「遺児」をめぐる物語

歴史上の国々の興亡の中、全滅したかに思えた一族の中に、救出されたり、それまで表に出なかった「遺児」がいて、歴史上大きな役割を果たすことがある。
例えば近年、劇画「逃げ上手の若君」で注目されるようになった北条時行である。
鎌倉幕府は、1333年に北条高時の一族が自害し滅亡したとされるが、 高時には信州に北条時行という「遺児」がいた。
北条時行はなんと10歳という若さで、北条氏復興のために鎌倉幕府の残党を糾合して鎌倉街道を進撃し、1335年にいわゆる「中先代の乱」を引き起こした。
兵は5万騎に膨れ上がり、挙兵からわずか1か月、足利直義を破って鎌倉奪還に成功したが、わずか20日で尊氏に逐われた。
北条氏再興はならなかったものの、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦っている。
世界史レベルでも、表に出ることのなかった「遺児」の存在が歴史の局面を変えてしまうこともある。
シリアの首都はダマスカスであるが、古代より交通の要衝であり、世界最古の「都市」といっていい。
日本の福岡と同緯度にあるダマスカスは、美しい都でエデンの園が「天上の楽園」ならば、ダマスカスは「地上の楽園」とよばれた。
さらに十戒で知られる「モーセ終焉の地」ネボ山、ヤコブが妻リベカで出会ったハランの地、ダマスコのクリスチャン「弾圧」に向かっていたパウロ回心の地など、シリアはまさに「聖書の舞台」である。
ダマスカスはまた、イスラム教徒にとっても特別な町の一つである。
預言者ムハンマドにより啓示されたイスラム教は「ムスリム共同体(ウンマ)」を形成し、ムハンマドの死後はウンマの総意で選ばれた「カリフ(教主)」が最高指導者となった(正統カリフ時代)。
656年にウマイヤ家の長老であった第3代カリフのウスマーンがメディナでの暴動で殺害された。
第4代カリフに即位したアリーが即ししたものの、「シリア総督」であった同じウマイア家のムアーウィヤは、ウスマーン家の血族としての報復の権利を求めてと対立し、ついに軍事衝突にまで発展した。
661年にそのアリーが暗殺されるとムアーウィヤは唯一の正式のカリフとなり、それ以降カリフ位はウマイア家により”世襲”されることになった。
これが「ウマイア朝」(661~750年)であり、ムアーウィヤは都をダマスカスに置き、イスラム世界をさらに拡大していくことになる。
さて暗殺されたアリーには二人の男子がいたが、四代目カリフの「遺児」として、それ相応の待遇をうけて静かに暮らしていた。
ウマイヤ朝の時代もムアーウィアが死去し二代目になっていた時代、クーファ(第四代アリーが拠点としていた地)のアリーの信奉者たちがウマイヤ朝に反旗をひるがえした。
そこにアリーの次男フサインが担ぎ出され、これが「シーア派」の始まりである。
彼らは、カリフを世襲するウマイヤ朝には同調せずに、自分たちの派をつくり、歩み始めたのである。
シーアとは「派」という意味である。それまでイスラムという一枚岩的な組織に新たな「派(シーア)」ができた。
シーア派という言い方は、「派派」ということになりおかしな言い方だがこれが一般的な通称となる。
シーア派はイスラム教少数派と位置付けられ、多数派のウマイヤ朝はスンニー(スンナ)派という。スンナとは規範・慣行などの意味がある。
そして、シーア派の最高指導者はカリフではなく、「イマーム」という。
その後、680年の「カルバラの戦い」(正統カリフ対ウマイヤ朝)においてシーア派のフサインは戦死した。
初代イマームがアリーであり、2代目が長男のハサン、3代目が次男のフサインであるが、その後、幾通りかに分派していくのである。
