日本の戦後改革の柱のひとつ財閥解体で、「証券の民主化」という名のもとに、財閥が保有していた株式が放出された。
ただし、これはGHQ主導のもとで行われたこともあり、今もって「証券の民主化」とまでは至っていない。
というのは、株式市場も為替市場も、さらに不動産市場も、「株屋」「相場師」などという言葉があるとおり、特殊な人々が参加するものという意識がいまだに抜けない。
一般人は、お金は銀行や郵便局に預けておこうとする傾向が強い。
2014年、政府が国民の資産形成を支援するためにNISA(税制優遇制度)をもうけ、個人投資家を増やそうとしている。
NISAの特徴は株式や投資信託の値上がり益、配当や分配金に一切、課税されないことである。
日本の株式市場が、長く「民主化」とは程遠いものであったことは、今日問題化している「企業ガバナンス」の問題と切り離すことはできない。
戦後一時期は、個人の持ち株比率は70パーセントまで上がったのだが、その後、「個人保有」と「法人保有」の数字は逆転してしまった。
つまり、70パーセント弱の株を機関投資家や法人(外国法人含む)が保有し、個人保有の割合は20パーセント程度である。
どうしてそうなったのかといえば、株式市場がいわば「国策」のためのもので、税制をみても、株式のありかたをみても、法人が有利であったからだ。
そのひとつが「自社株保有」が禁じられてしまったことだ。
さて、自社株買いは株価の上昇要因となるので、株主にとってはありがたい。
なぜ禁じられたのかといえば、自社株買いは、出資してくれた株主に出資金を返しているのと同じになり、その結果「自己資本比率」が低下してしまうことがあげられる。
その結果、日本企業はそれに代わる方法を考える必要に迫られた。
戦後まもなく1ドルがまだ360円で、日本経済の規模はまだ小さく企業もまだ弱かった時代に、もし自由化や国際化が進めば、日本のひとたまりもなく外貨に買収されてしまう。
当時は、株価が下がるたびに何度となくそんな危機に直面したのである。それらの危機を乗り切るためには、安易に買収されない仕組みを作らなければならなかった。
本来なら、アメリカの企業などでは株価が下がれば、買収を防ぐために「自社株買い」を行う。
株価が不当に下がって、一株当たりの資産よりも株価の方が安いというようなことになると、資本主義の原理原則からいって、あらためて会社を興すよりも、その会社を買ったほうがいいと考えるのは資本家の常である。
当然、買い占めるリスクも高くなる。このような買い占めの恐怖にさらされながら、それを防ぐためには、株価を高くしておかなければならない。
株価が一株あたりの資産の1.5倍も2倍もしていれば、会社の株を買い占めなくても、新たに会社を興す方が安くつくので、必然的に危機は遠のくのである。
会社がそのような状態にあれば、経営者は安心して経営に専念できるわけで、当然のことながら、欧米の経営者は自社の株価に敏感である。
ところが日本の場合はこの株価の原則が働かないようになっている。
「自社株買い」が禁止されているために、それに代わる方法として、仲間すなわち企業グループや取引先に、自社の株をもってもらおうと考えた。
こうしてお互いに自社の株を仲間同士で持ち合えば、「持ち株会社」を作ったのと同じになるので、たとえ株価が下がっても売却されたり買収されたりしない。
だから経営者は欧米ほど、株価にも株主にも関心をもたなくなったのである。
また税制の面からみても、個人投資家は不利である。
今でこそ「株主優遇」という言葉があり、配当が低いなどと文句がでるが、そもそも株式を長期保有して配当金をうけ取っていると、税務署にキャッチされる可能性もある。
その段階ですでに2割の源泉課税を徴収されたうえ、企業から所轄の税務署に支払い調書が送られるため、税務署から色々と質問を受けることになる。
したがって個人投資家にすれば配当などは少ないほうがよい。
株を買ってもただただ株価が上がるまでじっとしていて、その間の配当金は放置しておく方が結果として得、というような風潮が強まってしまったのである。
一方、お互いに株を持ち合っている企業の立場からいえば、株に高い配当金を支払うということは、当然、税引き後のお金を社外に出すことになる。
それよりは互いに配当金を抑えて、社外に流出する金額を少なくし、「社内留保」にしておこうとする。
このお金には金利はがかからないし、設備投資を行う場合には、同業他社に比して、配当などは低く抑えて利益のみを追求するほうが株価も上がり、株主も喜ぶという仕組みが出来上がってしまった。
アメリカの企業は4半期ごとに決済して、できるだけ多くの配当を出そうとする。
株主の多くが配当を生活の一部としているために、配当金の多寡に厳しい目をむけ、それによって経営者の評価をする傾向がある。
したがって経営者側も、高い配当をするために全力をあげて経営にあたらなければならない。
