アメリカ:都市名は歴史を語る

2025年1月 アメリカのバイデン大統領は、USスチールと日本の新日鉄との合併を禁止した。
民間で合意した合併案をアメリカ大統領が禁止するというのは異例で、合併禁止の理由が日米は一応同盟国なのに、「安全保障上の懸念」なのだという。
ただこの合併については、全米鉄鋼労働組合(USW)が反対を表明しており、世界的な保護主義の前兆ともとらえられ、日米の経済関係に大きなシコリをもたらすことは確実である。
USスチールは、ペンシルベニア州ピッツバーグに本社を置き、アメリカばかりか中央ヨーロッパに大きな生産拠点を持った製鉄会社である。
思い浮かんだのは、1978年のアカデミー賞受賞の映画「デェアハンター」、1960年代末ペンシルバニア州の小さな町が舞台でああった。
この町の製鉄所で働きつつ、休日には山で鹿狩りに興じるロシア系アメリカ人の平凡な日常が、ベトナム戦争に徴兵されたことで一変する。
この映画では戦闘シーンがほとんどないが、戦地に行く前と後の違いが、戦争の悲劇を物語っている。
ただ、戦地で人々がなす弾のはいった銃によるロシアンルーレットが、兵士たちの心を深く傷つけ、帰還後には鹿狩りを以前と同じ気持ちですることはできなくなる。
そして今日、「ラストベルト」(錆びた地域)における白人労働者の苦境は、彼らの青春が「ベトナム体験」に犯され、それが子孫にも受け継がれていることに思い至った。
この、映画の舞台がアメリカで大統領選を左右するといわれるペンシルバニア州というのも、日本の製鉄会社による買収問題に揺れることも、複雑な歴史感情抜きに考えることはできない。

アメリカの地名は建国当時の歴史を物語る地名が多い。例えば建国前、イギリスの植民地エリアはエリザベス女王のニックネームから「バージニア州」、フランスの植民地エリアは国王の名にちなんで「ルイジアナ州」などである。
ペンシルベニア州は、17世紀中ごろ、スウエーデン人とオランダ人がデラウェ川沿いに入植したのがこの地域の歴史のはじまりである。
1681年、「クエーカー教徒」のウイリアム・ペンはイギリスのチャールズ2世からこの土地の領有権をうけた。
彼の名ペンとラテン語のシルヴァニア(森林地帯)を合わせたものが襲名になった。
17世紀末、ペンシルヴァニア植民地の創設者ウィリアム・ペンが築こうとしたの理想の町が「フィラデルフィア」である。
整然とした格子状の道、中央広場と四方に配置された計五つの広場がある。
ペンによるこの都市整備の努力は、センター・シティとしてそのままの姿で残され、都市生活に活かされている。
こうした町の風景は、映画「ロッキー」第一作で、シルベスター・スタローンのランニングする風景として登場する。
この場面で、ロッキーが店員放り投げたオレンジを受け取るシーンがあったが、これはまったくのアドリブで、たまたまスタローンが受け止めることができてそれを採用したとのこと。
「フィラデルフィア」は、ギリシア語で「兄弟愛」を意味する街の名前もペン自身がつけたものである。
自分自身クエーカー教徒として幾度も投獄された経験をもつペンは、宗教上の弾圧を憎み、住むものみなが「同胞愛」で結ばれた自由の街にとの思いが込められたのである。
ウイリアム・ペンがフィラデルフィアの産みの親だとすれば、育ての親はベンジャミン・フランクリンである。
この街には、ペンシルバニア大学をはじめ、「国内最初」の様々な施設があるが、それらのほとんどすべてが、フランクリンの努力によって生まれたのである。
フランクリンは日本の渋沢栄一のように「公益に生きる人」であった。
アメリカ建国の舞台となった建物や名残を保存するために指定されたのが「インデペンデンス国立歴史公園」で、見どころは「リバティ・ベル・パヴィリオン」にある「自由の鐘」である。
州議会議長により、聖書の「地上全体と住む者すべてに自由を宣言せよ(レビ記25章)が鐘に刻まれた。
また、州議会の「公式の鐘」して、議会の召集に、選挙の投票の呼び掛けにと、鐘は鳴らされた。
1776年「アメリカの独立宣言」が、はじめて市民に知らされた際にも、この鐘が打ち鳴らされた。
後に、奴隷制度廃止論者達が、この鐘を奴隷解放のシンボルとして「自由の鐘」と呼び始め、南北戦争中にはアメリカ各地で展示され、自由への戦いを鼓舞する役目を果した。
ところが長く使用されるうちに「ひび割れ」が大きくなり 1846年2月12日、ジョージ・ワシントンの誕生日を記念して、鳴らされたのが「最後の鐘」の音となった。
ワシントンが南部の黒人奴隷の多い農場主であったことがよくなかったのだろうか。
またフィラデルフィアは、女優のグレース・ケリーの出身地である。
マンハッタンの「自由の女神像」に似た雰囲気のグレースケリーは、モナコのレーニエ3世に見そめられて公妃となるが、自由なき生活は性分にあわなかったようだ。1982年、自ら運転する自動車事故で南仏にて亡くなっている。

アメリカの名前は1502年アメリカ大陸を探検したアメリゴ・ベスプッチの名にちなんだものである。
