「廃墟」からのメッセージ

2024年10月、「日本原水爆被害者団体協議会」がノーベル平和賞を受賞したが、今現在、核開発が覇権国家の力の証明であることは、少しも変わっていないようだ。
2025年3月に米ニューヨークで開かれる「核兵器禁止条約締約国会議」へのオブザーバー参加を政府が見送る方向で調整に入ったことについて、参加を要請していた被爆者団体などからは落胆の声が上がっていることでもわかる。
ただ、被団協のノーベル平和賞の意義は、核戦争の悲惨さ伝えその廃棄を訴えたというばかりではなく、それが様々な戦争での壊滅的な地域への「復興のメッセージ」にもなっている点に注目したい。
2024年10月11日ノーベル平和賞受賞の一報を聞いた直後の会見で、日本被団協の箕牧智之(みまきともゆき)代表委員は、ほっぺたをつねりながら、「ガザの団体が受賞すると思った」と述べたことにも表れている。
そして「ガザがね、子どもがいっぱい血を流して抱かれている、80年前の日本と同じ、重なりますよ」と述べて、涙ぐんで絶句した。
その箕牧氏の印象的な姿と言葉は、世界各国で広く報道され、共感を呼んだ。
「被爆者」とは、世界の戦火の下の苦境を共にする人々のことである。とするならば、ウクライナやガザの傷ついた人々にとって、そこからの「復興」ことが、希望の灯であるにちがいない。
原爆の惨禍の後の後遺症に悩みながら、なお被爆証言活動を中心とした広範で長期にわたる平和運動を集合的に行い、市民をまきこむことができたことが、「復興」への強い後押しになった。
実際、中東やウクライナで日本のアニメが人気なのは「奇跡の復興をとげた物語」として読まれているからでもある。
近年のニュースでは、ウクライナでは「セーラームーン」、ガザでは「進撃の巨人」が人気で、人々はつらい戦火の中でそれらを支えに生きている人々が少なくないことが報道されている。
日本の「奇跡の復興」を世界にもっとも印象付けたのが1964年、東京オリンピックであった。
この大会で、聖火台に登って点火した選手は、原子爆弾がおちた日 を誕生日とした広島生まれの早稲田大学の長距離ランナーであった。
広島の平和記念公園内の慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」という言葉には「主語」が ないということが当初から言われてきた。
「主語」がないというのは、責任をあいまいにするという批判もああったが、被団協の活動は自分たちが受けた被害を普遍的な人類の犯した過ちとした点で高い価値を有するものではなかろうか。
原爆の惨禍の後の後遺症に悩みながら、なお被爆証言活動を中心とした広範で長期にわたる平和運動を集合的に行い、市民をまきこむことができたことが、「復興」への強い後押しになった。
南アフリカのアパルトヘイトと戦ったネルソン・マンデラの次のような言葉を思い起こした。
「成功するまでは、不可能に思えることがある」と"夢"の重要さを語り、大統領就任演説ではガンジーの言葉「弱い者は赦すことができない。赦しとは強い者の性質なのである」を引用して、"赦し"の大切さを訴えた。
戦後直後の広島の人々にとっては、復讐こそが、共通の心情であった。
広島で平和記念公園が建設されはじめ、その目の前に「100メートル道路」が建設され始めたとき、市民は一様に批判的だった。
そのときに流れた噂は、道路は実はいずれアメリカに復讐を果たすために使う飛行場の滑走路だ、というものだった。
その真意を公に明らかにできないために、道路であると偽っているという、噂が流れるほどであった。
草も木も生えないと言われた土地に残った多くの人々が広島を離れ、放射能汚染の偏見を恐れて違う町の出身だと偽り、違う町で暮らしていった。
それでもなお先祖伝来の土地に残った人々は、強い思いを持っていた。時には、訪問者にも、恨みの視線を送ることもあったかもしれない。
外国人に向けた証言活動も行われていて、やがて人々は、アメリカへの復讐心を、平和を願って奇跡の復興を果たす、という目標に置き換えて、努力を続けていくようになった。
2016年にオバマ米国大統領が広島を訪問した際、広島市民は、歓喜して沿道に集まった。
涙を流して手を振る高齢者の姿などが、目についた。外国人ジャーナリストの中には、「謝罪を要求するのかと思ったら、泣いて喜ぶというのは、いったいどういうことなのか」という思いを抱いた人もいるという。
広島市民は、復讐を試みることなく、草も木も生えないと言われた町を奇跡的に復興させる偉業を通じて、その偉大さを、アメリカ大統領に痛感させた。
