聖書の数字(イエスは五千人を養われた)

聖書のエピソードには、とても具体的な数字がでてくる場面がある。 その代表的な場面が「イエスが空腹な民衆にパンと魚を与える場面」で、「マタイの福音書」に二箇所(14章・15章)ある。
とても似かよった場面で、イエスが、最初にあった少ない”パンと魚”を祝福すると、5000人以上の人々の空腹を満たし、もう一箇所は、4000人以上の人々の空腹を満たす話である。
今のところ、これらの数字の意味を解き明かした説に出会ったことがないが、結論を先にいえば、イエスの復活後の使徒の働きを預言したものではなかろうか。
さて聖書には「5」と「7」という数字が頻繁にでてくる。この数字が出てきたら具体的な数というよりも、”形容詞”として解釈することモ可能である。
そうすると、この二カ所の数字が何を意味するか、おおよそ解けてくる。
まず「5」については、旧約聖書では、「モーセ五書」を思い浮かべるが、最も印象的なの場面は、ダビデがゴリアテに立ち向かう際に、谷に下って5つの石を拾いに行ったことである(サムエル記上17章)。
イエスの死後50日目(ペンテコステの日)にエルサレムの会堂に聖霊が下り「初代教会」が誕生する(使徒行伝2章)。
また復活後イエスは弟子に姿を現し、500人以上もの人々に同時に現れたことなどから、「5」という数字は「神の恵み、秩序、備え」を象徴している。
また天地創造の際に神が7日目に休まれたことから、「7」は完成や実現を表す重要な数字とされている。
エリコの戦いにおいて、イスラエルの民が7日目に町の周囲を7度回ったことも7の重要性を示す出来事で、「7」という数字は「神の完璧な計画と限りない憐れみ」を象徴している。
また聖書よく出てくる言葉に「パン」があるが、聖餐式の祈りにあるように、「キリストの体」、もしくは「聖霊」を意味するものとされる。
したがって、ふたつの場面で、イエスが最初に祝福した「5つのパン」や「7つのパン」は、イエスの体を意味している。
「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネの福音書6章)。
イエスの言葉にある「マナ(Manna)」はイスラエルの民が荒野で飢えた時、神がモーセの祈りに応じて天から降らせた食べ物である。
旧約聖書に「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出エジプト記16章)とあり、この時人々は「これは何だろう」と口にし、このことから「これは何だろう」を意味するヘブライ語の「マナ」と呼ばれるようになった。
それは人間の「復活」、つまりこの地上の肉体の代って「新たなからだ」となって甦らせられることの保証となる、イエスの昇天後に下る”約束の聖霊”を意味するものである。
ちなみに「5」と「7」を合わせると、「12」という数字になるが、イエスの弟子は12人で、イスラエルは12部族である。
さて、前述のように、「5」「7」が表す言葉は、「完全な恵み」という意味になるが、”5つのパン”とか”7つのパン”というと、それは「天から降るイエスの体」すなわち、聖霊とみなすこともできる。
前述のイエスが5千人を養ったエピソードは、ヨハネ福音書にもあるが、そこに”ひとりの幼子”が「パン5つと魚二匹」もっていたと書いてある。
それに弟子が気がついて、イエスに祝福してもらうために渡したものである。
この不可思議な幼子は一体何者なのか。それは「パン5つと魚二匹」が「天与のもの」であることを暗に示しているのではなかろうか。