それから約1世紀後の1608年、「マンハッタン」周辺に、オランダに雇われたイギリス人のヘンリー・ハドソンが現れる。
「ハドソン」は後に自分の名がつけられることになる川を北に遡って、今のオルバニー周辺まで探検し、インディアンと友好関係を結んで交易の道を開いた。
現在ニューヨーク州の州都となっているオルバニーは、17世紀にオランダの毛皮商が拓いた町なのである。
1620年11月にメイフラワー号で新大陸にやってきた最初の清教徒たちは、飢えと寒さと病気のために半数に減ってしまうほど悲惨な冬を過ごした。
そんな彼らにインディアンがダチョウの肉をふるまったことが、クリスマスやイースターと並ぶ祭り「サンクス・ギヴィングデイ」の始まりである。
その時、救いの手を差し伸べたのがインディアンの首長マサソイトであり、その後40年に渡り、最初のアメリカ人と彼らは平和共存したという。
「マサチューセッツ州」の名はこの「マサソイト」からきているといわれている。
1621年オランダ人は「西インド会社」を設立し、これを基盤に24年にはフォート・オレンジ(オルバニー)を建設、26年にはマンハッタン島をインディアンから購入して、島の南端に「ニューアムステルダム」を建設を始めることになる。
西インド会社は、植民地を作ることに金を払うことを喜ばず、この時の売買は後に「史上最大のバーゲン」とよばれることになる。
その後、オランダ人は次第に勢力を広げていったが、交易や課税問題をめぐって、インディアンとの間に紛争も生じた。
1653年には、インディアンのの侵攻を防ぐために、今日の「防壁」をめぐらせ、「ウォール街」とよばれた。
1664年、オランダ植民地はイギリスとの戦争との戦争に敗れて降伏、時のイギリス国王(チャールズ2世)の弟であるヨーク公が領主となったので、この市は「ニューヨーク」と改称された。
ヨーロッパではフランス革命からナポレオンの時代にかけて長い戦争状態にはいり、戦いはアメリカ植民地同志にも波及していった。
ニューヨークは戦略的に絶好の位置を占めていた。ニューヨークの船主たちは勇躍して船を出し、「イギリス海軍」のような恰好をつけて、実際はカリブ海でスペイン船などをねらう「海賊行為」にあけくれたのである。
「パイレーツ オブ カリビアン」の時代で、ニューヨーク港は、世界有数の「海賊集団」に溢れ、港に近い街は分捕り品のマーケットとなった。
ヨーク公は王立アフリカ会社を通じて奴隷貿易を積極的に奨励し、莫大な利益を上げ始めたのだ。
悪名高い大西洋上の「三角貿易」は南部植民地だけにむけられていたのではなく、アフリカ西岸から黒人を満載した奴隷船は、次々にニューヨーク港にもはいってきたのである。
、西インド諸島の貿易はほとんどアメリカが独占することになり、砂糖・綿花・コーヒーなどがニューヨーク港にあふれ、貿易港としては輸入輸出とも、1779年の時点で全米一の実績をあげていた。
ニューヨークは海賊が作った町といえる。
ケインズは英国資本家の第1号は1580年に元海賊のフランシス・ドレイクがスペインから略奪した財宝」を英国に持ち帰ったことに端を発しているという。
海賊も現在の投資家も本質的な部分では共通している。「企業買収」という行為は、略奪となんら変わるところがない。
また、企業の乗っ取り屋は、海賊と同じように他人のお金を自らの利益のために利用するため、「海賊資本主義」なる言葉もある。
19世紀には、大西洋からニューヨーク港に入る船は、リバティ島で「自由の女神」像がたつのを望見するようになる。
本体の高さ46メートル、台座の高さ47メートル、世界最大の像で、1886年に完成した。
そもそもニューヨークはイギリス王党派の拠点だったのであったが、ベンジャミンフランクリンの外交上の活躍もあって、まずフランスがついでスペインがイギリスに宣戦布告し、イギリスが次第に国際的に孤立するようになって、王党派の勢いはようやく下火となった。
そんなニューヨークにとって、長年難航していたフランス国民からの「自由の女神」の贈りモノは、うれしいニュースだった。
「自由の女神像」の製作者はフレデリック・オーギュスト・バルトルディであるが、もともとはフランスの7月革命を描いた「ラファエットの絵画」作品であったものだ。
それにしてもフランス人はなぜこんな巨大な女神像を造ってアメリカに贈ろうとしたのだろうか。
それはアメリカの独立革命の頃に遡る。アメリカ独立の理念に共感した若者たちは、フランス革命のリーダーであるラファイエットに代表されるように。続々として大西洋を越えて銃をとった。
それは、自分の国で実現できないことをアメリカに託したのかもしれない。
女神像は冠をつけ、足の下には圧政をあらわす足鎖を踏みつけ、左手に独立宣言書をかかえ、右手は上にあげて自由の松明をかかげている。

アメリカの西海岸、霧の中から頭を出すゴールデンゲート・ブリッジ、ビクトリア調の家並みの中を長く続く急坂と、海に浮かぶアルトラカズ島、さらにケーブルカーにしがみつく人々の姿、いずれもサンフランシスコを彩る風景である。
