「逆まわり」とか「裏返し」とか

トランプ大統領の就任式で、世界のテック富豪が顔を連ね、かつて批判した人物の姿もあった。
この構図を見て、日本の第二次世界大戦前に語られた言葉が思い浮かんだ。
「バスに乗り遅れるな」は、1940年に大日本帝国において近衛文麿首相が中心となって行われた「新体制運動」のなかで語られた言葉である。
「新体制運動」とは、第2次近衛内閣による外交政策で「日独伊三国同盟」が締結され、ヒトラーの率いるナチス・ドイツやムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党をモデルとして、新たな国民組織を結成しようとした政治運動である。
具体的にいうと、明治以来の尋常小学校制の解体(→国民学校)、政党の正式な解体(→大政翼賛会)、労働組合の解体(→大日本産業報国会)といった再編を通して、「国家総動員」による連合国との戦争や、共産主義の阻止を目指すものであった。
当時日本では、諸問題の解決を期待する運動が高まり、当時もっとも勢いのあったドイツにならおうと、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使用されるようになったのである。
それが「日独伊三国同盟」へと繋がるのだが、乗っかったバスが破局に向かっていったことは、周知のとおりである。
一旦ものごとが逆にまわりだすと、想像を絶する結果となる。威勢のいい「大本営発表」を続けたため、ミッドウエー海戦の大敗北以来正しい情報が全く伝わらず、国民を奈落の底に突き落としたように。
日本経済に目を移しても、「バブル経済」は多くの人びとが「バスに乗り遅れじ」と、株や土地に資金を投下したためである。
1980年代に地価がじりじり値上がりして「土地神話」が出来上がり、その上に住宅専門金融会社という「ノンバンク」による制限のない貸出がおき、株や土地の価格が異常高騰した。
またアメリカでは1990年代に、住宅価格の値上がりを前提に組まれたサブプライムレートが破綻し、中国でも2020年代に不動産バブルがはじけ、経済は減速している。
金融というものは、担保となる土地や住宅の価格が急落すれば、すべてが焦げ付き、連鎖的な損失が災害的な損失をもたらすことになる。
2025年1月第二次トランプ政権が誕生し、世界的なテック企業がAI投資のために争うように資金を出した矢先、中国の「デープ・シーク」が従来の10分の1のコストで最先端レベルのAIを作ったというニュースがあり、アメリカ最大手の半導体メーカーであるNVIDEAの株価が急落している。
AIの世界にあっては、人々は、安くて使いがってのいいものを選ぶので、1980年代に日本車が世界を席巻した時のように、中国製が世界的に売り上げを伸ばせば、アメリカへの投資資金は引き揚げられたり、先細りになっていく可能性もある。
不動産王トランプは、今や関税王として経済理論を無視したようなディールを行っているが、「予測不能さ」は先行きの不透明感を増して、世界的な投資を縮小に向かわせる。
トランプ大統領は、貿易収支の赤字を「悪」とみているようだが、 それは絶対王政(重商(重金)主義の時代)の理論で、国王が商人と結んで輸出と輸入の差額で国庫に金を蓄積させ、それによって自らの富や兵力を蓄えた時代の理論である。
国民は、輸入を自由にして、安くていいものが外国からはいってくれば、それによって潤うのである。
国王と商人が豊かになるのではなく国民が豊かになる理論こそリカードの「自由貿易論」である。
トランプ大統領はかつて世界一の企業であったUSスチールを日本への買収に反対するのも、アメリカのノスタルジーに訴えているように感じられるが、実をとるより「名」をとる側面をもっているようだ。
こうしたトランプ政策に対して、逆風が吹き始めると、黄金時代どころか「トランプ恐慌」が世界を襲うことにもなりかねない。

政治の流れや経済の情勢に「逆まわり」があるように、「精神面」においても、それが起きることもある。
アメリカは「原罪」を背負った国である。
というのは新大陸を発見して、そこにいたアジア系の住民を殺戮したり追放したりして、自分達が住みついたという意味での「原罪意識」である。
そこで、自分達がやったことと同じことを誰かにやられるのではないかという意識がどこかにあり、それが「黄禍論」として深層に渦巻いているのである。
アメリカはペリー提督率いる四隻の「黒船来航」によって日本を開国させた。
反対に日本もアメリカをある意味で開国させたといったら意外に思うかもしれない。
パールハーバーによって、新大陸にのみ心を傾けていたアメリカの目をようやく外に向けさせた。
つまりアメリカに、伝統的な「モンンロー主義」(孤立主義)を決定的に捨てせたのだ。
ついでにいうと、イギリスは1902年、日英同盟によって「光栄ある孤立」の立場を捨てている。
