ルネサンスも科学革命もイスラム経由

世界史で「ルネサンス」とは、古典古代学芸が新しい意義をおびて再生したもので、「人文主義(ヒューマニズム)」という文化の流が起きたとされる。
具体的にはキリスト教文化一色の世界に、人間にフォーカスして生き生きと描いたギリシア・ローマ古典文化との”再会”ともいえる。
つまり、古典文化がヨーロッパから失われた時期があったということにほかならない。
古典文化再生の舞台裏には、二つの「翻訳事業」が決定的に重要な意味をもっている。
最初に10世紀、トルコのバクダードにおけるラテン語からアラビア語への翻訳事業、次にスペイン・トレドにおけるアラビア語からラテン語への翻訳事業である。
次に12世紀、シチリア、ヴェネチア、トレドを中心に、ギリシア語やアラビア語の原典、あるいは”ギリシア語文献のアラビア語訳”が盛んにラテン語に翻訳され、東方の高度の文化がはじめて西欧に知られることになった。
ここでポイントとなるのが、「ギリシア語文献→アラビア語への翻訳→ラテン語への翻訳」へと、二度大きな翻訳事業が大々的に行われた点である。
375年に始まったゲルマン人の大移動は、ヨーロッパ全体を巻き込み、文化財や文献は焼かれたり破壊されたりで、476年西ローマ帝国もゲルマン人傭兵隊長オドアケルに滅ぼされてしまう。
ところが何たる幸運か、ギリシア古典文化をイスラムにおいて、アラビア語に”翻訳”して保存されていたのだ。
西ローマ帝国は滅びたものの、東ローマ帝国ユスティアヌス1世は、ローマ帝国が東西分裂(395年)以降「再統一」を目指した唯一の皇帝である。
随分、気骨のある皇帝のようにみえるが、実態は恐妻家で奥さんテオドラに頭があがらず、奥さんに叱咤激励で生きている皇帝なのだ。
ユスティアヌスは、キリスト教を積極的に活用しようとしたのか、異端的な教えであると判断したアテナイの大学にあったプラトンが創設した「アケデミア」と、アリストテレスが創設した「リュケイオン」を閉鎖してしまった。
しかし、このことはヨーロッパの歴史にとって意外な展開を生む。
当時、ローマ帝国に匹敵する世界帝国が「ササン朝ペルシア」に築かれていた。現在のイランのジュンディトシャープールに、大学と図書館をつくっていた。
アテナイの大学を追われた教授たちは、プラトンやアリストテレスの書物をもってこのジュンディトシャープールに身を寄せた。
ところがそのササン朝ペルシアは、イスラーム帝国第三代カリフによって滅ぼされしまう。
ササン朝を征服したアラブ人は、図書館に保存されていたギリシアとローマの文献を接収した。
やがてイスラム帝国がアッバース朝(750~1258)の時代となるが、この時代にもうひとつ重要な”文化史上の交流”があった。
このアッバース朝の軍勢が751年にタラス河畔で唐の軍勢と対峙した捕虜によって、紙の製造法を知った。
彼らは紙という格好の媒体をえてギリシア・ローマ古典の「一大翻訳運動」を行う。
アッバース朝全盛期の第6代カリフ、ハールーン=アッラシードは、エジプトのアレキサンドリアのムセイオンの大図書館に伝えられていたギリシア語文献を中心とする資料をバグダードに移し、「知恵の宝庫」と名づけた図書館を建設した。
その息子で第7代カリフとなったマームーンはそれを拡充し、830年ごろに「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」と改め、ギリシア語文献の組織的な翻訳を開始した。
このアッバース朝の翻訳事業は、スペインのイスラーム国である「後ウマイヤ朝」に伝わる。
711年、アフリカからヨーロッパ大陸へと北上したイスラーム勢力がイベリア半島に侵入し、713年に西ゴート王国は滅亡した。
イベリア半島のほぼ中央部にある歴史的な都市がトレドで、507年に、ゲルマン人の一派「西ゴート王国」の都となり、キリスト教文化が及んでいた。
この地は後ウマイヤ朝とその後のイスラーム王朝の支配をうけることとなったが、その間、キリスト教徒、イスラーム教徒、さらにユダヤ教徒は共存し、トレドはその文化の交流の場となった。
1031年、後ウマイヤ朝が滅亡するとイベリア半島は幾つかのターイファ(太守)の治める小国に分裂し、トレドにも小王国が成立した。
そんな時、イベリア半島北方のキリスト教国による「国土回復運動(レコンキスタ)」が進むと、1085年にカスティリャ=レオン王国のアルフォンソ6世がトレドを攻略した。
この時のカステリア王アルフォンソ6世は、その地で押収したギリシアやローマの古典とイスラームの学者たちの著作を、すべて「ラテン語に翻訳する」ことを命じた。
彼らがアラビア語に翻訳した書籍の中には、イブンシーナーをはじめとするムスリムの著作も含まれていた。
この翻訳作業によってアカメデイア・リュケイオン閉鎖以来、実に500年の歳月を経て、プラトンやアリストテレスが、ヨーロッパ大陸にて復活するのである。

ルネサンスは、14世紀から16世紀にかけてイタリアを中心に新たな局面を生んでいく。