サンフランシスコは、数多くの映画の舞台を提供したが、エンバカルデロ・センターの吹き抜けの建造物を内側から見上げた時の壮観さは忘れがたい。
後にこの建物が、映画「タワーリング・インフェルノ」の撮影に使用されたと聞いて、当時は珍しかった「総ガラスばりエレベーター」のワンシーンを思いだした。
「エンバカルデロ」はスペイン語で「埠頭」を意味し、サンフランシスコ名物のケーブルカーの終点。
またアルトラカズ島が望む反対側の終点が世界的観光地「フィッシャーマンズワーフ」。
終点にて、運転手が降車して一人回転台(ターン・テーブル)をまわして、車体を方向転換する姿は、アメリカ人の「開拓者魂」を連想させた。
そしてこの町の名こそ「アッシジの聖フランチェスコ」にちなんだものである。
アッシジは、イタリアの中部の山の中腹にある村だが、なぜイタリアの聖人の名前が、北米太平洋岸のこの町の名前になっているのか。
そのヒントは、前述のエンバカルデロ駅のすぐそばを起点とする「ミッション・ストリート」にある。
このストリートが向かうのは、サンフランシスコで最もスペイン風の残る「ミッション地区」。
歴史を遡ると、1492年スペインのコロンブスによってアメリカ大陸が発見された。
スペインは、アステカ帝国とインカ帝国を滅ぼし、新世界の統治にあたって、今日のメキシコを中心とする「ヌエバ・エスパーニャ」(新スペインの意)およびペルーを拠点とした。
これらには、国王の代理としての「副王」がそれぞれ置かれ、副王領として統治されたのである。
その「ヌエバ・エスパーニャ」の辺境の地として、開拓されたのがカリフォルニアである。
スペインは、ローマ教皇の勅書により「パトロナート・レアル」と呼ばれる体制を確立していた。
この制度の下、スペインは辺境の開拓、植民を進めるにあたり「ミッション」を建設していった。
「ミッション」というのは、先住民のキリスト教化と、ヨーロッパ式の生活様式を教えるために先住民を集住させる場である。
まずはイエズス会士によってミッションが建設されていったが、イエズス会は絶対主義と啓蒙思想に対抗したため、1767年、「イエズス」会士が全スペイン領土内から追放されることとなった。
そのため、「フランシスコ会」が取って代わることとなり、カリフォルニアはフランシスコ会主導で「ミッション」が次々に築かれていった。
16C、宗教改革でカトリック教会の腐敗が追及され「プロテスタント(抗議する者)」が起きるか、それより4世紀前にカトリック内部においても刷新運動が起きていた。
聖フランチェスコは、中世ヨーロッパにおいて「フランシスコ会」を開いた修道士である。
フランチェスコは1182年生まれで、イタリアの中部アッシジきっての大商人で毛織物を商っていたが、様々な戦いで帰還する傷ついた兵士を目撃するなどするうちに、徹底した「清貧」のうちに生きようとした。
彼の生きた時代は、十字軍が派遣される12C教皇権絶頂期の時代で、この時代を描いた映画が「ブラザーサン・シスタームーン」(1972年)である。
映画では、フランチェスコがインノケンチウス3世を前に、新約聖書の冒頭の「マタイによる福音書6章」の「野の花、空の鳥を見よ」で始まる言葉をそらんじて読み上げ、教皇の心を動かして「フランシスコ会」を創立するまでのドラマであった。
当時の大修道院は、祈りの場というよりも工場を備えた大農場に近く、莫大な収益をあげながら税金は一文も払う必要がなかったから、その経営者である修道院長が飽食して肥満化し、風紀が弛緩するのも無理はなかった。
それだけに清貧に生きた修道士は、いつしか出身地の地名をつけて「アッシジのフランチェスコ」と呼ばれるようになる。
サンフランシスコの市庁舎から南に向かった辺りに、「ミッション」という地区がある。話されている言葉もほとんどスペイン語で、その中心を歩くと、まるで中南米の町にでも迷い込んだかのような錯覚に陥る。
ここに、「ミッション・ドローレス」として知られる教会があが、この教会こそは「サンフランシスコ」の起源でもあり、ちょうど、我が地元・福岡の繁華街「天神」がアクロス前の水鏡天満宮にちなんでつけられたのに似ている。
そして、この「ミッション」は正式名称を「サンフランシスコ・デ・アシス」というが。「アッシジの聖フランチェスコ」の意味なのである。
清貧の修道士「聖フランチェスコ」の名を冠したサンフランシスコという町が、黄金と鯨を求めてやってきた人々が築いたということは、この町に溢れる詩情もあって、大方の予想を裏切る事実のようだ。

低予算で作った映画であったため、試合のシーンで3列目以降が暗がりになってよくみえず、なぜか高齢者が多い。つまり3列目以降は人が座っていないのだ。
エキストラを多くは雇えず、プロデューサーが老人ホームに招待状を出して面白いアトラクションがあるから見に来ないかと、ホットドックなどにつられて集まった人々なのだという。
