで呼ばれた。
なんとそのメンバーは北と同じ31名の隊員で結成された。
彼らは、仁川近くの実尾島(シルミド)で過酷な訓練を重ね、北への侵入・金日成殺害の命令が下る日を待った。しかし、事態は予想外の展開をみせた。
ジョンソンに代わってアメリカ大統領になったリチャード・ニクソンは、デタントの一環として1970年7月に在韓米軍の削減を発表した。
すると、1971年4月に北朝鮮が統一会談を提案し、9月に南北赤十字が予備会談を開始、翌年には南北共同声明が発表され、一機に融和ムードとなった。
そうした中で1971年に計画は撤回、部隊は「存在しない」事にされた。
しかし機密保持のため隊員が島を出ることは認められず、目的を見失った訓練が中止されることもなかったため、事実上幽閉されたような状態に置かれた隊員らの不満は増大していった。
1971年8月23日、684部隊の24名(7名は訓練期間の間にすでに死亡していた)の隊員は反乱を起こし、教育隊員を殺傷した。
実尾島を脱出して仁川に上陸した隊員は、バスを乗っ取って大統領への劣悪な待遇の改善などを直訴するのために青瓦台へ向かった。
彼らは途上で軍・警察と交戦しつつ、ソウル市内に入って2台目のバスに乗り換えた。
しかし、永登浦区大方洞の路上において銃撃戦となり、最期は手榴弾で自爆した。
これにより反乱した隊員のうち20名が死亡し、生き残った4名も軍法会議で死刑判決を受け、1972年に刑が執行された。
この事件はその後韓国の軍事政権(朴正煕、全斗煥、盧泰愚)下では長く隠蔽されてきたが、民主化後の政権で資料が明らかになり、2003年に「シルミド」として映画化された。
以上、たまたま、日本、北朝鮮、韓国それぞれの「精鋭部隊」の悲劇を描いたが、共通していることは、その後の国家統制の都合上あたかも「無かったこと」として扱われた点である。
竹橋事件の処刑者の墓は、なんと100回忌にあたる1977年になって、ようやく所在が確かめられた次第である。
皮肉にも、約50名は、裁いた側の陸軍大将・乃木希典を祀る神社に向かう乃木坂近くに埋葬されていた。

「国家とは」「国とは」それぞれ違い定義が難しいが、少なくとも義理や人情で動くものではない。
沖縄で県民が辺野古移設へNOの答えた背景には、戦時中の経緯や民主党政権時代からの、基地移設の迷走に加え、国家の非常さに対する不信が根強くあるように感じられる。
それは、南シナ海での米中の緊張を背景にして、日本国自体に降りかかることかもしれない。
それは「無きもの」として扱うという国家の非情さ。 しかし、映画の中の脚色、特に684部隊の隊員が死刑囚や無期懲役囚などの犯罪者上がりとして描かれている事などについて(実際は高額の特別報酬を提示しての募集に応じた一般市民がほとんどだったという)隊員の遺族が「名誉を傷つけるもの」として上映の差し止めを求めるなどの問題も起こった。
映画化により社会的に事件の全容解明を求める声が高まり、韓国当局が調査に乗り出している。2005年には684部隊隊員の遺族に対し、国防部が34年ぶりに死亡通知書を正式交付した。


回、番組でキムさんに取材を申し入れたが、今も北朝鮮に命を狙われる可能性があるとの理由から、応じてもううことは出来なかった。
そしてキムさんの洗脳を解いた、カンさんは…現在、北朝鮮専門大学院の名誉研究員として、南北問題の解決を図るべく、日々、研究を続けている。
カンさんは、最後にこう話してくれた。
「北朝鮮も人間が生活しているところです。私たちの社会と同じで人間社会で起こるあらゆる事が起こります。彼らが悪人だというなら、それは教育によるものです。ただ命令を遂行しているだけであって、その人自身が悪人だからではない。違う体制の中で育ったから、考え方や行動が異なる、私たちはその事を認識する必要があると思います。」
