聖書の言葉より(ろばのあご骨)

旧約聖書によると、ガザ生まれの古代イスラエル人サムソンは、神よりペリシテ人を倒すこと使命として与えられていた。
サムソンの怪力ぶりを示す、若き日のエピソードがある。
当時イスラエルはペリシテ(パレスチナの由来)より支配され武器を取り上げられていた。
ペリシテ人はうわさの怪力男サムソンを縛り上げようとスキをうかがっていた。
攻め上ってきたペリシテ人にユダの地の人々は「どうして我々のところに攻めのぼってきたのか」と問うと、彼らは「我々はサムソンを縛りにきた」と応えた。
そこでユダの人々3000人はサムソンが潜んでいた岩の裂け目に行って、「我々はあなたを縛って、ペリシテびとの手にわたすために下ってきた」と語った。
その際サムソンに、我々はあくまでペリシテ人の手に渡すだけで、決して撃つことはないと誓った。
そのうえで、サムソンを二本の新しい綱をもって彼を縛って、岩からひきあげた。
するとペリシテ人は声をあげて、サムソンに近づいたその時、主の霊が激しくサムソンに臨み、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。
そして彼は身近にあった「ろばの新しいあご骨ひとつ」を見つけ、手を伸べて取り、それをもって”一千人”を打ち殺した。
そしてサムソンがその手からあご骨を投げ捨てたがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれるようになった(サムエル記上5章)。
その後、ペリシテ人はサムソン打倒のために別のアプローチをする。
サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わし、その弱点を探らせる。
サムソンはデリラの誘惑に負け、自分の怪力の秘密は長い髪にあり、それを剃り落されたなら、並みの人となることを打ち明けた。
その結果、サムソンがデリラの膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の囚われ人となり、両目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる惨めな状態に落ちてしまう。

サムソンの人生を見ると、まるで「ユダヤ人の歴史」全体がひとりの人格に詰まっているように感じることがある。
聖書は、「偶像崇拝」を姦淫の罪と同じようにみなしているが、 デリラの誘惑は、豊穣の女神バアル神を想起させる。
特にアハブ王の時代には、バアル崇拝が王室によって公然と推進されるまでになってしまった。
アハブ王がサマリヤにバアルの宮を建て、バアルのために祭壇を築き、アシェラ像も造ったため、イスラエルの神である主の怒りを引き起こすことになった。
サムソンはデリラによって髪を切り取られて力を失い、ペリシテ人に捕らえられ「足かせ」をはめられる。
「足かせをされる」とは、移動の自由が禁じられるということでもある。
古代のバビロン捕囚から中世のヨーロッパの「ゲットー」、近代のヒットラーによるホロコーストまでの歴史がそれを表している。
もともと「ゲットー」とはヴェネチアに押し込まれたユダヤ人の居住区に由来し、その本来の意味は「鋳造所」という意味であった。
1561年、ヴェネチィア共和国が「ゲットー」を設立し イタリアから始まり、16世紀以降、強制的に設けられるようになったユダヤ人居住区は、公にこの名でよばれるようになった。
それは必ずしもユダヤ人を「閉じ込める」という面ばかりか、ユダヤ人を敵から守るという側面もあった。
また、この隔離がいかに屈辱的なものであったにせよ、民族的団結と文化を強力に保存していることも、彼ら自身が自覚するところであった。
ユダヤ人居住区はその範囲を広げることはほとんどなかったので、急速に増大する唯一の方法は、建物が垂直方向に伸びていることで、これはまさに現在の「ガザ地区」と同じである。
その分、建築は非常に危険なことが多く、火事などが起きると中の者を助けられることもなく、崩れ落ちることもあった。
ユダヤ人は法律で「不動産」をもつことが禁じられたので、ゲットーの内部でさえ公然と自分の家もかうこともできなかったのである。
ヨーロッパにおける公式の「ユダヤ人隔離」は1215年のラテラン会議」で定められたが、16世紀になってから徹底的にこれを強制することになった。
イタリアでは黄色とか赤とかのはっきりした色の帽子を着用することになった。
ドイツでは胸に黄色いバッジが着けられた。こういうはっきりしたマークなしにゲットーから外に出る者は厳しい罰が課せられた。
ユダヤ人を売春婦同様に扱うこのような取り決めに対してどんなに悲嘆と抗議が盛り上がり、取りやめることを願ったことだろうか。
また宝石類の着用や様々な贅沢に対しても規制がなされた。
このあたりは「サムソンが手かせ足かせがなされたこと」と一致する部分である。
さてサムソンのその後。手かせ足かせにされたばかりか、その後、人々の「笑いもの」にされる。
ペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを祭る祭りを開催し、会場となる大会堂に国中のペリシテ指導者を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で「戯れごと」をさせられ、笑いものにされる。
ヨーロッパでは、毎年カーニバルの季節になると、太ったユダヤ人のほとんどは丸裸にされ、人々の笑いものにされるために、ローマの大通りを競争させられ、それを見るのが町の女の特権になっていたのである。
ヨーロッパにユダヤ人は堂々たる姿をみせてはならず、馬車にのったり召使をやとったりすることは許されず、ドイツでは国境を超えるたびに家畜と同じ特別税を払わなければならなかったのである。
またサムソンが貶められた最悪の事態「目がくりぬかれる」とは、「契約の箱」を奪われたり、ローマによってエルサレムの神殿が破壊され、「契約の箱」が行方不明になったりしていることである。
この「契約の箱」が失われることの重大さは、旧約聖書「サムエル記上」に記載されている。
最初の王としてサウルが立てられたが、民の声を優先し祭司サムエルの言葉を軽視するなどして、祭司の怒りをかう。
そして「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という「神の臨在」喪失の時代を迎えたのである。
その一方で、「契約の箱」を奪い取ったペリシテ人にも「災い」をもたらし、イスラエルはそれを「取り戻す」に及んで「その力を回復」したことがわかる。
それはちょうど、サムソンの髪が伸びて神との関係が回復したことを思い起こさせる。
サムソンは神により、その頭に決して剃刀を当ててはならないと命じられていた。
そのサムソンの「怪力」の秘密は髪そのもの価値というより、その誓いを守りとおすことにより神との関係を保つということを意味している。
ペリシテ人は、牢獄のなかでサムソンの髪が伸びること、すなわち力の根源との関係が回復していることに気が付かなかった。
サムソンは、盲人となった彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、主に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかる。
その会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、自らも命を失うが、その時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよりものより多かったという。
この場面で、サムソンが語った「私の目の一つのためにも」という言葉に注目したい。
この出来事をイスラエルの現代に映しこめば、エルサレムでソロモンの神殿があった辺りは岩のドームが築かれイスラムの支配下にあることで、イスラエルは完全に復興していない。
ところで、前述の「デリラの誘惑」に陥ったサムソンが、髪が伸びて神との関係が修復される状況は、神がアハブ王の時代に預言者エリヤを使わし、偶像崇拝に陥ったイスラエルにとって「信仰の回復」の契機となったことを思い起こさせる。
エリヤは、アハブ王の前に立ち、3年間雨が降らないことを預言する(第一列王記17章)。
この預言は、バアルが豊穣と雨をもたらす神とされていたことへの直接的な挑戦を意味するものであった。
アハブ王は、民の苦しみを顧みようとはせず、エリヤは、イスラエルの信仰を回復させるために、カルメル山での対決を提案する。
その対決の内容とは、それぞれの神が火を送って犠牲を焼き尽くすというものであった。
バアルの預言者たちが一日中叫び続けても何も起こらない中、エリヤは主の祭壇を再建し、エリヤの短い祈りの後、主の火が降って来て、犠牲だけでなく、石や水まで焼き尽くした(第一列王記18章)。
この出来事は、主への信仰を回復させる契機となったのである。

冒頭で述べたように、若き日のサムエルのエピソードに、冒頭のように「ろばのあご骨」でペリシテ人と戦ったことがある。
ヨーロッパに離散したユダヤ人が携わった「両替商」の仕事は、武器をもつことを禁じられた古代イスラエル人にとっての「新しいロバのあご骨」にあたるようなものであった。
また、ユダヤ人が閉じ込められた地区「ゲットー」の由来が「鋳造所」であったことはなんと「暗示」に富んだことであろうか。
ペリシテの配下にあって武器を取ることを禁止されたサムソンの姿は、1世紀にローマ帝国に攻められ離散して以来、実質上、生活のスベのほとんど奪い取られ、「徒手空拳」で生存の戦いをしていくほかはなかったユダヤ人の姿が思い浮かぶ。
ユダヤ人は、土地をもつこともできず、やれることといえば古物商や「両替屋」ぐらいであった。
またユダヤ人には自由業は閉鎖されていた。手工芸でさえも閉ざされていた。
新しい品物はどんな物でも売ることができず、古物だけは取り扱うことが許され、古物商が今日にいたるまでユダヤ人の典型的な職業になっている。
