聖書に「主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの あなたはわたしの分け前を守られる 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。 まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16篇)とある。
この詩は、ダビデ王の詩だが、生涯を戦いに費やしたけに、”測り縄”とは”戦い取るべき領域”を神に示されたという意味であろう。
さて、歴史の素人が、天の声か、死者の声か、幻かに導かれるように調査したところ、予想外の歴史の断片に辿り着いたケースがある。
例えば、女性新聞記者がたまたま見つけた小さな墓。
1915年在米邦字紙記者・竹田雪城によってカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの草地に人知れず眠る「少女の墓」が発見された。
竹田はこの墓を調べるうちに日本で最初の移民団ともいうべき「若松コロニ-」の存在と出会うのである。
幕末に薩摩長州に武器を売り込んだイギリス人グラヴァ-が有名であるが、対する幕府側についた会津藩にもお抱えの武器商人ジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
彼は、戊辰戦争に敗れた藩を見限り新天地アメリカに日本人の村を建設しようとした。日本の茶と絹を金鉱発掘の好景気に沸くカリフォルニアで作れば成功できると考えた。
敗戦によって前途を失った武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗ったのである。
しかしこの渡航は新政府の正式な許可は取っておらず、そのことが後に「若松コロニ-」と呼ばれる日本人の村の存在を埋もれさせる結果となった。
旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き茶の木は育ち、シュネルは1870年のカリフォルニア州フェア(見本市)にこれを出展する計画まで練っていたという。
ところが、このコロニーは約1年間と少しだけ持続したものの、何らかの原因で崩れた。日照り、資金不足、あるいは病の流行によるものとも言われている。
1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で金策をして戻って来ると言い残しこの地を去り、二度と戻ってくることはなかった。
あとに残ったものは言葉もわからず生きる糧もないまま途方にくれた日本人入植者たちだけだった。
記者であった竹田は墓に眠る少女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。
ヴィーアキャンプというこの家の子孫は少女を覚えており、そればかりではなく歴史に埋もれていた「若松コロニー」の存在を明らかにしたのである。
少女はシュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。
コロニーの経営失敗後にヴィーアキャンプ家に引き取られ使用人として働いたものの1年足らずで体を崩しこの地亡くなってしまう。
少女の墓にはには日本語で「おけいの墓」と書かれていた。そして英語で、「1871年没、19歳、日本人の少女」と。その他の入植者達の行方は杳として知られていない。
イギリスの文豪ウィリアム・シェークスピア「リチャード3世」は、リチャード3世(1452~85年)を背骨が曲がり、醜悪な容貌をもつ「悪の権化」として描いた。
では、どれくらいの「悪さ」なのか。
英仏の100年戦争も終わったのもつかの間、15世紀後半のイギリスでは、ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって争った。
その「薔薇戦争」では、ヨーク家のエドワード4世がランカスター家のヘンリー6世から王位を奪いとり、平和が訪れるかに思えた。
しかし、ヘンリー6世の弟に生まれたリチャードにはそんな平和にあって悶々としていた。
劇中リチャードが語る言葉にその心情が表れている。
「こんな体に生まれついて、色恋等とは無縁、月足らずでこの世に放り出された。足をひきずって歩けば、犬どもまで吠えかかってくる。
無様な姿を鼻歌にするか。俺はとうてい色男にはなれぬならば決めた、悪党になるのだ」。
リチャードは、自らの身体上の醜悪さを憎み、彼の心を慰めることといえば、「王冠」を夢見ること。
そして、良心を投げうって、ひたすら「悪人」になりとおす決意をし、謀りごとを次々と実行してゆく。
その最初の犠牲者が兄のクラレンス公爵ジョージ。リチャードは病弱で疑心暗鬼の先王ヘンリー6世の耳に「G」ではじまる身内が王の命をねらっていると吹き込んだ。
即刻ジョージは謀反の疑いで捕らえられ、ジョージはロンドン塔へ送られることに。皮肉にも弟のリチャードに「身の潔白」を訴えながら、終焉の地へと向かう。
次にヘンリー6世およびその子エドワードをも殺害。