最近ではF・ル-ズベルトがパールハーバー襲撃を事前に知っていたことが定説になっているが、宣戦布告の事前通達は事務上の行き違いから遅れた結果「奇襲」となってしまい、アメリカ国民を怒らせ戦いへと奮起させる結果となった。
F・ル-ズベルトも、国民を奮起させる意味で、ことがあまりにうまく運びすぎて、ふんどしではなく、緩んだベルト(ルーズベルト)を締め直したにちがいない。
しかし、日本の急襲もハワイ州までが限度で、アメリカ本土を襲ったわけではない。
その点、2001年、911テロは、ニューヨークのシンボルといってよい世界貿易センターが襲われたことは、相当なショッキングなものであったと推測できる。
それは、アメリカの心理的深層部分「自分達が人にやったとことを、人にやられる」という不安を煽ったに違いない。
それは、自分達が(アジア系)先住民を殺害をして国作りをしたという「逆トラウマ」みたいなもの。
アメリカのような大国どうしてそんな不安が生まれるのかという疑問もおきようが、アメリカの建国の父祖達はその不安と戦いながら大陸を開拓していった。
それも清教徒(ピューリタン)が、聖書にある「千年王国」の如き理想を目指して、まるで清新(ピュア)な世界から不純物を排除するかのようにして住み着いたのである。
パスカルの言葉に「人は天使でも悪魔でもない。ただ天使のマネゴトとをしようとして悪魔になる」というのがある。
開拓期にはボストン近郊で「魔女狩り」などヨーロッパ中世を思わせるような蛮行も行われている。
そして、自分達が開拓し住み着いた所に別の新たな集団がやってきて、その土地を明け渡さなければならなくなるという不安は常につきまとい、それは現代にも受け継がれている。
日本の高度経済成長の時代にアメリカで映画「猿の惑星」が作られ、またメイド・イン・ジャパンの家電製品がアメリカで氾濫し始めた頃、「グレムリン」がつくられた。
名前がロシアの王宮クレムリンに似ているが、彼らの襲撃や悪戯が、アジアにある一国のオボロゲな影をまったく意識してはいないとは言いきれない。
なぜなら戦時中から日本人は「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと呼ばれていたからだ。
さて、パールハーバーのもう一つの側面は、この出来事によってようやくアメリカは一つになった。つまりアメリカは本来の意味で「ユナイテッド・ステ-ト」になったということだ。
アメリカはそれにアジをしめたのか、その後も自らの価値に反対するが如き「敵」を絶えず探し、時に「創出」することによって国を固め国力を増大させてきた。
レーガン大統領は、かつてソビエトを「悪の帝国」ときめつけて対決姿勢を強めたし、ブッシュ大統領がフセインのイラクを「悪魔」ときめつけた。
ソ連が崩壊後、アメリカ的価値捻出の「焦点」がボヤケはじめると、「エイリアン」や「未知との遭遇」など敵を地球人ではなく「異星人」にした映画が作られた。
さてトランプ大統領の支持基盤であるアメリカ福音主義は、キリスト教原理主義ともいう教えがある。それは聖書のヨハネ黙示録のある「千年王国」を世界で実現すべく「使命」を担うというものである。
この「マニフェスト・デステニ-」(明白なる使命)が、「アメリカの正義」の根拠となっているのである。
この言葉は元々、アメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語であった。
アメリカは原住民を殺戮したり追い出したして住みついて出来上がった国であるが、結果的にそこに「千年王国」なるものを実現することになれば、それは正義に反することではないということになるのである。
アメリカの「正義による武装」たるや、広島や長崎の原子爆弾投下でさえも、戦争を終結に導いたものであり、それにもとるものではないというほどの意識なのである。
このアメリカはこの地に(さらに世界に)正義を実現すべく導かれた「マニフェスト・デスティニー」の国であるという意識を持つに至る。
ソ連崩壊後その意識はさらに助長され、1990年代に「ネオコンザーヴァティブ」とよばれ、軍事産業のロビイストとして軍事的拡張をめざしてきた。
しかし、結局アフガンからの後退などでその勢いは止まるっかに思えたが、トランプ大統領の二度目の就任演説でこの「マニフェスト・デスティニー」という言葉が登場した。
しかし、トランプのいう「マニフェスト・デスティニー」は、ガザやウクライナや北朝鮮でさえも、リゾート開発の土地とみなして進出したいいだけの話で、かなりニュアンスが異なる。
それは、人類が歴史的に積み上げてきた国際秩序の多くを無視する姿勢からは、自ら「自国ファースト」をかかげるとおり、世界的な「使命感」などは微塵も感じさせない。
例えば、南部国境に国家非常事態を宣言した不法移民対策や、「掘って、掘って、掘りまくれ」と化石燃料に回帰するエネルギー政策の転換ばかりではない。性別を男女だけであると断定し、メキシコ湾を「アメリカ湾」に変更するなどである。