「ゼロ金利」が何を意味するか──。経済史を丹念に調べ続けた筆者が、その本質を鋭く説く。>>特集「歴史に学ぶ 戦争・インフレ・資本主義」はこちら 格差拡大は資本主義の必然  サラリーマン家庭に育ったのでは、資本家にはなれない。資本家になるには巨額の投資、つまり元手が必要だからだ。事業に成功したITベンチャーは資本家とはいえない。ベンチャーキャピタルやエンジェル(投資家)と称する資本家がいて、初めて起業できたからだ。  すると、今世界に存在する資本家は、なぜそうなれたのか。  英国の経済学者J・M・ケインズ(1883~1946年)は「英国資本家の第1号はフランシス・ドレイク(1543~96年)」と指摘している。ケインズは資本の蓄積が可能となったのは「1580年にドレイクがスペインから略奪した財宝」を英国に持ち帰ったことに端を発しているという。当時、欧州は価格革命の時代を迎えており、物価が上昇し実質賃金が大幅に下落、利潤が増加したからだ。すなわち、その本質は「利潤革命」だったのである。  ケインズは最初の資本蓄積は略奪(海賊資本主義)から始まったという(資本主義起源16、17世紀説)が、私は13世紀説をとる。大航海時代に活躍したドレイク提督が南米で海賊行為をしたり、英国の東インド会社(1600年設立、1858年解散)がインド支配を強めるなど、「より遠く」が資本極大化に不可欠な要素だとすれば、資本主義の原型は13世紀にさかのぼる。東インド会社はもともと12~13世紀に東方貿易にかかわっていた胡椒(こしょう)商人の組合を起源にするからだ。 「神の見えざる手」の誤解 「資本家精神は商業とともに出現する」。こう断言したのは、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862~1935年)だ。11世紀まで生活に必要な食糧を確保するための農業は、利潤追求の概念とは無縁だった。  ところが、12世紀に誕生した商人の意識や行動はそれまでの社会とはまるで異質なものだった。つまり、農業社会から商業社会への転換期となったのである。  ピレンヌは資本蓄積(資本主義)の主体はいつも「社会ののけ者」だったという。彼らの利潤動機は、「もうけるために売る。買う」。要するに利潤追求だ。資本主義の原点がここにある。現在の強欲資本主義、ビリオネア(保有資産10億ドル以上)に通じる。彼らも「確立された一般社会の外側にいるのけ者」だ。  資本主義の起源が、13世紀の強欲にまみれた「のけ者」や16世紀の海賊とするなら、最初から「持つ者」と「持たざる者」に二分されており、その格差が広がっていくのが資本主義の本性だろう。すると、現在存続する資本家は、何らかの形でサラリーマンでは手にできない財を生まれながらに持つ立場であったに違いない。アニマルスピリッツ旺盛な人物が、投資家から資金を集め、事業に成功した資本家も一部にはいるかもしれないが、それも元手をどうにかしなければ、資本家にはなれない。  ただ、その後の資本主義の歩みを振り返ると、1989年の米ソ連冷戦終結まではどうにか機能した。それは元来、資本主義が持つ過剰に資本を蒐集(しゅうしゅう… 残り1954文字(全文3254文字) イタリア人の探検家ジョバンニ・ヴェラツアーノがフランス国王に雇われ、インドへの航路を調べるために今のニューヨーク湾にさしかかり「マンハッタン島」を望見した。
ヴェラツアーノは、後に「ニューイングランド」とよばれる地域の海岸を探検し、フランス領とするようにフランソワ1世に報告していたが、当時スペインと戦争していたフランスにはそのような余裕はなかった。
次にマンハッタン周辺に姿を見せたのは、
紀元前3世紀、秦の始皇帝が「不老長寿」の薬を求めて各地に派遣したのに少し似て、現代の世界的超富裕層は、不老長寿は無理でも「宇宙」に新たな生存の場所を求めているのではないだろうか。
アマゾンCEOのジェフペゾスの「宇宙旅行」からの帰還にそんなことさえ思い至った。さもなければそんなに富を独占する必要があるのか。
現代の超巨大企業といえばGAFA(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン)がであるが、「ポストコロナ」においては、ワクチン開発の勝者が食い込むのではなかろうか。
世界で「オンライン医療」が広まることも予想され、巨大情報企業と医療企業が一体化すれば、さらに巨大化することも推測される。
さて歴史の中で「医療」を通じて巨大な力をもったケースとして、ルネサンス期中世イタリアにおいて大きな権力を握った「メディチ家」が思い浮かぶ。
実はメディチ家の名前「メディチ」は「メディソン」(薬品医療)の語源なのだ。
また、家紋には8つの丸薬(正露丸に似ている)を思わせるマークがあしらってあることからもそれがうかがえる。
メディチ家は、1200年頃フレンツェの北方約30キロに位置するムジェッロの山間部からやってきたものと考えられる。