ところが日本の場合は、投資家は配当をあてにするより、値上がり益をとるほうがメリットが大きいため、いきおい成長が見込めるような企業だけにウェイトがおかれるようになってしまった。
株価が高いことのメリットは、資金需要が出た時に、有利なファイナンスができる。
その結果収益があがるようになれば、株価は高くなるし、株価が高くなれば、有利な時価発行により、比較的コストの低い資金を調達することができる。
日本の証券市場では、総じて強い企業はますます強くなることができた。
右肩あがりで企業が成長していく限りではそうした点が表面化することはなく全員が幸せだったが、90年代以降はそれが見込めなくなってしまった。
グローバル化の進展で、自社株買いは1994年の商法法改正で、買付時などの一定の条件を守れば、TOB(株式公開買付)など認められている。
また財閥解体で禁止された「持ち株会社」は1997年の独禁法改正で復活している。
「取り締まる」を広辞苑でひくと、「物事がうまく行われるように、また不正や違反のないように管理・監督する」とある。
「取締役」の本来の意味は、株主の代表として会社を「外から」監視するというものである。だから本来取締役というのは原則として、資本を出した株主が「社外」から派遣してくるものなのだ。
そこで欧米では、特に「取締役」は経営能力の優れた人材を連れてくるのが普通であり、「社内」から昇進してきた人物が社長なるということは滅多にない。
ところが、日本では会社の優秀な人材は取締役にと昇進し、そのなかでも専務取締役・常務取締役と昇進して、最後に社長や会長もその中から選ばれるのが「常識」である。
また、会社の監査役までも「社長の部下」であるようでは、まともな監査ができるハズがない。
「取締役」が仮に「社外」からであったとしても、相互に株を持ち合っている企業グループの中で互いに役職を「兼任」しあい、企業社会の支配層によるいわゆる「インナーサークル」が形成される中で、「企業統治」に必要な充分なチェック機能が果たせそうもある。
少なくとも「企業経営の透明性」は期待できそうもない。
アメリカでは「外部取締役」というのが当たり前だからで、「外部取締役」とわざわざいうのは日本だけで、まして「独立外部取締役」などというのは日本企業社会の特異性を表している。
さて、社外取締役や監査役が機能し、名実ともに変わり始めている企業もある。
記憶に新しいのは、2011年に発覚したオリンパス事件である。
オリンパス株式会社が巨額の損失を「飛ばし」という手法で、損益を10年以上の長期にわたって隠し続けた末に負債を 粉飾決算 で処理した事件である。
マイケル・ウッドフォードは、日本のカメラ・メーカーのオリンパスの「17億ドル」の損失隠しを暴いた後、オリンパスの社長職を解任された。
同社「取締役会」は数週間にわたり、不正会計の謎について嘘をつき続けたのだが、ついに真相が明るみに出ると、取締役会が自分たちの職を維持する一方、「内部告発」した社長の側が職を奪われたのである。
ウッドフォード氏はこれを「ブラック・コメディ」と呼び、日本以外の先進国では起こり得ないことだと嘆いた。
オリンパス株は一時、株式時価総額の8割が吹き飛んだにもかかわらず、同社株を保有する「機関投資家」はオリンパスの取締役会に対して「一言」の批判も口にすることはなかった。
怒りに満ちたウッドフォード氏は、日本企業の取締役会を「不思議の国のアリス」になぞらえて回顧録を出版する。
この本の中で、ウンッドフォード氏は日本企業には、もっと積極的な株主と規制当局、そしてもっと独立した「社外取締役」の必要性を訴えた。
当時の経団連は長く「社外取締役義務化」については強く反対してきた。
日本で社外取締役というものが”義務化”が実現したのは、ようやく2021年になってからである。
また、オリンパス事件が興味深いのは、日米の「企業観の相違」を浮き彫りにした出来事であったからだ。
「コーポレート・ガバナンス」とは、会社の経営が「株主の利益」に反していないのかについてチェック体制が十分できていて、それをコントロールする能力があるかが問われているということである。
この考えの前提として、企業は絶えず「株主」の方を向いた経営をしべしということである。
しかし日本人の長年の企業観は、「株主のため」というより、「従業員のため」という傾向が強くあった。
そこは社員が長く勤める場所であり、家族を含めた社員の「福利厚生」に務めるとも「企業経営」の大きな要素であり、その上で株主の利益を守り、「環境保全」など広く地域住民への貢献なども「社会的責務」果たしていかねばならぬという「優先度」ではなかっただろうか。
「コーポレート・ガバナンス」の考え方をあてはめると、賃金をあげることや働く人々の福利厚生に優先度があることは、「株主の利益」に反することにもなるのだ。