874年、第11代イマームであるハッサン・アスカリーが亡くなったとき、彼には公表された息子がおらず、誰が次代イマームにふさわしいかをめぐり論争が生じる。
ハッサンに後継者となるべき息子がいたのか、いなかったのか知らされていなかった信徒は、ハッサンの叔父にあたる人物に、葬儀を主催するよう依頼した。
ところが葬儀の礼拝がはじまると、突如一人の”少年”が現れ、葬儀の礼拝は、叔父ではなく息子である自分が行うのが相応しいと言い放ち、礼拝を行った。
人びとは”この少年”を第12代イマームだと信じたが、二度と現れることはなかった。
第12代イマームの行方をめぐってさまざまな憶測が流れたが、結局第12代イマームは、信徒と直接に触れあうことができない「お隠れ」(ガイバ)状態に入ったという解釈が受け入れられた。
というのも、第10代イマームも第11代イマームもアッバース朝の監視を避けるために信徒の前に姿を現すことはなく、”代理の者”を介して信徒と交流していたからである。
第11代イマームが、迫害を恐れた息子の存在を明かさなかったとしても信徒にとって不思議ではなかったのである。
この当時、イスラーム世界は、スンナ派カリフによるアッバース朝が支配しており、時のアッバース朝第7代カリフであるマアムーンは、特に執拗にシーア派教団を攻撃していたからである。
このため、元々イマームは隠れ潜んで指導しており、シーア派の人々にとって、こうした事態はそれほど異常ではなかったのである。
ところで、イラン高原の地には、「ササン朝ペルシア」という帝国があった。
ムハンマドが生きていた時代で、ペルシア帝国は、ペルシア人つまりイラン人の帝国である。
642年にササン朝ペルシアは、イスラーム共同体との戦い(ニハーヴァンドの戦い)に敗れ衰退し、651年に滅亡する。その時帝国第38代王ヤズデギルド3世が暗殺されたからである。
しかし、実は第3代イマームの妻(第4代イマームの母)は、ペルシア帝国最後の王ヤズデギルド3世の娘シャフルバヌーだという。
これは伝承だが、少なくともシーア派ではそのように信じられてきた。
つまり、代々のイマームは、この時以降、ペルシア帝国の血筋も受け継いでいるということになる。
これにより、イラン人の民族的な信仰はシーア派の信仰と結びつくこととなった。
これを「十二イマーム派」といいペルシア(イラン)の国教となる。
イスラム教のカリフ(スンニ派)やイマーム(シーア派)において、その主導権争いにおいて、「遺児」の存在が大きな意味をもったのである。

14世紀後醍醐天皇がたち、「天皇政治」の復興をはかった。これを「建武の中興」というが、足利尊氏らとの対立が明らかになり、天皇は吉野にのがれ「南朝」を立て皇位の正統を訴えた。
以後60年余りの全国的な動乱の時代となるが、足利義満が三代将軍となると、1392年南北朝の「合一」がなされ、全国的な争乱にはピリオドがうたれた。
この時、足利義満は後亀山天皇に両統迭立(りょうとうてつりつ/天皇の家系が大覚寺党と持明院党に分かれたため交代で皇位につくこと)を約束し、南北朝が「合一」したものであった。
しかし足利義満はその約束を踏みにじり、1410年後亀山上皇(大覚寺党)は激怒し吉野に脱出し、これ以後の南朝政権を特に「後南朝」という。
日本史のおいて、南朝合一後の、再びの「後南朝」のその後の命運が語られることはほとんどなかったものの、南朝の本当の哀史は、「南北朝合一」以後だったのかもしれない。
実は、後亀山天皇が吉野に脱出して後、南朝支持勢力が各地で蜂起、合一から20年近くも経ていながら、各地で南朝支持勢力が蜂起した現状から、なおも残されている”南朝の存在感”をまざまざと見せつけられた形となったのである。