それは、アッシジのフランチェスコが生きた時代。
その時代は、聖地エルサレム奪回の十字軍が始まったところで、フィレンツェからも多くのカトリック信者がこの聖なる戦いに参加した。
当然、十字軍の戦いで傷ついた兵士達も多く帰還したであろうから、体の傷をいやす「薬」や心をいやす「香料」などによって富を築いたことが推測される。
フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年~1429年)から始まる。
ジョバンニは銀行業で大成功を収め、メディチ家の地位を上昇させた。
そしてこの大銀行を受け継いだのが長男のコジモ・デ・メディチである。
コジモは政府の要職にはあまりつかず、あくまで一市民として陰からフィレンェの政治を支配した。メディチ銀行も繁栄し、これが彼の政治基盤を支えていた。
1464年8月に彼が死んだとき、共和国政府は「祖国の父」という尊称を彼に与えている。
コジモはまた文化のパトロネージとしても有名で、画家や彫刻家への援助も惜しまなかった。
コジモの孫にあたるロレンツォ・イル・マニフィコ(本名ロレンツォ・デ・メディチ)(1449年~1492年)は、20歳でメディチ家当主となるが、ロレンツォの時代がフィレンツェにおけるルネサンスの最盛期で、ボッティチェや若きミケランジェロも彼の庇護の下にあった。
ロレンツォを継いだ長男ピエロは、傲岸不遜な性格で政治にも経済にも関心を示さず、政治的な混乱が起こり、メディチ家は1494年から1512年までフィレンツェから離れることとなった。
しかし、亡命先で死んだピエロの弟で枢機卿ののジョバンニ・デ・メディチがローマ教皇「レオ10世」として選出され、ローマにおけるルネサンスの最盛期をもたらした。
レオ10世は、ラファエロやミケランジェロを任命し、サン・ピエトロ大聖堂の改修を進めた。
さらには、ルネサンスの三大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが出そろい、華々しく活躍した。
しかし、レオ10世は、芸術を愛好するあまり財政をひっ迫させる。大聖堂建設の名目で「免罪符」の販売を認めたことから、1517年から始まるマルティン・ルターによる「宗教改革運動」のきっかけを作った。
宗教改革を発端として、イタリアは宗教対立の争いの時代に入り、ルネサンスの終わりが始まる。
メディチ家の庶子であったジュリオがローマ法王に選出され、クレメンス7世として即位するものの、1527年には神聖ローマ皇帝カール5世がローマ略奪を行い、これをきっかけとして、イタリア・ルネサンスは終焉をむかえる。
その一方、市民革命の担い手となったピューリタンたちが新大陸に移住してアメリカを建国する。
海賊という言葉には暗いイメージがつきまとう。彼らは残忍な略篤を行う無法者、ゆすりで日銭を稼ぐやくざ者。
モラルのかけらもない冷酷な殺戮集団といえる。
一方で海賊に出資する側から見れば、海賊こそ創造的で、知力にあふれた戦略家であり、生産効率を最大化させる能力を持ち合わせた集団となる。
私有財産と利潤を前提とする資本主義制度にとっては、海賊は脅威であり挑戦的な存在であるが、海賊にとっての出資者は、事業を成功に導く なくてはならない存在であり、守り神ともいえる。
とはいえ 最近の研究では16世紀、17世紀、18世紀の海賊は、単に略奪行為を行っていたのではなく、海賊同志の個人的な関係を築いたことが明らかになっている。
皮肉にも、海賊は厳格なモラルに基づいて経済活動を行っていたのである。
既存の法律が通用しない彼らの集団内では、絶対的に守らなければならない法で自らを律する必要があった。
16世紀に船の建造技術や航海技術が進歩し、海を越えた貿易が盛んになると、海賊は全盛期を迎える。
とりわけスペインによる新大陸での銀や金の発見後、カリブ海に出没するジョン・ホーキンズやフランシス・ドレークのような海賊達の名がしられるようになる。
当時彼らは密輸品を横流しすることで生計をたてていたが、拠点をおわれて海賊になる。
スペインから海上覇権を奪回するために、イギリスやオランダが交戦を続ける中、彼らには政府からの私掠船員(プライヴァンティア)として「免許状」が下付された。
政府から免許状が発行されたことで、彼らは海軍に所属する「私兵」と認められたのである。
すなわち16世紀における略奪行為は、貿易活動や軍事活動の一環として位置付けられていたのである。
日本軍がマレー半島に進出した時、馬賊(盗賊団)として活動していた日本人・谷豊を日本軍の神尾軍の付属としたことを思いだす。
当時谷豊は、「ハリマオ」(マレーの虎)と呼ばれており、戦虫から映画化され戦後はテレビドラマかされた。
海賊船には、通常の貿易会社と同様に商人が同船していたし、略奪品は投資家に配当として分配された。
つまり海賊は、略奪を前提とした貿易をおこなっていたのである。
