イエスに接した人々の中にはかなり常軌を逸した人々がいる。
例えば、イエスの頭から高価な香油を割って注いだ女性、長血を患ってひとりで生きていたある女性は、群衆に紛れてイエスの体に直接触れようとした。
もっとも驚くのは次の場面である。イエスがカぺナウムのある家に滞在した際、多くの人々が話を聞こうと集まってきて、すきまが無いほどになった。
すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ穴をあけて、中風の者を寝かせたまま床をつりおろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
この言葉は律法学者たちの嫉妬心に火をつけた。
「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と。
イエスは、彼らの心をすぐ見ぬいて、「中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った(ルカの福音書2章)。
このエピソードのイエスの言葉は深遠だが、個人的に興味深いのは屋根を剥ぎ穴をあけ、中風の者を寝かせたまま”吊り下ろした”点である。
聖書には、「吊り上げたり/吊り下ろしたり」する場面がいくつかある。例えば、旧約聖書には次のような場面である。
イスラエルが出エジプトを実現したモーセがなくなり、その後継者ヨシュアによってめざすカナンの地に入ろうとしたときに、ヨシュアはその状況をさぐろうと二人の斥候(せっこう/スパイ)を送ってエリコの町の様子を探らせた。
二人の斥候はエリコの町に忍び込み、様子を探っているとき、彼らはラハブという遊女の家に入り、ラハブは彼らを匿った。
さて、イスラエルの斥候が来たことがエリコの王に知られ、探索が始まる。
ラハブは二人を家の屋上の"亜麻の束"の中に隠して、「二人の人が確かに来たが、夕方になって出て行った」と応じている。
探索隊が帰った後、彼女は二人を城壁の窓から綱で”つり降ろし”て脱出させた。
その後ラハブは二人の斥候に、自分はカナンの女でありながらイスラエルの民が紅海の中を通って逃れ、エジプトの兵士が溺れ死んだことなどを聞いて、イスラエルの神を恐れていることを語った。
そしてラハブは、イスラエルの民がカナンに攻め入る際には、自分が二人を脱出させたように、彼らも自分の家族を救ってくれるように頼んだ。
そして二人は、ラハブとその家族を救うことを約束したのである。
ラハブは、自分の住まいの目印として窓に「赤いひも」を結んでおいた。
そしてヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」とラハブの願いに応えるように命じた。
そして斥候二人は、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させたのである。
エリコの陥落の際に、ラハブの家の目印となった赤いヒモは、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に、災いが過ぎ越すように、戸口に塗られた「小羊の血」を思い起こさせる。
遊女ラハブとその一族は、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住むこととなった。
このことは、後述するようにイスラエルばかりか世界の歴史においても、とてつもなく大きな意味をもつ。
ところでイスラエルでは律法では、「十字架の刑」の後の遺体につき「”木につるされた者”は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」(申命記21章)としている。
そこで、十字架刑の遺体は、城壁の外にあるヒノムの谷に投げ捨てられたという。
罪人として谷に投げ捨てられるべきイエスの遺体は、どうなったのか。聖書は次のように語っている。
「そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った」(ヨハネの福音書19章)。
またもうひとり、かつてイエスに「生まれ変わるとはどういうことか」と尋ねたニコデモも一緒になって、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて”亜麻布”で巻いた。
そして、 イエスが十字架にかけられた所に一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があり、イエスをそこに納めた。
イエスを香料を入れて亜麻布に巻いた点は、ラハブが斥候二人を「亜麻布の束」に隠した場面を想起するが、「神に選ばれた人々」とは、木につるされた「イエスの死」を身に帯びた人々なのだ。
パウロは、信徒への手紙で「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」(コリント人第二の手紙4章)。
また、旧約聖書のサムソンも「ナジル人(神への献身者)」として生きることを定められた、”死”を覚悟の人であった。
「出エジプト記」にあるモーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこで、その時々、必要に応じ、神によって立てられた小リーダーが「士師」と呼ばれる人々で、サムソンも士師の一人である。
サムソンは生まれる前から御使いからのみ告げによって予告された「ナジル人」として生まれて、彼の使命は「イスラエルをペリシテから救い始める」ことであった。
彼は神により、生まれる前からイスラエルの士師となる使命が与えられており、その頭に決して剃刀を当ててはならないと命じられていた。
サムソンの「怪力」の秘密は髪そのものの価値というより、その誓いを守りとおすことにより神との関係を保つということを意味していると思われる。
サムソンは妖艶なデリラの誘惑で牢獄に入れられるが、その間に髪が伸びることの意味とは、神との関係が修復していったことを意味する。
このサムソンの怪力ぶりを示す、若き日のエピソードがある。
当時イスラエルはペリシテ(パレスチナの由来)より支配され武器を取り上げられていた。
ペリシテ人はうわさの怪力男サムソンを縛り上げようとスキをうかがっていた。
攻め上ってきたペリシテ人にユダの地の人々は「どうして我々のところに攻めのぼってきたのか」と問うと、彼らは「我々はサムソンを縛りにきた」と応えた。
そこでユダの人々3000人はサムソンが潜んでいた岩の裂け目に行って、「我々はあなたを縛って、ペリシテびとの手にわたすために下ってきた」と語った。
その際サムソンに、我々はあくまでペリシテ人の手に渡すだけで、決して撃つことはないと誓った。
そのうえで、サムソンを二本の新しい綱をもって彼を縛って、”岩からひきあげた”。
するとペリシテ人は声をあげて、サムソンに近づいたその時、主の霊が激しくサムソンに臨み、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。
