不足の経済

ものがない、不足しているからこそ新しいものが生み出される。つまり足りないことを補おうとするところに新機軸が出来上がる。
経済学では、規模を拡大するほど単価が下がるという「規模の経済」という言葉があるが、不足や欠如がかえって生産性を高めるという「不足の経済」というのがあってもよさそうだ。
スポーツの世界をみると、かつてバレーボールで身長が"低い"日本は、AアタックやBアタックなどの戦術で相手を翻弄し、男女ともオリンピックで金メダルをとっている。
またマラソンにおけるアフリカ勢のように、空気が”薄い”高地の練習が心肺能力を高め、圧倒的な成績をおさめている。
日本の高度経済成長を支えた「日本型経営」も、"人手不足"という悪条件から生まれたといってよい。
日本の高度経済成長は慢性的な"人手不足"で、短期間で従業員を入れ替えるなどという贅沢は許されなかった。
一方、分業を徹底などすると増える仕事をこなせない。そのため、様々な作業をこなす長期雇用の”多能工”が育ち、チームワーク力が高まった。
それは、米国や中国が、大量の移民や内陸人口という労働力の大量流入に頼り、”単能工”として分業した歴史とは対照的である。
人材育成において日本はジェネラリストを育て、アメリカはスペシャリストを育てるといわれる。
それは企業の「系列化」とともに、必ずしもプラスとはみなされてはこなかった。
日本の自動車産業では、自社だけでは人が足りず、部品生産だけでなく設計もやむなく部品メーカーに任せた。
それがかえってよい設計を生んでコストも下がり、図面の所有権も持てた彼らが安心して設備投資できる長期サプライヤーシステムが出来たのである。
不断の改善を行うトヨタ生産方式や、部品のスリアワセといわれる調整により持続的な生産性向上が進んだ結果、国際的な優位が生じたのである。
「不足の経済」で思い浮かべるのは、映画「マネーボール」で描かれたオークランド・アスレチックス。
2000年代前半メジャーリーグの貧乏球団、オークランド・アスレチックスのGMであるビリー・ビーンが、プレーオフに出場するほどの「強豪チーム」としたのは、従来とは全く異なる選手の「評価方法」にあった。
この評価法ならば、選手に支払われる契約金も従来と異なり、「選手市場」は歪んでいたとみなされる。
野球において、バッターの実力を把握する最有力なデータに「打率」がある。
打率の高い選手を揃えようとすると、多額の年棒が必要になってしまい、経済力が弱いチームには「重荷」になってしまう。
貧乏球団ではそういうハイアベレージ選手が採れないという、背に腹変えられぬ「事情」があった。
一方、野球は塁に出ないと得点には結びつかない。
よって、アスレチックスは四球でもなんでも、とにかく「塁に出れる」選手を高く評価した。
打率は平凡でも「選球眼」が良い選手は四球が増えて「出塁率」が高くなる。しかも、そうした選手は、打率が高い選手より「安い年棒」で雇える。つまり、「費用対効果」が高いのである。
さらに「出塁率」に加え、「長打率」を加味した「新たな指標」で選手を評価し直したのである。
大リーグのドラフト会議では、30球団が希望の選手を順々に指名していく。そのため、とりたい選手が20人いたとしても、そのうち3人を獲得できれば大成功といわれる。
ところが、アスレチックスは事前にリストアップした上位20人のうち、なんと13人の獲得に成功した。
他球団と選手の「評価軸」が全く異なるため、指名がほとんど重ならなかったからだ。

最近、映画で低予算で成功した映画「カメラを止めるな」が話題をよんだが、日本映画の「円谷プロ」など特撮技術に秀でていたのは、「戦意高揚」のための映画を低予算で作らねばならなかった事情と関係している。
あのウォルト・ディズニーでさえも「戦意高揚」映画を作っていた時代、日本の映画づくりはアメリカとは違い、実際の飛行機を飛ばしたり戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」という技術を開発せざるを得なかったのである。
また日本軍部は機密保持がきわめて厳しく資料や写真も公開してくれなかったため、ミニチュアの飛行機をワイヤーで吊るして飛ばし、大きなプールに模型の戦艦を浮かべた特撮セットがつくられ、「らしく見せる」ための様々な工夫がなされた。
その結果、1960年代に日本は世界トップクラスの「特撮技術」をもっていたといってよい。
特に新東宝の特r撮技術・設備は世界一を誇っており、円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。
さて、テレビの世界で低予算と戦ったのが、1963年元旦、 日本初めての30分テレビアニメとなった「鉄腕アトム」である。