「ウォール街」は、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンの南端部に位置する細いストリートの一つ。ブロードウェイから東へイースト・リバーに下る場所にある。
アメリカの金融業界や証券市場を指す比喩としての用法もある。
1652年、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の植民地ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を管轄していたオランダ西インド会社が、インディアンや、ニューイングランドに入植したイギリス人からの攻撃に備えて、木材などを利用して築いた防護壁(wall)に由来する。もっとも実際の戦闘で利用されることはなく、1699年に解体された。
1792年、材木の取引のために商人や投資家が集まり非公式に取引所を開設した。これが「ニューヨーク証券取引所」のはじまりである。
ウォール街』(Wall Street)は、1987年公開のアメリカ映画。出世願望の強い若手証券マンと、冷酷かつ貪欲な投資家による企業買収を描いた金融サスペンス。
アメリカで2009年のオバマ政権発足直後に始まった保守派の市民運動。連邦政府が課す重い税や、オバマケアをはじめとする財政支出拡大に反発し、「小さな政府」を掲げるグループである。
「ティーパーティー(茶会)」の呼称は、1773年、同年制定された茶法に反対したボストンの急進派が、東インド会社の茶船を襲撃した「ボストン茶会事件」に由来する。
2010年11月の中間選挙では、ティーパーティーの支持を得た共和党候補が多数当選した。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」(マタイによる福音書6章)。
ポスト・コロナ」の世界で君臨するであろう「ワクチンの開発企業」について想像するうちに、恰好のSF映画があるのに思い至った。
その映画とは「ブレードランナー」(1978年公開)である。
映画「ブレードランナー」で描かれた世界では、酸性雨ふる荒廃した世界に、まるでマヤのピラミッドのごとき巨大企業が屹立する。
この「酸性雨」によって荒廃した世界を、新型コロナを超える「パンデミック」に置き換えれば、フィクションとばかりはいいきれない。
映画の舞台は、映画制作から40年後のロサンゼルス。すでに40年を経過したしたため、2017年公開のリニューアル版は「ブレードランナー2049」となっている。
荒廃した街に日本の屋台風の建造物や、ネオンに日本の芸者が現われ、胃腸薬の「強力わかもと」の広告が登場するなど、混沌とした風景が広がる。
ちなみに、ロスアンジェルスの「ロス(Los)」は冠詞で、スペイン語の「アンヘル(Angel)」の複数形がアンヘレス(天使たち)、これを英語風に発音してロサンゼルス、「天使たちがいる町」という意味。
ストーリーは、人間が作った宇宙の植民地からレプリカント4体が逃亡し地球に帰還した。
レプリカントを捕獲する“ブレードランナー”の一員、デッカードが捜査にあたるが、「レプリカント」という存在はいかにもSF。
それは人造人間でありながら、人間のこころをもちたいという、いわば「ピノッキオ」の悲哀を抱く。
ハリソン・フォード演じる警察官が主人公だが、政府や国家の影は見えず、代わりに君臨するのは、荘厳な神殿のように君臨する「タイレル・コーポレーション」。それは現在のGAFA以上に巨大な力をもっているはずだ。なにしろ宇宙開拓の前線に送り込まれた遺伝子工学の産物「レプリカント」が奴隷労働者としてこの時代の産業の底辺を支えているからだ。
原作の「アンドロイド」という言葉は機械っぽく、生物学的に造られた「人造人間」には別の名前が必要だと、クローン技術用語の「複製(レプリケーション)」から「レプリカント」と名付けられたという。
映画「ブレードランナー」の原作はフィリップ・K・ディックが1968年に発表した小説「アンドロイド電気羊の夢を見るか」で、舞台は当時ディックが住んでいた未来の「サンフランシスコ」。
映画のタイトルとなった「ブレードランナー」のBladeは、「手術用のメス」、Runnerは、「密売人」のスラングである。

人種の多様なアメリカでは、日本人のように富裕層をイメージするよりまず先に人種をイメージするところから始まる。 たとえば、黒人より白人のほうが豊かとか、そういうざっくりしたイメージからだ。
そんな中でも、日本人がアメリカに観光するときに訪れるロサンゼルスの中心部やニューヨークの中心部ではなく、郊外に住む富裕層の白人をWASP(ホワイト・アングロサクソン・サバーバン(郊外居住者層)・プロテスタント)と言う。
ちなみに、アメリカ合衆国大統領の中には、歴史的にWASPの男性が多いと言われている。特にブッシュ家と、イギリス王室は繋がっているという話があったり、このWASPは、イギリスからアメリカに渡ってきた人が多いとされている。
