ワイマール共和国。多くの人が世界初の「生存権」を定めた国として、記憶にとどめているにちがいない。
第一次世界大戦後のドイツで1919年に成立し1933年に崩壊した、わずか14年間しか存在しなかった国だが、その文化面にも注目すべきものが多い。
第一次世界大戦に破れたドイツでは、キール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起が起き、その結果ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位された(1918年の11月革命)。
これによって帝政が崩壊、翌1919年に「ワイマール憲法」が制定され、ワイマール共和国が成立したのである。
この憲法は、各州による連邦制や議会制民主主義をはじめ、基本的人権の尊重、20歳以上の男女の選挙権などが盛り込まれた民主的かつ理想的なもので、女性にも参政権が認められ、女性の社会進出が一気に加速した。
しかし憲法第48条には、国家の”緊急事態”には大統領が発令できる「大統領の非常権力に関する規定」があり、後にナチス政権の樹立に至る過程で、重大な役割を果たすことになる。
民主的な国家が成立した一方で、1919年に敗戦国としてヴェルサイユ条約を受け入れたドイツは、領土の縮小や1320億マルクという天文学的な賠償金を課されるなどの問題に直面していた。
驚くなかれ、この賠償金の支払いが終了したのは、近年の2010年である。
政府は賠償金の支払いのために国内の工業化や技術革新を進め、ベルリンには地方からの労働者が集まってきた。
当時労働者の健康を考えて住宅を作ろうとしてベルリンに出てきたのが、後に日本文化の美を世界に紹介したブルーノ・タウトであった。
また、賠償金の支払いに応じるために大量の紙幣を発行したことが原因で、通貨価値が暴落してハイパーインフレーションが起こる。
さらに1923年には、ドイツが賠償金の支払いを渋ったことを理由にフランスとベルギーが、ドイツ工業の心臓ともいえるルール地方を占拠。
理想的に思えた共和制国家の権力基盤はなかなか安定せず、社会不安は次第に募っていった。
1929年、ニューヨーク株式が大暴落して世界恐慌が起こると、ドイツの失業者数は300万人から倍の600万人に膨れ上がり、ハイパーインフレが深刻化。共和国政府に対する国民の不満が頂点に達した。
そんな時、「賠償金の支払い停止」や「地代の廃止」を掲げる右翼政党のナチスが、労働者層を中心に支持を拡大していった。
そして1933年1月30日、ワイマール共和国の大統領ヒンデンブルクによって、ナチス党の党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命される。
2月27日に国会議事堂炎上事件が起きると、これを共産主義者による国家転覆の”陰謀”であるとして、ワイマール憲法第48条に基づく「大統領緊急令」を発布。
これによって国民の基本権が停止され、ワイマール憲法は形骸化した。
さらに3月23日には、国会審議を経ずに政府が全ての法律を制定できる「全権委任法」が成立。
ヒトラー政権発足からわずか54日で独裁への扉が開かれ、ワイマール共和国は事実上崩壊したのである。
1934年にヒンデンブルクが87歳で死去するや、ヒトラーは即日、自ら作った大統領と首相の権限を合わせた「総統」という地位に就任するのである。
ヒトラー登場前夜のドイツといえば、ヴェルサイユ体制下の高額な賠償金に苦しむ暗い時代と思いがちだが、フタを開けてみれば、最先端の憲法があり、人々の自由と平等を目指す先進的な社会があった。
この時代の映像からもその自由で明るい雰囲気の一端が垣間見える。
多様な性への理解が進み、人々はスポーツや美容に精を出し、一部では伝統的な衣服を脱ぎ捨て文字通り”裸”で生活する人々も現れたほど自由を謳歌していて、これが敗戦国かという気にさえなる。
1920年代にドイツでも首都ベルリンを中心に芸術文化が栄えたことから、「黄金の20年代」とも呼ばれる。
近年、ドイツで「バルリン・バビロン」という連続TVドラマが作られ、高視聴率を得ているのだという。
聖書で、バビロンといえば、古代バビロニア王国の首都で、イスラエルのエルサレムが聖なる都であるのに対して、人間の欲望渦巻く退廃の都という位置づけがなされる。
実は、「ベルリン・バビロン」に描かれた街の様は、数え切れないほどのバーやカフェ、朝まで踊り続けるナイトライフなど、ベリリンがまるでエンターテインメントの殿堂のように描かれている。
2019年12月に幕を切ったこのショーは、そんな嵐のように激しい時代に観客をいざなってくれる。
一世を風靡したバンド「コメディアンハルモニスト」やドイツが誇る俳優マレーネ・ディートリヒが登場し、チャールストンやリンディホップなどの当時流行したダンススタイルで出演者たちが踊り狂う。
きらびやかなファッションを再現したコスチュームも見どころの一つ。眠らない街、ベルリンを五感いっぱいに体験しようというのがショーのコンセプトであった。