逆にいうと、日本では、会社の利益を「株価の総額」としてとらえ、それを「最大化」していこうという発想はほとんどなかったのである。
また、本来企業が不祥事が起きた場合、法的には監査役や取締役(監査等委員)が不祥事を検証すべきである。
監査役や監査等委員は株主総会で選ばれ、取締役の職務をチェックするために存在している。
近年、盛んに登場する「第三者委員会」は、”任意組織”にすぎないが、監査役や監査等委員には法的権限が与えられている。
フジテレビの親会社でも、独立社外取締役である監査等委員3人は、全員「法務・リスク」のスキルをもった人物であると株主に説明されている。
いずれも大企業の元トップであり、こうした事態に対処できる人物として株主総会で選ばれているのである。
にもかかわらず「第三者委員会」が前面に出てきた。なぜ独立性のある監査等委員が検証委員会を立ち上げないのだろうか。
本来、働くべき人が動かず第三者委員任せになるかといえば、根幹にあるのは「株式の持ち合い」(政策保有株式)があるからだ。
フジテレビも多くの企業と株式を持ち合っている。仲間内の企業との間で持ち合う政策保有株式が多いため、株主総会で厳しい意見にさらされることが少ない。
安定株主に支えられた会社ゆえに、ガバナンスの実効性が損なわれているのである。
フジテレビでは日枝久の長期支配に焦点が当たっているが、問題は彼が長期にわたって取締役会で主導的な地位にあることを可能にしている「株式持合い」ということにある。
安定株主に囲まれることでガバナンスの実効性が失われることは広くみられている。
こうした状況に鑑み、政策保有株式の縮減圧力が強まり、「持ち合いの解消」が進んでいる。しかしながら反対意見も根強く、そこに合理的な理由があれば、外部に理由を開示した方が信頼度が高まろうというものだろう。
日本弁護士連合会のガイドラインによれば、企業と利害関係にある者は「第三者委」の委員になれないとある。
日本の企業が株式の持ち合いで成り立っている以上は、外部取締役を配置したところで、それほどチエックが高まるとは思えない。
したがって企業の不祥事が起きた場合、「第三者委員会」が立ち上げられるが、「第三者委員会」はそれほど信頼すべきものであろうか。
そもそも「第三者委員会」は日本独自の仕組みで、利害関係からは離れているとみなされる第三者であっても、心情的に独立しているとは限らない。
例えば、第三者委員は、今や弁護士業界の大きな収益源となっている。
忖度しそうな弁護士が、不祥事を起こした企業とウインウインの関係を築く傾向があるという実態がある。
一方で、第三者ということは企業の内情に通じていないので、痛いところをつけないという面もある。
「第三者委員会」が調べたということが、いわば「みそぎ」になってしまっては本末転倒である。
2024年に兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラ疑惑の調査のために設置されたのが「百条委員会」という。
「百条委員会」は、地方自治体の事務に関する疑惑や不祥事を調査するために設置される特別な委員会で、地方自治法第100条に基づいて設置されるため、そう呼ばれている。
「百条委員会」を設置するかどうかは、”議会で投票して決め”、過半数の賛成があれば設置が決まる。多くの自治体では、百条委員会の委員は12人以内と決められている(兵庫県は15人)。
委員の選出は、議会内の各政党や会派の議席数に応じて行われる。最終的に議長が委員を指名するが、実際には各会派から推薦された人を指名することが多い。
自治体の場合は、組織にも公務員個人にも明確な法令順守義務があり、高い職業倫理が求められる。
当然、厳しい守秘義務が課されるが、斎藤知事をめぐる委員会で、維新の3議員からNHK党の立花党首に情報が流れていたのには驚かされた。
地方自治体で問題があった場合にも「第三者委員会」が設置されるが、日本弁護士会は自治体向けの「第三者委員会」のガイドラインも作成している。
「第三者委員会」は主に"行政側(首長)"が設置するもので、外部の専門家(弁護士、学識経験者など)によって構成され、中立的な立場から事案の調査や検証を行う。
上場企業の場合なら、第三者委員会には総額で億単位の報酬を払うこともあるが、
自治体の場合には原資は公金で予算上の制約がある。
不祥事のために多額の公金を使用することに住民の理解を得る難しさや、議会政治の影響を受けることもある。
「第三者委員会」の仕事量は膨大で、説得力のない不十分な報告書を出せばバッシングを受けることにもなり、それなりの報酬が必要になる。また、首長や幹部の調査の場合には、その指揮系統下にある職員との情報遮断も必要になってくる。
日本独自の「独立社外取締役」や「第三者委員会」が、日本の組織に根付くインナーサークルをどれくらい打破できるだろうか。