その町を誇りに感じさせる感覚が、そして自分と自分の先祖の苦闘が報われた、と実感する感覚が、広島市民に涙を流す感動を与えたのかもしれない。
オバマ大統領と被爆者の代表者のひとりが抱擁するシーンもみられた。
もしも、広島が当初予測されたように「100年、草も木もはえない都市」のままだったら、このような場面をみることはできいなかったであろう。
世界中で知られている被爆者の方々の普遍主義的な平和運動は、被爆者一人一人の苦悩と努力の積み重ねの上に出来上がったものである。
そのひとつが、キュ-バには革命の英雄チェ・ゲバラは、キューバ革命から半年後の1959年に広島を訪れた。
当時31歳のゲバラは原爆資料館を訪ね大きな衝撃をうけた。
ゲバラはその時に撮った慰霊碑を写した一枚の写真を革命の朋友カストロに見せ、ぜひ広島を訪問するようにすすめたのである。
そして2003年3月にカストロ議長は広島を訪れている。
もちろん核の意識の高さの背景には、カストロ政権下でおきた「キュ-バ危機」の記憶があるからだ。
キュ-バ危機は、1962年ソ連がキューバに核ミサイルを突然配備しそれに対してアメリカのケネディ大統領が、核ミサイルを撤去しなければ核戦争も辞さず、と対抗し、ソ連は核ミサイルを撤去したという出来事である。核戦争一歩手前にまでいったキューバでは、毎年8月6日にカストロ議長自ら演説台に立ち日本の被爆者を偲び、「この日を忘れてはいけない」と訴え続けている。
また中学校の授業では、歴史の時間に日本の原爆を勉強したり、毎年テレビなどは朝から原爆関係の映像を流し、慰霊関係の行事も頻繁に行われている。

2025年2月4日、広島交響楽団(2004年~16年)の音楽監督を12年間務めた秋山和慶が84歳で亡くなった。
秋山は、世界と対話できるオーケストラを被爆地で育てることに特別の使命をもっておられたという。
後継者の下野達也によれば、「オーケストラをあずかるということは、独裁者になるのではなく、楽団のひとたちのことをよくわかる 人間になることなんだよと言われた」という。
そして「指示をだすまえに、相手の心を聞くのだと、奏者たちの心も、そして、そのオーケストラのある地域に暮らすひとたちの心も」という言葉を胸に刻んだ。
この秋山のいう「地域に暮らすひとたちの心」とは、広島市民に秘められた、いまだ癒えることなき被爆からの復興を指している。
また前述のマンデラはラグビーを通じて、スポーツが宗教と同じように人々をひとつにすることを述べている。
資金のないところから「樽募金」までして広島カープ創設の努力をしたことを見逃すことはできない。
さて、広島が「恒久平和都市」として復興するために大きな力となったのが、「広島平和都市建設法」の制定である。
憲法に「地方特別法」というのがある。住民の3分の2の賛成があり、国会の承認されれば、国の予算がつく。
法律であるから、条例とは異なり国の予算がつく。
今までのところ広島県・長崎県・沖縄県の3県のみであることからもわかある。
広島・長崎は原爆の被災にあったこと、沖縄は長く米軍の施政下にあり、本土との格差も考慮し、振興策に予算がついたものである。
「広島平和都市法」の成立に大きな役割を果たしたのが、広島を地元とする参議院議事部長をつとめていた、寺光忠である。
寺本は終戦の4年後、地元の議員からある相談をもちかけられる。
広島の復興のために国家はなんらかのことをしてほしいと請願し続けてきたが、その効果がまったくあがらない。なんらかの方法はないかという相談であった。
国は全国各地が破壊され困窮するなか、広島だけを特別扱いするのは難しいという主張を繰り返した。
寺光も、被爆直後の広島の惨状を目の当たりにして復興になんとか役立ちたいと考えていた。
そんな寺本の脳裏に浮かんだのは、戦後に新しく生まれた憲法の92条の条文で、それを生かしてはどうかと提案した。
それは「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は法律で規定する」という内容だった。
広島市長以下関係者が集まり、寺本が憲法95条の説明をして、広島市だけの法律をつくりたいと提案した。
さらに法案をつくるにあたって、憲法の前文にうたわれた理念をかかげることにした。
「恒久の平和」という理念と理想を広島市というひとつの都市の具体的な姿においてこれを実現させていくというものだった。
広島市民の多くが何らかの傷跡を負って投票所に向かい、投票率65%で賛成票は9割にのぼった。
そして成立した法律は、「広島平和記念歳建設法」。わずか7条からなる短いものであったが、「平和都市」をつくるための事業に国が財政的援助を与えることなどが決められた。