なかでも1905年に建てられた「バルハウス・ベルリン」は黄金の20年代を代表するかのようなダンスホールで、社交の場として多くの人々がここに集った。
「バルハウス・ベルリン」は、当時の現存する数少ないダンスホールで、2014年にダンスフロアが全面的に改装されたが、家具や螺旋階段などはアンティーク調で、当時の雰囲気が味わえるという。
さて、ドイツは敗戦によって天文学的賠償金を課せられたことにより、なんとか賠償金を返そうと急速な工業化がはかられるが、そのシワよせは労働者たちに向かった。
工業化の犠牲となった労働者たちは貧困と度重なるインフレにあえぎ、ベルリンの街中では売春やドラッグが横行していた。
この退廃的なムードは、キャバレーやナイトクラブを代表とする大衆文化が栄える契機ともなり、さらにラジオや映画などの新しいメディアが普及。
当時最も進んだ民主憲法のもと「自由な思想」を謳歌しようと、ベルリンに数多くの芸術家や学者が集い、芸術文化が一気に花開いていった。
この時代の様子を、ドイツの政治思想家クルト・ゾントハイマーは「ドイツ史の中で、これほど豊かであると同時に乏しく、大胆であると同時に意気消沈し、創造的であると同時に単純で、開放的であると同時に反動的であった時代は決して存在しなかった」と語る。
「黄金の20年代」には「狂騒の20年代」という異名もあり、ワイマール文化は魅力と退廃が織り合わさった奇妙な時代の産物だったのだ。
そして、当時のベルリンに集って時代を謳歌した文化人たちは、ナチス政権の誕生よって国内で弾圧される者もいれば、国外へと亡命する者もいた。
ワイマール共和国で最初にノーベル賞を受賞したのは、かの有名なアインシュタイン。
この時代、ドイツでは11人がノーベル賞を受賞したが、受賞者の3分の1はユダヤ系の出自だった。
政治分野では、ワイマール憲法の草案を練ったフーゴ・プロイスをはじめ、ベルサイユ条約を締結して国際社会復帰に尽力したヴァルター・ラテナウ、革命家で「ドイツ共産党」を結成し、最後は虐殺されたローザ・ルクセンブルクなど。
戦後、日本を占領したアメリカは、11カ国でなる極東委員会が設置され、日本統治に口を出すまえに、日本政府により自主的な(と思わせる)憲法がつくられたという既成事実を作っておきたかった。
そこで、すでに政府に提出されていた森戸辰男らの「憲法研究会」の試案に注目したのであったのだ。
森戸は師・高野に倣ってドイツ留学の経験があり、ドイツの「ワイマール憲法」に学んで帰国し、「生存権」の導入をばかりか、「労働権」の導入をさえ提起していたのであった。
ドイツは「ワイマール憲法」という最も民主的な憲法を持ちながら、この混乱の後に共産党とナチスが台頭し、ヒットラーによる「一党独裁」を招いてしまう。
こうしたドイツの状況と敗戦後の日本を重ねて、森戸はドイツのテツを踏んではならないと考えていたのだ。
森戸はイギリスの「立憲君主制」などに倣って、天皇を「道徳的シンボル」とするといった斬新な考えを提起するのである。
そして、こうした考えがマッカーサー草案の「天皇=象徴」に影響を与えることになる。
さらに森戸は、社会党の代議士となり、「マッカーサー草案」にはなかった「生存権」をネバリ強く憲法に盛り込んだのである。
ワーマール時代は、アインシュタイン以外にも精神分析学を確立したジークムンド・フロイト、哲学者のヴァルター・ベンヤミンやハンナ・アーレントなど、当時の”ユダヤ系ドイツ人”の活躍には枚挙にいとまがない。
アインシュタインは出版社の招きにより、1922年11月17日から12月29日までの43日間、日本に滞在し、全国10カ所で講演を行っている。
ワイマール共和国時代には表立ったユダヤ人差別は行われてはおらず、すでにドイツに定着していた人々の多くは、自らが「ユダヤ人」だという意識を持っていなかったという。
しかし、不安定な情勢に対するドイツ市民たちの怒りは巧みにナチスに利用され、その矛先は次第にユダヤ人である彼らに向けられていったのだった。
ワイマール共和国時代に最も栄えた芸術スタイルの一つに、「表現主義」がある。
この様式は客観的な表現を排し、内面的な「目に見えないもの」を主観的に強調するもので、当時のドイツの画壇に衝撃を与えた。
その後、ドイツ表現主義は建築や舞踊、音楽などの分野でも流行し、現代芸術の先駆となった。
ブルーノ・タウトは、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家である。
タウトは「表現主義」(Expressionism)とよばれる一派に数えられる前衛的な建築家で、戦後の悲惨な現実に対して、前向きなユートピアを提示するよりも、戦争の残忍さから逃れるための新しい都市の提案をしている。
1913年にはライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作り、翌年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった。