1972年6月17日、ワシントンD.C.の ウォーターゲート・ビルで働く警備員フランク・ウィルズが、 建物の最下部階段の吹き抜けと駐車場の間のドア上に 奇妙なテープが貼られているのに気付いた。 彼は、清掃員が作業中にドアの鍵がロック されないよう貼ったものと考え、 何の気なくテープをはぎ取ったのだが、 すぐさま何者かによって貼り直されていた。 このことを不審に思い、彼がワシントン市警に 通報したところから事件は始まる。 ダウンウォーターゲート・ビルダウン $ウソのような曖昧な話。 警察の到着後、同ビルに入居していた 民主党全国委員会本部オフィスへの 不法侵入の罪で、5人の男が現行犯逮捕された。 ・バーナード・バーカー ・バージリオ・ゴンザレス ・ユージニオ・マルチネス ・ジェームズ・W・マッコード・ジュニア ・フランク・スタージス の5名。 ちなみに、現役ではないが バーナード・バーカーと ジェームズ・W・マッコード・ジュニア は元CIA職員だった。 いくつかの彼らが撮った写真から 3週間前にも同オフィスへ侵入しており、 今回の侵入は正常に動作していなかった 盗聴器を再設置するためのものであったことが判明した。 二度も同じオフィスへ侵入しなければ ならなくなったことは、侵入犯側の多くの ミスの最たるものであったが、 さらに致命的なミスとなったのは、 警察が押収したマッコードの手帳の中に エドワード・ハワード・ハントの ホワイトハウス内の連絡先電話番号が 見つかったことであった。 ハントは、ニクソン大統領再選委員会で 働いていたことがあったため、 侵入犯がニクソン大統領に近い者と関係が あるのではないかとの疑念が生まれた。 これに対し、ニクソン大統領(事件当時任期中) の報道担当官ロナルド・ジーグラーは、 三流のコソ泥とコメントし、 ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。 ダウンニクソン大統領ダウン $ウソのような曖昧な話。 審問の過程で、マッコードがCIAの元局員で 大統領再選委員会の警備主任であったことが判明する。 ワシントン連邦地方検事局は、マッコードとCIAの 関係の調査を始め、彼が大統領再選委員会から何らかの 賃金を受取っていることを発見する。 同じ頃、ワシントン・ポストの記者ボブ・ウッドワードは 同僚カール・バーンスタインと共に独自の調査を始め、 事件に関する様々な事実を紙面に発表した。 内容の多くは、FBI、及び他の政府調査官には 既知のものではあったが、ウォーターゲート事件に対する 世間の注目を集めることとなり、 ニクソン大統領やその側近を窮地に立たせる結果となった。 ニクソン大統領とハリー・ロビンス・ハルデマン大統領首席補佐官は、 7月23日、FBIの犯罪調査を遅らせるようCIAに依頼 する件について議論を行う。その様子はテープ録音されており、 後に特別検察官に提出を求められることとなる。 この後ニクソンは「国家安全保障」が危険にさらされるだろうと主張し、 GIAのバーノン・A・ウォーターズ副長官に FBIの調査を妨害するよう指示した。 表向きには「メキシコ人はCIAの協力者であるから、 メキシコでの捜査はCIA工作の暴露につながる」と言うことだったが、 盗聴工作の資金であるメキシコ人ビジネスマンを 隠れ蓑にしたケネス・H・ダールバーグからの 秘密献金の存在を隠蔽することが目的だった。 一連の不正工作は、ジョージ・ゴードン・リディおよび エドワード・ハワード・ハントを中心とした ニクソン大統領再選委員会職員が主導していた。 ダウンエドワード・ハワード・ハントダウン $ウソのような曖昧な話。 元CIA職員。 メキシコシティー、東京、工作本部中南米部などで勤務し、 モンテビデオ支局長、工作本部欧州部副部長を歴任。 PBSUCCESS作戦、ピッグス湾事件、 フィデル・カストロ暗殺計画に関与した。 1973年1月8日に、リディとハントを加えた 侵入犯は裁判にかけられることとなり、 マッコードとリディ以外の全員が有罪を認めた。 裁判では被告全員に対し、 犯罪の共同謀議、家宅侵入および盗聴について 有罪の判決が下されることになるが、 被告が証言をせず有罪を認めるように 賄賂が支払われたという事実もまた明るみに出てしまう。 サム・J・アーヴィンJr.上院議員によって 上院ウォーターゲート特別委員会が設置され、 ホワイトハウスの職員の召喚が始まった。 上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会は、 夏のうちのほとんどを通じて放送され、 それはニクソンへの致命的な政治的打撃となった。 