いち早くアニメ産業化に成功した米国に比べ、徒弟制度を基本とする日本では家内制手工業の域を出ていない状況にあった。
それを一変させたのが1948年設立の東映動画(現・東映アニメーション)である。
1963年には宮崎駿も入社し、後のスタジオジブリ作品のルーツとなるような歴史的な名作を数多く生み出していく。
東映動画の劇場アニメは年に1本、これだけではもの足りないと、毎週放映のテレビアニメが求められるようになる。
実は「鉄腕アトム」の最大の功績はその内容ばかりではなく、コスト面で不可能といわれていたテレビアニメを実現させたところにある。
当時、東映動画では90分の劇場長編アニメを作るのにのべ350人ものスタッフを動員しており、90人ほどの作画スタッフによる制作ラインを2班作り、生産性を上げようと試みたがうまく行かなかった。
90分の劇場アニメを制作するだけでも四苦八苦しているのに、ケタ違い総時間数になるテレビアニメはあまりに非現実的な話であった。
制作スタッフに加えて、制作費も大きな問題だった。東映動画の劇場アニメは約90分で予算は約6千万円、単純計算だと30分番組なら2千万円。
それを年間50本作るなら現在価値で50億円という膨大な金額となる。
その不可能の壁に挑戦したのが手塚治虫の「鉄腕アトム」であった。
手塚が制作を決断した時点でスタッフはわずか20人ほど。週1回オンエアできる体制からはあまりにもかけ離れていた。
そんな時、アメリカでは映画館の人気者だった「ポパイ」「トムとジェリー」などが家庭での人気も集めていた。
アメリカでは動画とセル画の枚数を極端に減らし、背景にも同じ場面を何度も使うといった手法を取り入れて、動画など付加価値の低い作業を人件費の安いメキシコに外注するなどしていた。
彼らがとった手法が「リミテッドアニメーション」といわれるものであった。
手塚は、プロダクションを設立してテレビアニメーションに取り組むようになったが、「リミテッドアニメーション」については、その具体的な手法や制作工程、予算までの知識はなかったと思われる。
「鉄腕アトム」は制作費に加え、毎週の放映時間までに納品できるかということでが大きな問題だった。
そして、圧倒的な人手不足を補うため、制作現場では今までにない工夫がなされる。
そして、動画枚数のかからない、動かし方の幾つかのパターンを見つけ出していった。
フルアニメは1秒に24枚もしくは12枚の絵を使うのに、1秒に8枚の絵におさめる。
歌舞伎の見栄のように画像を静止させたり、クルマがよぎる時など、あまり動きのない場面は、動画1枚をずらしながら撮影する。
歩いている時などはキャラクターの動きを繰り返し、背景をスライドさせる。
顔と身体はそのままで、腕や足だけ動かしたり、セリフをしゃべる時に口だけ動かす。
また、ワンカットが長いと、キャラクターを動かさないといけないのでカットを短くして躍動感を出す、などである。
「鉄腕アトム」を制作する中から生まれたこれらの日本独自の制作スタイルは次第に主流となり、その後の生産性を高める原動力となったのである。
ディズニーのフルアニメーションの呪縛が強かった日本は、手塚の決断によって「リミテッドアニメーション」という新機軸に転換していく。
それは否が応でもそうせざるをえないという「不足の経済」が働いた好例でもある。

アメリカ映画「 ロッキー」も低予算の壁と戦った。
公開の2年前、当時28歳のシルベスター・スタローンはオーディション惨敗の無名俳優だった。
そんな中、妻は妊娠し、愛犬のエサ代にも困る生活。
スタローンは人生の岐路に立たされていた。
そんな中、スタローンは1975年のある日にボクシングヘビー級世界王座をテレビで見ていた。
モハメド・アリに無名のボクサー・ウェプナーが果敢に戦う様子を見て、スタローンは感銘を受けた。
名もなきボクサーが人生をかけた勝負を挑む。そこに自分を重ね合わせたスタローンは「俺に合う役がなければ自分で作ればいい」と3日間飲まず食わずで脚本を書き続けた。
そして30歳のピークを過ぎたボクサーが勝負に挑む脚本を描いた。
脚本が完成し最高の作品ができたと喜ぶスタローンだが、映画会社にツテもなく売り込むアテもない。
考えあぐねたスタローンは、オーディションで審査員に無理やり脚本を売り込むという策に出た。
その結果そこにいた二人のプロデューサーが食いつき、脚本を1千万円とか4千万円で買うと提案してきた。
しかしスタローンは、ただ脚本を買ってもらうのではなく、自分主演でロッキーを撮ることこそが絶対条件だと首をタテにふらなかった。
そんな様子に、ついにプロデューサーもスタローンに賭けて映画を撮ることを決めた。
しかし、予算はハリウッド大作映画の100万分の1の予算。ヘアメイクもおらず、主演女優も自分でメイクをし、ロッキー愛用のボロジャージはスタローンの私服だった。