ルネサンスと11~12世紀の「十字軍」は異なる時代の出来事だが、実は深い関わりがある。
十字軍遠征によってヨーロッパと中東との交易が活性化し、商業の交流が広がった。とりわけヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市がその中心地となり、豊富な財力を背景に文化と科学の発展が促されることとなった。
この活況が、後にルネサンス期のメディチ家などの文化的パトロンによる支援活動に影響し、芸術や学問が隆盛する基盤となったのである。
十字軍遠征を通じて、ヨーロッパの学者たちはアラビアで発達した数学や天文学、医学といったイスラーム世界の高度な科学知識に触れる機会を得た。
アラビア数字や幾何学、アルケミー(錬金術)などの知識が流入し、ヨーロッパの科学発展を後押ししたのである。
そして8C、バックダットで暮らしたジャーピルは、金への変換には現在の化学でいう”触媒”の必要性を述べ、それが「賢者の石」とよばれるようになる。 「賢者の石」は、金属を金に変えるだけではなく、鉱物の元素も金属の元素も、霊的な元素も入り込んでいるので、あらゆる生物の病気を癒す不老不死の薬とも認識されるようになり、錬金術が薬の製造にも使われるようになる。
錬金術師は血眼になって「賢者の石」を求め様々な実験を行う。結局、金を作り出す第一歩となる「賢者の石」を見つけることはできなかったが、それが存在しないという事実を発見するために、人々は地球上のありとあらゆる物質を調べる必要があった。
錬金術は衰退していくが、やがて近代化学を生み出すに至る。
またアラビアで発展した天文学の知識は航海技術や地理学の発展に繋がっていく。
これにより、知識の積極的な探求が促され、ルネサンスにおける「科学革命」の端緒が築かれたのである。
十字軍の時代、中東で保存されていた古代ギリシャ・ローマの文献が「再発見」され、ヨーロッパに持ち帰られた。
アリストテレスやプラトンの哲学書、エウクレイデスの幾何学書、ヒポクラテスの医学書などがその代表である。
これらの古典が中世のヨーロッパに新風を吹き込み、古代の知識に基づく新たな学問体系が再構築されることとなった。
そこには、アラビア語からラテン語への翻訳がなされるが、両方の言葉に通じたユダヤ人が大きな役割を果たした。
こうして十字軍遠征を通じて伝わった古典文化の影響は、ルネサンス期の「人文主義」の興隆に直接結びついたのである。
さて十字軍においてイスラムと友好な関係を結んだ特質すべき皇帝がいる。
フリードリヒ2世は、神聖ローマ皇帝であるハインリヒ6世の子として生まれる。
父親が二歳の時死亡し、シチリア王であった母親が3歳の時死亡して、シチリア王を兼任し、基本的にはシチリアのパレルモで暮らした。
シチリアはイスラム教徒・ギリシャ正教徒・ローマカトリック教徒などいろんな価値観の人たちが暮らす場所であった。
幼いフリードリヒの権力はとても不安定で、ローマ教皇インノケンティウス3世をたより、後ろ盾になってもらう。
幼いころのフリードリヒ2世はカトリック教徒でありながら、多くのイスラム教徒に囲まれながら過ごした。
そんな彼にヨーロッパ中からあてられた難しい問題が十字軍である。
ローマ・カトリック教徒の代表としてイスラム教徒に占領された聖地エルサレムを奪い返すことが使命であった。
フリードリヒ2世はシチリア島のパレルモで生活した時期が長く、イスラム語も話しイスラムの芸術も愛していた。
自身もアラビア語も含め9カ国語に通じ、動物学者でもあり、文芸を保護し、ナポリ大学を創建(1224年)するなど、開明的な文化人であった。 1228年、フリードリヒ2世率いる第5回十字軍は、現在のシリア、エルサレムの北西に位置するアッコンに上陸する。
その後、得意のアラビア語でサラディンたちと交渉に交渉を重ねてなんとエルサレムを「無血開城」させることに成功したのである。
フリードリヒ2世が、イスラム側の情勢に通じアラビア語を話せたことが交渉が成功した最大の理由だが、この「外交上の成果」に対して、ローマ教皇グレゴリウス9世は激怒し、彼を「破門」した。
1234年に長子のハインリヒが反乱を起こし鎮圧するも、1250年に病死している。
ヨーロッパの伝統や常識にとらわれずに自由に思索し行動したフリードヒ2世は、「最初の近代人」とよばれる。

ヨーロッパが十字軍遠征などで出会い、陰に陽にヨーロッパ文明に影響を与えたイスラムの知識人は次のような人々であった。
イブン・スイーナー(980~1037)は中央アジアのブハラ近郊に生まれ、医者として生きたが、それ以上に哲学への貢献が大である。
彼はアッラーフとよばれる神の存在とプラトンやアリストテレスの哲学を理論的に統合させた人物である。
さて時を遡ること5世紀、エジプトの哲学者プロティノスは、「新プラトン主義」を確立したといわれる。
かつてプラトンは世界を理解するにあたって二元論の立場をとった。