殊に7月13日での特別委員会に出席した バターフィールド大統領副補佐官が、 ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中の 全会話を自動的に記録し、ニクソンまたはディーンが 重要会合についての真実を伝えているかどうか 証明することができる録音テープも存在すると発言。 重要な証拠の存在が明らかになったことから、 コックス検察官と上院特別委員会は、 直ちにホワイトハウスに対しテープの提出を命じた。 ニクソンは大統領特権でこれを拒絶し、 彼への提出命令を無効にするようリチャードソン司法長官経由で コックスに命じた。しかしコックスがこれを拒否した。 拒否されたニクソンは、週末に入り、 連邦政府機関が休みであったにも関わらず、 翌日の晩(土曜日の夜)から コックス解任のために行動を起こす。 まず彼はリチャードソン司法長官に圧力をかけ、 コックスを特別検察官から解任するよう求めた。 しかしリチャードソンはこれを拒否し、抗議して辞職をした。 ニクソンは次にラッケルズハウス司法副長官に同じ要求をするが、 彼もこれを拒み、ニクソンによって辞職させられる。 さらにニクソンは訟務長官であった ロバート・H・ボークを司法長官代理に任命し、 コックスを解任するよう命じた。 ボーク命令に従ってコックスを解任した。 その後ニクソンはFBIを動員し、 特別検察官、司法長官、司法副長官の 執務室を封鎖させ、特別連邦検察局を廃止し、 事件の調査に関する全ての権限を司法省に移すと発表した。 その様子はテレビで放送され、国民に 「警察国家の再来」「犯罪容疑者が権力で事件をもみ消している」と 受け取られたため、抗議の電報・電話がホワイトハウスに数万通押し寄せた。 この間の同年10月には、ニクソンとコックスの間に立った ステニスがワシントンD.C.の自宅で銃撃され、重傷を負うという事件も起きた。 連邦議会もニクソンの行為を大統領の権力の濫用と非難し、 ニクソンに対する多数の弾劾法案が議会に提出される事態に至る。 ニクソンは、1973年11月17日の記者会見で 自身の行為を次のように弁明している。 ”私は公職に就いている間、司法妨害を行ったことなど一度もありません。 また、私は公職にある身としてこの種の調査を歓迎します。 なぜならアメリカ国民は自分達の大統領がペテン師であるのかどうかを 知るべきであるからです。そして、私はペテン師ではありません!” 1974年3月1日、大統領の7人の元側近が ウォーターゲート事件の捜査妨害をたくらんだことで起訴された。 大陪審は、さらに秘密にニクソンを起訴されていない共謀者として指名した。 ディーン、マグルーダー、及び他の人物は既に有罪を認めていた。 ニクソンの地位はますます不安定になっていく中、 下院は大統領の弾劾の形式上の調査を始める。 下院司法委員会では、1974年7月27日に27票対11票で 大統領に対する第1の弾劾(司法妨害)を勧告することが可決され、 さらにその後7月29日には第2の弾劾(権力の乱用)が、 また7月30日には第3の弾劾(議会に対する侮辱)までもが可決されてしまう。 侵入のわずか数日後、1972年6月23日に 記録されたテープが公開された。 その中で、ニクソンとハルデマンは国家安全保障に対する 問題を捏造することにより調査を阻む計画を 作ったことが明らかにされた。 弾劾の決議を受けるに足る十分な票があることが 共和党上院議員によって伝えられ、 ニクソンは自らの意思で辞職することを決定した。 1974年8月8日夜の国民全体へのテレビ演説で、 ニクソンは8月9日正午に辞職することを発表した。 $ウソのような曖昧な話。 ニクソンは1994年4月2日に81歳で死去したが、 この事件の影響でアメリカの歴史上初となる 任期中の辞任を行ったことなどから、 通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われなかった。 自分が憧れをもったのは、文芸春秋の立花隆とワシントンポストのウッドワード、田中金脈の追及と大統領権力の腐敗と戦ったからだ。
アメリカ合衆国史上初めて任期途中で辞任に追い込まれた第 37 代リチャード・ニクソン大統領。 その引き金となった “ウォーターゲート事件”の全容を白日の下に晒し、ニクソン政権の不法行為や腐敗を暴いた内部告発者がいた。