そのため、撮影のためのセットは作れず全て実際のアパートや街でのロケで撮影を行う。
実はこのことが、ロッキー成功の大きな要因となった。なぜなら「不足の経済」が「街をひとつにする」という効果をもたらしたからだ。
例えば、物語のラストを飾るボクシングのシーンの撮影に入った時、予算がなくて観客を呼べないという事態になってしまった。
それは、人生のどん底にいたロッキーが、王者アポロとの命をかけた戦いに挑む、映画最大の山場であり、観客がいなくては場面に全く臨場感が出ない。
そこでプロデューサーが考えたのは、「会場に来てボクシングの試合を見たらフライドチキンをあげます」というポスターを街に貼ることだった。
撮影をしていた街・フィラデルフィアは当時貧富の差が激しく空腹の人間はごまんといた。
そのため、フライドチキンを配ることは効果的な施策だったのだ。
だがフライドチキン目当てで座ってくれるお客さんはせいぜい1~2時間ほどしか待てない。
ボクサーが試合の進行につれて顔を腫らす「特殊メイク」を入れる時間はない。
そこで考え付いたのは、「特殊メイクを全て施した最後のシーンから撮影する」ことだった。徐々に特殊メイクを取っていき、一番顔のキレイな1ラウンドーンを最後に撮影した。
だがフライドチキンは思わぬ効果をもたらした。街全体が映画製作応援してくれ、主人公がランニング中に露店からみかんを投げ渡すシーンは、脚本にもなくリアルに起きた出来事だった。
また、アイスケート上でロッキー夫婦二人だけで滑るシーンは、客をよぶ予算がとれなかったことから、スケート場が閉まった後に撮ったもので、それが二人の孤独と深い絆を描くこととなった。
これもまた、「不足の経済」がもたらした効果といってよい。
結局、3億円の制作費で撮影されたロッキーは全世界で341億円の興行成績を叩き出し、シルベスター・スタローンの名前を世界に知らしめることとなった。

最近の政治家の候補者選びは原則公募で、書類選考が中心になっている。
学歴や勤務先、ルックスだけで短期間で決めようとするため、とんでもない人物が国会に送られる。
こうして生まれた政治家が、小泉チルドレンや安倍チルドレンなどとよばれるが、「○○チルドレン」なるものが国民の代表とは、いかがなものか。
もうひとつの候補者選びは、地盤・看板・カバンをひきついだ2世・3世などを安易に候補者に立てることだが、これも見方によっては「チルドレン」。
自ら切り開いたものではなく、親から「引き継いだ」ものが選挙基盤となっている。
さらに、衆院の小選挙区比例代表並立制では、政党・内閣支持率が髙ければ、候補者の能力が伴わなくても当選できる。
したがって、党の方針に従っていれば、政治家が一応続けられる。
一方、後援団体が強いだけで当選してきたシニア政治家は、社会の潮流に鈍感で、昭和の振る舞いが抜けきらず「失言」を繰り返す。
チルドレンも上があんなだから許されると思っているかはしらないが、政治家らしからぬ言動が目立ちすぎる。
同じチルドレンでも、ジャニーズのオーディションは少々様子が違う。
少年たちは机や椅子を並べ、部屋を掃除し、子どもたちにジュースを配っていた作業服のおじさんを目撃する。
そのおじさんこそがジャニー社長で、その間ジャニー喜多川は、子どもたちの様子をうかがっていた。
さらにおじさんは、君たちのどがかわないかと、ジュースを持ってきて、相手の反応をよく観察した。
その後おもむろに、みんなの前に立って、「私が社長のジャニーです」と自己紹介をする。
オジサンが社長と知って態度を変えるような子は一番ダメ。ジャニー喜多川にはスターを見抜くのに、独特の視点があったと評されている。
政治の世界に戻ると、いわゆる”派閥政治”の時代は全国にアンテナを張り巡らせて時間と手間をかけて候補者を発掘していった。
そして候補者選びは、官僚OBや地方政治の実績や地域への貢献などの実績が大きくものをいった。
派閥政治は様々な批判を受けたけれども、少なくとも候補者のハードルを「子ども」にまでも下げることはしなかった。
現在の「○○チルドレン」が育ったのが、デジタル世代であるのも大きい。
SNSの言説は、ツイッターの140字に象徴されるように短いため、複雑な政策の説明などには不向きである。
政策うんぬんを説明するよりも、刺激的なことをSNSでつぶやいた方が早いというのは、トランプ大統領にも通じる。
「いいね!」や「リツイート」の数で評価が可視化されるため、ネットの「応援団」にうける過激な発言をしがちになる。
ネットでそうした言説を繰り返す人々自体が少数派であるのに、可視化によって、少数の支持しかないのに多数の支持を受けているかのような錯覚に陥る。
これでは「不足の経済」がまるで働かない「自足のチルドレン」という他はない。