さてこうした中、「後南朝」の動きとは直接的には関係の無いひとつの事件が発生した。
1441年、播磨・備前・美作の守護赤松満祐(みつすけ)が悪将軍として知られる足利義教を暗殺し(嘉吉の変)たものの、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれた(嘉吉の乱)。
これにより赤松家は事実上「御家断絶」したのだが、将軍職が空位のなか、1443年9月、南朝復興を唱える勢力が後花園天皇の御所に乱入し、三種の神器のうち「神璽(しんじ=勾玉)」を奪って逃げるという事件が起きた。
これを「禁闕の変」(きんけつ=皇居内裏)というが、首謀者たちは、討ち死にするか刑死したのだが、奪われた「神璽」の行方は、杳(よう)として知られないままであった。
しかしこれが「後南朝」の悲劇の幕開けとなる。
或る時、北朝(持明院統)、幕府、赤松家との間で約束事が取り決められた。
もし、赤松のものが、”南帝両宮”を討ち取り、失われた”神璽”を取り返せたならば、その時の赤松一族の棟梁である赤松政則をもって家督を許し、「赤松主家」の再興を果たすというものである。
ここでいう”南帝両宮”について述べると、後亀山天皇の子が、義満が約束を守っていれば天皇になるはず恒敦親王であった。
その恒敦親王の子が小倉宮で、皇族の一人尊義王(小倉宮の皇子)は、 自分こそは正当な皇位継承者であるとして奥吉野に隠れ住み朝廷を立てた。
その「尊義王」は討ち死にするが、二人の”遺児”がいた。
この二人の兄弟(南帝両宮)の時代に赤松の遺臣たちは動いた。
1456年川上郷入りした赤松遺臣たちは念入りに南帝両宮や川上郷士たちの信用を取り付けて中に入り込み、その内情を具(つぶさ)に調べ上げていった。
我らもまた幕府によって家を取り潰されるという悲劇を経てきた同志であるなどという立ち位置をとっておれば、案外入り込み易かったかもしれない。
川上郷の人たちにとって、これまでも弱き敗残のものを受け入れてきたという、吉野一帯の気骨がそうさせたのかもしれない。
翌年、赤松残党は「尊義王」の二人の遺児、上北山村にいた兄の「尊秀(たかひで)王(自天王)」と川上村にいた「弟の忠義(ただよし)王」を襲撃し、両宮の首をかき切った。
ここに南朝の正統は完全に「途絶えた」のだが、川上村の郷士達は赤松残党を追跡し、自天皇の首と神器を奪還し、自天皇の首を近くの岩に安置し全員でこれを伏し拝んで号泣したという。
そして、南朝最後の帝王「自天皇」に最後まで忠節を尽くした川上村の郷士たちとその子孫を「筋目(すじめ)」という。
筋目達は現在でも「自天皇」の供養を欠かさず、川上村の金剛寺では尊秀王即位の2月5日、後南朝後胤をしのんで「朝拝式」が毎年営まれている。
ちなみに、禁闕の変によって失われてしまった「三種神器」をめぐる南朝と赤松遺臣たちの争乱と南朝後胤の死、そして赤松遺臣による「三種神器」発見争奪と京都へ還されるまでの二年に亘る二つの大きな事件を「長徳の変」という。
ところで川上村の隣接して「天河伝説」で有名な「天川村」がある。
天川村には川上村と同じように南朝への「朝拝式」が今でも行われていてる。
そこにある「天川大弁財天社」は、音楽や芸能をつかさどる古社として知られ、かつて世阿弥が「唐船」という能を御前で舞い、合わせて一打の「能面」を奉納している。
その能面の内側には、「心中所願、成就円満也」とあり、芸能人やミュージシャンがよく訪れる。

戦国で敗れた多くの武士層の中には、国際都市博多に居を移し捲土重来をはかったものがある。博多町人の中に「大友くずれ」「大内くずれ」、「原田くずれ」などと称する武士出身の町人が含まれているのはそのためである。彼らが博多商人の上層部をしめており岩田屋デパートの祖先・中牟田家などもその一例である。