世界には人間の魂の目によって洞察しうる純粋な形態(物質の真実な形態)がある。これを「イデア」とよぶ。そして現実世界のすべての形態にはイデアがあってそれを真似た実在が世界を作るのだとプラトンは考えた。
しかし原型と現実の二元論は三角形や机ならわかっても、善や美などの抽象的観念にまで押し広げられると今一つわかりにくい。
そこでプロティノスは「流出説」を唱えた。最初に完全なる一者(いちなるもの/ト・ヘン)としてのイデアがあり、そのイデアから万物が流出するというのが、「新プラトン主義」とよばれる学派を生み出す。
イデアも「イデアの世界から机のイデアが流出した」と考えれば一元論に近くなる。原型と現実をわけるよりも、この方が明快である。
すくなくともイデアという観念の方が、現実の机より尊いのだといことがわかる。
イブン・シーナーは、翻訳されたプラトンやアリストテレスを読破しながら、「無から有は生じない」と考えた。
ムスリムであるイブン・シーナーにとってアッラーフ(アッラーの神)は自明の存在である。
そう考えれば机のイデアも善のイデアも、その存在の根拠をアッラーフに置いたのである。
またイブン・シーナーは奇妙ではあるが、ある”含み”のある思想を展開した。
それは、空気も存在せず光もない真っ暗な世界でひとり浮かんでいたとして 何も感じない意識のない世界で、たったひとつだけのことは意識していることがある。
それが浮遊している自分だけがここにいるということ。後のデカルトの「我思うゆえに我あり」だが、イブンシーナーにその”萌芽”をみることができる。
またイブン・ルシュッド(1126~98)はスペインのコルドバ出身で、長じるにおよんでモロッコのムワッヒド朝の宮廷医となり、マラケシュに住んで医師として活躍した。
同時に哲学的才能を開花させアリストテレスの文献を深く研究し、その注釈書を書いたことで有名である。
彼はアリストテレスの哲学が「二重真理説」に立脚していると解釈した。
すなわち、世界には神アッラーフが存在し、その信仰から得られる真理と、アリストテレスのような、卓越した理性が構築したロジックがもたらす真理とがあるというわけである。
もちろんイブン・シュッドは、この二つの真理が神の大きな意思のもとにあるという前提で語っているので、その点「二重真理説」というのは曖昧な面が残るが、イスラーム神学の構造をより精緻にすることに、大きく貢献したのである。
以上からヨーロッパでトマス・アクイナスの思想を想起させるが、実際に彼は、アリストテレス哲学とキリスト教神学の調和をはかったとされるが、その際にイブンスィーナーとイブンルシュッドの哲学を援用しているのである。
それまでキリスト教神学といえば教え信じ込ませる学問だったのに対して、スコラ学はロジックの学習と質疑応答を中心にすえた。
学習の場所は、都市都市に誕生し始めていた教場(スコラ)が中心であったために、スコラ学とよばれるようになった。
「スコラ学」の発展は、学問への欲求を拡大させていき、「大学の誕生」につながっていく。
11世紀に南イタリアのサレルノでイスラム文化の影響を受けて生まれた医学学校が13世紀に大学に成長した最古の大学の一つ。
ボローニャ大学は、1119年、北イタリアのボローニャ大学が、法学を学ぶ学生の自主的な団体としてつくられ、大学として運営されるようになった。
イギリスのオックスフォード大学は、自然科学の研究で大きな成果を出すようになる。
最も特徴的なことは、学寮制度を発達させた。
ケンブリッジ大学は、1209年にオックスフォード大学から分かれて成立した。こちらも自然科学の研究が盛んで、学寮がおかれた。
フランスのパリ大学は、1200年に発足、神学が隆盛し、その学寮の一つであったソルボンヌがその代名詞となり、「スコラ哲学」の中心となる。
神聖ローマ帝国(ドイツ圏)では遅れて14世紀の中ごろ、カール4世が設立したドイツ語圏で最初の大学となった。
さてヨーロッパの大学はボローニャ大学に見られるように、学生が自主的に運営するものであって、学生の一種の同業組合(ギルド)であって、当時はラテン語で「ユニベスシタス」といわれていた。
現在では、University は「総合大学」(複数の学部をもつ大学)、College は本来は慈善的に設けられた貧窮学生のための学寮の意味であったが、現在では単科大学という意味で使われている。
さらに、ギリシア・ローマ時代に自由な学芸とよばれていた「リベラルアーツ」(今日の教養学科)も加わるようになる。

教師と学生の組織だけでなくその他のギルドもユニベルシタスと云われていたが、次第に大学だけがそう言われるようになった。ユニベルシタスはそれが現在の大学(ユニバーシティ)の起源となったのである。
以上みてきたように、ヨーロッパ近代の幕開けは、イスラームに負うところが大きいということを忘れてはならない。 この翻訳事業は、中国で行われた大乗仏教をインドのサンスクリッド語から漢訳した翻訳運動と並んで「二大翻訳事業」といってよい。