ヘンリー6世の遺骸にすがって泣く王妃のアンをみて、リチャードはアンをさらなる野望実現のために利用しようとする。
アンは、義父と夫エドワードをリチャードに殺されていたことを知り、はげしい怒りの言葉を投げつける。
しかしリチャードは、王と夫を殺したのは「あなたが美しすぎるから、あなたへの愛ゆえに心ならずも殺人を犯したのだ」といってきかせる。
その上、「そんなに憎ければ自分を刺し殺せ」と、自分の剣をアンに握らせて、その切っ先を広げた胸に当ててみせる。
そんな「芝居」に、アンはまんまと懐柔されてリチャードの指輪を受けとることになる。
こうして、王冠を手にしたリチャードだが、二人の甥(エドワードの子)にあたる王子が邪魔で、刺客を雇って王子を殺し、さらには妻アンをも殺害する。
さらには、ランカスター側のヘンリーが結婚しようとしている先王の娘エリザベスと結婚して王位の安泰を図ろうとする。
しかし、その目論見を見ぬいたリッチモンド公ヘンリーの軍勢に攻められ、悪のかぎりをつくしたリチャード3世は戦死する。
最後に積年の内戦に終止符を打つべく、ランカスター家ヘンリーはヨーク家のエリザベスと結婚し、ヘンリー7世として即位し「テューダー朝」がはじまる。
これほどの悪行をつくしたとされるリチャード3世は、どこか人々を魅了するものがあるようだ。
とはいえ、そもそもリチャード3世は、シェークスピアの劇に描かれたほどに「悪の化身」であったのか。
シェークスピアが戯曲を書いた16世紀後半は、リチャード3世を倒したヘンリー7世の孫にあたるエリザベス1世の治世下だったため、リチャードの悪逆非道ぶりを強く打ち出す必要があったようだ。
また、テューダー王朝の開祖ヘンリー7世が打ち破った相手だけに、王朝の「正当性」を主張する必要もあったであろう。
リチャード3世はヘンリー・テューダーとの戦いで戦死した後、その遺骨の行方は不明で長い間謎とされてきた。
アマチュア歴史家のフィリッパ・ラングレーは、スコットランドで会社員として働きながら二人の息子の母でもあった。
全身の倦怠感に襲われる難病で、さぼっているわけではないのに、仕事に上司に評価されず、葛藤している。家族は別居中の夫、二人の息子。
ある日、フィリッパは息子のつきそいで、シェークスピアの舞台「リチャード3世」を観賞する。
そこで描かれていたのは、いびつな身体に生まれたことを嘆き、残忍にふるまう男の人生。
その姿にフリッパは強く心を揺さぶられる。シェイクスピアの史劇により、冷酷非情な王として名高いリチャード3世だが、その「既成事実」に疑問を抱くようになる。
すると次の日から彼女の前に、リチャード3世の幻影が現れるようになる。
フィリッパは、軽んじられ見過ごされがちな自分と「リチャード3世」とを重ねていたのかもしれない。
そしてフリッパは、500年以上謎とされてき場所場所をつきとめ「リチャード3世」の実像を明らかにすべく調査に乗り出す。
ポール・マレー・ケンドール著書いた「伝記」には、最新の情報源を用いてリチャード3世の人生が書かれていた。それはシェイクスピアの描いた人物像とは「真逆」であった。
そしてリチャード3世は勇敢で忠誠心にあふれ、敬虔で正義感の強い人という充分な証拠があることもわかった。
そしてスコットランドの図書館で、「遺体は衆目に晒されレスターの修道院へ」と書いた資料と出会う。
資料が散り散りになっていたが、さらに調べていくうちに、リチャード3世がレスターにある今は大聖堂となった聖マーティン教会の向かい側に埋葬されている可能性に辿り着いた。
既成事実によればリヤードの埋葬は、惨めな見世物だったに違いない。
フリッパの追跡は映画化されたが、最も印象的なのは、彼女がある駐車場の敷地に立った時、夢か直観か「R」の文字が浮き上がる場面である。
フィリッパは、その駐車場の「発掘許可」と支援を得るために、レスター市の関係者が集まる会合でプレゼンテーションに臨む。
市の職員は、「悪意はないだろうが、ただのアマチュア女だ 感情で動いているしあてになりません リチャード3世が駐車場の下にいるなんて」語っている。
フィリッパが主婦にすぎず専門家ではないと反対の声もあがったが、計画は許可され発掘が始まる。
そして2012年、リチャード3世の人骨が発見される。その「世紀の大発見」は、もともと修道院があった処、「聖歌隊席にリチャード3世を埋めた」という記録に裏付けられたものだった。
記録によると、リチャード3世の身長は170センチ前後で、人骨には武器によ切り傷や刺し傷があり、1485年の「ボズワースの戦い」でヘンリー・テューダーに敗れ、32歳でなくなったリチャード3世の遺骨と判断された。
リチャード3世の実像は劇中に見られるような兄クラレンス公爵、妻アン、二人の甥(エドワード5世と弟リチャード)を次々と殺した証拠は一切なく、勤勉で公正な支配を進めたとされた。
フリッパの調査は2004年に始まるが、40代のすべてを「リチャード3世」に注ぎ込んだといえよう。
インタビューで、女性だから、専門家ではないからという理由で「壁」を感じましたかと問われた。
