帽子とお菓子と建築学

最近、NHK番組「チコちゃんに叱られる」で、「パイロットや警察官の帽子はどうして上に出っ張っているのか」という疑問がテーマになっていた。
チコちゃんの答えは、「天使の輪がのっかったから」であった。
警察官、パイロット、自衛官、駅員などが被っているあの帽子は総じて「官帽」と呼ばれる。
こうした職業は、人々の安全や命と関わる職業であるために、特に天使が味方してくれなければ職務を全う出来ないということであろうか。
なにしろ、そのルーツとされているのがルネッサンス期のヨーロッパの聖職者 (神父、牧師、司祭)が被っていた帽子。当時のものは、ツバにあたる部分がなく、上部に大きなふくらみがあった。
その上部の膨らみは天使の輪 (=光輪)を表現しているのだという。
そういえば仏像にも光輪があり、仏像の頭髪も丸く巻き上げ風で「螺髪(らはつ)」とよばれている。
現代人で、「髪を高く盛れば盛るほど神に近づく」と言ったのは、米国の歌手で女優のドリー・パートン。
彼女の代表曲「I Will Always Love You」は1974年にリリースされたバラードで、1992年にはホイットニー・ヒューストンがこの曲をカバーし、映画『ボディガード』のサウンドトラックとして大ヒットした。バートンは、曲ばかりではなく、数々の名言で知られる人物である。
時代をヨーロッパ中世に遡ると、フランス国王ルイ13世は、健康と男らしさの象徴である豊かな長髪を誇っていたが、23歳という若さで早くも薄毛が目立ち始めた。
そこで彼は、長い巻き毛のかつらをかぶるようになった。すると、宮廷のエリートたちもこれを真似しはじめ、やがてかつらは高い地位を象徴するアイテムになった。
ルイ13世によって流行り始めたかつらをさらに新たな”高み”に引き上げたのが、息子のルイ14世。
子どもの頃から茶色い巻き毛を長く伸ばしていたルイ14世は、薄毛になる前から量を多く見せるためにつけ毛をしていた。
しかし、父親と同じように髪が薄くなってくると、それを隠すためにかつらをつけるようになった。
30代に入ると、中途半端な小細工をやめ、お抱え理容師のブノワ・ビネに作らせた細かいカールの「フルボトム」と呼ばれる長いかつらを常に着用するようになった。
ルイ14世は48人のかつら職人を雇い、編んだ髪を絹糸と合わせて細かい模様を作るなど、かつら作りの技術に革新をもたらした。
ルイ14世から広まった重いフルボトムのかつらを作るには、約10人分の毛髪が必要で、非常に手間がかかったという。
この頃にはフランスは経済力と軍事力をつけ、かつてのヨーロッパの強国だったスペインをしのぐ存在となっていた。
そのためルイ14世の宮廷は、ヨーロッパ上流階級のファッションに広く影響を与えた。
派手な暮らしぶりなどから「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、男女関係なく、かつらを宮廷ファッションの必須アクセサリーにした。
ルイ14世が、流れるような長い巻き毛のかつらをつけ始めると、周辺国の王から平民まで、ヨーロッパ中がこれを真似したのである。
さて、ヨーロッパ人が頭にかぶるもので我々に馴染のあるものがある。それは、洋食のコックが被る長高の帽子である。
さて18世紀のフランス料理をリードしていたアントン・カレームは、コックのスタイルも確立した人物でもあった。
ある時、彼がいつものように仕事をしていたところ客が被っていた白いシルクハットをとても気に入り、その客のマネをして厨房内でも被り始めたのがきっかけと言われている。
彼は、「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれるくらい有名な料理人だったため世界中の料理人が彼のマネをして、それが今では一般的になったのである。
アントナン・カレームと同時期にフランスには、オーギュスト・エスコフィエという料理人がいた。
彼もまた、現在のフランス料理のスタイルを確立したと言われるほどの有名な料理人である。
そんな彼は、身長が157cmしかなく、身長の高いフランス人の中に入るととても低く見えた。
そんな背の低さを隠すために、高さのあるコック帽を被り始めたと言われている。
日本でコック帽は独自に進化した。長さによって料理人としての地位を表しているのである。
長いコック帽の起源であるフランスには、日本のような地位をコック帽の長さで表すという習慣はない。その点で、日本独自に進化したといえる。
2025年2月に閉館する帝国ホテルでは、コック帽に関して次のような規定があった。
見習い 18cm・7年以上のキャリアを持つ料理人 23cm・料理長またはそれ以上 35cm。
料理長の帽子は35cmもあるのは、動きにくそうだが、客の前に出る時だけ、規定の長さの帽子を被ることも多いという。
帝国ホテルでこの長さのコック帽を被るようになったのが、1930年である。
