聖書の言葉より(不正の富を使ってでも)

ペテロが信徒にあてた手紙に「あなたがたの内にある望について説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」(ペテロ第一の手紙3章)とある。
この聖句の中に、よく似た「説明」「弁明」「申し開き」という言葉があって、ニュアンスの違いが英語バージョンにも反映されている。
中でも注目したのが「申し開き」で、英語では、”account for” あるいは、”give account for” というかたちで使われる。
この「アカウント」は、会計用語でもある。したがって、単なる事情を説明するとはちがって、幾分「社会性」を帯びた言葉にも聞こえる。
最近では、「アカウント」といえば、インターネットの様々のサービスを受ける際に必ず「登録」を求められるものである。
また、この「アカウント」は、英語版聖書の中で、イエスが語った「たとえ」の中にもでてくる。
聖書には、有名な「タラントの譬え」(マタイの福音書25章)があるが、この中に「申し開きする」場面がある。
園の主人が、しもべに能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅にでるのだが、旅から帰還した主人に、各人は自がらのタラントの使い道について申し開きをしなけならない。
みなそれぞれに、タラントを増やしたのだが、1タラントという一番少ないお金を受けた者はそれを地に埋めてかくして置いたため、厳しく罰せられたという話でである。
このタラントという貨幣単位が「タレント(才能)」という言葉の由来である。
さて、新約聖書のイエスが語った「たとえ」話のなかで、明白に「会計報告」(アカウント)という言葉が出てくる話がある。
実はこのたとえ、難解なのか敬遠されがちで、まともな解説もない。
//ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦100石です』と答えた。
これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、80石と書き変えなさい』と言った。
ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。
そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう//(ルカの福音書16章)。
このたとえ話は、世の中の知恵の働く人々の話なのかと思いきや、一転して「そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを”永遠のすまい”に迎えてくれるであろう」と天国の話に転換している。
また、「この世の子ら」と「光の子ら」の対比で、一体何を伝えようとしているのだろう。
イエスのたとえ話のなかには、「負債」に関する次のような話もある。
//そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう//(マタイの福音書18章)。
このたとえ話からもある程度推察できるが、聖書全般をよむと、「負債」とは人間が神に対して負っているもの、つまり「罪」ということである。
最初の「不正の富を使っても」のたとえ話で、主人の財産の浪費が発覚して追い出される家令がやったこととは何か。
主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人の証書にある負債「油百樽」を「油五十樽」と書き変え、次に、もうひとりのには、負債「麦100石」を「麦80石」と書き変えて、主人に報告しようとしたのである。
その動機は、彼らの負債を軽くして”貸し”を作っておけば、自分が仕事を失っても、彼らが家に迎えてくれるかもしれないと思ったからである。
この家令は、第二の「70倍赦しなさい」のたとえ話に登場する”僕”よりも温情にあふれてはいる。
家令が主人に対して不正を犯してでも負債者を助けて友をつくろうとしたのに対して、後者の”僕”は仲間を搾り取っても、主人に対する義務を果たそうとしている。
興味深いのは、前者の家令は主人に褒められ、後者の僕は主人の怒りを招いている点である。
さて、「不正の富を使っても」のたとえ話の最大のカギは、家令が負債者の負担を軽く主人に報告しようとしたことなのだが、それをよくよく考えるとユダヤ教の「祭司」が行っていること、つまり民衆の「罪の軽減」になぞらえることができる。
旧約聖書では、人間の罪が”一時的”に赦されるために子羊や子牛がいけにえとして捧げられ、祭壇の火で燃えつくされるという習慣があった(レビ記16章)。
それによって神の罪に対する怒りが宥められるというものである。
「不正の富を使っても」のたとえ話に当てはめると、家令がした負債の減額とは、せいぜい当面の「負債」を軽くしてあげることであるが、これは祭祀が燔祭を捧げ神の赦しを祈っていることと対比できる。
パウロは次のように述べている。
「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた」(へブル人への手紙9章)。
またパウロは、「大祭司」についても次のように説明している。
「これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している」。
さらにパウロは、キリストを大祭司になぞらえて次の ような奥儀を語っている。
「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブライ人への手紙9章)。
さて話を「不正の富を使っても」のたとえ話に戻そう。自分自身の不正が発覚した家令は、ちょうど祭司たちが日々行うに、負債者の負債(罪)を軽減したのである。
神がこの家令をほめたのは、この家令がはからずも祭司の「型」と一致していたためと推察できる。
しかし、それは証書の書き換えという不正を行ったうえでの「負債の軽減」でしかなかった。
ところが、大祭司になぞらえられたイエス・キリストは、その債務証書そのものを完全に廃棄されたのである。それはパウロが信徒に書いた次の手紙でわかる。
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」(コロサイ人への手紙2章)。
さて、イエスが使徒たちにすすめた「主の祈り」というものがある。
「天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。
み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。アーメン」(マタイの福音書6章)。
この祈りの「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」は、前述のごとく神に対する罪は、負債と読み直すことができる。
第二のたとえ話「七十倍赦しなさい」は、神の赦しの下にある人間は、負債(罪)に対しては、それを犯した者に対して出来る限り寛容でありなさいといっているのであり、このたとえ話の僕は仲間に対して厳しくしたことが、神の御心に反して怒りを招いたということがいえる。