ところで博多の町に大きな足跡を残した系統が松永久秀の末裔達である。
博多の町の中心・店屋町は江戸時代、袖の湊の波打ち際にあり店が軒をならべていたのでその名がついた。この店屋町を代表する豪商が松永家である。
松永久秀は、三好長慶の子・義興を毒殺し、また将軍・足利義輝を襲って自害させるなど戦国の斉藤道三・北条早雲とともに「三悪人」といわれている。
しかしそうした強面の武人の面ばかりではなく、優れた文人、風流人としての側面をもつ人物でもあった。
著名な連歌師・松永貞徳の父と久秀は又従兄弟であり、三好長慶の右筆をつとめたのもすぐれた文筆の才があったからである。
1568年織田信長の入京の際には一度はそれに降るものの信長に滅ぼされるのをよしとせず大和信貴山城で茶器「平蜘蛛釜」をしばりつけて壮絶な爆死をとげた。
松永久秀は茶人でもあり早い時期から今井宗久はじめ堺の有力者達と交流があった。
当時一流茶人として認められるためには、名物茶器を所持していることは一種のステイタスシンボルあった。そして秀秀自慢の茶入れは当時の茶人の垂涎の的であったのだ。
松永久秀も数々の名器を所持していたがその中でも「平蜘蛛釜」と「つくも茄子」が有名である。「平蜘蛛釜」の方は爆死によって失われたが、もうひとつの茶器「つくも茄子」は今日にいたるまで生き延びた。 「つくも茄子」は室町幕府・三代将軍足利義満秘蔵の唐物茶入れで、その後将軍家に伝えられ愛用されていた。
十五世紀末になって義政の茶道の師であった村田珠光の手に渡ったのである。村田珠光がこれを九十九貫文で購入したことから「つくも」という名が付いたという。
「つくも茄子」は珠光の手を離れてから所有者は転々とし、松永久秀は一千貫もの大金を投じて購入した。彼の経済力が既に大名家の家老クラスをはるかにしのぐものであったことを示している。
 しかし松永といえども足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し配下となったのである。
「つくも茄子」は信長から羽柴秀吉さらに秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣後、徳川家康の命で焼け跡から探し出された。かなり破損していたために修復のため漆接ぎの名工・藤重藤厳の手に渡った。
以後藤重家に代々伝えられたが、明治になって三菱財閥の岩崎弥之助氏の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されている。
ところで松永久秀爆死後、久秀の孫にあたる”一丸”が乳母によって助け出され博多に隠れ住み、一丸は成人して質屋を開いて成功する。
そしてその子孫は博多の豪商として活躍していく。
そのひとつ「松屋」は銘菓”けいらん”でよく知られ博多の人々に愛された。
また博多に落ち延びた久秀子孫のうち、久秀・家老筋の子孫の森氏を名乗った者があり、銘菓「五十二万石」を生み出している。
松永家の出自は明確ではないがが、戦国時代に博多に勢力をはっていた大内・大友に仕えたことがわかっている。
その後京都に移り、上述の三好家に仕え、三好家を侵し「戦国の梟雄(きょうゆう)」ともよばれる存在となっていくのである。
永久秀は、建築家としても優れ、奈良に新しいタイプの城である「多聞城(たもんじょう)」を築いた。
この建築様式は、天守閣論争がつづく福岡城のシンボル「多門櫓(たもんやぐら)」にみることができる。
そして、「多聞城」の焼け跡から探し出された愛用の「つくも茄子」同様に、松永久秀の血統も焼け跡から助け出され博多の地に命脈を保ったのである。