そして彼は身近にあった「ろばの新しいあご骨ひとつ」を見つけ、手を伸べて取り、それをもって”一千人”を打ち殺した。
そしてサムソンがその手からあご骨を投げ捨てたがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれるようになった(サムエル記上5章)。
この場面で注目したいのは、「サムソンを二本の新しい綱をもって彼を縛って、岩からひきあげた」場面である。
預言者イザヤは次のように語っている。
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた」(イザヤ書51章)。
新約聖書「イエス・キリストの系図」の最初「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブは”ユダ”とその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父」(マタイの福音書1章)。
この「系図」のヤコブ以下に名を連ねる人々が、どのような人々であったかを知ると、「切り出された岩」とか、「掘り出された穴」などといった言葉の意味がよくわかる。
上述の系図の中でヤコブは「イスラエル」と名を変え、イスラエル12部族の父祖にあたるが、12部族の多くは歴史のかなたに雲散霧消した。
ただ唯一残ったユダ族から「ユダヤ人」の名が生れている。
旧約聖書「創世記38章」で、ユダはカナン人の娘を気に入ってめとり、エル、オナン、シェラという男の子を生んだ。
そしてユダは長子エルにタマルという妻を与えたが、エルは神の怒りをかって死んでしまう。
当時は、兄が死んだ場合、弟が兄嫁と結婚して、兄のために子どもを残さなければならないような習慣があった。
そこでユダは、次男のオナンに兄嫁のところにはいって子孫を残すようにいったが、オナンは生まれる子が自分のものにならないことを知って、その務めをよく果たさず精を地に流した。
このことは神を怒らせ、次男のオナンもまた死んでしまう。
そこでユダはタマルに三男シェラが成人するまで寡婦(やもめ)のままでいなさいと命じた。
そこでタマルは父の家に行き、そこに住むようになったが、タマルはシェラが成人してその子供を生んだとしても、シェラの妻にされないことを知って、とんでもない行為にうってでた。
舅(しゅうと)であるユダが羊の群れの毛を切るためにティムナという町に出かけたという噂をききつけ、先回りしてその沿道で「遊女」の姿をして待っていたのである。
ユダは、その遊女が自分の嫁だと知ることもなく、彼女のもとにはいったのである。
そしてタマルは舅ユダによって身ごもり、また寡婦の服を身にまとって何ごともなかったように元の生活に戻ったのである。
その約3ヶ月後、寡婦の嫁タマルが売春によって身ごもっていると告げるものがあった。
ユダは彼女を引きだして焼き殺せと命じたが、タマルは「これらの品々の持ち主によって身ごもった」といって印形の紐をとりだして見せた。
舅ユダはそれを見定めて言葉を失い、彼女をそれ以上責めることはなかった。
ただ、ユダはタマルとの約束を顧みず、シュラをタマルの夫にしなかった。
このような荒廃感さえ漂うユダの系図に「神の光」が差し込んだのは、上述のラハブというカナンの遊女の信仰で、ラハブの名は「イエス・キリスト」の系図に記されている。
ここからダビデ・ソロモンを経てイエス・キリストに至る系図こそは、ラハブとそのユダ族の夫(ナアソン)を起点に「切り出された岩」であり、そこから「引き揚げられた人々」のドラマであったといえよう。
イエスは一番弟子ペテロとの出会いにおいて「あなたを人間をとる(釣り上げる)漁師にしてあげよう」と述べ、ペテロは即座にすべてを捨ててイエスにつき従っている(マタイの福音書4章)。
そのペテロが、ユダヤ教の浄い食べ物と穢れた食べ物との峻別から解放され、異邦人伝道へと心が開かれたのは、ペテロに示された夢とも現ともしれない、天から四隅を”吊るされた”袋であった。
地中海沿いの町カイザリヤにコルネリオというイタリヤ隊の百卒長で、神を敬う信心深い人がいた。
ある日の午後、神の使が彼のところにきて、幻の中で「コルネリオよ」と呼ぶのをはっきりと見た。
すると御使が「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。今ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい」と語った。
そしてペテロが、海べに家をもつ皮なめしのシモンという者の客となっていることを伝えた。
コルネリオはその御使いの言葉を聞いて、僕二人と信心深い兵卒ひとりを事情を話したうえで、ヨッパへと送り出した。
一方ペテロはヨッパの町に客として導かれた家で祈っていると、夢心地になって、大きな布のような入れ物が、”四すみをつるされて、天から降りてくる”「幻」をみた。
ペテロがそれを注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。
それから「ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい」という声が聞えた。
ペテロがイスラエルの律法に従って、「それはできません、わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません」と答えた。
するともういちど「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」という声が聞こえた。
こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。
ちょうどその時、コルネリオから遣わされた三人が、ペテロの泊まっていた家(皮なめしのシモンの家)に着いた。
聖霊がペテロに「彼らと共に行け」と言ったので、ペテロは6人の兄弟たちと共に出かけて行き、コルネリオの家にはいった。
するとコルネリオは、御使いによって「ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」と告げられた次第をペテロらに語った。
そこでペテロが語り出したところ、聖霊が最初にペテロの上にくだったと同じように、コルネリオの家族の上にくだった。
その時ペテロは、イエスが「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう」(マタイによる福音書2章)と語った言葉を思い出した。
そしてペテロは、思いを新たにして次のように語っている。
「主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が我々と同じように異邦人にもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」と(使徒行伝11章)。
また、パウロも信徒への手紙の中で、「異邦人」について次のような語っている。
「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」(エペソ人への手紙2章)。