法の草案者である寺光忠は、恒久の平和を願う日本国民の理想の象徴として恥ずかしくない文化都市を築きあげるという理念を掲げて法律をつくりました。
かくして、わたくしは思う。 「足を一たび広島市にふみこめば、その一木一草が恒久の平和を象徴して立っている。石ころの一つ一つまでもが、世界平和を象徴してころがっている。平和都市の名にふさわしい国際平和の香気が、全ヒロシマの空にみちみちている」。
市民が参加した法律が出来たことで一体となってすすむことができた。誇りをもったかたちで建設法を推進していける基盤ができたのである。
そして、平和公園や平和大通りがつくられたが、この都市計画の具体案については広島市長のビジョンが大きく作用した。
被爆時点で浜井市長は、「配給課長」の役職にあり、自らも原爆症に苦しんでいた。
そして浜井市長の最も優れていた点は、単なる「復興」ではなく未来を見つめていたこと。そして、広島を戦後平和さらには「世界平和のシンボル」としようとした点である。
そこには、廃墟となった街をどのような街に蘇らせるかという「都市計画」や、さらには「平和都市」広島としての街づくりへの構想が含まれていた。
浜井氏は広島を戦後「平和」のシンボルとして、その復興させることがいかに国にとって大事なことか説いたが、なかなか予算を獲得することができなかった。
そして、自分が市長をしても意味がないのではと、何度も「辞職」を考えたと綴っている。
そうしたある日、GHQに働きかければ何とかなるのではとヒラメいた。
当時のGHQの国会担当に「法案」を見せたところ「素晴らしい」という応えを受けた。
これを機に「広島平和都市建法」実現へと歯車が動き出したのである。
しかし、人々の気持ちはいまだにバラバラだった。
百年は人が住めないといわれたこの焼け跡を本気で復興するつもりか。
どうせ金を使うなら、この焼け跡はこのままにしておいて、どこか別のところに新しい町をつくることを考えてはどうかといった意見もあった。
また一方で、市民の住みなれた土地に対する執着を断ち切るのは、そんな生やさしいものではない。
たとえ行政がどうあろうと、計画がどう立てられようと、彼らは自らの道を曲げないのである。
げんに、市民たちは続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。
復興局も、審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった。
そして何よりも、広島を復興の為には広島市民の心を一つにすることが大事だと「平和の祭り」をすることを思いついた。
1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と「慰霊祭」をおこない、「平和宣言」を発表した。
1948年から式典はラジオで全国中継されるようになり、この年はアメリカにも中継された。
浜井市長は、原爆で死ぬべきはずの人間が、生き残ったのだから、自分の人生をすべて「広島復興」にささげようと覚悟していた。
新しい街づくりの為には、いままでの住宅地にそのまま人々が住み直すだけでは 何の発展もなかった。
バラックを立て住み始めた人々に立ち退いてもらうことも必要であった。
息子の浜井順三氏は、突然押し入ってきた「立ち退き」反対の怪しい人々との等の口論が恐ろしかったと語っている。
やくざマガイの人間に匕首(アイクチ)付けられようと、「どうしてもやらねばならぬのじゃ」といって広島の未来にむけた「都市設計」を開陳した。
そのうちに、ヤクザ達もその話に聞き入った。
浜井市長が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と、オーバーラップするものがある。

2011年3月11日、テレビで見る東北の被災地は、写真で見た広島の原爆による惨状に酷似したものがある。
実際、廃虚からよみがえった広島の「復興」の軌跡は、東日本大震災で被災された人々の「回生」の希望に繋がるのでは、と思う人々がいた。
復興にあたった広島市長の息子や中国新聞社などで委員会を設けて、原爆投下の荒廃からの復興に命をかけた浜井信三市長の回顧録「原爆市長」の復刻版の刊行が実現した。
「原爆市長」は、2千部発行され被災地へと届けられた。
これから震災、津波被害からの復興をしなければならない都市のリーダーに、復刻版の「原爆市長」は示唆に富んだ内容となっている。