大統領の頭にあるのは、ビジネス的な損得勘定であり、それは戦争を終わらせるという点でも「ノーベル平和賞」が年頭にあることは、しばしば指摘されるところである。

アメリカ建国の精神は「ピューリタリズム」である。
ピューリタン(清教徒)は、スイスのカルバヴァンが説いたもので、イギリスではピューリタン、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、スイスでは改革派、スコットランドでは長老派などよばれた。
1620年、カトリックやイギリス国教会の弾圧を受け、イギリスよりメーフラワー号で101人が、アメリカのボストンに近いプリマスに上陸した。
彼らは上陸まもなく、新しい政府のもとで国家をつくる誓いをたてたことから、このことがアメリカ建国の発端とされる。
さて、資本主義経済のスプリング・ボードは、カルヴァンが説いた「予定説」という信仰である。
キリスト教では、救われるかどうかは信仰の深さとか立派な行動と思いがちであるが、カルヴァンによれば天国にいけるかどうかは、あらかじめ決定してるという。
それの根拠となる言葉は、いくつかあるが、例えばパウロの次のような言葉であろう。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(ローマ人への手紙8章)。
カルヴァンによれば神というのはものすごく超越的なもので、その御思いを、人間がごときが想像してわかるものではない。
この考えがどうして「資本主義」と結びつくかだが、その点にカルヴァンの教えが最も特徴的に現れる。
人は「誰が選ばれているか」わからない。信者は自分が神に選ばれている人間かどうか、何の証拠もない。
カルヴァンによれば、その手がかりこそが財を築くこととしたのである。
すなわち、経済的な成功は神の祝福の表れであるからである。こんな奇怪な考え方だが、台頭しつつある商工業者にとって、「清貧」を重視するカトリックよりも受けがよい。
カトリックでは、必要以上の富は教会に捧げることが神によろこばれるという信仰なので、カルヴァン派は弾圧されることになる。
カトリックでは、経済的な「投資」という観念に対して抑制的ともなる。
さて人間心理をよくよく考えてみると、カルヴァンがいうように「誰が救われるかはわからない」と言われた時、なんらかの信仰をもとめる人ならば、自分はどこかで神に目を留められていると思いがちである。
人間というものは地震や津波が起こっても自分だけは助かると思いがちなので、こと「救い」に関しても「自分だけは」ということになる。
少くとも、「カルヴァン」の教義に少しでも反応するのは、そういう人々だったにちがいない。
「自分は神に選ばれているに違いない」から一生懸命に勤勉によって「蓄財」に励んで救いの確信を得よう。
また、各自が仕事を「天職」と受けとめるならば、成功する可能性は高い。
カルァンの「予定説」は一見奇妙な教義だが、はまった人にとっては結構「自尊心」をくすぐられるのではないか、と思う。
しかし、ピューリタンの教義を逆回しにすると、アメリカという自由の国での「貧困」は単なる貧困ではない。
それはとりもなおさず、神に「選ばれていない」ということになる。そんなはずではなかった。
「蓄財」こそが「救済」の予定(保障)なのだとしたら、逆に「富の喪失」は単に財産を失うこと以上の意味があるのではなかろうか。
1930年代の初頭、アメリカで大恐慌がおきた時、ウオール街で多くの自殺者がでた。キリスト教では「自殺は罪」であるのにもかかわらず、である。
それは単に財産を失ったということではなく、自分には神の「選び」はなかったという絶望感ではなかったろうか。
トランプ大統領はその絶望感から抜け出してくれる仄かな希望となった。
それは、黒人チャンピオンに挑む白人タフガイの物語、映画「ロッキー」の構図にも連なる。
黒人に仕事が奪われた白人労働者が誇りを取り戻すためには、「白人優位の世界をもう一度」ということなのだ。
トランプ大統領とイーロン・マスクを結びつけているのは、まさにこの点である。
南アフリカ生まれのイーロン・マスクは、南アフリカに白人の国をつくったセシル・ローズとも比肩されている。
ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立し、翌年広く鉱山開発権を獲得し、「ローデシア(ローズの家)」と名づけた。
今日のアメリカ人心理は、「予定説」が逆まわりし、絶望感が主に白人労働者を覆い、「原罪意識」が裏がえった「マニフェスト・デステニー」が大統領によってビジネス色(損得)を帯びているということか。
また、かつてのネオコンが外部に「仮想敵国」を作って拡張行動を正当化した一方、トランプ大統領は「陰謀論」によって「内部の敵」を作り出して、権力行使を正当化している。
そしてアメリカン・ドリームは幻と化しつつある。