“ムッシュ”の愛称で親しまれた、帝国ホテル第11代総料理長となるの村上信夫1927年から3年間、帝国ホテルからフランスのリッツホテルに留学した。
そこで、料理長エスコフィエが長いコック帽を被っていたことに影響を受け日本に帰ってから長いコック帽を導入したのが始まりである。
ちなみに、長さコック帽には、地位を表すだけでなく、実用的なメリットもある。
ひとつは、通気性が良いこと、もうひとつは料理長の場所がすぐわかることである。

ナポレオン戦争後のウイーン会議は「会議は踊るされど進まず」といわれるくらいで、9ヶ月もの長期におよんだ。
会議でフランス外相タレーランがもちだしたのは、フランスにとって都合の良い「正統主義」という理屈。
フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」つまり正しい状態である。だから、すべてを革命前の状態に戻そう。
したがって、フランスの領土は減らさないし、賠償金も支払わない、というわけである。
それではおかしいといわれれば、タレーランはフランスも被害者で、悪いのはフランスではなくて、革命である。
革命によって、国王ルイ16世一家は殺されたし、自分達フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われた。
悪いのはあくまでも革命であり、市民階級の連中なのだと返した。
フランス革命では、貴族から解放された料理人が数多くいて、洗練されたフランス料理を広げていく。
敗戦で不利な立場に追い込まれたタレーランは、少しでも会議を有利に運ぼうとひとりの料理人にとびきりのフランス料理をふるまわせた。
このタレーランに料理人として「白羽の矢」があてられたのが、前述のアントナン・カレームである。
この会議はある部分、美食家・タレーランの「料理外交」の見せ所であり、タレーランが会議を意のままに操ったのには、「料理」のちからがあったればこそである。
パリで子沢山の貧しい家庭に生まれたカレームは、10歳になるかならないかのうちに、貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出された。
生きていくため安食堂に住み込んで見習いとして働き始める。
1798年、後にパトロンになるタレーラン邸にも出入りしていたパテシエのシルヴァン・バイイに弟子入りし、頭角を表わす。
カレームは、バイイによって「アミアンの和約成立記念祝宴」のデザートを任される大抜擢を受ける。 カレームの作品として今日最もよく知られているのは、糸状のあめとアーモンドペーストを使って建築物や風景を模した「ピエス・モンテ」と呼ばれる”大型の装飾菓子”であろう。
ところでカレームのスタートはパティシエである。
1798年、カレームは酒場を辞め、一流パティシエであるシルヴァン・バイイの助手となった。
ここで彼はパティシエとしての技術を習得し、細工菓子で見事な構造物を作れるようになった。
また、食だけでなく建築への飽くなき探究心を満たすため、夜は独学で読み書きを学んだ。
バイイに国立図書館の版画・彫刻室を訪れることを勧められたカレームは、そこで城やピラミッド、噴水などの建築物をスケッチし、自身の作品のインスピレーションを得た。
タレーランはカレームをたびたび激励し、タレーランのもとでカレームは料理の考案に没頭した。
つまりカレームにとってタレーランは、単にパトロンにとどまらず、課題を課して結果を吟味する「審判者」としての役割も兼ねていたのだ。
カレームは、重複した料理のない、かつ季節物の食材のみを使用した1年間のメニューを作る事をタレーランに命じられ、台所で試行錯誤を続けるはめになる。
そしてウイーン会議で出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名は一躍有名になった。
さてウイーン会議のほうだが、タレーランの提供する料理も一役かって「正統主義」を受け入れる。
そしてウィーン会議が終わった時、ヨーロッパの地図と上流階級の食べる料理は「刷新」されることになった。
カレームは料理の考案や作成のみならず著作にも情熱を燃やし、フランス料理レシピの百科事典的な書籍をいくつか書いている。
カレームは、ウイーン会議に参加した各国に招かれ料理長を歴任するなどして、1833年パリにおいて48歳で没した。
フランス革命以後、貴族が没落したことによって「お抱え」の料理人が職を失い、その結果、彼らは街でレストランを開くようになった。
こうして、フランス宮廷料理は一般へと門戸を広げていくのだが、カレームの書いたレシピこそ彼らのバイブルとなった。
カレームは、フランスで料理人としての名声を博すと、その後6年間富豪ロスチャイルド家で働いた経験がカレームを大きく飛躍させた。
というのも経済的な制約から完全に自由となり、あらん限りの想像力を駆使して高級料理を作った。