松永久秀の生命力のなせる業かとも思う。

川上村の最南端のこの遺跡は、通称「かくし平・八幡平」と呼んでいます。昭和53年川上村文化財第1号として認定された、後南朝の歴史を伝える文化財です。 その昔、南北朝合一後、約束が果たされず不信を抱いていた元南朝方の皇族の一人尊義王(小倉宮の皇子)は、南朝の復興を願って皇位 継承のしるし三種の神器の神璽(しんじ/まがたま)を奪い、川上村の「三之公」に隠れ住み朝廷を立てました。その後追手を嫌い、さらに奥の「かくし平」に移住しましたがそこで亡くなられます。 「八幡平」(三之公の在所の川向かい)は、最初に尊義王が京都から逃げて朝廷を立てた行宮跡、追手を気にしてさらに入った奥が「かくし平」です。かくし平「廟所(ぴょうしょ)」は尊義王の墓所、かくし平のもう一つの遺跡は、尊義王が奥へ逃げて朝廷を立てた「行宮跡」と言い伝えられ、明治の頃に稗が建てられました。これらの遁跡は川上村所有ですが、山林の所有者は民間の方です。山道ですので、歩きやすいように村の手によって整備されています。 6月~8月の天気の良い日は、谷川の石の苔や清水が木漏れ日に映えてとてもさわやかな美しさに出会います(ヤマヒルに注意)。三之公から徒歩約2時間、途中に「明神滝」があります。適度なハイキングコースです。明神滝付近には、「水源地の森」として村が購入した原生林もあり、三重県との県境に近い所です。なお、「尊義王・自天王・忠義王の3人の公家が住まいした地という意味で三之公と呼ぶ。」との伝承があり、こんなところにも後南朝のいぶきが感じられる川上奥の歴史ロマンです。 旧南朝の系統に属する宮家で、初代は南朝第4代後亀山天皇の皇子・恒敦(つねあつ)。嵯峨小倉山下に住したので「小倉宮」後亀山天皇の正嫡である恒敦宮の王子であり、南朝の正統な後継者であった。 小倉宮は、南朝方の伊勢国司北畠満雅を頼り嵯峨から逃亡した。  同年(嘉吉3年)、南朝復興を唱える日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて、内裏を襲撃して火をかけた。後花園天皇が左大臣近衛忠嗣邸に避難したことで、暗殺は失敗したが、日野有光らは三種の神器の剣と神璽を奪い、 後亀山天皇の弟「護聖院宮の孫」である通蔵主・「金蔵主」兄弟を奉じ、後醍醐天皇の先例により比叡山に逃れて、根本中堂に立て籠もった。 しかし山徒は協力を拒否し、幕府軍や山徒により鎮圧されて、〇金蔵主や日野有光は討たれた。 〇金蔵主を小倉宮の王子「尊義王」とし、その王子尊秀が自天王(尊秀王)を称したというが、同時代史料に証拠はない。むしろ同時代資料によれば金蔵主は後亀山上皇の皇弟の子孫であり、源尊秀は日野有光らとともに嘉吉3年(1443年)9月24日京都御所に乱入した南朝の廷臣である。しかも源尊秀の「尊」の字も後醍醐天皇(尊治)の子孫を示すものではなく、承久の乱(1221年)で隠岐に流された後鳥羽上皇(尊成)の皇孫のうち、佐渡に流された順徳上皇(守成)の子孫である順徳源氏の通字「尊」「忠」と考えられる。  南朝の子孫を自称する者は必ず尊義王・尊秀王の子孫と名乗っており、それが事実であれば、彼らは南朝の子孫ではなく順徳源氏である。系譜伝承が正しければ正しいほど、彼らは南朝の子孫ではなく、南朝の子孫を僭称した者となる。  また源尊秀の子孫であり、また『勝山記』に登場する「王」の子孫であると名乗る者もいるが、これは『勝山記』に注目している最近の研究を巧妙に取り入れたものであり、純粋な系譜伝承とはいえない。自らの系譜伝承に学説を取り入れて改変する者は多いが、これは系譜伝承の脚色であり、実は系譜伝承を台無しにする行為である。