アメリカでエスタブリッシュメントといえば、WASPを指すことが多い。
アメリカにおける王室・皇室的なイメージになっている王家をまとめてみた。
ジェームス・ルーズベルト3世(弁護士)は、フランクリン・ルーズベルトの孫にあたる。以下、映像を発見。ルーズベルト家はブランドであり、それはこの孫にも受け継がれているようである。
ジェームズ・ルーズベルト3世の父は、フランクリン・ルーズベルトの長男、ジェームズ・ルーズベルト2世である。
ちなみにルーズベルト家といえば、どうしてもフランクリン・ルーズベルトが有名だけれども、このファミリーの当主は、ジェームズ・ルーズベルト (1760年 – 1847年)である。
ヒルトン家は比較的新しい家系だ。この家系が財を成すのは、コンラッド・ヒルトン(1887年12月25日)の代から始まる。
つまり、日本でも知名度の高いパリス・ヒルトンの祖父にあたる人物である。ここでは、コンラッドについて少し触れていきたいと思う。
彼は、現在のニューメキシコ州のサン・アントニオで、ノルウェー系ドイツ人移民の息子として生まれた。つまり、パリスヒルトンは、北欧系の白人だということが、ここでわかる。
コンラッドは、ニューメキシコ軍人養成学校で教育を受けた後、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、従軍してフランスへ送られた。という過去を持つが、その後、銀行家になろうと試み、試行錯誤を繰り返すがうまくいかず、1919年にモブレー・ホテルを買収したことで成功し、そこからホテル経営に乗り出すことになる。
1930年→エル・パソ・ヒルトン(現プラザ・ホテル)を開業(ヒルトン・ホテル最初の高級ホテルとして)。その後、ヒルトン・ホテル、そして、ヒルトンブランドの中でも最上級のコンラッド・ホテルなどを開業。
O・J・シンプソンの友人でO・J・シンプソン事件裁判の弁護士団の1人として知られているロバート・カーダシアンから始まったファミリー。
ト・カーダシアンの4人娘には、超がつくほどの美人が多く、このファミリーそのものがブランド化している。
ティッシュ家は、日本ではほとんど知られていない。インターネット上にもほとんど話題にならないものの、英語圏では知っている人は知っている名家である。
子孫は、アンドリュー・ティッシュである。
ヴァンダービルト家とは、アメリカ合衆国で19世紀前半に社会的に有名となった鉄道王のオランダ系アメリカ人一族である。
アンダーソン・クーパーは、ジャーナリスト、アンカーマン、作家であり、彼の母親、グロリア・ヴァンダービルト(芸術家、作家、女優)に似て顔立ちも整っている。
ローダ家とは、アメリカ合衆国(ニューヨーク)に本拠を置く化粧品会社であるエスティローダーを作り上げた一族である。
もともとこのブランドは、エスティ・ローダー(1906年7月1日 - 2004年4月24日)という女性が創設したわけだけれども現在は、エスティ・ローダの息子、レオナルド・ローダーが名誉会長。
ちなみにエスティ・ローダの会長は、レオナルド・ローダーの息子であるウィリアム・P・ローダーである。
フォード・モーターは、アメリカの自動車メーカーである。いわゆるビッグスリーの一つである。
現在のトランプ家を作り上げたのは、トランプ大統領の祖父にあたる、フレデリック・トランプからである。
フレデリック・トランプ(1869年3月14日 – 1918年5月27日)は、ドイツ出身のアメリカの実業家である。
フレデリック・トランプはシアトルとクロンダイクという好景気にわいた街に拠点を置き、レストランと宿泊施設の経営でその財産を築いたとされている。
1885年10月7日、16歳のトランプはドイツ北部のブレーメンを発ち、蒸気船アイダー号でアメリカを目指した。とされているように、トランプの祖父は、そもそもアメリカで生まれたわけではなかった。
つまり現在のトランプ家に財産を受け継いだのは、このフレデリック・トランプの経済的成功があったからかもしれない。
ルパート・マードック(1931年3月11日~)は、オーストラリア系アメリカ人の実業家。特にメディア王として知られる。
特に世界的にも有名な・21世紀フォックス・ニューズ・コーポレーションを抑えている。
特に、21世紀フォックスは映画の最初にでてくることで有名なので知っている人は多いと思う。
けれども、ニューズ・コーポレーションに関してはあまり知られていない。簡単に言ってしまえば、アメリカ・イギリス・オーストラリアの代表的な出版社をすべて抑えているコングリマット企業である。
ア人なので、長年オーストラリアを拠点としていたが、1986年にアメリカ合衆国でFOXテレビを創設した際に、連邦通信規則との関係でアメリカに帰化した。とされている。
彼には6人の子どもがいて、メディアの力が人に与える影響は大きいことから、かなり力を持ったファミリーであることは間違いない。