被災した廃墟のあとの市民にどうやって食事を用意したとか、夏から冬を迎えるときの市民の服をどうしたとか、それに原爆のほぼ1月後にあった大水害などの対策はどうしたのかなどなど具体的に書いてある。
そして、この「広島平和都市建設法」の成立に、一人の「福島県人」が尽力したのも「奇縁」である。
福島県人というより「会津人」という方が正確だが、会津といえば戊辰戦争で鶴ヶ崎城落城により灰燼と帰した。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの飯沼貞吉の弟を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する国の行政に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが共感し合うのもよくわかる気がする。

浜井市長の思いは、広島の復興がどんなに日本にとって大きな意味を持つか訴えることであった。
それは、国から予算を引き出すための「戦略」でもあった。
1949年に制定された「広島平和都市建設法」は、当時の市民から「あまりに理想的」と批判をうけたが、現在の広島市を造る大きな基礎をつくる上で、この法律が果たした役割はキワメテ大きい。
「広島平和都市建設法」によって、広島市中区中島町に平和を祈念する公園(広島平和記念公園)の建設、同じく市中心部への幅員100m道路(平和大通り)の建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎を造ったのである。
この緑地を間に挟んだ道路建設は、広すぎるという批判を受けたが、交通のためではなく「防災の目的」であったことを強調している。
1968年2月26日、広島平和記念館の講堂で開かれた、第4回広島地方同盟定期大会に出席し、不動の信念と抱負を訴え終えた直後、来賓席に戻ると同時に心筋梗塞で倒れ他界した。62歳であった。
浜井市長は一貫して核兵器の全面禁止を訴え、「原爆市長」または「広島の父」と称されている。

「広島カープ」の名付け親は球団創立に深く関わった政治家の谷川昇で、広島市を流れる太田川が鯉の産地であるばかりではなく、「鯉のぼり」という言葉があるとおり、鯉は滝を登る出世魚であることから採用したという。
2016年9月10日は広島カープが25年ぶりの優勝に沸いた。英語の「カープ」が単複同型であることも、今年の広島カープの戦いぶりから、ピッタリ感がある。
7年前に開設された新本拠マツダスタジアムが、カープの成績を急回復に導いたといわれる。
04年の球界再編騒動で球団の存続が危ぶまれるようになると、「新球場建設」の機運が高まった。
球団創設期に市民がカープの資金難を救おうと始めた「たる募金」も再現し、市や県、地元経済界などが総事業費90億円を負担し、09年4月の開場にこぎつけた。
球団は米国に目を向け、大リーグやマイナーリーグ合わせて40球場近くを視察し、野球以外でも3世代で楽しめる「仕掛け」を取り込んだ。
そして球場が女性も楽しめる場所に変えられ、「カープ女子」なる言葉も生まれた。
広島優勝で目立ったのは、市民の目に涙があることだった。それだけ優勝までの苦節を市民が共有してきたからだろう。
1948年、戦争で打ちひしがれた人々の願いを受け、中国新聞社代表取締役2名、広島電鉄専務の3名がプロ野球で初の「市民球団」創設の発起人となった。
そして、アマチュア野球でもプロ球界でも実績を持つ石本秀一を初代監督として招聘することが決定した。
石本もそれを快諾し、本拠地は広島総合球場とした。
ところで「市民球団」というのは自治体の負担で運営されるもので、核たる親会社がない。そのため球団組織に関するバックアップが十分ではなかった。
そして石本は球団発会式に参加した際に、この時点で契約選手が1人もいない事実を知らされる。
球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかったのである。
石本秀一は広島市の石妻組という土木請負業の子として生まれた。尋常小学校時代からエースとして活躍し、旧制広島商業学校では2年生でエースとなる。
野球熱の盛んな広島で二年でエースを張る石本は有名人だったという。
1923年に満州から帰国し、大阪毎日新聞広島支局の記者となる。しかし、母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒し自ら志願して26歳で監督に就任する。
そこで「野球の鬼」と化した石本は、練習が終わると立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した。
