食糧難と食の壁

2023年年頭のNHKの番組で、フランス最高の知性といわれるジャック・アタリが日本の未来についてふれていて、その内容はショッキングであった。
それは、気候変動による飢饉・干ばつの頻発から、”昆虫や雑草”さえも、食生活に入れることを視野に入れておく必要があり、農業に誇りをもたせ「食糧自給率」をあげることをしないと、日本はなくなると。
「日本がなくなる」とは随分ないい方だと思ったが、日本人はそれくらいいわないと、危機意識をもてない国民ということをご存じなのだろう。
2025年に入ってからの食料品の値上がりをみるとアタリの指摘がアタリ、現実味をおびている。
米の減反政策の転換は当然のこと、食の偏見つまり「食の壁」も問われることになる。
日本では、昔からイナゴや蜂の子(スズメバチの幼虫)を食する地域があり、貴重な「タンパク源」として知られている。
日本で食糧危機が直面したら、昆虫食は「虫唾が走る」などといって避けてばかりではいけない。
また、江戸時代に大きな飢饉を体験した日本では、「食糧難」に対応するために、様々な郷土食を生み出しており、その掘り起こしも重要であろう。
ただ、救荒食品として生まれた食品が日常食になっているケースも少なくない。
八代将軍・徳川吉宗は、享保の改革で救荒策としての「甘藷(サツマイモ)栽培」の推進を行ったが、長崎県の島原半島周辺や対馬に伝わる郷土料理「六兵衛」は、サツマイモから作られたでんぷんを麺にして、醤油味のつゆで食べる料理である。
江戸時代に島原で飢饉が起きた際、島原半島にあった深江村の六兵衛という名主が保存していたサツマイモ粉を食べる方法として、麺状に加工する調理法を考案したことから、この料理に「六兵衛」という名がついたと言われている。
我が地元の福岡には「おきゅうと」という郷土料理がある。「おきゅうと」とは、エゴノリやテングサなどの海藻を干したものを煮溶かしてから、酢などを加えて固めて作る。
おきゅうとは漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などと表記されるが、その内「お救人」という名については、享保の大飢饉の際にこの食べ物が考案されたため、そう呼ばれるようになったと伝わっている。

2013年「和食」が世界文化遺産になったが、それ以前に世界において日本食という未知の食品に対する偏見は結構あったが、そうした「食の壁」にいわば風穴をあけて、現地の人々の生活支援をした日本人がいる。
タイには山岳民族あるいは高地民、山地民と呼ばれる少数民族が北部山間部を中心に住んでいる。
カレン、リス、ラフ、アカ、ヤオ、モンなど10種の民族が、現在では約100万人といわれている。
もともとタイの住民ではない後住民族がほとんどで、この100年間に山伝いに、あるいは川を越えて、政治的、経済的な事情により、ミャンマー、ラオスから入ってきた人々である。
それぞれに民族の不幸を背負ってこの地にやってきたのであろうが、興味深いのはそれぞれ独自の伝統文化・言語を持ち、特にその民族衣装はそれぞれに特徴があり、意外に華やかであることだ。
しかし、中にはアヘンの原料であるケシを栽培して生計を立ててきた人々もいたがが、現在ではケシの栽培も、森林伐採と山焼きによる耕作地の開拓も禁止されている。
多くは、不安定な収入で、貧しい家庭も多く国籍を持たない人が3割をしめ、タイ語が不自由な人も多いため、かろうじて生計を立てている感じである。
まだ村に学校のないところもあり、小さい頃から親元を離れ、民族の伝統文化を受け継ぐ機会を持たない子供たちや、ふもとで仕事を転々として、自分を見失う若者も増え、山岳民族としてのこれからの生き方が問われる。
そんなタイ北部の山岳少数民族で「村の救世主」としてあがめられている日本人がいる。
チェンライの山の中にあるルアムジャイ村を変えた和歌山県で農業法人に勤める大浦靖生である。
今から10数年前、青年海外協力隊でタイ北部の山岳地帯の貧しい村を訪れた大浦は、現地の村人が3度の食事もろくにとれずに、若い働き手は村の外に出て出稼ぎに行かなくてはいけないことを知った。
ところがある日、村に梅の木があるのを発見した。
村では日本と違い梅を食べる習慣がなく、梅の実はそのまま放置しているだけであった。
大浦は、自分が日本から持って行った梅干しを村人に食べさせて、それを作ることを激しく勧めた。
初めて食べた梅干し、村人はショッパさと酸っぱさに驚く。
こんなものを作ってお金になるなど信じなかった。
それでも大浦は一生懸命村人を説き伏せ、「梅干し」の作り方を一生懸命教えた。
そして青年海外協力隊の期限がきて、大浦は日本に帰国した。
村には電話もなく、大浦は村がその後どうなったか、全く知るら便(よすが)さえなかった。
ところが、村で作った「梅干し」は、タイの首都バンコクなどのスーパーで日本人向けの商品の梅干しの中で、1番人気の商品にまでなっていた。