彼女は、「100パーセントそうだった。プロや門家たちが考えもしなかったことを納得してもうらうには時間がかかり、それでも諦めなかったのは、自分がやっていることがいいものだとわかっていたからです」と答えている。
いいものというは、シェークスピアが描いたようなリチャード3世ではなく、歴史上に存在した本当のリチャード3世を理解することであった。
それが彼女を突き動かし、執念ともなった。
墓を見つけることができれば、かつてのイングランドの王として尊厳と名誉をもって再び埋葬することであった。
DNA鑑定の結果、リチャード3世のものと確認され、遺骨はその後、レスターの大聖堂に埋葬。国王にふさわしい埋葬にしようと地元の人々から多くの寄付がよせられた。
フィリッパ・ラングレーは、遺骨発見の功績が認められ、エリザベス女王から勲章を受けた。
間違いなくフリッパ・ラングレーは、“リチャード3世”と出逢って人生が輝いた。それは、他から定義づけされるのをよしとしない主婦と、世界的な文豪によって定義づけられた人物との、500年ごしの運命の出会いだった。
細川ガラシアは、明智光秀と、妻の煕子との間に生まれた3女で、名を玉(珠)といった。
玉は16歳の時、細川幽斎の嫡男、忠興と結婚する。仲人は織田信長だった。
才長け、情けあり、信仰心強い婦人であったと伝わり、二人はたいへんに仲の良い夫婦であった。
信長の有力家臣の一人となった光秀は、丹波に領地を得て、実に優れた領地経営をした。
光秀はもちろん、玉も「あけっつあま(明智さま)のお嬢様」と領民に慕われた。それが一転したのが、本能寺の変だった。
「謀反人の娘」となった玉は、夫・忠興から、丹後・味土野(みどの)への幽閉措置を受ける。
忠興が、玉を即刻殺さなかったのは、父・幽斎と光秀の「親友関係の配慮」もあったかもしれぬが、忠興も愛していたからだろう。
その幽閉生活が1年ほどたったところで、羽柴秀吉から「大阪の細川家に戻ってよし」の沙汰が出る。
これは本能寺の変直後、光秀からの「(親戚なんだから)味方になってくれ」の要請を断って出家した細川家に対する、秀吉の「恩返し」だったろう。
玉は自宅に帰っても監禁生活が続いた。わが身をめぐる余りもの「変化」の中で彼女がすがったのが、キリスト教だった。
やがて、侍女を通して洗礼を受ける。洗礼名は「ガラシャ」。
まもなく秀吉が死に、徳川家康があとをうかがい、それを阻止しようとする秀吉の忠臣・石田三成の動きが世情をにぎわしていた。
当時、家康は上杉討伐中で、玉の夫・忠興はその討伐軍の中にいた。三成がとった作戦の一つは、討伐軍に参加している秀吉恩顧の家臣らの家族を人質に取り、夫が家康に加担し続けるのを防ぐことだった。
忠興は出発前、玉に「もし、人質の要請があったら死を選べ。細川家のために見事に死んで武士の妻の一念を見せよ」と厳命していた。
もとより、死は怖くなかった玉だったが、彼女は受洗の身。キリスト教では、命はあくまでも神様のもので、自分の都合で始末はできない。
関ケ原の戦い(慶長5年=1600年9月)直前の7月半ば、三成陣営はやはり人質の要請に来た。玉は、夫の言葉に従って、要求を拒否した。
でも、自殺はできない。玉はあらかじめ別室に控えさせていた家来に、自分を殺させた。
1990年、オーストリア国立図書館のハプスブルク家の蔵書200万冊の中から、あるオペラの楽譜が発見された。
「タンゴ・グラーチア」と、その表紙に曲名が記されている。極東の女性が信仰に無理解な夫の要求をはねのけて、「神の道を貫いた」という趣旨のオペラの楽譜だった。
子の楽譜を発見したのは、ザルツブルク大学音楽史研究所の研究員をしていた新山富美子。彼女は、この楽譜を見て「極東の女性は玉」だと確信した。
タンゴは、ジルバやマンボのタンゴではなく、玉の父、光秀ゆかりの京の丹波・丹後地方の「タンゴ」、グラーチアは「ガラシャ(神の慈悲)」。
宣教師の手紙によって、海を越えてヨーロッパに伝えられた「玉の悲劇」は、遠い地で「貴婦人の鑑」と題される音楽劇として人々の胸に刻まれていたのだ。
日本にやってきたルイス・フロイスは、故国への報告書にガラシア夫人について、次のように書き残している。
「夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された」。
新山富美子は、現地の神父から音楽劇「貴婦人の鑑」(脚本)がウィーン国立図書館に在るはずと示唆をうけて、楽譜とともに見つけ出したという。
そして「貴婦人の鑑」が1698年7月31日(聖イグナチウス祝日)に、レオポルド 1 世、エレオノーラ后妃など皇族方の前で初演されたことがわかった。
そればかりではなかった。16世紀から18世紀まで各地のギムナジウムで上演された音楽劇の主題の多くは、宣教地での「殉教」に関するものであった。
イエズス会は様々な手法で海外宣教を行ったが、ハプスブルク家の保護下にあるウィーンのイエズス会では、音楽劇が多くつくられた。
新山の調査によれば、これまで日本の殉教者を扱った劇は、ヨーロッパ各地で150以上の作品が作られ、500回以上の上演記録が、確認されている。
当時の日本では考えられないほど、ヨーロッパ人は日本の殉教者に強い関心を持っていたのである。