コーク・インダストリーズというコングロマリット(複合企業)がある。石油、エネルギー、アスファルト、化学繊維、天然ガス、プラスチック、金融、鉱物、パルプ紙および紙製品などの分野で活躍しているので、一般の人は聞きもしない会社かもしれない。
創業以来、コーク家が支配しているこの複合企業は現在、創業者、フレッド・コークの息子2人(チャールズ・コーク、デイビッド・コークによって運営されている。アメリカで二番目に巨大な非公開複合企業と呼ばれ、コーク・インダストリーズは目立たない企業ではあるが、その分、強い力を持っており、チャールズ・コークは、2018年のフォーブス長者番付では、8位となっている。
ウォルマートの創業者は、サム・ウォルトン(1918年3月29日-1992年4月5日)であり、世界最大の小売業者にまで上りつめた。
現在、世界で最も裕福なアメリカの一族のうちのひとつとしても知られる。一時期、フォーブスという雑誌で、1985年から1988年までウォルトンを世界一の金持ちとして紹介されたこともあったり、奨学金制度の創設など慈善事業にも積極的に参加したことから、1992年には大統領自由勲章を受章している。
創業者のウォルトンがこの世を去ってから、息子のS・ロブソン・ウォルトンが会長に就任(1992–2015)。その後、Doug McMillon が、CEOを務めている。(ウォルトン家ではない人物)。
また、ウォルトンの曾孫でもある Lukas Walton は、メディアにはあまり出てこないが、フェイスブックのCEOマークザッカーバーグなどと並び、最年少の億万長者部門にもよく登場する。
メリカでは、ケネディ家やロックフェラー家と並ぶ名門として知られ、ブッシュ家の伝記を著した作家ピーター・シュワイツァーは「合衆国の歴史において最も成功した政治王朝」と評している。
・ジョージ・H・W・ブッシュ(1989年 - 1993年) ・ジョージ・W・ブッシュ(2001年 - 2009年) と、親子で長い間アメリカでブッシュ王朝が続いたからだ。一方で、アメリカ同時多発テロ事件の自作自演などの疑惑もいまだに根強く残っている。
95年にアメリカとベトナムを国交正常化させた。
ビル・クリントン(1993年1月20日 – 2001年1月20日)は、8年近く大統領を務め、しかも、その後、その妻のヒラリー・クリントンが、米国初の女性大統領となる!というところまで上り詰めたのがこの家系のブランド力を引き上げているのかもしれない。
ちなみにビル・クリントンとヒラリー・クリントンの間にできた娘、チェルシー・クリントンは、トランプの娘イバンカ・トランプとも友人関係にあるというのは、有名な話である。
ちなみにビル・クリントンの父ウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニアは、貧しい家系で育ったので、もともと貴族階級でもなかったことから、ここまでアメリカで名を遺すような家系になったということ自体、凄いのかもしれない。
この家系は、思った以上に古い。ウィキペディアで調べるのにも、結構時間がかかったほどだ。(英語版でも、①②③の情報は探せなかった…。けれども、祖先(①の Johann Peter Rockefeller)が、フランス系のユグノー出身であり、アメリカに17世紀にやってきたと言われている。つまり1600年代ということ。そう考えると、意外にもロスチャイルド家よりも古いのかも。
「ロスチャイルドの五家(フランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリ)。現在のロックフェラー家の偉大さを作ったのは、⑥のジョン・ロックフェラーからであり、ジョン・ロックフェラーは、スタンダード・オイル社を創業し、同社は石油市場を独占し、アメリカ初のトラストを結成した。石油業界を変革し、現代的フィランソロピーの構造を定義し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールした。
アメリカの王族(ロイヤルファミリー)とも形容されているケネディ家。イギリスのように王室がないアメリカでは、とにかくどこかの名家を王室に例えたいのだろう。
もともと貴族階級でもない貧しい家系であり、パトリック・J・ケネディの息子ジョセフ・P・ケネディがこの家系を名家にしたと言われている。
その後、ケネディ家からは著名な政治家や実業家が続々輩出している。その分、ケネディ家の多くが暗殺されてしまうという、不可解な出来事も、この家系を名門にしている理由なのかもしれない。
キャロライン・ケネディ女史が、トランプ政権に移行するに伴って日本の駐日アメリカ合衆国大使を離れる際に、日本国民に対して語っている動画だ。
・ローレン家・アダムズ家・カーネギー家・マルサリス家 ・マニング家・メロン家・ハースト家・プリツカー家 ・マードック家・エリソン家(オラクル)・コッポラ家 ・バリモア家(芸能)。