梅干しを作った収入で、貧しい村の建物の屋根は茅葺きから瓦葺きになり、テレビやバイクやパソコンまで買えるほどに、村の暮らしは豊かになっていたのである。
最近、民放テレビ局の尽力で、ルアムジャイ村の村長と梅干作りのリーダーが和歌山にやってきて、大浦と感動の再開を果たしている。
1人の青年が落とした「種」がこんなにも大きくなっていようとは。

日本人とタコ食の歴史は大変古く、弥生時代の遺跡からは、タコ壺と思われる土器が出土している。
そのため、弥生時代には、すでにタコが食べられていたのではないかと考えられている。
和食においても、タコは広く使われ、現代日本人にとって「タコ焼き」はおやつとして馴染んでいる。
アフリカ北西部に位置するモーリタニアは、人口はおよそ300万人。国土の9割は砂漠で覆われており、砂漠と大西洋に沈む夕日を楽しめる。
平均月収はおよそ2万ウギア、円に換算すると7千円弱である。
2011年のある日、モーリタニアにある日本大使館に、ひとりの男性がやってきて、「私は日本の友人です」と全額は5千ウギア。日本円だと1700円を渡した。
その後も多くの国民が寄付をするために日本大使館を訪れた。その誰しもが「日本人への恩返し」と口にした。寄付金は総額4570万円にものた。
それは東日本大震災への寄付金で、彼にとっては月収の4分の1にも当たる大金でしあった。
なぜ遠く離れた日本のために、彼らはそこまでしてくれたのか。
1960年、アフリカの植民地が相次いで独立、アフリカの年とも呼ばれている。
他の国と同じくモーリタニアもフランスから独立を果たしたが、国を支える主な産業がないため、国民は貧困に苦しんでいた。
この独立間もない国に救いの手を差し伸べたのが、当時の日本政府であった。
水産庁、外務省が全面的に協力して、モーリタニアの漁業を振興してほしいと、一命を受けたのが、当時26歳であった中村正明であった。
中村はJICA及び海外漁業協力財団から派遣されて、世界各地で漁業指導を行っていた。
当時のモーリタニアは、大西洋に面しているのにも関わらず、漁業という産業が存在していなかった。
主食は羊やラクダなどの肉。魚介類を食べる習慣がなかったのである。
人々の貧困生活を目のあたりにした中村は、日本の漁業技術を教え、国を豊かにしょうと考えた。
しかし、本格的漁業を立ち上げるには、金もモノ(船)もヒト(漁師)もいない。
それはたった一人でのプロジェクトであった。
彼はさっそく、海の近くの住民を集め「「絶好の漁場があるので、明日の朝4時ここに集合してください」と言った。
それでも中村は、あきらめず、みんなで漁業をやろうと説得したものの、住民らは「魚なんて売れるわけがないさ」と誰も彼の話を聞こうとはしなかった。
中村は嘆きをおぼえたが、今度は住民一人ひとりに対して漁業の必要性を熱心に説いた。
訴え続けること3カ月、なんとか3人集めることができた。
「これで前にすすめる!」と思った中村は、集まってくれた3人に次のように語った。
「この中に魚が入って、これを上手く獲れたら皆さんの生活が潤うんです。わかりますか」と語ったものの、中村の指導によってなんとか魚は獲れたものの、まだまだ漁の初心者。
船も小さいものしか用意できず、思っていたほどの成果は上がらず、せっかく集まった人たちも一人、また一人と去って行った。
中村が肩を落としたその時、目に入ったのが、海岸に捨てられているタイヤであった。
タイヤを手に取って中を見た中村は、「これだ!」とひらめいた。
そこには生きたマダコがいたのである。モーリタニアの海には、上質なマダコが多数棲息していることに気づいた。
国を救う一大産業になる可能性を見出した中村はワクワクしながら、「今日からタコ漁を始めましょう!」と語った。
しかし住民は思いがけない反応を示す。
「そんな気持ち悪いもの、獲ってどうするんだ?」
彼らはタコを食べないどころか、タコは「悪魔の使い」として触ることすら嫌がっていたのである。
中村が「あなたたちが食べなくても、他の国に輸出できるんでというと、「そんなもの、どうやって獲るんだ?」と帰ってきた。 中村は日本には「いいものがある」と答え、日本から「タコ壺」を取り寄せた。
これならタコに傷がつかず、漁法も壺を沈めて引き上げるだけなので、素人でも漁をすることができる。
タコ壺をためしに使ってみると、初日にもかかわらず、中村の予想通り、良質なマダコが20匹も水揚げされた。
当時の相場だと、売値はおよそ2万7千円。モーリタニアでの平均月収4カ月分、米なら100キロ以上買える金額であった。
「こんなにもらっていいのか?」と住民たちは驚きを隠せなかった。
その後、住民たちはやる気をだし、タコ漁師の収入は公務員の5倍にも達し、漁をする人たちが続出した。
さらに、現地でタコ壺製造工場が20カ所以上も誕生し、漁以外にも新しい産業が生まれた。
いまやモーリタニアの水産物輸出のおよそ86%がタコで、日本が輸入するタコの35%を占めており、堂々のシェア1位!!