そして1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝を果たし、その後も3度の全国制覇を成し遂げた。
バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」を築いた人こそ、この石本秀一である。
その後に新聞記者に復帰し、1936年プロ野球開幕年大阪タイガースの二代目監督に招かれた。 そしてタイガース黄金時代を築き上げた。巨人・阪神の「伝統の一戦」は石本によって始まったといって過言ではない。
ただ、石本の野球人生は「戦争」によって頓挫した。
広島市に原爆の投下された日、石本は広島市から北に30km、向原町に疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷で済んでいる。
しかし親族には焼け死んだものが多く、生き残ったものとして広島にナントカ夢を与えようという気持ちから、監督要請に応えたものだった。
しかし石本監督をもってしても1年目は惨憺たる結果で、最下位の8位(最下位/勝率.299)でシーズンを終えた。
しかも、この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。
成績に比例して収入は落ち込み、5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生している。ニ軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみという惨状だった。
セリーグ連盟は加盟金の支払いにも応じることができず、1951年2月分の給料や合宿費が支払えず、選手への給料の遅配は当然で生活が苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい生活費を稼ぐ者もいた。
遠征費も捻出できず、大阪から広島まで歩くと言い出す選手もいて、球団社長らはセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と厳しい叱責を受けた。
そして、広島市の旅館で行われた役員会では、下関に本拠を置く大洋ホェールズ(現・横浜DeNA)との合併が決まり、選手達は実質「解散」に等しい決定を、テレビのニュース速報で知った。
役員会の報告を受けるために中途参加した石本は、グローブを買うために貯めたお金を使ってくれと差し出した子供のことや、旅館の周りに集まった市民達の悲痛な訴えをせつせつと語り、役員会の「合併方針」は寸前で撤回された。
そして石本は、ファンに協力を求め危機打開を図るという「後援会」構想を打ち出し、石本自ら陣頭指揮をとっての球場での「樽募金」は名物となった。
1952年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。
これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定に目途が立つことになった。
1957年に広島市民球場ができ、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来て「大型補強」を可能にした。
1973年古葉竹識がコーチから監督に就任し、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。
1975年、広島は、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目でセリーグ初優勝達成した。
この時、77歳の石本はインタビューで涙をみせつつ「感無量」と語った。
また1979年・80年と伝説の江夏と近鉄打線の日本シリーズに勝利し広島の連続日本一となる。
1982年11月10日、86歳にて死去している。
1953年6月19日、広島カープ(現広島東洋カープ)に入団するため、日系米国人の兄弟2人が広島入りした。
球団にとっては初の外国人選手。後援会が募った400万円もの資金を元手に健三と弟の健四、同じく日系2世の光吉勉の計3選手を招聘(しょうへい)した。
当時の中国新聞は、市民の熱狂ぶりを「沿道に拍手して迎える十万余のファン」と伝える。
米国で教職に就くことが決まっていた健三は約2カ月後に日本を離れたが、健四は56年まで活躍してオールスター出場も果たした。
兄弟は、来日するわずか8年前まで両親と共にアリゾナ州の強制収容所に入れられていた。