ロスチャイルド家。新興ブルジョワ上流社会のシンボルだっ たロスチャイルドの個人資産は莫大で、国王の10倍もの富を築いた大富豪は雇用条件として欧州最高の食卓、有給休暇、高給の3条件を提示した。
カレームは残された時間を執筆に割ける有給休暇の条件を喜んだという。
ロスチャイルド家の正餐は少人数の招待客なら豪邸のダイニング、3千人規模の大レセプションなら庭園の舞踏会場で開催された。
招待客は国内外の賓客だがユゴーやバルザックシ、ョ パンやリストなど各界の著名人も含まれた。
前述のように菓子職人兼料理人として建築学から構想を得て創造し、20世紀的なテーマである料理術の複雑化と同時に簡素化という課題に取り組んだ。
またスープを基本とするメニュー・スタイルを「新しい料理」と呼び、 何百種類のソースと冷菜料理を発明し、フランス式サービスからロシア式サービスへの移行を推進したのである。
カレームは、様々な顔をもつ。優秀なオーガナイザーとしてシャンパーニュ地方で開催された伝説的なヴェルテュの公式晩餐会を陣頭指揮したり、パリのシャンゼリゼで 1万人が出席した大レセプションのシェフとして活躍した。
作家としては多数の料理書を出版し、フランス料理の「教科書」となった。
1833年、「天才」という宿命の炎に焼き尽された50年の生涯を閉じた。

能登半島地震の発生から約1年がたったが、つらい避難所生活を一変させた、あるアイテムが注目されている。
完成までわずか15分で子供でも組み立てられる「インスタントハウス」である。
この「インスタントハウス」を作ったのは、名古屋工業大学の北川啓介教授である。
段ボールの「ダブル」というものを使っており、シングルに比べて構造的にも強くなるし、断熱性もある。
屋根の形にこだわったのは、屋根は家ができてくる「象徴」ともなるからだ。
インスタントハウスを作り、被災地に届け続けることになった北川だが、そのきっかけは、13年前の東日本大震災で出会った子供たちのある言葉だった。
そして、節目となったのが2011年3月11日の東日本大震災であった。
「建築の専門家の視点で、被災地を見て欲しい」という新聞社の依頼で、いくつもの現場を見て回った北川は、とある避難所でふたりの子供にあった。
小学校3年生と4年生の子が、その間ずっとついていてくれた。きっと彼らも、話を聞いてくれる人をずっと求めていたのだろう。
避難所の視察を終え、その場を後にしようとした時、キュッて北川の指を握って、一緒に来てと言って、運動場に連れて行いった。
そして、「なんで仮設住宅ができるまで、3カ月も半年も待たなきゃいけないの」「先生、大学の先生なんでしょ。だったら、来週建ててよ」と言ったという。
北川はその言葉に打ちのめされ、避難所を後にした。
北川の実家は、名古屋城に近くで営業している、1964年創業の名店「尾張菓子きた川」である。
名古屋工業大学、建築学科に進んだ。
課題では、和菓子の材料で作った美術館を設計した建築模型を提出したこともあった。
「人間が持つ曲線の美しさが表現しやすい」という理由で、曲線を描く壁から、周囲の樹木まで、すべて、和菓子の材料で作った。
指導教官から素晴らしいと褒められ、そのまま大学に残り、研究者の道へと進んだ。
そして節目となったのが東日本大震災であった。
避難用のハウスを作るべく様々な失敗を繰り返すこと約5年、北川は、あるとき理想の構造をパン屋さんで見つけた。 それは、「フランスパン」だった。
大きいフランスパンは、中はふわふわで、外が硬い。これこそがベストな構成だと気がついた。
ならば、そんな構造を作ればいいのではと考え、「試作品」を作った。内部はウレタン塗装を施し、塗装費用をとにかく安くおさえた。
ウレタン樹脂を用いた塗料は、柔軟性があり、塗装した素材との密着度が高い。
また、光沢がほかの塗料よりも強く、塗装面はツヤのある仕上がりになる。
大きなテント状のシートを送風機で膨らまし、その内壁に発泡性の断熱材を吹き付けていく。それは、柱も壁もない、前代未聞の建築物だった。
出来たよと言って触ったら、フランスパン触った時と同じ感触がした。それを4人でみんながうれしそうに運んでくれた。
その時、北川は建築やっていて、本当に良かったと思ったという。
この時の「試作品」をさらに進化させたのが、いま被災地で使われている屋外型の「インスタントハウス」である。原価は一つ15万円ほど、しかもわずか1時間で完成する。そのインスタントハウスは、まるで美味しそうな大福餅のようだ。
和菓子職人の家に生まれ、フランスパンからインスピレーションを得て、避難用の「インスタントハウス」を作った日本人。
フランス王宮での外国要人の目と味で楽しませるために巨大な装飾菓子と料理でうならせたフランス人パテシェ。
まったくことなる時代と世界に生き、異なる目的に向けた探究心とインスピレーションの源が共に「建築」であったことが興味深い。