スーパーマーケットではモーリタニア産のタコをよく見かける。
タコの売り上げによって入る外貨は、年間100億円以上になる。
タコ漁はモーリタニアの主要産業に成長し、今では国の収入の約半分を占めている。
中村に「タコは悪魔」といっていた村長は、今や人前でタコにキスをするほど”タコ好き”になっていた。
そういえば、南米から伝わったトマトをヨーロッパ人は「悪魔の食べ物」として恐れ、なかなか食べようとしなかったが、今や西洋料理に欠かせない食材になっている。
中村は、当時のことを振り返って、次のように語っている。
「本当に忘れられない国となりましたね。今、モーリタニアと日本との間で、絆がうまれ、日本の遠洋マグロ船団を、特別に自国の海域に入れてくれています。それもやはり、モーリタニア政府の日本に対するお礼だと思います」。
中村は、モーリタニアに住んだ最初の日本人でもある。 2011年には、モーリタニアの大統領から、国家功労勲章というのを授与された。
モーリタニアで最も有名な日本人となり、人々は感謝を忘れることがない。
そればかりか子供に中村さんの名前を付ける人が増え、「ナカムラ」「マサアキ」さんが沢山いるという。

”完全アウェイ”という言葉があるならば、雲田康夫のビジネスほどぴったりあてはまる言葉はない。
アメリカの地で英語はまったく出来ず、アメリカ人が大嫌いだった「豆腐」をアメリカ全土に普及させたのだから。
それは雲田の豆腐にまつわる成功と失敗の物語から始まった。
雲田の成功とは、保存期間の長い豆腐を開発したこと。失敗とは、売れ行き間違いなしと思っていたら、既存の豆腐屋の大反対が起こり、発売が中止になり在庫のヤマとなったこと。
会社でこの在庫の山をどう処理するか、雲田がアメリカで売ったらどうかと提案したら、なんと雲田自身が売り込み役を命じられる。
盛大な送別会でアメリカへと送り出されるが、自分の尻拭いは自分でヤレということだったのかもしれない。
1985年に渡米、現地法人を設立し豆腐の販売を開始した。
雲田は、身振り手ぶりで豆腐をアメリカ人に試食させたら、古びた靴下の匂いがすると露骨に吐き出す始末。
たまに豆腐を買う人がいて聞いてみると、ペットフードにするのだという。
一番苦しかったのは、1988年にUSA Todayの記事で「アメリカ人の嫌いな食べ物」としてトーフが一番になったこと。
当時のトーフの不人気を象徴する出来事がいくつかあり、フードショーに出展して、忙しさのあまり商品を路上に置き忘れたが、盗まれもせずに放置されていた。
ロスアンゼルスの暴動では、略奪者にも見向きされず、手つかずでそのまま残ったことなど。
簡単に豆腐が売れるとは思わなかったが、思ったよりも苦戦は長引いた。
家族を呼び寄せるも、子供達2人は学校になじめない様子で、雲田は次第に追い詰められていった。
そんな中、「救い」は一人のアメリカ人の夫人との出会いからやってきた。
大量に豆腐を買い込む夫人に、雲田はどうやって食べるのかと聞くと、豆腐とフルーツをミキサーしてシェイクにするという。
このシェイクを各地で紹介すると大好評で、ようやく雲田は手応えをえた。
そしてこのシェイクを知ったインド人のシク教徒が、豆腐シェイクという健康食を評価し、大量に買ってくれた。
これならスーパーに豆腐を置いてくれると頼みにいくと、棚に置いてもらうのにも相当な金が必要で、会社にそれを訴えると、自分でなんとかしろと冷たい返事。
渡米の際に、会社側が資金を出すので心配はいらないというのはまったく当てがはずれた。
行き詰ったかに思えた時、雲田にはひとつの考えが閃いた。
今まで買ってくれた豆腐の顧客名簿の人々に、手紙と封に10ドル札一枚をいれて、豆腐を近くのスーパーにおいてくれと頼むように依頼したのだ。
それが功を奏して、豆腐は各地のスーパーに置かれるようになっていく。
そして、クリントン大統領夫妻が豆腐をダイエットに食べているというツイードで、健康食品のトーフは全米にブレイクした。
雲田は英語力なしで、アメリカ人という他者をつき動かし、「豆腐愛好者」に変えてしまった。
売れるまで粘り続けた雲田は、自らを「豆腐馬鹿」といい、人々は雲田を「ミスター トーフ」と呼んだ。
雲田康夫は、コミュニケーション能力の極致が言葉の壁を超えて、「感動を伝えること」であることを教えてくれる。