旧日本軍のハワイ・真珠湾攻撃から2カ月後の42年2月、日系人の強制収容につながる大統領令が出されたためである。
その間、抑圧された生活は終戦まで続いたが、敷地内でプレイした野球が救いとなった。
父健一郎が施設の管理者に掛け合い、一家は自力で「球場」を造った。
仲間を集め、試合も繰り広げた。
「ゼニムラ・フィールド」は、同胞に生きる希望をもたらした。
米カリフォルニア州ロサンゼルスから飛行機で約1時間。かつて広島カープに在籍した日系2世の銭村健三(90)が暮らすフレズノは、同州中部に位置する。
干しぶどうやアーモンド、桃などの産地。郊外には広大な畑が広がる。
豊かな大地を目指し、戦前の日本から大勢の移民が渡った地でもある。
健三の妻も広島出身の両親をつ日系2世の妻ベティ(85)。1968年11月13日、交通事故のため68歳で亡くなった。健一郎の父が亡くなった時、地元紙「フレズノ・ビー」は、翌朝の紙面で「二世野球の主、死去」と大々的に報じた。
米国では「日系人野球の父」とも呼ばれる。
健三は、「父は40代になっても僕たち兄弟を負かすほどの選手だった。その上、優れた監督でもあったんだ」「多くの2世選手の才能を見いだし、どんなチームでも一流に育て上げた。僕らを広島に送ったのも父なんだよ」と誇らしげに語った。
1900年、現在の広島市中区竹屋町で生まれた。
外務省の資料によると、行き先は「布哇(ハワイ)」、渡航理由は「父ノ呼」。先にハワイ・ホノルルへ渡っていた父政吉に呼び寄せられたことが分かる。
政吉は白人家庭の使用人として働いていたという。
7歳の健一郎がハワイに渡った頃、野球は日系移民の間で既に人気のスポーツだった。
ただ両親がプレーさせたがらなかった。それは、健一郎が大人になっても身長が1メートル52センチ。体重は50キロ以下だった。
健三は、「父は一人息子。祖父母はけがを恐れたのかもしれないね」と語っている。
ただ健三の記憶によれば、バットやグラブを外に隠して、ひそかに野球をしに行っていたという。
小柄ながらも、健一郎は高校の野球部で頭角を現した。内野手や捕手として活躍しただけでなく、強いリーダーシップを発揮。主将時代はチームを初めて、ハワイ全島のチャンピオンに導いている。
そして、より本格的な野球に挑戦したかったのか、20年に親元を離れ、米本土を目指した。
選んだ先は、同郷の日系移民が多いフレズノだった。
銭村健一郎はフレズノで24歳の時、広島出身の両親を持つ日系2世のキヨコと結婚し、息子3人を授かった。
自身の名前に「一」が入っていることから、上から順に健次、健三、健四と名付けた。
父子3人は戦中、キヨコと共にアリゾナ州のヒラリバー強制収容所に送られ、約3年を過ごした。
5人家族のうち今も健在なのは、フレズノに住む次男の健三だけとなった。
「スポーツ一家」を絵にかいたような家族だった。
健一郎は野球一筋。捕手や遊撃手、投手をこなし、若いうちからコーチや監督を兼任した。
健三と健四も父の背を追って、少年時代から野球に没頭。2人ともフレズノ大学で好成績を残し、それが彼らの故郷で誕生したプロ野球球団「広島カープ」に聞こえた。
ただ、長男の健次はサッカーを選んだ。「長男には日本の教育を」と、祖父母が戦前のうちに広島へ連れ帰ったことが弟たちとの道を分けた。

マンデラは、1918年にトランスカイのクヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれた。
少年時代には、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育つ。
キリスト教・メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学に進んで法律学を学ぶが、在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受けた。
マンデラはその後、南アフリカ最大の都市ヨハネスバーグに移り住んだ。
1950年代、南アフリカの白人政府は、アパルトヘイト(人種隔離)政策を着々と実行していった。
人口の約7割を占めるアフリカ人を、国土の13%のホームランドに閉じ込めることが、この政策の究極の目標だった。
食い詰めてホームランドから白人地域の鉱山や工場に出稼ぎに出たアフリカ人は、参政権もなく、言論の自由もなく、土地所有権もなく、移動の自由もなく、二級市民としての扱いを受けた。
そうした世界の趨勢と逆行する戦後の動きに、アフリカ人の憤激は大衆的な広がりを見せるようになった。