しかしサムソンが”古物”ではなく新たに見つけた「新しいろばのあご骨」、つまりユダヤ人は武器の「代用品」を見つけ、多くの敵を倒していくことになる。
素手で戦いのは勝ち目なく、身近なものを武器に転用するほかはない。その身近なものこそ彼らの生業として許された「両替業」である。
そればかりか、彼らは生業を磨きあげ、独自の金融技術を生み出し、血を流すことなくユダヤ人の敵を倒していく。
つまり金融技術は、ユダヤ人にとっての「新しいろばのあご骨」となっていく。
ユダヤ人は、「両替商」として生きていったのは、不動産の売買を禁じらて「金銀」という動産で生計を立てるようにになったのである。
土地をもたず農業からも弾じかれたユダヤ人は、当時利子を禁じていたキリスト教徒のしない「金貸し業」で生計をたてるようになる。
そのうちキリスト教徒の中にも金融業を営む者が現れるが、ユダヤ人だと分かったら財産を没収されることがあったので、自らの名前を書かねばならない「記名型の証券」は安全ではなかった。
そのためユダヤ人の金融業者たちは、「無記名の証券(銀行券)」を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していた。
この技術は、やがてヨーロッパ諸国が中央銀行を作って紙幣を発行する際に応用されるようになる。
近世以降、ユダヤ人はサムソンが築いた「ろばのあご骨の丘」のように「豊富な金銀」を蓄積するようになり、国家にそれえを提供することにより、国家の軍事力の「財源」を付与したのである。
ヨーロッパのユダヤ財閥の頂点にある「ロスチャイルド家」の血統はもともとはユダヤ人ラビであたるが、ベニスの貴族の血統とも結びつき、その後ドイツのフランクフルトに移住して高利貸し業をはじめ成功した。
フランクフルトのゲットーでは、めいめいの家にそれぞれの紋章があって、そこに住む家族はその紋章をとって自分たちの姓にしていた。
ロスチャイルド家とかアドラー家とかシフ家は、「赤い盾」(ロート・シルト)とか「鷹」(アドラー)とか「舟」(シフ) の紋章からとった名前で全ヨーロッパで有名になった。
ロスチャイルド家は、1793年からはじまるナポレオン戦争の後、ヨーロッパで多発する国家間の戦争のための資金調達を各政府から引き受けることで、急速に力をつけていったのである。
一族のひとりはイギリス政府に食い込んで資金調達を手伝うようになった。
ナポレオンとの戦いにおいて、ネルソン率いるイギリス海軍がフランスに敗れることがなかったことは、イギリスが築いた信用と資金調達能力のためであった。
また、日露戦争の際に高橋是清に対して金を貸したのがユダヤ人財閥のシフであり、ロシア内でのユダヤ人弾圧にあった。
すなわちユダヤ人は金融技術を使って日本を支援し、間接的にロシアと戦ったということができる。
ロシアとの開戦にあたり、日本は資金調達に行き詰まっていた。日清戦争直後で戦費に余裕はなく、外債で多額を調達しなければならなかったが、開戦とともに日本発行の外債は暴落し、まったく引き受け手が現れなかった。
しかしこのころニコライ2世時のロシアでは、ユダヤ人虐待・虐殺が行われており、一人ののユダヤ人銀行家がロシア政府がこれを黙認していることに激怒していた。それが、米国最大手の投資企業の代表ジェイコブ・H・シフである。
ロシアは歴史を通じて、「反ユダヤ主義」が最も盛んだった国であった。
この時、日露戦争を戦いために、外債募集の重責を担った当時の副総裁・高橋是清は1904年2月、アメリカに渡った。
戦争に勝って「賠償金」をとってこそ借金を返すことができるのに、日本がロシアに勝つなどということを予測するものなどいなかった。
実際、ロスチャイルド、モルガン財閥などは高橋の申し出を断った。それでも高橋はロンドンに渡り、偶然パーティで同席したのがシフというユダヤ人だった。
その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ジェイコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。
シフは1847年生まれでフランクフルトのユダヤ人街区でロスチャイルドと一軒の家を共有していた。
後にシフはニューヨークのクーンローブ商会の共同経営者となり、国債と鉄道債券を取り扱う。
政治と距離を置いていたモルガン商会に対して、シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ロシアの「ユダヤ人迫害」に対して抗議するようにアメリカ政府に嘆願していた。
シフは高橋に日本公債を500万ポンド引き受ける用意があることを伝え、高橋是清とシフが起債できた外債は、4回で8200万ポンドにも達した。
高橋が「天佑」とばかり思っていた「外債募集」の成功は、ロシアを排除して満州鉄道の利権をもくろむシフ側の計算であったともいわれている。
そして1905年9月、日本は日露戦争に勝利し、翌年シフは明治天皇から旭日章を授与されている。