「不正の富を使っても」のたとえ話の家令は仕事を失っても、仲間が家に迎え入れてくれるかもしれないという幾分不純な動機で「負債の書き換え」という不正を行ったのだが、「この世の子らは、この時代に対して光の子より利口である」とあるように、あくまでも「この世の子」らが主題である。
ただ、それが奇しくも「祭司の仕事」の型と一致したため、意外にも神に褒められた。
その神に褒められたこの家令は、一機に「永遠のすまい」に迎えられるであろう」と、一機に「光の子」の世界に入っていくような展開である。
イエス・キリストは次のように語っている。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネの福音書14章)。
このイエスの言葉から、神に褒められた家令は、光の子らと同じように、永遠のすまいが与えらえるのかもしれない。
なぜか、それは家令が負債者に書き換えよと述べた「油百樽」「麦百石」であるが、聖書では油は聖霊、麦はパンつまりキリストの体を意味するものであり、「永遠のすまいを与えられるであろう」という言葉の中には、死後の復活が暗示されている。
聖書の言葉は細部にまで神が宿るので、油100樽や麦100石は、負債(罪)であると同時に、死後の復活という恵みを表しているのである。
それは、「のろいを祝福に変える神」(民数記22章)を表しているともいえる。
さて、旧約聖書には、イスラエルの祭司が神殿にいけにえを捧げる時に香をたくのであるが、その際に「聖所」(および至聖所)は香の香りで一杯になったと書いてある(へブル人への手紙9章)。
神殿の庭には祭壇があり、ヤギやはと、傷のない子羊が丸焼きにされ、罪の贖いのために神への犠牲が捧げられた。
聖所では、香をたく祭壇が正面にあり、その聖所の奥に「至聖所」と呼ばれる部屋がある。
分厚い垂れ幕によって、聖所と至聖所に分けられていて、至聖所には、「契約の箱」があった。
大祭司が動物の血を契約の箱にふりかけることでイスラエルの民の1年間分の罪が赦される、というのが「古い契約」である。
しかし「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人第二の手紙5章)、イエス・キリストにより新たな契約が結ばれる。
なぜなら、イエス自身が「贖罪の羊」となったからだ。
またイエスの十字架に架けられるという最後のシーンで、イエスが息を引き取られたその時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起きた(マタイの福音書27章)とある。
その結果、パウロは「わたしたちは、イエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道を通って、はいっていくことができる」(ヘブル人への手紙10章)としている。
ところで、「不正の富を使っても」のたとえ話での不正とはせいぜい「債務証書」の書き換えであるが、その富とは何か、聖書は”富”について次のように語っている。
「私たち全てのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ人への手紙8章)。
「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。 神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(コリント人への第二の手紙 9章)。
「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカの福音書6章)。
「不正の富を使っても」のたとえ話で、主人(神)は、不正を行った家令をほめるくらいだから、よほど寛容である。
それは、神の富は人間の知恵でははかりしることのできないのものであり、祭司の型たる”不正な家令”ははからずもそれに乗っかったということであろう。

創世記26章12節 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。 【主】は彼を祝福された。 Ⅱサムエル24章3節 ヨアブは王に言った。「あなたの神、【主】が、この民を百倍に も増やしてくださいますように。わが主、王の目が、親しくこれ をご覧になりますように。」 マタイの福音書19章29節 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、 畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを 受け継ぎます。 神さまが主語で、神さまが祝福を与えられるときに、 この「100倍」が用いられているようです。 「100倍」には、神さまが関わっているということを、まず覚え ておいてください。 そして神さまが最大限の祝福を与えられるとき、 この「100倍」が使われているのです。 へブル文字のアーレフ( א )は 「神性」という 意味があり