そんな中、マンデラは(African National Congress:ANC)青年同盟の活動家として頭角を現す。
マンデラ達は当初は非暴力的な運動を組織したが、白人政府が一般の民衆に銃を向けるようになると、解放運動の側も武器をもたざるをえないと考えるようになる。
こうして白人政府に「テロリスト」と呼ばれるようになったマンデラは、1962年に逮捕される。
そして「リヴォニア裁判」と呼ばれる不当裁判で、マンデラは国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。
ロベン島は南アフリカ西岸の孤島ではあるが、ここで島の人々と交流をはかり、「夢見るマンデラ」の一面が垣間見える。
マンデラはその後、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監され、環境はロベン島よりも改善された。
そこで、マンデラは、石灰石採掘場での重労働によって目を痛める一方、勉学を続け、なんと1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得する。
180センチ以上の長身だったマンデラは、姿勢もよくて手も大きく、刑務所内でも、王のような風格があったという。
そして反アパルトヘイトの世論が高まり、南アフリカだけでなく世界中の人びとが、「マンデラに自由を!」を合い言葉に、彼の釈放を求めるようになった。
世界中の町で、肌の色に関係なく大勢の人々が街頭デモに繰り出し、また音楽、詩、あるいは美術で、それぞれの思いを表現するようになった。
当時、アパルトヘイトを主導し、政治の世界で最大の権限を行使していたのはアフリカーナー(とくにオランダ系白人)だった。
マンデラは、敵に近づくために彼らが話すアフリカーンス語や歴史を学び、刑務所の少佐が熱烈なラグビーファンだと知ると、ラグビーを猛勉強した。
それ以上に、相手に敬意を示しつつ、話術と笑顔でも魅了した敵を味方に変える魔法を身に着けた。
1990年2月11日、マンデラはついに釈放される。黒人は歓喜し、多くの白人は復讐を恐れた。
そんな中、マンデラは、白人にも黒人にも、武器を捨てよう、憎しみを棚上げして、投票で国を変えようと訴えたのである。
子供たちには、学校に戻って勉学に励むように求めた。
南アフリカの人種、民族集団の代表たちと徹底的に話しあい、1994年、黒人と白人の主要な政治勢力が権力を分かち合う大連立政府が樹立される。
そしてマンデラは、すべての政治勢力に信頼されて大統領に就任した。
マンデラが黒人と白人の融和を成し遂げる秘策として、マンデラはスポーツの力を信じた。
というのも彼が収監されていた間、アパルトヘイトの強化に伴い、国内外からスポーツボイコット運動による圧力をかけられていた。
1991年にアパルトヘイト関連法が撤廃され、32年ぶりに五輪に復帰した。
南アの白人男性が愛したラグビーもまた、ANCが推し進めた孤立化運動により南アを国際舞台から締め出したが、マンデラは新体制への白人の不安を緩和するため、92年11年ぶりに代表チームの「スプリングボックス」を再び世界の檜舞台に立たせた。
アパルトヘイトの象徴であるラグビーをほとんどの黒人は嫌っていたが、マンデラは、アフリカーナーにとってラグビーは宗教と同様であることを知っていた。
マンデラはラグビーによって、希望ある新国家の建設を目指すことにした。
そして、ラグビーワールドカップを自国で開催する夢を実現する。
迎えた開会式の日、マンデラ大統領は前日のチーム激励の際にもらった緑のキャップをかぶってグラウンドに登場し、大歓声を浴びる。
そして、決勝進出。6月24日、マンデラの長年にわたる努力と苦労は実を結ぶ。黒人も白人も、あらゆる肌の国民がスプリングボックスを応援し、ニュージーランド代表との激闘の末、南アフリカは優勝を遂げた。
表彰式、背番号6のスプリングボックスのジャージーに身を包んだマンデラが、大仕事を成し遂げた主将のフランソワ・ピナールに栄冠を渡す。
互いに感謝の意を表し、会場は「ネルソン! ネルソン!」の大合唱。
ピナールがカップを高々と掲げ、マンデラは笑顔で拳を何度も突き上げた。スタジアムのファンだけでなく、南ア国民4300万人の応援がもたらした勝利だった。
人種間に大きな溝があった国に、「ワン・チーム、ワン・カントリー」のスローガンが躍った。
そしてマンデラは「成功するまでは、不可能に思えることがある」と"夢"の重要さを語り、大統領就任演説ではガンジーの言葉「弱い者は赦すことができない。赦しとは強い者の性質なのである」を引用して、"赦し"の大切さを訴えた。