冒頭で述べたように、聖書にはイエスの弟子に命じて民衆にパンと魚を分け与える場面が二か所ある。
その最初の場面は、バプテスマのヨハネがヘロデ王に殺害されたと報告を受けた直後の場面で、聖書には次のように記載されている。
「イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、"ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください"。 するとイエスは言われた、"彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい"。 弟子たちは言った、"わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません"。 イエスは言われた、"それをここに持ってきなさい"。 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった」(マタイの福音書14章)。
この場面で「十二弟子、五つのパン、二ひきの魚、女と子供とを除いておおよそ五千人」という数字がでてくるが、この場面にどんなメッセージが含まれているのだろうか。
イエスの死後50日目(ペンテコステの日)にエルサレムの会堂に聖霊が下り「初代教会」が誕生する(使徒行伝2章)。
イエスの復活の体に出会い勇敢な使徒に変身したペテロとヨハネが「ソロモンの廊」で病人を癒した後、集まってきた民衆に対して、次のように「福音」を語った場面である。
「あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」。
そんな、ペテロとヨハネ二人に弾圧の手が伸びる。
「彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その”男の数が五千人”ほどになった」(使徒行伝3章)。
ここで注目したいのは、「その男の数が5千人ほどになった」という点である。
ここに記された5千人は、かつてイエスがパンと魚を与えた「女と子供とを除いて、おおよそ5千人」とピタリと一致している。
しかし、イエスが5000人を養った出来事と、ペテロとヨハネの説教によって5000人が信じたことと、一体どんな関係があるのだろうか。
結論を先にいうと、「イエスが5000人を養った」出来事は、イエスの死と復活後におきる、「ペテロ・ヨハネによって5000人が救われる」ことの”預言”なのである。
イエスが5000人を養った際に最初に存在した「パン5つと魚二匹」に注目したい。ヨハネ福音書には「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。それを弟子がうけとってイエスが祝福したのである」(ヨハネ福音書6章)とある。
この子供はどうして「パン5つと魚二匹」を持つのかは不思議だが、それを弟子から受け取ったイエスは、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ福音書6章)と語っている。
次にかごに入った「魚二匹」は、このエピソード直前に民衆に福音を語っていた二人の使徒の名前が自然に浮上する。
イエスがペテロに「あなたを人間をとる漁師にしよう」といったように、聖書では、信者はしばしば魚にたとえられる。
それはペテロとヨハネで、彼らの語る神の言葉を伝えていたのだ。
以上をまとめると、イエスが「5つのパン(つまり神の恵みによるイエスの命)」と二匹の魚を祝福して、5000人を養ったということは、イエスの死と復活後にペテロとヨハネによって語られた神の言葉によって5000人が信じることの”預言”なのである。 それより不思議なのは、イエスが残ったパンを集めたところ「12カゴ」にもなったという点である。
普通、残り物のパンの量などは記録に残さぬものだ。
この「パンの残余量」については、この「5千人の空腹な民衆にパンと魚を与えた出来事」の直後におきるエピソードにヒントがある。
イエスがツロの地方に行った時、けがれた霊につかれた幼い娘をもつカナン人の女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて足もとにひれ伏し、"娘から悪霊を追い出してください"とお願いした。
イエスは女に言われた、"まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない"。
すると女は答えて言った、"主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます"。
そこでイエスは言われた、"その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった"。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」(マルコの福音書7章)。
このエピソードでイエスが「子供たちと子犬」の譬えで示したのは、イスラエルとカナン人の関係を示しており、イエスの弟子が与えて「残ったパンくず」とは、「異邦人」に与えられるパンを指すと推測することができる。イエスは、次のように語っている。
「わたしにはまた、この囲いにはない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一つの羊飼いになるであろう」(ヨハネの福音書10章)。
また「5千人にパンと魚を食べさせた出来事」で注目したいのは、イエスが パンと魚をさいて弟子たちに渡して、弟子達がこれを分けたという箇所である。
実際イエスは十字架の死後3日後に復活し、弟子たちに「全世界にでていって福音を宣べ伝えよ」というミッションを与える。
このことから「12カゴに残ったパン」は、12人の使徒達による「異邦人伝道」を示していると考えられる。
さて「イエスが空腹な民衆にパンと魚を与える場面」の、もう一箇所は、イエスがツロとシドンに行かれた時に起きた出来事である。
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、"この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう"。 弟子たちは言った、"荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか"。イエスは弟子たちに"パンはいくつあるか"と尋ねられると、"七つあります。また小さい魚が少しあります"と答えた。そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった」(マタイの福音書15章)。
この場面に出てくる数字は次のとおり。「パン7つ、ちいさい魚少し、女と子供を除き4000人」である。
このエピソードも、「使徒行伝」にその預言の実現をみる箇所が存在する。
それは12弟子(裏切ったユダのかわりのマッテアを含む)、あらたに「7人の使徒」が加えられる場面である(使徒行伝6章)。
「そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、”わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにした”。
そして7人を選び出し、それによって神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」(使徒行伝30章)。
冒頭で述べたように、イエスが5000人を養った「5つのパン」が「神の恵みとしてのイエスの体」であったのに対して、「7つのパン」は「神の計画にもとずくイエスの体」ということになる。
では「小さい魚」とは誰のことかというと、ペテロ・ヨハネがイエスのまな弟子であったのに対して、新たに加わった7人は、いわばイエスの「孫弟子」で彼らを通じて信徒が増えたと書いてある。
かつてイエスが空腹を満たした民衆4千人は、このとき増えた信者を預言するものである。
初代教会において彼らもまたイエスという「天のパン」にあずかり、「残った7つのパンくず」は彼らによる異邦人伝道をさすと推測できる。
ところで聖書にはこうした預言がしばしばでてくるが、なぜ預言が必要なのだろうか。
それは、預言が実現した後、人々がそれが神によってなされたことを悟り、神に栄光を帰すためである。

聖書には、ほかにも魚の数を示す不思議な数字がある。それは、なんの変哲もない「153」という数字である。
153はピタゴラスいう「三角数」で、点を正三角形の形に並べたときの点の個数を表す数である。
数列でいうと、1、3、6、10、15、21、となっていき、153は17番目の三角数であると同時に、1から17までの合計数でもある。また、153を逆さまにした351も26番目の三角数である。
しかし「153」の不思議さはそれだけにとどまらない。各桁の数字それぞれを三乗して足してみることを「立方化」とよぶが、3で割り切れる数ならば、「立方化」を繰り返せば、必ずこの「153」という数字に帰着するのだ。
3で割り切れる「99」でためしてみよう。
(1)99→(9の3乗)+(9の3乗)=1458。
(2)1458→(1の3乗)+(4の3乗)+(5の3乗)+(8の3乗)=702。
(3)702→(7の3乗)+(0の3乗)+(2の3乗)=351。
(4)351→(3の3乗)+(5の3乗)+(1の3乗)=153。
ためしに153を立方化してみよう。
153→(1の3乗)+(5の3乗)+(3の3乗) =1+125+27=153。
153は「立方化」しても153のままである。
さて、聖書には世の終わりに「666」と数字がついた「反キリスト」または「偽キリスト」が出ると預言している(ヨハネ黙示録13章)。
新約聖書は、ギリシア語で書かれているため、アラビア数字ではない。 そこで、ギリシア数字(イオニア式)を、アラビア数字と対応させて各桁を合計すると、実に「面白い数字」が現れ出でる。
「Ιησουs(イエスース)」は、10+8+200+70+400+200=「888」。
ちなみに、「666」「888」ともに3で割り切れる数であるから、先ほどの「立方化」を繰り返せば、「153」に帰着する。
この神秘の数字「153」という数字は、ペテロが仲間と魚を捕る場面に現れる。
「彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは”153匹”の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった」(ヨハネの福音書21章)。