また、この頃タウトが設計した、田園都市ファルケンベルクの住宅群はベルリンのモダニズム集合住宅群のいちぶとして世界遺産(文化遺産)に登録されている。
1933年にはヒトラー内閣が誕生しており、タウトがソビエト連邦から帰国したことは、政権から危険視される原因になった。
親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われた。
ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、5月4日、タウトは念願の来日を果たす。
敦賀に到着した翌日、タウトは桂離宮に出会う。
長らく憧れていた日本の美を間近でみた感慨もひとしお、タウトはこのときの印象を「泣きたくなるほど美しい」と日記に記している。
タウト以前に桂離宮を評価していたのは建築家ではなく、庭園関係者と茶人だった。
庭園という観点からの桂離宮評価だったからか、この時代の建築家は桂離宮にはあまり興味を示さず、建築家の評価は低かった。
タウトは桂離宮の美を最初に世界に広げた建築家となった。
一方、古代ギリシャや中世ヨーロッパの美術を好んだヒトラー政権は、ほぼ全ての近代芸術(表現主義、印象派、ダダイスム、合理主義など)の作品を「退廃」であるとして没収。
「退廃芸術家」の烙印を押された芸術家たちは、ドイツ国外への亡命に成功した者もいたが、国内にとどまった芸術家たちは絵画制作や画材の購入を厳しく制限され、ユダヤ人画家たちの中には強制収容所で最期を迎えた者もいた。
また、黄金の20年代は、ドイツ映画が栄光に輝いた時代でもあった。
ポツダムの映画会社UFAは米国ハリウッドに次いで多くの作品を世界に送り出し、ワイマール共和国は映画大国となった。
1927年には、ドイツ映画史に残る傑作の一つ「メトロポリス」(フリッツ・ラング監督)が公開され、世界的にも高い評価をえた。
それは、2026年ゴシック調の摩天楼がそびえ立ちメトロポリスと呼ばれる未来都市では、摩天楼の上層階に住む限られた知識指導者階級と、地下で過酷な労働に耐える労働者階級に二極分化した徹底的な階級社会だった。それは我々の社会をディストピアとして描いたSF作品である。
しかし「反政府的」として上映が禁止され、ラング監督は自由な作品づくりを求めて、1934年にハリウッドへ移った。
ワイマール共和国が成立すると、それまで貴族のための場であった「宮廷劇場」は「州立劇場」に名称を変える。
また、民間経営による劇場が大きな力を持っていたこともあり、政治的な内容を扱った演劇作品が多く上演され、劇場は市民階級に開かれた場へと成長していった。
劇場経営者としても名を馳せたラインハルトは、1902年にベルリンのキャバレーを買収したのにはじまり、最終的に11の劇場を所有、客席数は1万に上った。
この時代に活躍した演出家たちは、観客の意識に訴えかけ、演劇の力で社会に変革をもたらそうとしていた。
しかし、世界的な経済危機によって劇場文化の発展は行き詰まる。人々は演劇のチケット代を払う余裕がなくなり、劇場は財政難で大掛かりな演出やスター俳優の起用ができなくなった。
そしてヒトラー政権の台頭に伴い、劇場はプロパガンダの場として没個性的なものに。
第一次世界大戦後に労働力である男手が不足し、独身で働く女性が増えた。
当時主流だった女性の職業は電話交換手やタイピスト。男性よりも給与が低かったが、女性たちは経済力をつけ、ナイトライフやスポーツを楽しむなど人生を謳歌していく。
そんな女性たちは「新しい女性」と呼ばれ、当時のファッションは彼女たちを象徴していた。コルセットから体を解放し、ストンとした短いスカートやドレス、中にはズボンを履く女性も。
かかとのない靴を履き、ヘアースタイルはボブ(おかっぱ)が流行。そんな新しい女性のアイコンの一人が、20世紀を代表するドイツ人俳優のマレーネ・ディートリヒである。
彼女は黄金の20年代にドイツでスターダムにのし上がり、30年代にハリウッドに進出した。
一方で、女性たちは理想像と保守的な女性像との間で苦悩したという。
この時代に、ベルリンを訪れたイギリス人作家クリストファー・イシャーウッドは、短編小説「さらばベルリン」を書き、のちに「キャバレー」という題でミュージカル化・映画化され大ヒットしした。
1973年、ライザ・ミネリ主演で映画化された「キャバレー」に醸し出されたあの退廃ムードは、ベルリンの雰囲気だったのかと思い起こされる。
1920年代のベルリンと1970年代のハリウッドを結んだ映画が、何かシンボリックに思える。
ワイマール文化は、華やかではあるけれど、矛盾に満ちた不協和の文化といわれる。
近代主義的・前衛的であり空虚なものだったのか、そんな多彩な文化が、ラジオを通した宣伝や視覚効果てナチス一色に染められていく。
ワイマール文化が注目されるべき「一点」である。