世界中で様々な憶測と関心を呼び、30 年以上に渡り正体が謎とされた通称「ディープ・スロート」と呼ばれた匿名情報源の正体は“FBI 捜査官の鑑”とまで称賛された当時の FBI 副長官マーク・フェルトだった。
なぜ彼は極秘の捜査情報をマスコミ へリークしたのか?アメリカを揺るがしたウォーターゲート事件とは何だったのか?国を守る FBI 捜査官が自らの家族やキャリア、そして将来をも危険にさらし、全てを犠牲にしてまで真相を暴くに至った全貌を描いた映画『ザ・シークレットマ ン』が 2 月 24 日(土)より新宿バルト 9 他にて公開となります。
この度、本作でマーク・フェルトを演じたリーアム・ニーソンとピーター・ランデズマン監督のインタビュー映像が到着いたしました。
リーアム・ニーソンは、マーク・フェルトの特徴であるロマンスグレーの髪と高潔な人柄を表すピシッと決めたス ーツ姿にこだわって役作りをしたこと、そして全米各地に頻繁に異動を伴うフェルトの FBI でのキャリアや退官後の裁判などの試練によって持病であるうつ病を悪化させ、後に自殺するに至った妻の苦悩を見事に演じたダイアン・レインについて語っています。
1972 年 6 月 17 日深夜、5 人の男がワシントン D.C.の民主党本部に侵入し、盗聴装置を 仕掛けようとしたところを逮捕される。後に「ウォーターゲート事件」と呼ばれる、アメリカ 合衆国史上類をみない政治スキャンダルの発端である。
捜査を指揮するのは FBI 副長 官マーク・フェルト。遅々として進まない捜査に苛立つフェルトは、やがてホワイトハウス が CIA を通じ捜査を妨害していることを察知する。事件そのものがホワイトハウスの陰 謀によるものだと悟ったフェルトだが、フーバー亡き後 FBI 長官に就任したグレイはニク ソン大統領の忠臣であり、協力は望めない。フェルトは事件の真相を白日の下に晒すた め、ある決断をする。
中央情報局バージニア州マクレーンにある中央情報局本庁。従来は同州のラングレーだった アメリカ中央情報局(アメリカちゅうおうじょうほうきょく、Central Intelligence Agency, CIA)は、CIA長官によって統括される、対外諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関の1つ。 概要 大統領の直轄組織であり、米軍やその他米国政府内の情報機関からは独立して存在している。 CIA自身が収集した情報の他に、国家安全保障局や国家偵察局、国防情報局(DIA)、各軍の情報部、財務省情報部、原子力委員会情報部などからの情報を集めて分析し大統領と国家情報長官に報告する。俗称カンパニー 米国内の多数の情報組織から構成されるインテリジェンス・コミュニティーは国家情報長官によって統括され、CIAはその「中央」にある情報機関である。 徹底した秘密主義、度々暴露されるいくつかの悪事から、いかにも怪しい組織といった印象が全世界的に強いため疑念の対象として見られることも多い。 イランなど反米国家においては、逆にテロ組織に指定されている。国務省や連邦政府がおおっぴらに関与する事の出来ない“裏稼業”を行う事から、「見えない政府」「もう一つのアメリカ政府」「クーデターメーカー」などと渾名される。 イスラエル諜報特務庁(モサド)やイギリス情報局秘密情報部とつながりが深い。また、米国、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの諜報機関は、アングロ・サクソン連合として横の連携がある。 活動内容 アメリカ合衆国の外交政策・国防政策の決定に必要な諜報・謀略活動(ヒューミント)を行う。 スパイを擁する情報機関であるため活動内容には不明な点が多く、虚実の区別が難しく、諜報活動のために膨大な予算と権限を与えられているが、その用途などの詳細情報は報告義務の必要がない。 一般には以下のような活動があるといわれている。 •世界に知られる訳にはいかない機密の保持や証拠物件等の抹消 •敵国指導者の暗殺 •敵国外交官の買収・懐柔・脅迫 •敵国内での情報操作、プロパガンダから民衆扇動 •交戦中の敵国捕虜に対する尋問・拷問 •潜在的敵対国にとっての反政府組織やゲリラなどへの人材・資金面や交流・援助 •アメリカが攻撃対象とできる反米集団の育成 •反米政権打倒と親米政権樹立の援助 •独裁政権の打倒や樹立の援助 非アメリカ国籍者をも組み込んで、エージェントを政治家や官僚、軍人から、NPO活動家や宗教団体、留学生、芸術家、無職者に至るまで広範な職業に偽装させて全世界に配置しているという意見がある。 ジャーナリストがテロの対象となるのを防止する意味と、報道の自由、中立性を担保する目的で、エージェントを報道関係者として偽装させないと主張している。 末端のエージェントや職員は自分の活動の目的となる作戦の全容を開示されていない、もしくは虚偽の説明を受けていることも多いという考えもある。 他国の政権中枢と反政府勢力の双方に接触して政策決定をコントロールする分割統治方式を得意としているという。 目的達成のためにはアメリカ国民すら反感を持つような反社会集団の活用も辞さない。 例えば1950年代にはチベットの反中武装闘争組織チュシ・ガンドゥクを支援していた。 フォード大統領により、暗殺禁止の大統領令が出されたこともあるが、今では撤回され、パキスタン、イエメンなどで無人偵察機プレデターでイスラーム主義テロ組織の要人を暗殺している。 ベトナム・イラク・アフガン等での戦争において、局員は現地へ潜入し敵性ゲリラ・民兵・テロリストの情報収集を行い、その拠点や隠処の爆撃時機・座標を米軍へ通知している。しかし、不正確な情報であることもしばしばで、誤爆による多大な民間人の犠牲を招いている。 2001年の9・11テロ後は、コマンド部隊によるテロリストの逮捕・殺害計画を極秘に企画していた。米政府の元高官によると、この計画は1972年のミュンヘンオリンピックで起きたイスラエル人選手の暗殺事件後にイスラエル諜報特務庁(モサド)が実行した報復作戦に類似しているという。 2006年5月、“テロリスト関係者若しくはそれらと接触した人物”をアメリカ上陸の際に拉致し、国内法の及ばない地域(シリアやグァンタナモ米軍基地)の秘密収容所に、取調べを口実に収監していた事が判明して、アムネスティ・インターナショナルや母国政府が調査に乗り出す事態になっている。2006年9月、ジョージ・W・ブッシュ大統領は秘密施設の存在を認め、この秘密施設でのCIAによる取調べを「CIAプログラム」と表現した。 日本への関与 日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、正力松太郎などをエージェントとして、揺籃期の自由民主党に活動資金を提供し、政治及び国内のアメリカニゼーションと政府の親米化に一役買った。 2006年7月18日に公開されたアメリカ国務省編纂の外交史料集によると、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき日本の親米勢力や左派穏健勢力に秘密資金を提供していた。秘密資金の提供を受けたのは岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と社会党右派(後に民社党を結党する勢力)とみられている。この結果、右派が民社党をつくり、日本社会党は弱体化することになった。 冷戦終結後、双子の赤字に苦しむアメリカ政府がCIAの人員や経費の削減等を行う危機に直面したCIAは、日本等の友好国の経済情報などの非軍事分野での情報収集と分析をはじめた。 1990年4月にはウェブスターCIA長官が「日本やヨーロッパ諸国の経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整室を設けた」と発言し、1992年4月にはゲーツCIA長官が「業務の約4割、予算の2/3は経済分野に当てる」と演説した。2011年にはジェラルド・カーティスが対日工作者の一人であると名指しされている。 日本の指定暴力団ともコネクションを持つとされる。 岸の系列から、統一協会への関与も主張される。 エージェントの正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる。(→正力マイクロ波事件) 歴史 第二次世界大戦中のOffice of Strategic Services(OSS-戦略事務局)がCentral Intelligence Group(CIG-中央情報グループ)及びOffice of Political Coordination(OPC-政策調整局)を経て1947年に成立した国家安全保障法により改組され誕生した。 第二次世界大戦終了後、アレン・ダレスはドイツから数千人ものナチス出身者を招聘(連行)して、CIAの作戦能力を強化させた(ペーパークリップ作戦、MKウルトラ作戦など)。以後CIAはファシストの総本山として君臨し今もなおその影響力は絶大である。 東西冷戦時代は共産主義国の転覆を狙っていたこともあり、特に有名な活動が1961年のキューバにおけるピッグス湾上陸作戦事件である。長官アレン・ダレスはケネデイに「大統領閣下、この作戦の成功確率は100%以上です。」と言い。かたや亡命キューバ人の軍やシンジケートには米軍の投入を約束そていた。典型的なダブルトーク(二枚舌)である。作戦が実行に移り、アレン・ダレスは即座に米軍の投入をケネディに脅迫的せまったが、中国政府がベトナムと北朝鮮国境で軍の移動を開始したとの情報を入手した途端、これを却下、結局、亡命キューバ軍は全滅、 この作戦は失敗した、アレン・ダレス、チャールズ・カベル副長官は責任を問われ罷免、アレン・ダレス、チャールズ・カベル両人ともケネディを「腰抜けの裏切り者」呼ばわりしCIAを去った。しかし、彼は腹心の部下を要職に就けるのを忘れなかった。リチャード・ヘルムズ、ジェームス・アングルトン、エベレット・ハワード・ハントなどである。そして彼は影からCIAを操り続けた。ケネディは後に「弟のロバートをCIAに入れるべきだった。」と述懐しているが、ともかくCIA長官に親友のジョン・マコーンに就任してもらい改革を計った。 しかし、実現する前に、特にキューバ危機を境にケネディが「共産主義者に膝を屈し、取引した!」とみなされるようになると、CIA内部で計画されていたカストロ暗殺計画と組織がケネディ暗殺に向けてセットアップされていった。結果はケネディ大統領暗殺事件で凶弾に倒れた。ここでCIAが果たした役割はキューバ人からなる暗殺実行部隊ヒットマン提供と、ヒットマン達の国外脱出、そして何よりも”偽の真犯人”リー・ハーベイ・オズワルド”の提供であった。(彼の役割と行動については後述)。その後はリチャード・ニクソンの手足のように働き、ベトナム・エスカレーション、ウォーター・ゲート事件などを引き起こしている。特に注目すべきはCIAのAGENTエベレット・ハワード・ハントがウォーター・ゲート事件後にニクソンに100万ドルの恐喝を行っている点である。それに対してニクソンは応ずるしかないとワシントン・テープの中で述べている。その背景にあるものはなんなのか?ケネディ政権時代、ニクソンはペプシコーラ社の顧問弁護士として生計を立てていた。しかもケネディ大統領暗殺の日前夜、ダラスを立ち去っている。偶然なのであろうか?ハントが要求した100万ドル、すでに新聞にも出てしまっているのに高すぎはしないか?その後ハントの妻が乗っている飛行機が墜落するという事件が起きた。この茶番!ハントがニクソンの何を知り、100万ドルを得て闇に消えた今、謎だけが残る。 ワシントン・テープの公開は2029年だがニクソンの手により削除が徹底的に行われており、あまり価値はない。1980年代ソ連崩壊直前には、世界中で主要敵であるソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員の離反を成功させるなどして冷戦の終結に貢献した。 2001年よりブッシュ政権下で予算は大幅に増額された。 一方、CIAはブッシュ政権下では機能が発揮されていないという指摘もある。 ブッシュ政権下で勢力を増したネオコンは、CIAに対し不信感を持っていたため、国防総省の情報分析能力強化やネオコン派による独自の情報分析といった行動を行った。 その結果、CIAはインテリジェンス・コミュニティーの主流派から外れ、十分に機能しなくなった。 こうした流れは、2010年頃まで続いた。 ポーター・J・ゴスは、それまでの最上級幹部を全て辞めさせ、大統領の政策に異議を唱えることを禁じる命令を出した。 これによって、CIAの職員は2005年までに総員の半数が5年以下の経験しか持たない組織になった。